サクラが目を覚ませば、そこは見知らぬ部屋だった。
右を見れば森が認められる窓があり、左を見れば既視感があるような、無いような風景が広がっていた。家具が少ない、質素な部屋。自分が寝ているのは、その端に設置されたベッドらしい。
身体を起こせば、すぐに声を掛けられた。
「よう、目が覚めたか?」
「……サキ」
ベッドの脇に椅子を置いて、サキは手元に本を開いたまま、サクラを見てきていた。
彼を認めて、不意に自分は何をしていたのだろうかと思案する。最後に思い出せた記憶はウバメの森に入った所で、そこから先はノイズがかかったかのような感覚だった。
「気分はどうだ?」
薄く微笑む彼に問い掛けられ、記憶を辿ろうとするの止める。
サキに聞かれた事を自分に問い掛けて、首を動かしてみれば、頭の中で鐘でも鳴らしたかのような鈍い痛みを襲われた。思わずこめかみを押さえ、目を瞑った。
「ちょ、おい。大丈夫か?」
すかさず立ち上がろうとするサキを左手で制して、「大丈夫」と言う。
痛みは大丈夫じゃない程なのだが、それが記憶にかかるノイズを払っていく気がした。
――そして、思い出す。
「……あ」
「……お、おう?」
鈍い痛みが続く頭を右手で押さえながら、サクラはサキを左手で手招きする。
彼は本を椅子に伏せて、サクラの顔を覗き込むように頭を寄せてきた。
そこでサクラは左手を手刀に切り替え、サキの脳天へ軽く振り下ろす。
べし。と、軽い音が鳴った。
「え、なに?」
痛くは無かったのだろう。サキは手刀したサクラの左手を右手で取りはしたが、叫んだり、反撃してきたりはしなかった。
「そういえば、私あんたに脱がされてた」
へ? と、サキは呆気にとられる。
「お母さんに言われたって言ってたじゃん……」
「え? あ、ああ……」
サキの表情が困ったかのような、驚いたような、可笑しなものになった。
おそらくその表情の裏で必死に『コトネに言われた事』と、『サクラを脱がせた事』について思い出そうとしているのだろう。察したサクラは痛む頭から右手を放し、再度サキの脳天へ手刀を降り下ろした。
「思い出すな!」
「……いって」
今度は先程よりも痛かったのか、サキは僅かに声を漏らしながら、彼女の右手を余った手で掴んだ。必然的に両手をサキに捕まれた形になるサクラ。
サキの目をじっと見据え、彼が目線を逸らしては「ああ、あの時の事か」と、話を逸らしてはいないが、意識を逸らす姿を静観した。
「あ、あん時は不可抗力で……。そ、それに見てねえし」
彼は少し焦ったかのように、頬を染めて早口に言葉を並べる。
「ほら、何ならお前のポケモンに確認して――」
と、言うサキを、サクラは腕を引いて抱き締めた。
サクラが、サキを、抱き締めた。
少女が少年を抱き締めた。逆ではない。
そんなシチュエーションに戸惑うのはサキで、捕まれた腕を振りほどいて背に回され、動けなくなった中で彼は僅かにもがく。しかし、もがきながらサキはサクラの肩が震えている事に気付いてくれたのか、暫くして彼は抵抗を止めた。
いや、肩だけじゃない、全身が震えていた。
自分でも分かる程、震えていた。
「サキ……」
やはり震える声で、サクラは話し掛ける。
「何だよ……」
サキは肩と頭に腕を回してきてから、静かに声を返してきた。
少しでも落ち着けるように、配慮してくれているのか、とても優しい声色だった。
少年の声に、とても落ち着く。
安らぐ。
サクラはサキの肩に額を乗せた。
まるで恋人がやるように、ぐりぐりと額を押し付けて、びくりと肩を跳ねさせる少年をからかう。くすりと笑ってみれば、彼は何処か呆れたような様子だった。
「アキラは?」
「……合わす顔がないって」
「そっかぁ……」
ふうと息をつけば、自然と涙が溢れてくる。
サキの服を汚してしまう。と、身を引こうとすれば、彼は腕に力を籠めて、構わないと言ってくれた。言葉に甘えて、彼の肩に顔を押し付けた。
「……訳わかんないよ」
「うん。だよな……」
酷いもんだと、サキからしても、そう思う。
何が悲しくて、実の父親と相対せねばならないのか。そしてそんな事実を、幼馴染の親友から告げられなきゃいけないのか……。
ぽんぽんと、背を軽く叩いて、嗚咽を漏らすサクラを労った。
初めてはワカバタウンから戻って来た時、目が覚めた彼女は、サキから隠れるようにして泣いた。ある時はキキョウシティのポケモンセンターで、自分の死の偽装により人を傷付けた時に、サキを横にして、顔を伏せ泣いた。
今は、こうして頼って貰えた。
でも、嬉しくはない。
彼女が嗚咽を漏らす事自体が、サキにとって不甲斐ない証にさえ思える。
ただ、こう言う時にこそ、彼女を何とかしてやりたくなる。
助けてやりたくなる。
「サク、俺何か言った方が良い?」
でも、今回は……多分無理だ。
「…………」
サクラはサキの予想通り、無言で首を横に振った。
サキの背に回した腕を強めてから、ぽつりと一言「辛い」と零していた。
黙って抱き締め返して、サキは肩の染みがどんどん拡がるのを、じっと耐えた。
逢いたいと切望していたろうに……。
父に、母に、ずっと逢いたいと思っていたろうに……。
どうしてこんな、彼女の純真な心をぶち壊すような真似を……皆してやってしまうのか。何の恨みがあって、サクラばかりを嫌な目に合わせるのか。
ワカバの崩壊で、大切な人や、大切な居場所を全て失くしたというのに、まだ奪い足りないのか……。神様というものが本当にいるのなら、彼女の事がそんなにも嫌いなのか。
サキの目線にも、アキラの行為はあんまりで。
だけど彼女の話に、咄嗟とは言え食い付いてしまった自分すらも情けなく映る。
ウバメの森で力無く意識を無くしたサクラを見て、そのアキラは自分のやった事を強く悔いていた。
『わたしのせいだ。わ、わたしは……わたしは何て事をしたの。なんでサクラの気持ちを考えられないの!?』
長年培ったらしい言葉遣いすら捨て、気を使っている筈の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱して、アキラは涙を零していた。サキにサクラを任せて、先にヒワダに行っているとだけ告げて走り去った彼女を、止める言葉なんて無かった。
意識を無くしたサクラを背負ってヒワダまで着けば、アキラは『合わす顔がないので少し一人にして下さい』と、抑揚の無い声で言っていた。
仕方ないとは思えなかった。
止める言葉が無かったなんて、言い訳だと、自覚している。
呆然と見ているばかりなら、赤の他人だってやれるじゃないか。
例えサクラが神様に嫌われた子だとしても、親身になって何とか助けてやるのが、友達じゃないか……自分も、アキラも、そこを間違えていた。
自分を呪わずにいられない。
ポケモンセンターでサクラが目を覚ますまで、そんな自嘲染みた言葉と戦いながら、必死に本に意識を逸らして、サクラが起きたらどうしようなどと考えを耽らせた。
それがどうして、可笑しな話だ。
サクラが目を覚ませば覚ましたで、自分はこんなにも無力なんだ……。
「ごめんな。何も出来なくて、ごめんな……」
越権行為も甚だしい。
自分はこれでも、部外者だと言われても仕方ない。
それも解っているが、どうしてサキは、そう言わずにいられなかった。
熱い体温が、震える華奢な身体が、涙と汗で濡れる彼女が、サキに『助けて』と言っているのは間違い無い。間違い無いのに、サキには『助ける術』が無い。
「こんなんしか役に立たなくてごめんな……。ほんと、ごめんな」
何度も少女の背を撫で、頭を撫で、サキはサクラの嗚咽が止むまでそうしてやろうと思った。
が、突然サクラが両手をほどき、サキを軽く突き放してきた。
「……ねえ、サキ」
突然の動作に少し驚く。
少女に感化されたかのように、陰鬱に、悲観に、浸っていた少年の思考が吹き飛んだ。
真っ赤に腫らした目元から涙を溢れさせつつ、彼女は口をきゅっと結んで頬を膨らませていた。僅かな怒りを見せるような、そんな表情。
彼女は唇を尖らせながら、サキを恨めしそうに睨む目をそのままに、小さく零した。
「サキの鼻水ついた」
え? と言って、サキは鼻ではなく、自分の目元を拭う。
と、すれば、予想外な程、明らかな水滴が指に付いた。
「泣きすぎだよバカ。私より泣いてどうするのよ。もう……」
少女はそう言って、サキの頭を胸に抱く。
「人の事バカバカ言うくせに、サキもバカだよ……ほんと」
少女が少年を抱き締め、悲観に暮れる筈の彼女が、慰める彼を、慰めた。そんな不思議な光景ながら、サクラはどうして、少年の涙が心に沁みるようだった。
あんたはいつも私の味方だよね。
――ありがとう。
少女が呑み込んだ言葉は、しかし少年の心には届いたようだった。サキの涙はサクラよりずっと大きく、少女の服を濡らしていった。