少女は朝のワカバタウンを小走りに進む。
とはいえ家を出てから一分とかからないうちに、目的地に着いた。
平屋造りのその建物は、建造から大分と時間が経っており、外壁には
その建物の扉を迷う事無く開き、少女は第一声とばかりに大きな声を出す。
「博士ー。おはよーございますー!」
少し間延びしたような、それでいて歯切れの良い挨拶だった。
しかし対する返事は、全く歯切れの良くない尻すぼみなもの。
「おはよーぅ」
建物の中は朝だというのに薄暗い。
サクラが入口の脇にあるスイッチを押して電気を点けるが、室内灯が点灯しても、お世辞にも明るいとは言えなかった。
それもその筈で、この建物の内部は天井に近い高さの棚が
ここの所有者
その
「博士……また泊まり込んだんですか?」
少女は僅かに唇を尖らせながら、メディカルマシンの隣にあるスペースへ、リュックサックを置く。レオンとルーシーのボールを腰から取り上げて、勝手知ったる様子で、それをマシンにセットした。
「ポケモンの色彩遺伝子の突然変異と、地方外交配との関連を論文に起こしてたら、遅くなってしまってねぇ……」
その頭は僅かに白い毛が残る程度で、柔和そうな顔つきもどこかやつれて皺が寄っていた。
マシンを起動して、彼の姿を認めたサクラは、薄く微笑む。
「もぉー……。若く無いんですから、自愛して下さいよ」
「あはは。助手くんにもしょっちゅう言われてるよぉー」
男は
彼は窓のブラインドを開き、入ってくる朝日を受けて、再度伸びをした。
「ふあー。良い朝だねぇ」
「そりゃ、もう春ですから」
「君の家のサクラの樹も、今年もやっぱり綺麗に咲いたねえ」
そう言って、微笑みながらサクラへ振り返ってくる男。
丸眼鏡をかけた痩せたお爺さんと言ってしまえば、特徴の全てに近い。彼こそがサクラの両親の才能を見いだし、ワカバタウンのかつての花であったウツギ博士、その人である。
その当時より二五年。
今では年を取り、不養生も祟って、フィールドワークを担当していた助手に、所長を引き継いでいた。
その元助手はといえば、昨今の利便性を鑑みて、拠点を大都市の『コガネシティ』へと移している。ウツギ研究と名高い『交配』と『遺伝子』の研究は、『ウツギ第二研究所』として用意されたそちらがメインで行われているそうだ。
つまるところ、彼の研究は、余生の趣味のようなものであるらしい。
しかしながら、元来、ウツギ博士は人に恵まれず、博士一人助手一人で研究所を維持していた。その助手が研究を引き継いで研究所から出たということは、それ即ち、ワカバタウンのウツギ研究所には、ウツギ博士一人となってしまう事だった。
その支え……と言える程ではないのだが、簡単なフィールドワークや調査を任される役として、サクラは研究所の手伝いをしている。
元より、サクラの両親がワカバタウンを出て、彼女が全寮制の学校へ入るまでの間は、ウツギ博士の家に住んでいた。レオンとルーシーをゲットして、学校を卒業してから自宅へと帰って来ては、自活するようになったのだが、言わばウツギ博士は家族に近い存在である。
つまりはお手伝いと言う方が正しいのかもしれない。
ウツギ博士の研究が、余生の楽しみであるのなら、正しくその通りだろう。
しかし、この日、不意に博士は改まった様子でサクラを呼びつけた。
「さて、サクラちゃん。今日は少し御使いを頼みたいんだが良いかい?」
「んーと、どこら辺にですか?」
サクラは治療が完了したと示すメディカルマシンから、レオンとルーシーの入ったボールを取り上げて、博士へと向き直る。
小首を傾げてみれば、彼はにっこりと笑って、宙を指でなぞって見せた。
「ヨシノシティの先にポケモンじいさんが住んでた家があるよね? 今は空き家になってるけど……」
「ああ……。大分前に引っ越した……」
「そうそう」
ポケモンじいさんとは、サクラの両親が旅立つ頃にお世話になったらしい人で、サクラも何度か面識のある老人だった。高齢故に五年以上前に亡くなり、家族揃って別な地方へ引っ越したと聞く。
その故人はウツギ博士と親交が深く、彼と研究を助け合う事も多くあったそうで、博士は度々彼の話をしていた。
その家がどうかしたんですか?
と、聞くサクラへ、ウツギ博士は一つ頷いてそこへ行ってきてほしいと言った。
「赤い髪をした目付きの鋭い男の人がいると思う。一見怖そうな感じの」
「こ、怖そうな感じ……ですか?」
如何にもやだなぁと言わんばかりに肩を
しかし対するウツギ博士は苦笑しながらも大丈夫だよと繋ぐ。
「君の両親の友達なんだよ。ポケモンリーグ制覇者で、ポケモンマスターのシルバーって言えば解るかな?」
淡々と述べられた説明に、サクラは小首を傾げる。
ポケモンリーグ制覇者、ポケモンマスター、シルバー……と、呟いて、やがてハッとした彼女は「ええ!?」と、盛大に驚いて見せた。
ポケモンリーグ制覇者といえば、つまるところ
トレーナー業に携わる者なら、誰しもが憧れる存在だろう。
更にそのレジェンドホルダーの中でも、とりわけ偉業を成したとされる『ポケモンマスター』といえば、その数は少ない。故に、その域に至った人物といえば、有名すぎる程に有名だ。
リーグ最年少制覇者の『レッド』や、同じ年齢で同郷、後の夫婦となったサクラの両親『ゴールド』と『クリスタル』は、言うまでもなくそのマスター格の者達。そして今、ウツギ博士が名を挙げた『シルバー』も、彼の言う通りレジェンドホルダーの一人であり、ポケモンマスターの一人でもある。
ポケモンの生態系や施設、保護を一括して管理するポケモン協会のトップといえば、シルバー。その人だった。
「お、お父さんとお母さんそんな凄い人と友達なんですか!?」
サクラは自分の両親を棚上げにして、大層驚くが、ウツギ博士はそれを聞いていやいやと笑いながら彼女を制した。
「友達と言うかライバルだねぇ。旅先で何度となくバトルして、共に高みを目指したそうだよ。それに、偉くなったのは今の話さ」
「へぇー……」
ウツギ博士はそこで話を切ると、パソコンのデータをプリントアウトして、茶封筒に入れた。
「今回は極秘で頼まれた調べごとでね。本来ならボクが渡しに行きたいところなんだけど、腰が痛くて動けそうに無くってねぇ……。逆に彼がここへ来るのは目立つし……」
その封筒をサクラへ差し出して、それに、と繋ぐ。
「君も両親の事を少し聞いてみてもいいかもしれないと思ってね」
その言葉を受け、サクラは笑顔になり、力一杯「はい!」と返事をした。