天を渡るは海の音   作:ちゃちゃ2580

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木漏れ日の笑顔。

 

『笑って下さい。シルバーさん』

 

 大丈夫だ。

 俺は笑えている。

 ちゃんと笑っている。

 

 

 あの日、彼女を守れなかった事を、後悔しなかった日は無い。

 

 己を呪い、己を憎み、己を蔑み続けてきた。

 未だ許せず、いつまでも罪の意識は消えぬまま。

 彼女を殺したのは、自分だとさえ思っていた。

 

 だが――それももうそろそろ、終わりだ。

 

 書類の端をテーブルの上で叩き、揃える。

 最も手前のそれは、『ワカバタウン復興計画書』と銘を打たれていた。

 

 揃えた書類を机の上に置き、シルバーは溜め息をひとつ。

 愛用の眼鏡を外し、何気なしに天井を見上げて、瞼を閉じる。

 

 喧騒は遠く。

 室内は静寂に包まれている。

 不意に目を開いて、何気なしに見渡しても、見慣れた執務室には自分しかいない。

 聞こえてくる微かな物音は、閉じられた扉の向こう側で交わされている言葉。

 自分宛のものはない。

 

 有事ではない一時。

 決して荒事ばかりが自分の職務ではないが、こういう時は決まって静かな一時になってしまう。

 喧騒は好きではないが、静寂も過ぎると、嫌な記憶ばかりを思い返してしまうのが人間だ。

 

 思えば、自分は中々に可哀想な奴かもしれない。

 

 一年前、様々な被害を与えてくれたあの一件以降、いつ辞任するのかとばかり言われている。

 しかしながら、ワカバの復興に協力してくれと頼まれ、已むを得ずしがみ付くような事になってしまっている。

 

 ほんと、碌な友人じゃない。

 こっちの立場も考えて欲しいものだ。

 まあ、私腹を肥やすことしか考えていないような無能に、ワカバの復興を任せられる筈もないのだが……。

 

「……面倒くせえなぁ」

 

 なんて、誰にも聞かせられないような事をぼやく。

 視線を落とせば、先程揃えた書類が、何も語らずにそこにある。

 

 五十余枚の書類。

 判子なんて勝手に捺せば良いものを……。

 

 いっそ『全部許可』と書いて、提出してしまいたい。

 最後の最後まで、こんな面倒臭いだけの仕事をやりたい訳が無い。

 大体、許可が下りなさそうな事を書くか? 書かないだろう。じゃあ判子を捺すのなんて、ただの様式美じゃないか。

 

 と、そんな事を考えていれば、不意に脳に一人の人影が浮かんだ。

 

 その人影は少女。

 白いキャスケット帽を被り、赤いシャツとオーバーオールを着ていた。

 最近見るような皺は無く、随分と昔の姿だ。

 

 が、ふと脳に浮かんだ姿は直ぐに変貌。

 あまり良い思い出の無い漆黒のスーツを身に纏っていた。

 

『馬鹿馬鹿しい! そんな格好、止めちまえ!!』

 

 そして彼女の服へ伸びる自分の手。

 一思いに引っ張り上げて――真っ白な下着を拝見した。

 

 そこで若き日のシルバーは硬直。

 服の上に服を着ているだけだと思っていた自分は、――当然ながら――予想外にも出てきた真っ白なブラジャーと、それをつけるに及ばない程の平たい胸、素肌を見て、口をあんぐりと開けたまま固まってしまった。

 

 すると……半脱ぎ状態だった彼女は、あろう事か自ら漆黒のスーツを脱ぎきってしまう。

 そのまましゃがみ込んで、いそいそとバッグから替えの服を取り出した。

 

 シルバーが茫然とする目の前で着替えを終え、彼女はこちらをじろりと睨んでくる。

 

『……貸しな? これ、あんたへの貸しな?』

 

 念を押すようにそう言って、彼女は顔を僅かに逸らす。

 そして、この事態を唖然とした表情で傍観していた近場のテロリストに向けて、渾身の右ストレート。

 ぎゃあと悲鳴を上げる男を、彼女は黙ったままもう一発ぶん殴って、地面に転がった所へ、股間に向けてトドメの踏みつけ攻撃。……男は悶絶して、そのまま動かなくなった。

 

 そして、ちらりとシルバーを見てきて――にやり。

 

『忘れたら――』

 

 首の前で親指を立てた握り拳を、右から、左へ。

 

『コロス』

 

 あの日以来、シルバーはコトネに逆らえなくなった。

 普段の接し方が変わる事は無かったが、本当に大事な時には、必ずと言って良い程これを盾にされてきた。

 

 今回のこれだってそうだ。

 分かってるよね? の言葉の後ろには、『痴漢者』だの、『性犯罪者』だの、とても不名誉な事を言われた。そんな事を言わなくてもやると言うのに、事のついでのような形で言われた。遺憾この上無い。

 大体、自分はあんな貧相な身体に興味は無いのだ。事実、亡き妻はとてもグラマラスな体型をしていたし、性格だってコトネとは正反対。正に淑女そのものというような人物だった。だからと言って、あの行いが赦される訳でないのは分かっているが、あくまでも『事故』であって、『故意』ではない。脱がそうとしたのは故意であれ、その下に服を着ていると思うじゃないか、普通……。

 

「はあ……」

 

 思わず溜め息を零す。

 別段、すぐに手をつければ、三〇分も掛からない仕事ではあるが……それがどうして、途方も無く面倒臭い。きっとコトネの依頼だからだろう。そうに違いない。

 この座について、もう一〇年近くなるが、職務を投げ出したくなったのは久しぶりだ。

 それだけ世界が平和な証拠ではあるが、素直に喜べる話でもない。

 

 こういう時は、何かしら褒美でもあれば良いのだが……。

 

 シルバーはちらりと机の端に視線を向ける。

 そこにはフォトスタンドに収められた一枚の写真。

 

 亡き妻と、やんちゃ盛りな息子と、自分。

 妻と二人で、五歳に満たない息子を抱き上げていた。

 

 そうだ。

 暫く行ってなかったし、墓参りでも行こうか。

 サキを連れて……ああ、そうだ。どうせだからサクラも連れて行ってやろう。

 サキに将来を誓う娘が現れたとなれば、シノも嬉しいだろう。

 

 そう決めたシルバーは、おもむろに机の引き出しを開け、PSSを取り出した。

 簡単な操作を幾つかすると、電話を掛ける。

 

「……久しぶりだな。今、空いているか?」

 

 そして、約束を取り付けた。

 

 

 その日から二日。

 どうしても妥協出来ない特訓があったらしく、即日とはいかなかったが、シルバーはアサギへ向けてオンバーンを飛ばした。

 最後の職務を提出し、身辺整理も兼ねた休日と、建前も上々だ。

 それも亡き妻へ報告出来そうなのは、自然とシルバーの相好を崩す。あまり笑うことが無い自分だが、大空に居る時ぐらい、好きに表情を変えても良いだろう。

 

 眼下に映る景色は、平穏なジョウトの大地。

 今は丁度、シロガネ山を南に迂回して、ワカバタウンの跡地を過ぎようかというところだった。

 

 あれ以来、ワカバの町には未だ復興の兆しが無い。正に今、シルバーが手がけている案件なので、当然とも言えることだが、一人を残し、町人は全滅したのだ。町の復興を願う者は多くいても、必要に差し迫られている者は少ない。無論、復興の話がゼロであった訳ではないのだが……エンジュシティの復興が優先されたのもまた、必然的だろう。

 故に、今のワカバタウンには、献花をする為のテントハウスが建ててあるだけ。焼け崩れた建物の残骸こそ撤去されているが、大地には未だ凄惨な焦げ跡が残っている。仮に復興を目指すのであれば、土壌の洗浄から始めねばなるまい……中々先が長そうだ。

 

 ワカバを越えれば、ヨシノ、キキョウ、エンジュを経て、アサギへ。

 道中で小一時間程休憩を挟んだが、普段から厳しく育てている為、オンバーンはへでもないような様子で飛んでみせた。ジョウトの端から端までを、日が落ちる前に飛びきるポケモンはそういない。

 落ち着いたら、久しぶりにバトルタワーに行ってみても良いかもしれない。今の自分と自分のポケモン達が、何連勝出来るか……少しばかり興味があった。

 

 そうしてシルバーが改まるのは、正にそのバトルタワーの目の前だった。

 もうそろそろ日が沈むかという頃合。まだ入り口にすら至っていないというのに、それでも溢れんばかりの熱気を放っているような気がする巨大な建物。透き通ったガラス張りの外観は、何とも壮観。頂上なんて、首が痛くなる程に見上げてみても、霞んで見える。

 

 変わらないな……ここも。

 

 そんな風にごちて、シルバーはふっと息を吐く。

 自分はあまり来た覚えがないものの、まだ自分がやんちゃ盛りだった頃……ヒビキとコトネが、とんでもない記録を打ち立てたと聞いて、こっそり見に来たことがある。二人の一〇〇連勝を称える金色のトロフィーは、今も飾られているのだろうか。

 

「おや、会長さんじゃないか」

 

 不意に掛かった声に、やおら振り返る。

 すると、片手を挙げて、白い歯を見せる男が居た。奇抜なアロハシャツに、黒いアフロとサングラス。どうにもこのバトルフロンティアにおいては、浮いて見える格好だった。前が閉じられない程に出っ張った腹も相まって、トレーナーらしくもない。

 認めたシルバーは、軽く手で合図を送った。

 自分が此処へ来るという話は通っているだろう。時間の約束はしていないので、流石に待っていたとは思わないが、何を改められる必要もない筈。見かけたから声を掛けてきた。といったところか。

 

「久しいな。ミヤベ」

「ああ。御宅が引き篭もりだから、そりゃあ珍しいだろうさ」

 

 ミヤベはにかっと笑いながら、毒づいた。

 引き篭もりとは、遺憾この上ない。確かに、最近は職務に忙殺されて、碌にセキエイの外へ出ちゃいないが……元よりシルバーは高官なのだ。不用意に出歩くことは、あまり宜しくない。

 とはいえ、この男の性根の悪さは、セキエイでも有名だ。

 シルバーは肩を竦めて返す。

 

「人のことを言えたクチか。何だそのだらしねえ腹は。物理的に燃やすぞ」

 

 呆れ混じりに罵れば、ミヤベはけらけらと笑い始めた。

 

「はははっ。勝利の申し子と同じことを言う」

「誰だ。そいつは」

「こっちの話さ」

 

 どうもこの男は、色んな人物をとっ捕まえては、毒づいているらしい。

 いつかどこぞの誰かに刺されるだろう。そんなことを思いながら、「ところで」と、シルバーは溜め息混じりに話の腰を折った。

 

「サキとサクラは?」

 

 待ち合わせこそしていないが、迎えに行くことは伝えている。

 出発は明日の予定だが、二人の性格からして、迎えに来たシルバーを他所に、何処かへ出掛けているとは思えない。

 

 ミヤベはこくりと頷いて、バトルタワーを見上げた。

 視線を促された気がして、シルバーも倣う。

 

「もうそろそろ終わると思うけどね。……一昨昨日ぐらいから協定のドンが来てて、ずっと籠もりっぱなしさ」

 

 協定のドン……つまり、メイか。

 態々面倒臭い言い方をするミヤベに些かうんざりしつつも、シルバーは得心いったと頷く。どうしても外せない特訓とは、メイが来ていたからなのだろう。あの二人にとって、師匠であり、良き理解者でもある彼女は、実に多忙だ。仕方無い。

 となれば、暫く待った方が良さそうだ。

 

「おい、ミヤベ」

「あん?」

 

 溜め息混じりに視線を向ければ、不遜極まりない態度で返して来る。

 あまり懇意にしたい奴だとは思わないが、子供達のことは色々と知っているだろう。

 

「少し付き合え」

 

 シルバーは踵を返し、歩き始めた。

 とすれば、背後から素っ頓狂な声が聞こえる。肩越しに振り返れば、こちらに来ようとしていたらしい体勢で、首だけをバトルタワーの入り口へ振り向かせているミヤベの姿。

 何をしているのだろう。

 そんなことを考え、視線を追えば……。

 

「げ。デブ」

「うわ、腐れ外道」

「あ、親父」

 

 実に嫌悪感溢れる表情を浮かべるメイ。そんな彼女よりも、更に倍増しで嫌そうな顔をするサクラ。そして唯一、シルバーに気が付いたらしいサキの姿。

 

 サクラはいつぞやより、更に身長が伸びていた。女の子だというのに、もうそろそろ一六〇近いのではないだろうか……相変わらずスレンダーな体型ではあるが、女性特有の丸みもあって、少しばかり大人っぽくなった。

 対するサキは、いつの間に切ったのか、髪が肩までの長さになっていた。馴染み深いジャージ姿ではあるが、もうそろそろそれも小さいと思わせる程、身体も大きくなっている。驚くことに、サクラの身長を抜いていた。まだ一三歳という事を鑑みれば、やはり血は争えないようだ。もう五年もすれば、一八〇は越えるだろう。

 因みにメイは相変わらずだ。美人でスタイルも良い。自分の存在が騒ぎ立てられる事に気を使っているのか、キャップ帽を深く被っていた。可愛らしい容姿に対して、何故かその帽子も良く似合っている。……まあ、だからと言って、シルバーは何とも思わないが。

 

 時間を潰そうと思った矢先だったが、どうやら特訓は終わったらしい。

 サキの一言で気が付いたらしい二人へ、片手を挙げて挨拶をする。

 

「あ、シルバーさん。どうも!」

「お久しぶりです」

 

 サクラは丁寧にお辞儀。

 メイは軽く会釈をしてきた。

 

「そうだな。……殆んど一年ぶりか?」

 

 あの一件以降、息子やメイに会ったのは、事態の終息直後に行われた会議の時だけだ。フジシロの葬儀も平行して行われた為、あまり気楽に会話出来る雰囲気でもなかった。サキとは電話する事も度々あったが、互いに多忙な為、どちらからともなく、自重していたのも事実。よくよく考えれば、随分と疎遠だった。

 

「ですよぉー。会長が見ていない隙に、この二人ったらぁ……」

 

 にやけ顔のメイが、二人をからかうように横目で見やる。

 その物言いに、ハッとしたサキが「ば、ばか! お前!」と、顔を真っ赤にして不服を訴える。サクラも瞬時に顔を赤く染め、俯いてしまった。

 二人の様子は、明らかに何かあったような姿。まあ、年齢から考えて、おそらくキスのひとつやふたつといったところだろうが……思わずシルバーは怪訝な表情をしてしまった。別に子供達の痴情に対して思うところはないし、事をしたところで二人は恋仲なのだから、責めるつもりもない。ただ、それをメイが知っているという事だけが、妙に引っかかった。

 

「もぉー、照れちゃって。だってあーんなところであーんな事を」

「あー! それはやめろー!」

「メイさん! それはやめてってば!」

 

 意地悪くぼやくメイに、猛抗議する二人。

 顔を真っ赤にして、拳を上げて抵抗するその様子は……ああ、成る程。

 シルバーも得心いって、深々と溜め息をついた。

 

「子供が出来ることはやるなよ?」

 

 そしてそう言ってやる。

 すると二人は悲鳴にも似た奇声を上げて、顔を真っ赤にしたまま硬直していた。……ふむ、そこまではしていないようで、何より。二人が此方を向いた事を占めて、グッジョブとサインを送ってくるメイの意地悪さは兎も角……いや、そういえば彼女も彼女で、美しい容姿に反して、男日照りだと言っていたか。ファンは巨万といるが、モテ過ぎると縁が無くなるんだとか。つまるところ、ドンマイの一言だ。

 

「それはそうと」

 

 シルバーは再度溜め息共に、改まった。

 

「さっさと風呂入ってこい。出発は明日だ」

 

 ふと見直せば、いつの間にかミヤベは席を外してくれていた。

 あの男はああ見えて、こういう所で気を使う。親しい間柄で飯を食うと良い。なんて、到底奴の口には似合わなさそうな言葉が聞こえた気がした。

 

 

 随分と前から思っていたことだが、どうにもメイという人間はその場の雰囲気で生きているような気がする。大人らしい一面があるかと思えば、面白そうなことを見つけると、自分のやるべき事を平気で放り投げてしまう。優秀な副官がいるからこそ、許されていることだろうが……シルバーからすれば、羨ましいやら、腹立たしいやら、色々複雑だ。

 メイは事情を聞くなり、自分の休暇を少し伸ばして貰っていたらしい。無論、墓参りの邪魔をするつもりはないらしいが、翌日アサギを発った面々に、ちゃっかり着いて来ていた。

 

 あれから厳しい訓練を積んだというリザードンに跨るサキ。

 ゼクロムに跨るメイと、サキのリザードンではまだ少し身体の大きさが足りない為、メイに同乗させて貰ったサクラ。

 空を行く四人の道中は、メイとサクラの女性らしい甲高い声が飛び交い続けていた。

 

 もしかすると、不慣れな事に萎縮しがちなサクラを気遣って、着いて来たのかもしれない。そういう配慮はシルバーには難しいことだし、サキもそういう部分に気が利く性質ではない。事実サクラは笑っている。きっとその笑顔は、メイの気配り無しでは与えられなかったものだ。少なくとも、彼女が着いてこなければ、サクラはシルバーと同席していた筈なのだし。

 

 息子の成長がまだまだだと思うべきか。

 はたまたサクラを連れて行くにあたって、自分が配慮してやるべき事だったのか。

 

 不意に見やれば、サキも二人の様子を窺っていて、どこか溜め息混じりな様子だった。

 

 男ばかりは静かに息をつきながら、一行はフスベシティへと向かう。

 未だ若いサキのリザードンに合わせた飛行は、朝方の出立から、夕方を間近にする頃合まで続いた。

 

 フスベシティは竜の街として知られている。

 名所が多いジョウトの地では珍しく、観光客よりもトレーナーが多く訪れる場所だ。その為、修行の地という呼ばれがあり、かつてのシルバーもこの地で研鑽を積んだ。バッジランクもジョウトの最上位なので、バトルの相手に困らない。限られた者だけが入れる竜の洞穴へ行けば、猛者はわんさかいる。修行するにはもってこいだ。

 まあ、サクラとサキは、バトルフロンティアに伝手があった為、無縁ではあるが……シルバーからすれば、色々と懐かしい街並みだった。

 

 そんなフスベシティへ降り立ってすぐ。

 一同がポケモンをボールに仕舞った頃合いを見計らったように、巨大な影が飛来した。その巨躯は地に足を着けるなり、野太い声で鳴く。ハッとしてシルバーが振り返れば、この地で親しまれているドラゴンタイプのポケモン――カイリューが居た。

 そのカイリューの大きいこと。並の大きさを軽く凌駕しており、パッと見ただけでは数字に直すことも出来そうにない。そしてそんな大きさのそのポケモンと言えば、持っているトレーナーは限られる。

 シルバーがトレーナーに当たりをつけるが早いか、その人物はカイリューの背から、飛び降りた。

 

「やあ、久しぶりだね。会長」

 

 黒いマントを翻し、水色のポニーテールを揺らす女性。

 ふうと改まる姿はとても様になっており、気品が漂っていた。

 

 認めたシルバーは、ふっと笑って、肩を竦める。

 

「何だ? お出迎えか? 久しぶりだな。イブキ」

 

 そこなる女性は、フスベジムのリーダーを勤めている人物。

 四天王の頂点に輝き続けているワタルの従妹であり、彼と同じく非常に長い間、その座に就いている。故に随分と名は知れ渡っており、シルバーの後ろでサクラが「ええ!?」と、大きな声を上げていた。ちらりと振り返ってみれば、何度も会っているサキは平然とした様子だったが、メイまでもが『あらまあ』とでも言いたげに、口に手を当てて、目を丸くしていた。

 

 そんな二人の様子を知ってか知らずか、イブキは軽く背伸びをして、カイリューをボールに戻す。その動作はいつ見ても軽やかで、数年ぶりだというのに、昔の若々しさを未だ忘れていないのだと思わせた。

 年齢はシルバーより上で、もうそろそろ四〇を越える筈だが……未だシルバーには理解し難い可笑しなボディースーツとマントを着ているあたり、センスは成長していないのかもしれない。

 そんなシルバーの感想をつゆと知らずの様子で、彼女は薄い笑顔を浮かべて、振り返ってきた。

 

「最近暇なのよ。ちょっと前に協定の副官が来て、その愛弟子がそこら中のトレーナーをのしちゃったから。暇潰しに外に出てたら、偶々見かけてね」

 

 協定の副官……というと、言わずとしれている。

 ちらりとメイに視線をやれば、彼女は二度、三度と頷いて、「そういえば前にフスベに居るって言ってたかも」と言った。どうやら逐一動向を確認している訳ではないらしい。まあ、そのあたりが自由なのは、トップのメイのフリーダムさ加減からもよく分かる。

 

「あら、そういえば貴女、協定のトップじゃない。……って、そっちはヒビキくんとこの子供?」

 

 漸く後ろの三人を気に掛けたらしいイブキが、目を丸くしながらそう言った。

 その言葉にメイはぺこりとお辞儀して、サクラは「え? 私?」と、驚いていた。メイは兎も角、確かにイブキがサクラのことを知っているのは意外だ。コトネはこの数年コガネに居るし、ヒビキは行方知れず……むしろ死んだとさえ言われている。態々ヒビキの名を出したのは、彼女がコトネとは馬が合いそうで合わないからかもしれないが……一体どういうことだろうか? シルバーはちらりと視線を向けて、意を問い掛けた。

 

 イブキはそっぽを向いて、肩を竦める。

 どこか面倒臭そうな印象がある顔付きで、唇を開いた。

 

「ワタルお兄様から、写真を貰ったのよ。『娘の親友が近々フスベに行くだろうから、宜しくしてやってくれ』って」

 

 そこでシルバーは「ああ」と納得する。

 釈然としないのはサクラとサキで、二人は揃って「娘?」と、小首を傾げていた。

 

 知らないのだろうか?

 最近は協定の多忙な業務の所為で、二人と一緒にいられないもう一人の少女は、今尚セキエイに名を轟かせている伝説の男の娘。……まあ、彼も彼で多忙な身なので、中々コガネに帰る機会が無い。とはいえ、セキエイでは誰もが知っている程、重度の親馬鹿なのだが……。

 

「あれ? 貴女、アキラの親友よね?」

 

 話すべきか、話さないでおくべきか。

 シルバーがかの少女に気を使って、思案していれば、何気ない様子でイブキがばらしてしまった。

 はいと答えたサクラに、イブキはアキラがワタルの娘であることを、何の戸惑いも無い様子で伝えた。そしてその『ワタル』という人物が、セキエイに轟く伝説である事も。

 

 げに恐ろしきは、イブキの天然具合である……。

 しっかりしているように見えて、流石コトネをすっ転ばせる程のギャグを素でかましたという人物だ。

 

「えええ!? 知らないっ! そんなの、アキラから聞かされてない!!」

 

 当然のように、サクラは驚愕していた。

 そこに至って、漸く自分が悪いことをしてしまったと悟った様子のイブキ。「あっ」と言って固まったかと思えば、「い、今のは無しよ。無し!」なんて、どだい意味の無い発言をした。

 

 思わずシルバーは溜め息をつく。

 イブキの天然具合を知るサキも、同じように呆れていた。

 

「アキラのことだから、伝えるタイミング考えてんだろ。お前色々訳ありだったし、父親はセキエイでチャンピオンやってますーなんて、言える訳ねえじゃん」

 

 やれやれと言った様子で、サキがサクラを宥める。

 その様子ばかりは実に気が利いていて、我が子ながらも、心の中で素直に感嘆する。なんともそれっぽい推測で、かつ誰の尊厳も損なわない良い宥め方だ。言われたサクラもハッとした様子で、「あ、そっか」と、納得していた。

 

 ちらりと横目で睨めば、途端にイブキは潮らしくなる。

 罰が悪いといった表情で、「悪かったわ」と、誰に宛てたか分からない謝罪を呟いていた。

 

 はあ……。

 シルバーは溜め息をひとつ零し、「それはそうと」と、話を変える。

 改めてイブキに向き直った。

 

「シノの墓参りがしたい。長老に話を通してくれ」

 

 すると、イブキもハッとした様子で、すぐにこくりと頷いた。

 分かったわの一言で、一同は竜の洞穴へと向かうことになった。

 

 竜の洞穴は、イブキをはじめとする権力者に認められたトレーナーだけが、入ることを許される。

 シルバーはその権利を持つし、イブキが同行しているので、特別的に許可をすることも難しくは無い。しかしながら、中には修行中のトレーナーが多くいる。そんな場所へ有名人であるシルバーやメイが不用意に入れば、彼等の修行を邪魔してしまうことになるだろう。

 用件は長老に伝われば良いだけなので、イブキに言伝を頼めば、四人は入り口で待つ事になった。

 あまり広々とした場所ではなく、洞穴の見張りも居る。遠目にはジムの裏手で釣りをしている者も居て、団欒と出来るような雰囲気でもない。仕方なく手持ち無沙汰にしていれば、サキがサクラに向かって、話し掛けていた。

 その様子は決して周りに無遠慮ではないが、どこか和やかだった。

 

「そういえば、サキのお母さんってどんな人だったの?」

 

 二、三、他愛無い会話をした後、少しばかりシルバーに気を使ったような様子で、サクラがそう問い掛ける。するとサキはこちらを見やってから、虚空を見上げた。

 その表情は、どことなく微笑ましげだ。

 

「優しいお嬢様って感じだったな。すげえ丁寧な口調で、息子の俺にも敬語で接するような人」

「え? そうなの?」

 

 意外だと言わんばかりに、サクラは目を丸くしていた。

 まあ、彼女の資質はあまりサキに継がれていない。心根の優しさばかりは彼女譲りな面もあるが、サキはどこかしこにいる少年少女と同じように、のびのびと育っている。サクラの反応も当然だろう。

 ちらりとこちらを向いた彼女の視線に、シルバーはこくりと一回、頷いて返す。

 

「カントーのナナシマって分かるか? あそこにあるゴージャスリゾートの出で、名実共にお嬢様だった。つっても、長子ではなかったが」

 

 そしてそう補足した。

 するとサクラは今度こそ「ええ!?」と言って驚く。隣で黙って聞いていたメイも、本当かと声を上げていた。

 嘘をつく訳も無いだろうに……。

 そう思って、薄く笑いながら、シルバーは再度唇を開いた。

 

「協会の重鎮の娘だった。方や俺は……まあ、あまり良いところの出じゃなかった。当然、シノの親からは猛反対を受けたし、俺もあまり良い気がしなかった。何度か別れようと話したこともあったんだが……そういうところは絶対に譲らない程、頑固な一面もあったな」

 

 胸が朗らかな温かみを持つ。

 それが促すままに唇を動かしていれば、やがて洞穴から足音が聞こえてきた。そこでハッとして、「続きはまたの機会だな」と、戻って来たイブキに向けて改まった。

 

 

『もう! シルバーさんはいっつもつまらなさそうな顔ばかり! そんな顔をしていると、幸せが逃げてしまいます。ほら、笑って下さい』

 

 そう言って頬を抓ってくる女性。

 年の割りに目が大きく、声も高い。垢抜けしたばかりの少女にも見えた。

 やめろと凄んでみても、まるで気にした様子はなく。態々もがいて抜け出すのも野暮ったく思えて、されるがままだった。すると彼女はぷっと吹き出して、『変な顔になっちゃいました』と笑った。

 

 酷い話だ。

 そう思って、離れていった彼女を、じろりと睨む。

 とすれば、それさえも気にしていない様子の彼女。両手を広げて、風をかき混ぜるようにくるりと回った。そして改めて微笑む。その背後には真っ赤な夕日が映え、とても絵になった。

 

『信じてます。いつか笑ってくれるって』

 

 

 いつだったか、妻はシルバーの笑顔を強く求めた。

 それはその後、結婚してから暫くの頃に果たされ、彼女を大いに喜ばせた。その頃にはつんけんしているのも馬鹿らしくなって、無邪気に喜ぶ彼女の姿に、更に相好を崩したものだ。

 

 彼女が与えてくれた笑顔。

 それは今尚、自分の心に強く残っている。

 彼女が言った通り、笑わなければ不幸に、笑えば幸せになる。そんなことも、今思い返してみれば、実にその通りだと思う。何より、笑って幸福を実感出来なければ、それはただの幸運だと思うようになった。

 誰かと分かち合ってこその幸福。その為の一番手っ取り早い答えが、笑顔なのだろう。

 

 もの言わぬ石碑の前。

 シルバーは笑顔だった。

 サキやサクラにも、シノが好きだったと伝え、笑顔を浮かべるように言っている。別段、昨日、一昨日、死んだ訳でもないので、二人は素直に笑ってくれた。

 

 ここはフスベシティの外れ。

 北にはあまり有名でない遺跡があり、西に真っ直ぐ行けば怒りの湖がある。といっても、道は無いが。

 所謂未開の地だ。

 管轄はフスベシティなので、かの街の長老が許可を出さない限り、シルバーであっても出入りが出来ない場所だったりもする。

 

 妻がこの世を去った時、シルバーは力を持つ意味を知った。

 そしてそれは、当時の自分が目を背け続けてきたものだった。それこそ、ヒビキとコトネが二人一組で行動する理由だったり、シルバーの父が一〇歳の少年に負けた理由だったり……思えば、力を欲する理由として、『誰かを、何かを、守りたい』なんて、至極当然だったかもしれない。しかし、ただ漠然と『最強である事』を求めてきた自分は、馴れ合いだと言って、その概念を捨ててきていた。

 後悔しても遅すぎた。

 いつの間にかシルバーの心に深く根を張っていた女性は、死んでしまった。シルバーが守るということを知らなさ過ぎた所為で、それを教える代償に、逝ってしまった。

 後に残ったのは、彼女が与えてくれた、もう一人の守るべきもの……大切な息子だった。

 

 妻の墓をこんな辺境に建てた理由と言えば、それこそ墓は守れないからだ。

 寂しくさせてしまうことを申し訳なく思いつつも、その分サキを大切にしようという誓いと共に、誰も触れられぬ所に建てたのだ。

 

 鬱蒼と生い茂る森の中。

 一際大きな大木の根元に、妻は眠る。

 

 あの日立てた誓いは……果たせただろうか。

 

 自分はサキを守ってこれたのだろうか。

 

――いいや。

 詩人が過ぎるな。

 

 誰に応えるでもなく、不意に首を横に振って、子供達へ向き直る。

 サキとサクラは、何処とない哀愁を漂わせながら、固く手を握り合っていた。

 

「俺……サクラを守れるくらいに強くなりてえ」

 

 そしてそんなことを、ぽつりと零す。

 配慮に長けた息子が零す言葉としては、実に意外だったが、こんな時では悪い気もしない。今正に、シルバーはそれを考えていた。

 どうか隣で頷くサクラの笑顔を、大事にしてやって欲しい。

 それは本心からくる、自分が果たせなかった切なる願いだ。

 

 だけどまあ……こんな時、こんな場所だからこそ、少しばかりからかってみるのも面白そうだ。

 

 シルバーは悪戯っ子のような笑みを浮かべて、「じゃあ」と、口を出す。

 振り返ってくる無垢な二人分の眼差しに、これ以上ない嗜虐心を顕にした。

 

「二人共がポケモンリーグを制覇するまで、結婚はお預けだな」

 

 シルバーは一人、くすりと音を立てる。

 『やってしまった』という表情を浮かべる子供達に背を向け、空を見上げた。

 

 木漏れ日に映る青空に、一人の女性。

 白いワンピースが良く似合うその人は、透けてしまっている。

 

 幻だろう。

 だけど、心に生きる幻だ。

 

『シルバーさん。笑って下さい』

 

 透き通るような声で、彼女は言う。

 

『ねえ、笑って?』

 

 慈愛深く微笑みながら、シルバーにしか聞こえない音を奏でる。

 

 僅かに口角を上げて、穏やかな笑顔を。

 

『はい。良く出来ました』

 

 木漏れ日の彼女は、今日も笑顔だった。

 




シルバーさんのエピソード。
書こうと思って没にしたネタの欲張りハッピーセットです。何とか巧く構成しようと、一月以上頭捻りましたが……うーん。一応、文字数はここにきて天海至上初の万超えですね。仕方無い。シルバーさんってば貴重な突っ込み役なんですもん。

シノに関してはプロットがちゃんとあります。
それこそコトネの対極に位置する女性で、本当なら存命の予定でした。
ほんと、何で殺したし。二年前の私。お前の所為でこちとら収拾つけるの大変なんだぞ。ぶっ飛ばすぞコノヤロー!(号泣

とりあえず次回は半ば書き上がってます。
そう遠くないうちに出すかと思います。

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