天を渡るは海の音   作:ちゃちゃ2580

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ウツギ研究所

 少女は朝のワカバタウンを小走りに進む。

 とはいえ家を出てから一分とかからないうちに、目的地に着いた。

 

 平屋造りのその建物は、建造から大分と時間が経っており、外壁には(こけ)さえ見受けられる様だ。それはこのワカバタウンが、カントー地方に繋がる川と隣接しているからという訳ではないらしく、この建物の所有者がものぐさで片付けを(おこた)るが故……というところだろう。

 

 その建物の扉を迷う事無く開き、少女は第一声とばかりに大きな声を出す。

 

「博士ー。おはよーございますー!」

 

 少し間延びしたような、それでいて歯切れの良い挨拶だった。

 しかし対する返事は、全く歯切れの良くない尻すぼみなもの。

 

「おはよーぅ」

 

 建物の中は朝だというのに薄暗い。

 サクラが入口の脇にあるスイッチを押して電気を点けるが、室内灯が点灯しても、お世辞にも明るいとは言えなかった。

 

 それもその筈で、この建物の内部は天井に近い高さの棚が(いく)つも並んでいて、折角の室内灯の明るさが、殆んど遮られてしまっているのだった。

 ここの所有者(いわ)く、昔はもう少しスッキリとしていたらしいのだが、ここで行っている事の性質上、書類は日に日に増えていき、今では可動式の棚がまるで通路を成すようにして、入口の脇から並んでいる。

 

 その似非(えせ)通路を通り、奥へ行くと、(ようや)く開けた明るい空間に出る。ポケモンのメディカルマシンやら、パソコン機器やらがズラリと並び、その隅っこで椅子に座ったまま机に突っ伏している男が居た。

 

「博士……また泊まり込んだんですか?」

 

 少女は僅かに唇を尖らせながら、メディカルマシンの隣にあるスペースへ、リュックサックを置く。レオンとルーシーのボールを腰から取り上げて、勝手知ったる様子で、それをマシンにセットした。

 

「ポケモンの色彩遺伝子の突然変異と、地方外交配との関連を論文に起こしてたら、遅くなってしまってねぇ……」

 

 饒舌(じょうぜつ)にもゆっくりと、男はそう言って身体を起こす。

 その頭は僅かに白い毛が残る程度で、柔和そうな顔つきもどこかやつれて皺が寄っていた。

 

 マシンを起動して、彼の姿を認めたサクラは、薄く微笑む。

 

「もぉー……。若く無いんですから、自愛して下さいよ」

「あはは。助手くんにもしょっちゅう言われてるよぉー」

 

 男は自嘲(じちょう)気味に笑って、椅子の上で伸びをする。くぐもった声を漏らしてから、ゆっくりと立ち上がり、白衣を脱いだ。それを丸めて部屋の片隅へ投げると、壁際に掛けてある別の白衣を取り上げて、纏う。

 彼は窓のブラインドを開き、入ってくる朝日を受けて、再度伸びをした。

 

「ふあー。良い朝だねぇ」

「そりゃ、もう春ですから」

「君の家のサクラの樹も、今年もやっぱり綺麗に咲いたねえ」

 

 そう言って、微笑みながらサクラへ振り返ってくる男。

 丸眼鏡をかけた痩せたお爺さんと言ってしまえば、特徴の全てに近い。彼こそがサクラの両親の才能を見いだし、ワカバタウンのかつての花であったウツギ博士、その人である。

 

 その当時より二五年。

 今では年を取り、不養生も祟って、フィールドワークを担当していた助手に、所長を引き継いでいた。

 その元助手はといえば、昨今の利便性を鑑みて、拠点を大都市の『コガネシティ』へと移している。ウツギ研究と名高い『交配』と『遺伝子』の研究は、『ウツギ第二研究所』として用意されたそちらがメインで行われているそうだ。

 つまるところ、彼の研究は、余生の趣味のようなものであるらしい。

 

 しかしながら、元来、ウツギ博士は人に恵まれず、博士一人助手一人で研究所を維持していた。その助手が研究を引き継いで研究所から出たということは、それ即ち、ワカバタウンのウツギ研究所には、ウツギ博士一人となってしまう事だった。

 

 その支え……と言える程ではないのだが、簡単なフィールドワークや調査を任される役として、サクラは研究所の手伝いをしている。

 元より、サクラの両親がワカバタウンを出て、彼女が全寮制の学校へ入るまでの間は、ウツギ博士の家に住んでいた。レオンとルーシーをゲットして、学校を卒業してから自宅へと帰って来ては、自活するようになったのだが、言わばウツギ博士は家族に近い存在である。

 

 つまりはお手伝いと言う方が正しいのかもしれない。

 ウツギ博士の研究が、余生の楽しみであるのなら、正しくその通りだろう。

 

 

 しかし、この日、不意に博士は改まった様子でサクラを呼びつけた。

 

「さて、サクラちゃん。今日は少し御使いを頼みたいんだが良いかい?」

「んーと、どこら辺にですか?」

 

 サクラは治療が完了したと示すメディカルマシンから、レオンとルーシーの入ったボールを取り上げて、博士へと向き直る。

 小首を傾げてみれば、彼はにっこりと笑って、宙を指でなぞって見せた。

 

「ヨシノシティの先にポケモンじいさんが住んでた家があるよね? 今は空き家になってるけど……」

「ああ……。大分前に引っ越した……」

「そうそう」

 

 ポケモンじいさんとは、サクラの両親が旅立つ頃にお世話になったらしい人で、サクラも何度か面識のある老人だった。高齢故に五年以上前に亡くなり、家族揃って別な地方へ引っ越したと聞く。

 その故人はウツギ博士と親交が深く、彼と研究を助け合う事も多くあったそうで、博士は度々彼の話をしていた。

 

 その家がどうかしたんですか?

 と、聞くサクラへ、ウツギ博士は一つ頷いてそこへ行ってきてほしいと言った。

 

「赤い髪をした目付きの鋭い男の人がいると思う。一見怖そうな感じの」

「こ、怖そうな感じ……ですか?」

 

 如何にもやだなぁと言わんばかりに肩を(すく)めるサクラ。

 しかし対するウツギ博士は苦笑しながらも大丈夫だよと繋ぐ。

 

「君の両親の友達なんだよ。ポケモンリーグ制覇者で、ポケモンマスターのシルバーって言えば解るかな?」

 

 淡々と述べられた説明に、サクラは小首を傾げる。

 ポケモンリーグ制覇者、ポケモンマスター、シルバー……と、呟いて、やがてハッとした彼女は「ええ!?」と、盛大に驚いて見せた。

 

 ポケモンリーグ制覇者といえば、つまるところ伝説を成した者(レジェンドホルダー)と呼ばれる存在。

 トレーナー業に携わる者なら、誰しもが憧れる存在だろう。

 更にそのレジェンドホルダーの中でも、とりわけ偉業を成したとされる『ポケモンマスター』といえば、その数は少ない。故に、その域に至った人物といえば、有名すぎる程に有名だ。

 

 リーグ最年少制覇者の『レッド』や、同じ年齢で同郷、後の夫婦となったサクラの両親『ゴールド』と『クリスタル』は、言うまでもなくそのマスター格の者達。そして今、ウツギ博士が名を挙げた『シルバー』も、彼の言う通りレジェンドホルダーの一人であり、ポケモンマスターの一人でもある。

 ポケモンの生態系や施設、保護を一括して管理するポケモン協会のトップといえば、シルバー。その人だった。

 

「お、お父さんとお母さんそんな凄い人と友達なんですか!?」

 

 サクラは自分の両親を棚上げにして、大層驚くが、ウツギ博士はそれを聞いていやいやと笑いながら彼女を制した。

 

「友達と言うかライバルだねぇ。旅先で何度となくバトルして、共に高みを目指したそうだよ。それに、偉くなったのは今の話さ」

「へぇー……」

 

 ウツギ博士はそこで話を切ると、パソコンのデータをプリントアウトして、茶封筒に入れた。

 

「今回は極秘で頼まれた調べごとでね。本来ならボクが渡しに行きたいところなんだけど、腰が痛くて動けそうに無くってねぇ……。逆に彼がここへ来るのは目立つし……」

 

 その封筒をサクラへ差し出して、それに、と繋ぐ。

 

「君も両親の事を少し聞いてみてもいいかもしれないと思ってね」

 

 その言葉を受け、サクラは笑顔になり、力一杯「はい!」と返事をした。


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