ふわりと香る匂い。
どこから漂ってくるのか、それは鼻腔を擽るようだった。
閉ざされた視界。五感の内一つを失った状態では、より顕著に感じるというもの。
香ばしい匂いに、自然と口内が涎で満たされていく。
ふと気が付けば、目の前に美味しそうな食事が並んでいるような……そんな錯覚を覚える。しかしそれは決して感触の無いもので、故にすぐ様それが『夢』だと察した。
しかし、匂いばかりは
不意に目を開いて、コトネは喉を鳴らした。
視界に映るは真白の天井。
毎朝の染み付いた何気ない動作で、身を捩って枕元を確認する。
時計を改めて、目を瞬かせた。
「あ、寝過ごした」
そしてそうぼやいた。
何時だったか、サクラの友人に勧められて行ったアンティークショップで購入したプリンを模した置時計。
その針は短い方が一二。長い方が一を指している。
――まあ、昨日は遅かったし……。
そう自分に言い訳をする。
昨日は久しぶりにサクラと電話をしたのだ。
実年齢は兎も角、一〇年もの記憶が無いコトネの感性は、未だ娘の若々しい感性に着いて行ける。
故に話は盛り上がり、電話を終えたのは深夜一時。
風呂にも入ってなかったと、急いで就寝の支度をして、床に入ったのが深夜三時だった。
寝過ごすのも仕方無い。
とはいえ九時間は寝過ぎだ……。
いや、昼間は昼間で、色々と多忙だったのだ。
疲れていたんだ。仕方無い。
言い訳に言い訳を重ね、コトネは溜め息を零す。
何を考えてんだか……と、自分で自分の所業を馬鹿馬鹿しく思った。
やおら起き上がって、寝ている間に足蹴にしてしまった掛け布団をベッドの上に直す。
冷たいフローリングに小さな悲鳴を上げながら、立ち上がる。
何時の間にか冬も近い。
そんな事を考えながら、ゆっくりと背伸びをした。
白銀の頂を下ったコトネを待っていたのは、紛れも無いバッドエンドのエピローグだった。
マツバの弟子、フジシロの死。
サクラによって名誉を挽回されるも、渦巻き島の跡地と共に消息を絶ったヒビキ。
そして、消えてしまった異世界の者達。
結局、異世界のヒビキの亡骸さえ、件が終息した時には人知れず消え去っていた。
コトネにはそれが、異世界の自分や、その隣に居た幼子、セレビィの仕業だとは分かったが、これを話したシルバーと見解は全く同じ――どうしようもないと、相成った。
あまりに非情。
サクラの話ではある程度の救いはあったそうだが、それでも目を背けたくなる程の結末だった。
自分はあの子を……救えなかったのだ。
だが、バッドエンドだと思っているのは大人ばかりだったらしい。
やり場のない憤りを抱えた大人達に、娘は言った。
『前を向こうよ。後ろや地べたに、未来は転がってないよ。……未来は常に私達の目の前。色んな方向に広がってるんだ。……ルギアが、そう教えてくれた』
隣に立つ少年が、彼女に続いて言った。
『俺はあいつに……フジシロに、恥じないよう生きていくつもりだ。もう情けないままじゃいられねえ……そうだろ? 親父』
そして、フジシロの死に一時は脇目も振らずに大泣きしていた少女も続く。
『やる事がいっぱいありますの。わたくしはそれを成すつもりです。……後は、何も言わなくてよろしいでしょう?』
三人の決意は、情けないかな……コトネをはじめとする大人達の背を叩いた。
何時の間にか、随分と大人びた生意気な事を堂々と言われ、思わず空笑いが出てしまう程、呆気にとられたものだ。
しかし、今にして思えば、三人はとても強くなった。
サクラは父を失くして尚。
サキは母を亡くして尚。
アキラは友を亡くして尚。
誰一人として屈していなかった。
救えなかったという現実を受け入れ、それを糧にしてより一層強くあろうとしていた。
何とも愚直で、真っ直ぐか。
その心意気に、自然と涙が零れた。
あれから半年近く経って――。
「コトネぇ……そろそろ起きぃやー」
ガチャリと音がして、コトネは振り返る。
丁度着替えをしていて、上から被ったシャツから首を出した瞬間だった。
目が合って、コトネは悪戯っぽく笑う。
「ごめんごめん。ちと疲れてたみたいでさ」
そう言って返せば、「何や、起きとったんかい」と、アカネはつまらなさそうに唇を尖らせた。
今起きたと笑えば、彼女は実に呆れた様子で溜め息をつく。
不意に声を掛けられて中断していた着替えを再開する。
腕を通して、上から何時もの赤いシャツを羽織った。
寝間着のズボンを脱いで、オーバーオールを穿く。
「もうお昼出来とるさかい、はよしてや」
「はいよ。何時もすまんねぇ」
「すまんと思うなら朝くらいちゃんと起きぃ」
辛辣な言葉を残して行くアカネを見送る。
成る丈早く顔を洗って、メガニウムの水浴びも済ませてやらないと、後が煩そうだ。
しかし、一日寝過ごしただけで酷い言われ様だ。
コトネは不意にそう考えるが、よくよく考えてみれば、昨日は昨日で一〇時頃まで寝ていて、アカネに起こされたような記憶があった。一昨日もそんな感じだった気がする。
もしかすると、割と気を遣って、起こす時間を遅めにしてくれたのかもしれない。
「いんや? 一〇時に起こしに行ったら、あんた起きひんねんもん。腹立つから起こさんかってん」
食卓を挟んで向かい。
アカネはすまし顔でそう言って、ご飯を頬張った。
何となくそんな気はした……。
起床時間の事を否定されて、コトネは思わず笑って返す。
元より、あれから住む場所が無いコトネを無償で引き受けてくれている仲の友人だ。
逆説的に、遠慮も何もあったものではない。
むしろ彼女の気性なら、起こす為に熱湯をぶちまけてきたって不思議じゃない……そう思えばまだマシな扱いだろうか。……少なくともシルバーなら、水ぐらいは掛けてきそうだ。
「……んで? 今日はどないするん? また接待?」
コトネがご飯を頬張ろうとしたところで、アカネに問い掛けられる。
止むを得ずご飯をお椀に戻して、頷いて返した。
「今日は助手くんとこ。……ほら、ワカバの件でね?」
そう言って肩を竦めて、察してくれと伝える。
食卓から視線を上げたアカネは、すぐに理解したようだ。
何せ、最近はその所為で暇な時間が無い。
寝坊するぐらいには気楽な事でもあるが。
得心いった様子のアカネは、ご飯を少しだけ口に放り込む。
二度、三度咀嚼して飲み込んだ後、「さよか」と零して続けた。
「まあ、その件なら幾らでも手伝ったるさかい、必要やったら連絡してき」
コトネは空笑いで返した。
「はは。アカネには頭上がんないや」
家の事も、娘の事も……。
昔はポケモンバトルでボコボコにしたら大泣きして、実に面倒臭い女だと思ったが……人の縁とは不思議なものだ。今ではこんなに頼り甲斐がある。
アカネは肩をしゃくって、にやりと笑った。
「せやろ?」
「頭は兎も角、足は向けるけどね」
「今日は野宿するんか。へー」
「すみませんっした!」
コガネの人間のくせに、冗談が通じない。
いや、これは弄りという返し方か?
何にせよベッドは恋しい。
コトネは食卓に頭をつけんばかりの姿で平謝りをした。
今でも時々思う。
失ったポケモン達、消息を絶ったヒビキ。
彼等はこんな私の傍に居て、こんな私を想って悪行を働いて……幸せだったのだろうか?
これを悔いる事は間違いだろう。
娘や友人に話したとすれば、きっと具体的な解決策よりも、それを糧に今ある幸せを大事にして、より多くの人を、ポケモンを、幸せにしろと言われるだろう……。
いや、私だってそう言うと思う。
失ったものは後悔したところで戻らない。
それはこの世の真理で、悔いることははっきり言って無駄だ。
後悔と、尊重や反省は全く異なる。
分かっている。
分かってはいる。
ただ、どうしても忘れられない。
忘れようとも思わないが……。
「じゃあ、これで着手するね。代表は……ボクでいいんだっけ?」
書類だらけのデスクに視線を落としつつ、カンザキは首を傾げる。
応接用のソファーに腰掛けながら、コトネは頷いて返した。
「私じゃ肩書きはあっても、地位は無いからね。トレーナーが代表務めると……ほら、何かイメージ悪いでしょ?」
ガラステーブルに散らばった書類を手で集めて、立てて淵を揃える。
そんな事無いけど……とぼやくカンザキに、コトネは薄く微笑んで返した。
「元より
「えらく物騒な例えをするねぇ」
呆れた様子のカンザキに、コトネは肩を竦める。
相変わらず強面な見た目に対して、柔和な人間だ。
何となくそう思った。
ふうと息を吐いて、手に持った資料に視線を向ける。
そこには堅苦しい言葉がずらりと並んでおり、右下にはでかでかと仰々しい印鑑が捺してあった。
認めて、コトネは再度息をつく。
「ま、これで表向きの資料は揃ったし、大方の費用は揃えられるっしょ」
ちらりと視線をやれば、カンザキはこくりと頷いていた。
「
その言葉に、コトネはけらけらと笑う。
主要施設は従業員を含めて用意が整っている。
『個人の負担』とは、彼等の事を心配している訳ではない。
「私の事は大丈夫さー。いざとなったらバトルフロンティアにでも飛び込んで、五〇連勝ぐらいしてくりゃ良いんだし」
そう言って笑い飛ばす。
自分で言いつつも、手持ちでまともに戦えるのはメガニウムとスイクンだけ。
たった二匹で五〇連勝なんて、流石に夢を見すぎだ。
カンザキもそう思ったのか、目を細めて、呆れたように溜め息をついていた。
「まあ、本当に困ったら声を掛けてね。それぐらいの貯えはあるから」
「……はは、信用無いなぁ。私」
でも――。
コトネはそう零して、再度書類に視線を落とす。
手前に出した艶やかな用紙は、『街造りにあたって必要な事』と銘を打たれたパンフレット。
その第一に、『街に魅力を!』と書かれていた。
カンザキの言う通り、『名物』を作れという事だろう。
思わずにやりと笑う。
「……三年」
そしてそう零した。
「うん?」
何事かと、カンザキが言葉を漏らすのには目もくれず、パンフレットに向かって挑発的な笑みを浮かべ続ける。
そしてゆっくりと続けた。
「三年後、ワカバには新たな『サクラ』が咲いてるよ」
それは――確かな予言だった。
意図を汲みかねてか、カンザキは「サクラちゃん?」と零す。
彼の脳裏には同じ名前の少女の姿が浮かんでいることだろう。
だが、違う。
合っているが、違う。
コトネが、ヒビキが、ポケモンリーグを制覇した時、植えられたのは同じ名前の樹。
今はもう跡形も無いが、それを新たに植える時も近い。
コトネはそう思うのだ。
だから、『名物』がどうのなんて、悩む必要は無いだろう。
「よっ。元気? って……元気な訳無いか」
カンザキと別れ、西日を右手にして、コガネの外れへ。
喧騒は随分と遠く、辺りはどこからかオニスズメの鳴き声が聞こえて来そうな雰囲気だった。
海と、川と、森と……三種の自然が混じる秘境。
かつて、サクラの慟哭を聞いて、母親としての決意を改めた地。
そこでコトネは、スイクンに脇を預けながら、無造作に立てられた大きな石を見詰めていた。
何も掘られちゃいない。
何も刻まれちゃいない。
だけど、失った大きなもの達を、収め得る拠所が欲しくて、コトネが勝手に作ったものだった。
他の誰に聞いても、同意は得られそうに無いが……それは、コトネの
仕方無い。
誰も造ってくれないのだから。
世界を滅ぼそうとした輩の墓なんて、造ってやるような酔狂も、コトネ一人で十分だろう。
スイクンに待っているよう指示を出し、墓の前に腰を降ろす。
ここへ来るまでになけなしのお金で買ってきたお酒を供え、手を合わせた。
波の音が三度、寄せて返したくらいになれば、すぐに面を上げる。
薄らと微笑んで、墓を見上げる。
「ごめん。……あん時は色々怒ったけど、私にゃ何が正しいか、どんどん分かんなくなってくよ」
思い起こすのは数多の感情。
今でも起伏はあって、寄せては返す波のように……時に異世界のヒビキを恨むことがあれば、時に異世界のサクラと肩を叩きあってお酒を酌み交わしたかったと思うこともある。
ただ、死んでしまっては、そのどれもが解き放たれない欲望のまま。
色褪せ、消えていくだけのものだった。
だから、分からないんだ。
いっそ恨ませてくれれば良かった。
いっそ尊ばせてくれれば良かった。
何故半端に悪人で、半端に善人で。
私が否定したくないような理由を持っていたんだ……。
だから――。
ここに居ると思っている
供えたお酒を開けて、コトネは一口飲む。
アカネに怒られないよう、ほんの僅かに……。
口内から胃を降っていくその液体は、本当に僅かだったにも関わらず、熱い塊のように感じた。
ふうと息をついて、立ち上がる。
酒瓶を傾けて、残りをお墓の前の砂浜へ全て流した。
願わくは、これで酌み交わした事に。
「また来るよ……今度は良い報告をしに来るからね」
そう言って、薄く笑う。
きつい西日に背を向けて、コトネはスイクンを呼びつけた。
『そっか……話、纏まったんだ』
PSSの向こうで、少女は安堵したような、寂しさを思わせるような、そんな声を漏らした。
コトネはふっと笑って、大変なのはこれからだと告げる。
アカネ家で間借りしている部屋の中央。
ちゃぶ台の上に書類を開いて、件のパンフレットを取り上げた。
「……ほら、新生ワカバにゃ名物ってもんがないからさ?」
『あー……そっか、お母さん達の伝説って、もう結構昔だもんね』
電話口の向こうで、得心いったような声を漏らす愛娘。
苦笑しながら、コトネは「もう三〇年近く前だもん」と返した。
語られる事こそないが、シロガネ山だって、またも踏破してしまったのだ。
今度は結構な大人数だったが……いやはや、生態系が安定するまでは立入禁止になっているが、あの偉業も最早偉業と語れたものではない。
だから――と、コトネは愛娘に向かって、笑い掛けた。
「さっさとリーグ制覇して、ワカバタウンの新しい名物になっておくれ」
『ちょっ!? そこで私に投げちゃうの!?』
さぞ憤慨そうな言葉が返ってきて、コトネは思わず噴出して笑う。
じゃあリーグ制覇しないのか? と、問い掛ければ、彼女は首を横に振るだろう。
『ま、まあ……そのつもりではあるんだけど……』
渋々といった様子で、愛娘は納得した。
とはいえ、どうにも釈然としない様子だった。
何時ぞやみたく、コトネを引き合いに出して、そんな事出来る訳無いと諦める様子が無いところは……随分と成長したようだ。
コトネは薄く微笑んで、目を閉じる。
瞼の裏には、もう幼子の姿ではなく、自分より身長が高くなった姿が浮かぶ。
「まだ随分と先だろうけど、ワカバで待ってるから」
『……うん』
返ってきた言葉に、ゆっくりと目を開く。
不意に天井を見上げて、目に見えぬ夜空に想いを馳せながら、唇を開いた。
「頑張れ。サクラ」
迷って。
迷って迷って。
やっと光が見えた。
なら、人はその方向に進んじゃうものなんだろう。
それが果たして真白の光か、どす黒いものを隠した光なのかは、近付いてみるまで分からないから。
だから――それが望みのものじゃなかった時、人は今まで歩いてきた軌跡を『無駄足』だったと思っちゃう。
もういっそ、それで良いんじゃないだろうか。
後悔しながら、日々それを尊重して、反省するよう心掛けるという『努力』をする。
無駄足なんかではなかったと思えるように、得られた些細なものを探し、それで満足しようとする。
それで、良い気がする。
それが、良いと思う。
この先もずっと後悔して、反省する。
もう二度と失わないように、努力をし続ける。
きっと私はそういう人間だ。
だからもう少し、母親らしいことをしよう。
かつてワカバで待っていたヒビキの母のように。
相応しい地で、彼女を待っていよう。
その為に、今一歩頑張ろうじゃないか。
無駄足ではないと信じて。
アゲハさんに続いて、コトネさんのエピソード。
救えなかったという責を、日々抱えながら生きていく。
コトネ視点では決してハッピーエンドではなかったというお話です。まあ、どの視点からでもハッピーエンドというには、語弊があるんですけどね。
次回はまだ書きあがってませんが、シルバーさんのお話。
いやあ、しかしどうしようか……まあでも、最後だから文字数気にしなくても良いのかな。次のエピソードは一万字軽く越えそうなのですが、ご了承願います。