約束
のどかな浜辺に、ふうと息をつく少女が一人。
寄せては返す波の音に耳を傾けながら、大空を見上げていた。
澄み渡るような青空は、今朝まで大雨が降っていたとは思えない。
ある一時を境にぴたりと止んで、曇天は何処へやら。昼を過ぎた頃合になれば、雲一つ無い快晴が広がっていた。空の端から端までを照らす陽光は実に美しい。水平線の彼方まで、キラキラと輝いているようだった。
額に手をかざして、じりと肌を焼く陽射しを見上げる。
もう夏も近い。
手入れを怠れば、すぐにでも日焼けしてしまいそうだ。
そんな事を考えながら、少女は首の後ろに手を入れて、真っ黒な髪を掻き揚げる。
潮風特有の湿気の所為か、髪はあまり靡かなかった。二日程風呂をサボった時のように、ごわごわとした印象を感じた。そろそろ髪の手入れもしなくては……だけど、今自分が居る街は、ヘアサロンなんて何処にも無さそうなド田舎。おまけに島である。それは暫く出来そうにない。
「はあ……困ったなぁ」
そんな言葉を溜め息と共に吐き出して、少女はふっと笑う。
ふと思い至った。つい一年程前までの自分は、こんな悩みとは無縁の生活を送っていた。あの頃と大きく異なる今の環境が、やけに可笑しく思えたのだ。
育った街は、何をするのも困らない大都会。
生まれた環境は、将来に何の不安も覚えないような裕福な家庭。
自分の家は、そんな大都会の内でも、一際広いお屋敷だったりした。
それこそ生まれてこの方、何をするのも困ったことが無い。つい一年程前まで、そんな環境に居た。それが今はどうだ……髪の手入れさえ、満足に出来やしない。
決して望ましい訳ではない。だけど、やけに心地好かった。
髪の感触は嫌気が差すし、日焼けもしたくない。だけど自分で決めた旅で、自己責任という言葉で自分を慰めていることは、何となく大人っぽくて、誇らしく思う。
全てはあの日、キキョウシティで、あの二人に会ったから。
その縁が無ければ、自分はこんなジョウトの端っこになんて居ないだろう。
諦めてコガネに帰って、元の贅沢で窮屈な環境に甘んじているに違いない。
楽しくない日々を、無理に笑って、過ごしているのだろう。
少女は手を組み、頭上高くへと掲げる。
そのまま思いっきり背伸びをして、やけに凝り易い肩を解す。
手を下ろせば、そのまま肩を直に揉んで解した。
「さーて、どうやってアサギに帰ろうかな……」
そしてそうごちる。
不意に腰のベルトが振動して、ハッとした彼女はやおら視線を落とす。
改めて振動の正体を取り上げれば、思わずくすりと笑ってしまう。認めたモンスターボールの中で、緋色のたてがみを持ったポケモンが、前足を浮かせて、出せと言いたげの様子だった。
「もう、ウインディ……水辺だから、ちょっとだけだよ?」
そう言って、モンスターボールを解き放つ。
閃光と共に現れる巨大な影。
四本足だと言うのに、少女の身の丈を遥かに上回る大きさを持ったポケモンだった。
出てくるや否や、ウインディは気高く一鳴き。
少女の足許に頭を垂れ、膝を後ろから押してきた。
ハッとした彼女は「あ、ちょ、ウインディ!」と、戸惑いを口にしつつも、大人しくウインディの促す通り、彼の背中へと跨る。すると彼は満足したかのように、その場で一跳ね、二跳ね。まるで嬉しさを身体全体で表現しているかのようだった。
進化を終えたというのに、どうにも落ち着きが無い。
少女は半ば無理矢理なロデオをさせられながらも、彼のたてがみを鷲掴みして、にっこりと笑う。
「もうっ!」
と、文句を口にしながらも、彼の首を抱き締めた。
そのまま街とは逆の海岸沿いを指差して、「お散歩! あんまり速く走らないでね」と、彼を促した。
ウインディは再度大きく吼える。
少女を背に乗せたまま、二メートル近い巨体からは想像も出来ない身軽さで走り始めた。
トトン、トトン。
ウインディが砂浜を駆る音を聞く。
波の音とはてんで調子の違う音だったが、自分が歩いても鳴らないような足音は、とても新鮮だった。
湿っぽい潮風が強くなり、きつい陽光がもたらす温度に、見合っただけの風を浴びる。
ふと息を深く吸ってみれば、思った以上に気持ち良かった。
アサギではいっぱいいっぱいで、何も感じられなかったものだが……やはり、人間、心にゆとりを持つことが大事なのかもしれない。あの街で恩人だった筈の人間に宣戦布告をかました時とは、見える景色も、感じる匂いも、抱く感情もまるで違う。
それこそ、今朝の大雨から、今の快晴へ、移り変わった大空のように。
――もう貴女も当事者。正直に言いましょう。
この街に着いてすぐ、一休みもなく去ろうとする恩人は、小さな身体を優雅に翻す。
そのあまりに非力そうな背中には、僅かな疲れと、確固たる決意。
私は彼女の言葉に頷いて、続きを待った。
「貴女の決意を空回りさせてしまいますが、多分、わたくし達はこれから、貴女が目指している壁に立ち向かいます。サキの様子からして……きっと、間違いないでしょう」
それは、この街に着くよりもう少し前のこと。
私をポケモンに乗せて、この街へと運んでくれていた少女のPSSが鳴った。
掛けてきた相手は、おそらく彼女の一行で最も頭の切れる少年。
彼の問いかけに対し、そつなく回答していた彼女だが……その本懐は、傍から聞いていた私にも分かるもの。少年が問い掛けてきた内容は、『そこ』に敵がいるかどうかを定めようとする為のものだった。そして、電話を切った恩人の様子から見て、それは是。つまり、渦巻き島に彼女らが追いかける相手が居るということだ。
さて、しかしその相手といえば、私自身も追いかけていたりした。
まだまだ戦力が足りておらず、自分でも挑むのは無謀と思えてしまうのだが、頭数が欲しいと言われれば、即座に頷く覚悟もあった。……だが、結果的に彼女は、自分をこのタンバシティまで送り届けた。
そして、さしたる言及も無く、踵を返した。
それがどういう意味か分かる私は……已むを得ない。分かったと割り切った。
だが、その別れ際に至って、恩人は正直に打ち明けてくれたのだ。知らないふりをしておこうと思っていたことを、態々教えてくれた……それは素直に嬉しかった。
だけど、何故?
私は小首を傾げて、恩人の言葉の続きを待った。
すると、恩人はふっと笑う。
疲れが窺えるトゲキッスに乗って、穏やかな表情で振り返ってきた。
「だから、待っていてあげて」
トゲキッスが羽ばたき、恩人は空へ。
見上げる私に向けて、更に言葉は続いた。
「あの子を……ポケモントレーナーらしい。最高の舞台で」
その言葉は、私の胸を強く打った。
それはつまり、必ず勝って戻ってくるという約束。
しかしそれだけではない。遥かその先、未来で……私でなければ成せない立場を、お願いしてくれている。
私はそう理解すると、大きく唇を開けて、彼女に言った。
――もう追いかけない。絶対に何時か、あの子を倒して見せます!
そういえば、一回だけバトルをしたか。
ふと思い返す。
それはキキョウ、ヒワダを経て、コガネへと戻った時だった。
偶然再会した彼女と、四対四のフルバトルをして、ぼろ負けした。
もうそれはそれは完膚無きまでに、ぼっこぼこにされた。
何がいけなかったのか、バトルが始まった瞬間、彼女の纏う雰囲気が激変した。
人懐っこそうな雰囲気が掻き消えて、今に呪いでも使ってきそうな……どす黒い笑みを浮かべていた。
そして、何の指示も無く、彼女の強靭なポケモン達が、私のポケモンをあっという間に蹴散らした。
機会があったらその理由でも聞こうと思っていたが、アサギで再会した際にはそれどころではなく……。
已む無く、当時の理由は知らないままだ。
だけど、あれがあったからこそ、私は何度挑戦しても勝てなかった筈のコガネジムリーダーに勝てたんだろう。ヒワダまでの過程で、知らず知らずの内に慢心していた部分を無くし、再度ポケモン達と絆を深め、彼等の研鑽を積む為の機会を得られた。それはとても稀有なものだった。
そして、尚も『ポケモントレーナーなんて野蛮だ』と反対する家族に、コガネジムでの一戦を見せつけ、圧巻させたのだ。あの喜びは、先の敗戦無くして有り得ない。
――嬢ちゃん、一人なん? 暫定バッジが欲しい言うとるけど、競い合う奴とかはおらへんのか?
かつて、そのコガネジムのリーダー、アキナに問われたことがある。
当時の自分は本当に弱っちく、何度も何度も挑んでは、彼女から『また来たのか……』と、呆れられるまでにもなってしまっていた。
その問い掛けは、敗北した私が、『何故勝てないのか』と泣いたことから、掛けられた言葉だった。
当時、ポケモンを持つのにだって家族からの猛反対を受けていた私。
競い合う相手なんていよう筈も無かった。
とすれば、アキナは言った。
『せやなあ……難しいかもしれんけど、一回キキョウあたりに行って、自分より少し強いぐらいの相手見てきた方がええと思う。あわよくばライバルっちゅうもんを見付けぇ。そうすりゃ、自ずと強なるもんやて』
どだい難しい話だったが……今にして思う。
アキナの言葉に従って、大正解も大正解だったと。
そう。
私にとって、サクラちゃんは……ライバル。
その背中を追いかけてちゃいけない。
アキラ様に言われた通り、私はあの子を、最高の舞台ってやつで、待ってあげなくちゃいけない。
追い抜かなきゃ、いけないんだ。
潮風香る海岸線を、ウインディの背に乗って駆ける少女、アゲハ。
時折遠い海の先に、ビキニのお姉さんを見かけて、「私も泳げたらなぁ」なんてごちる。
やる気ばかりは有り余っているのに、船は明日まで来ない。
タンバジムは着いたその日に突破してしまったし、やる事も無い。
いっそ泳いでみる?
頑張れば何とかなるかも……って、ダメだ。
水着が無い。実家に帰った時に合わせたら、全部サイズが合わなかったんだよ。
胸の成長が著しい。
ほんと、無い人にあげてしまいたい。
もうこれ以上大きくなると、下着を探すだけで大変なことになる。
アゲハ、一七歳。
その悩みは、持たざる者には分からないだろう。
「はあ……まあ、時には休むのも大事かなぁ。最近ずっと訓練漬けで、皆も疲れてるだろうし」
不意に足を止めたウインディの背から降り、自分が跨っていた所為で荒れてしまった毛並みを整えてやる。
思い返せば、このウインディだって、血反吐を吐くような努力をさせている。自分に懐いてくれている事が、奇跡的に思える程。まあ、一番最初のパートナーだからって部分もあるのだろうが。
火炎車を習得させようと、何度も自滅させた。神速を習得させようと、何度も足を挫かせた。
そんな彼は、家族が『こういうポケモンであったら良い』とした、アゲハを引き立てる為の従者にしては、随分と傷だらけだ。……だけど、この方がずっと格好いい。
多分、彼もそう思ってくれている。
喉を撫でれば、ウインディはごろごろと喉を鳴らす。
愛しそうに頬を寄せてきたので、そのたてがみに顔を埋めた。
ん……潮風の匂い。
ポケモンセンターに戻ったら、お風呂に入れてあげないと。
そう思って、顔を離した――その時。
不意に視界の端で、キラリと光るものを捉えた。
ハッとしてそちらへ改まると、視界の彼方に数人の人影が見える。
タンバの浜辺は、アサギのそれに比べて、随分と過疎している。
人影なんて珍しければ、彼等の前で極彩色に煌く光は、何とも超常的。
その光景に目を瞬かせれば……アゲハは「あれ?」と、小首を傾げる。
極彩色から、零れ落ちるようにして落下する影。
一人、二人、三人。
一匹、二匹……六匹。
そのどれもが、何処と無く既視感を覚える影だった。
無防備な姿で砂浜に落下した影へ、先にそこに居た人影達が駆け寄って行く。
不意にハッとして、アゲハはウインディに跨った。指を差して、その人影の集団のもとへと急ぐ。
その集団はどうも、極彩色から出てきた人影を、何処かへ運ぼうとしているようだった。
極彩色から出てきた者達は、一様にぴくりと動いておらず、彼等を介抱しようとしている者達は、遠目にも荒々しい声が聞こえてくる程、切羽詰っているようだった。
そして、その人影は――やはり。
ハッとしたアゲハは、声を大にして叫ぶ
「すみませーん! 知り合いです。助力します!」
遠目にだって分かった。
極彩色から出てきた一行は、アゲハの大切な恩人達。
そして、大切なライバル達。
全てを終えてかどうかは知れないが、ちゃんと約束通り帰ってきたのだ。
その彼女等を助けようとしている者は、不意にかかった声に、ハッとした様子で振り向いてくる。
目が合って、その人物を認めたアゲハは、思わず目を丸くした。
「……って、ええ!? イッシュのレジェンド!?」
煙草を咥えて、茶髪を靡かせている女。
気だるげにこちらを認める姿には、その称号が示すような威厳は見てとれない。
しかし確かに、その人物はトウコと呼ばれるレジェンドホルダーだった。
間違いない。アゲハの憧れのトレーナーの一人なので、間違う筈もない。
トウコは怪訝そうな顔付きで、アゲハを認めてくる。
周囲に居る三人の男に何らかの指示を出してから、一同に接近したアゲハの前にやって来た。
「ええっと……知り合いつったか? こいつ等の知り合いか?」
そう言って、トウコは肩越しに未だ倒れたまま動かない一行を促す。
改めて確認してみるも、やはりサクラ、サキ、アキラだ。周辺に横たわっているポケモン達も、彼女等のポケモンだろう……一部進化しているが。
アゲハはこくりと頷いた。
「えっと、サクラさん。サキくん。アキラ様……ですよね?」
すると、トウコは僅かに目を見開く。
少しばかり驚いたような顔付きだった。
「
そして、一人納得するようにごちた。
と、そこでアゲハもハッとする。
思わず本名を言ってしまったが、サキ曰く、あまり宜しくない行いだった筈だ。
目の前のレジェンドホルダーが敵だとは思えないが……これは反省せねば。
しかしながら、これはこれで正解だったらしい。
トウコは頷くと、「良いよ。手伝ってくれ」と、許可なのか、依頼なのか、良く分からない物言いをした。
こくりと頷いて、アゲハはウインディの背を貸すことに。
傷だらけの三人と、そのポケモン達を運ぶのは骨が折れたが、きっと彼等はやり遂げてくれたのだろう。そう思う。結局蚊帳の外でぎゃーぎゃー喚いていただけの自分だが、こんな時くらいは必死になって頑張らないと。
そんな心地で頑張っていれば、レジェンドホルダーがにやりと笑う。
お前を見ていると……誰かさんを思い起こすな。
そんな言葉を掛けられたが、真意は分からなかった。
しかし、これが切っ掛けとなって、トウコを師と仰ぐことになるだが……それはまた別のお話。
アゲハ、一七歳。
ポケモンリーグの頂点を目指します。
とりあえず完成していた一本。
残りはまだ推敲中です。