天を渡るは海の音   作:ちゃちゃ2580

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天を渡るは海の音

 稀有な出会いと、稀有な別れを二回。

 異世界のレオンを見送り、未だ収まらない嗚咽を何とか堪えようとしていたサクラの隣に、愛しい仲間達がやって来た。ポケモン達はレオンを労い、サキとアキラはサクラの背や肩を撫でてくれた。

 その温もりを、今以上に大切にしていかなければ……と、思う。

 それが今の自分に出来ること。それぐらいしか出来そうになかった。

 

 だけど、同時に分かっていた。

 その温もりを、今からもうひとつ……手放さなければいけない。

 

 きつく目を閉じて、ゆっくりと面を上げる。

 すると、見計らったように、声が聞こえた。

 

『さて……』

 

 その声はいずこから。

 サクラの傍らでも無く、ククリの傍らでもない。

 頭上、遥か高くから響いてくるようだった。

 

 その声の主を見上げて、サクラは「ああ……」と、悟る。

 

 やっぱり、そうだったんだ。

 そんな風に思いながら、唇を噛んで、目を細めた。

 

 唐突にどす黒い雲が現れる。

 雲は瞬く間に広がり、晴天を隠し、陽光を遮った。

 辺りが暗く染まれば、それを背後に、悠然と羽ばたく白銀の神様。

 その姿を称えるように、大きな雷鳴が轟いた。

 

 この世に文化をもたらし、海の神として、とても稀有な存在であった筈のもの。

 

 ルギア。

 

 彼はこれ以上ないくらいに羽を広げ、広大無辺なこの空間の端までも届きそうだと思える程の咆哮を上げる。

 その声の反響が止めば、何処にそんな原理があったのか、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。

 それは瞬く間に大地を濃い色に染め、サクラ達の肌を打つ。あまりに冷たい雨だった。

 

 あの日、ワカバの地で彼が使った雨乞いと同じだ。

 そんな事を思いながら、サクラは彼と視線を交わす。すると彼は、何かを悟ったようにゆっくりと頷き、大地へと降りて来た。

 

『次は()の番だ……そうだろう? 主の娘』

 

 一同とは離れた場所に足を着け、彼はククリを望む。

 ふと視線をやれば、彼女はとても辛そうな顔付きで、こくりと一回だけ頷いた。

 

「ママも、分かってたんだね?」

「……うん。何となく」

 

 私か我のルギアが異世界のルギアだ。

 それはサキが言ったこと。

 

 どうしてそうなるかは分からない。

 自分で考えても、何の確証も見付からない。

 ただ、ルギアが何か大事なことを隠しているのは何となく察していたし、自らを私と呼称するルギアが、他の伝説級のポケモンと毛色が違うことも分かっていた。

 だからサキにいざ告げられた時、否定する事が出来なかった。

 

 ああ、やっぱりそうなんだ。

 

 としか、思えなかった。

 

 元々、サクラはルギアが可笑しな存在である事を、本能的に気が付いていたのだ。

 

 その切っ掛けは、我のルギアが目覚めた時。

 私のルギアは記憶喪失同然だったが、遠い昔の記憶はあると言っていた。なのに我のルギアが目覚めた時、海鳴りの鈴は真っ二つに分かれた色合いをしていた。まるで、中にふたり分の精神があると言わんばかりに。

 そしてその後、コガネで会議をして……異世界というものが関わっているんじゃないかと言われた時点で、何となくの違和感は強くなっていった。

 ただ、明確な答えこそ分かっちゃいなかったし、それこそ『本能的』に。

 

 とはいえ、サクラは自分の馬鹿さ加減を痛感している。コガネでフジシロに対して違和感を覚えた時と同じように、サキやアキラが気にしていないのだから。と、気にしないことにしていた。

 仮にその違和感を誰かに話したとすれば、ルギアを取り上げられるかもしれない。と思えば、余計に話せなかった。

 

 それ自体は後悔していない。

 むしろサキの話を聞いた時、『私』のルギアなんだとさえ受け入れていて。この場において、取り乱さずに済む程、サクラの覚悟は決まっていた。

 

 サキとアキラも『もしかしたら……』程度で思っていたのかもしれない。

 サクラが気が付いていたと言って、意外そうな顔ひとつしない。アキラは抱き締めてきて、サキは悲しげな表情で頭を撫でてきて……やがて、サクラを立たせて、背中を叩いてくれた。

 

 サクラはこくりと頷いた。

 

 自らの頬を張る。

 涙を拭って、雑念を払う為に首を思いっきり横へ振る。

 ふうと息を吐いて、ルギアに向けて改まった。

 

 数える程しか認めた事のない姿。

 決して長く連れ添った相手ではないが、長く付き合いのある相手だった。

 何と言って良いかは分からず、サクラは困ったように微笑んでしまう。

 

「もう……心が痛くて、痛くて、麻痺しちゃいそうだよ」

『済まぬ。しかし、主が泣くだろうと予想していた私は、少し驚いている』

 

 黒いフレームに覆われた目を細め、口角を僅かに上げるルギア。

 どうやら彼も困惑している様子。思わずサクラはふっと笑って、「なにそれ」と、何でもないように茶化してみせた。彼も笑って、今一度『済まぬと言っているだろう』と、返してきた。

 

 そんな日常的な会話さえ、数える程しかしてきていない。

 しかし、彼との縁の深さは、今彼が扱う言葉にあり、彼がサクラへ向けてくる慈悲深い眼差しにあり……一五年という、サクラが知らずの内に共有していた時間の価値を知らしめるようだった。

 

 ルギアにとって、一五年の時間がどれ程尊いものかは分からない。だが、その価値というものは、決して時間の長さと比例しないのだろう。

 だって……サクラの胸は押し潰されそうな程痛い。

 なのに、涙が出ない。先程までは止め処なく溢れていたというのに、ルギアを認めた瞬間、拭ったきりだった。その代わり、何とかして微笑みを絶やさないでいようとする自分が居る。

 

 やはり、時間の価値と、時間の長さは比例しない。

 彼が求める表情を、自分は理解出来ているのだから。

 自分がそうなら、ルギアもきっとそうだ。……そうに違いない。

 

『急な別れで済まない……して、気になる事は多くあるが、今やそれは些事か。主の為に積み上げる知識は、もう積み上げる必要が無い』

 

 寂しげに零すルギア。

 頭を振って、曇天を仰ぐその双眸は……果たして何を見ているのだろうか。

 サクラはそう思いながら、小さく頷いた。

 

 ゆっくりと歩み寄って、彼の身体に触れる。

 柔らかな体毛を軽く掴んで、頬を寄せた。

 何も言わずに、そのまま抱き付いて、顔を埋める。

 

 とすれば、ルギアは両翼を使って、サクラを抱き締めてきた。

 肌で感じる温かみが、これ以上無い程の愛情を感じさせた。

 

『別れ際、我が言っていた。まだ足りないと……』

 

 彼が言わんとするのは、きっとこれからの事だ。

 サクラは未だ我のルギアに認められていない。それ即ち、私のルギアがいなくなれば、彼を制御するものがいなくなるということだ。それはとても良くない事ではあったが、サクラはうんと頷くことしか出来なかった。むしろ昨日駄目と言われて、翌日に良いと言われるような事でもないだろう。

 

 とすれば、ルギアがふっと笑ったような声を漏らす。

 

『やはり……起きていたか』

 

 渦巻き島へ向かう際の事だろう。

 サクラはふっと笑って、「だって聞こえたんだもん」と、悪戯っぽくごちる。

 それもあって確信を得ていた……とは言い難い。今となってはどういう話をしていたか良く分かるが、だからと言っても『何となく』は『何となく』だった。もしも確信を持っていたのなら、死に物狂いでルギアと別れずに済む方法を探していた。父にもその方法を尋ねただろう。

 そう……サクラが後悔していないのは、悔やむには遅すぎたからだ。遅すぎる程に、遅すぎた。だけどそれを悲しむ事は、後でで良い……。ルギアはサクラに、そんな姿を求めてはいない。

 

 ルギアにしがみつきながら、その顔を見上げる。

 これから我のルギアの扱いをどうすべきか問おうと思えば、サクラの唇が開くより早く、彼はゆっくりと頷いた。

 

『待つ……と、言っていた。下賤な者に預けられるぐらいなら、主が持っているように。とも』

「……そっか」

 

 パートナーとして認めてはおらずとも、信用はされているというところだろうか。

 思わず安堵の息を漏らしながら、サクラは今一度ルギアの身体に頬を寄せる。

 トクントクンと聞こえる音が、これから消えてしまうだなんて、到底思えなかった。自分が涙を流せない事が、未だ信じられなかった。

 

『別に、無理に涙する必要は無かろう。私は主の笑顔が好きだ』

「うん……そうだね」

 

 最早、彼にとって、サクラの心境は手に取るように分かるのだろう。

 それこそ先程言っていた『意外』という言葉の方が、よっぽど嘘っぽく聞こえる程に。

 

『後悔もしなくて良い。罪深き者に与えられるには、勿体無さ過ぎる幸せだった』

 

 サクラはふっと笑って、手に力を籠める。

 足許に視線を落として、唇を小さく開く。

 

「でも……ごめんね。本当にごめんなさい」

 

 小さく零す。懺悔の言葉。

 彼の命を救えたかもしれない。

 サクラがそう思っていることの表れだった。

 

 そして、それに尽力することが、サクラの成すべき使命だった。なのに自分の保身ばかりで、彼のことに気付いてあげられなかった。

 だから、彼を救えないことは、自分が生涯負わねばいけない罪。例え誰に何と言われようと、サクラはそう思う。

 

『罪に非ず。しかし、言葉を変え、生涯忘れぬと言ってくれるのなら……それはとても嬉しいことだ』

 

 やはりルギアはサクラの心を読んでいるようだ。むしろ此処まで正確だと、何らかの技を使っているのかもしれないと思う。

 別に弁解して欲しかった訳じゃないが、少しだけ心が軽くなったように思えた。

 薄く笑って、サクラはルギアを今一度力強く抱き締めた。

 

「忘れる訳ない……忘れる訳ないよ」

 

 そして、頃合を見計らったように、雷鳴が轟く。

 そろそろだ。と、誰かに言われているような気がした。

 

 ハッとして面を上げれば、慈悲深く見てきていた筈のルギアは、虚空を一瞥。その後改めて視線を降ろしてきて、まるでサクラの懸念を肯定するかのように、頷いた。

 

「…………」

 

 此処に来て、唇が動かない。

 別れを悟って、頭の中が真っ白になるようだった。

 

 何かを言わなければ、何かを誓わなければ、一生後悔する。

 そんな風に思うのに、どうして言葉が出てこない。

 何も思いつかない。唇が動かない。

 

 頭の中がぐるぐると渦を巻くように混乱し、思わず縋るようにルギアを見上げる。

 何かを伝えたい。何かを誓いたい。

 だけどその何かが分からない。

 それそのものを伝えようとすれば……彼は優しく微笑み、首を横に。

 

『必要が無いから、思い付かないのだろう』

 

 ルギアはそう言った。

 思わず「そんな事無い」と言おうとしたが、彼が首を降ろして来て、言葉を呑む。向かい合った双眸は、とても穏やかな黒を宿していた。

 それを認めて、サクラの心臓がドクンと音を鳴らす。

 その鼓動が、混乱を覚ますようだった。

 

 ああ、そうか……。

 

 サクラは悟って、微笑む。

 

 伝えたい言葉は、何時も言っていた。

 だからこそ、下手に着飾ろうとすれば、出てこなくて当然。何気ない一言を、自分は伝えたいのだから。

 

 

――ありがとう。

 ちっぽけな言葉を、貴女に伝えたい。

 

 

 それは、サクラが言ったのか。

 ルギアが言ったのか。

 どちらともが言ったのか。

 

 ふとすれば、あたりには光が散る。

 その瞬間ばかりは目が痛い程の光量で、真白が視界を埋め尽くした。

 

 やがて視界は再度曇天の下。

 真っ暗闇に包まれて……思わずサクラは目を見開く。

 

 もう、そこに、白銀の神は居ない。

 大切な家族で、自分が守るべきだった者は、居ない。

 

「ああ……ああぁ……」

 

 開いた唇から、今更嗚咽が漏れた。

 身体を伝う雨粒に、目から溢れた液体が混じった。

 

 今更……本当に今更……。

 

 やっと、やっと泣ける。

 別れを悲しむ事が出来る。

 

 そう悟って、サクラは膝を崩した。

 ぬかるんだ大地が足を汚したが、そんなもの全く気にならなかった。

 胸を迫り上がってくる熱を解き放ちたくて。だけど泣き喚いてしまうと、彼を悲しませてしまいそうで……彼が居ないことを認めてしまいそうで。サクラは頭を抱えて、痛みを、哀しみを、押し殺そうとした。

 

「ルギアぁ……」

 

 お別れなんて。

 さよならなんて。

 

 嫌だ。嫌だよ。

 寂しい。貴方が居ないと寂しいよ。

 

 同じ存在が居るとか、この世界に留まると世界が滅びるとか、そんな事はどうだって良い。

 ルギアは私の家族で。私のポケモンで。

 

 神様なんかじゃない。

 家族なんだ。

 

 家族と別れる覚悟って何?

 そんなもの、ある訳無いじゃないか。

 笑顔でお別れなんて、出来る訳無いじゃないか。

 

 そんな残酷な事、出来る訳……無いっ。

 

「やだよぉぉ……。なんで。なんでよぉ」

 

 両手で顔を覆う。

 叫びたい衝動を必死に我慢していれば、頭が痛くなってきた。その痛みが煩わしくて、我慢しきれない感情が大きすぎて、顔から離した両手を、大地に何度も振り下ろす。崩した膝を何度も大地へ打ち付ける。それでも尚、我慢が出来なくて、頭を両手で掻き回した。

 言葉という形を保てなくなった慟哭を上げて、ついに叫んでしまった。

 

 自分が認めないところで、もう心配を掛ける相手はいない。

 存分に悲しんでもいい。

 彼はもういない……もう、いいんだ。

 

 そう思って、誰に見られていることを考えることなく、叫んだ。喉を刺すような痛みを覚えたが、胸の痛みの方がよっぽど苦しくて、言葉にならない悲鳴を上げた。

 

 と、すれば――。

 

『はあ……やはりか』

 

 今一度、柔らかな抱擁の感覚。

 それはハッとすれば、駆け抜ける香りのような印象。

 決して確かな感触を覚えるようなものではなかったが――ルギアと同じ雰囲気を感じた。

 

『主……地べたに未来は無いぞ。顔を上げ、きちんと歩かねば、時は止まったままだ』

 

 声のような何かを聞く。

 伝えることはもう無かった筈なのに……実にお節介焼きな彼らしい。

 思わず情けない表情を浮かべて、サクラは虚空に浮かぶ存在感を、震える腕で抱き締める。そこに感触こそは無かったが、ほんの微かな温かみを確かに感じた。

 

『未来は主の目の前。色んな方向に広がっている……さあ、歩き出せ』

 

 すっと、気配が離れていく。

 ハッとすれば、虚空へと去っていく気配に続いて、ククリまでもが宙に浮いていた。

 

 もがくように手を伸ばせば、ククリは笑顔で手を振っていた。

 愛らしい笑顔と共に、天空へと運ばれていく。

 ふと気が付けば、彼女を天空へ運ぶのは、ルギアと良く似たシルエットを持っているようにも見えた。……いや、目では何も見えない。そう感じただけだった。

 

 だけど、そこにルギアが居る。

 ククリを連れて行こうとしている。

 

 何となく、察した。

 

 本当に最後の最後、これでお別れなんだ。

 ククリの天命は尽き、ルギアの贖罪も終わり。

 これが最期……本当に最後。

 

 こんな時になって。

 言いたいことが山程出てくる。

 

 行かないで。とか。

 ずっと傍に居て。とか。

 

 それは決して、ふたりが求めているものではなくて。

 それを言わせようとする自分は、確かに一四歳の子供で。

 

 だけど今まで何を学んできた?

 この旅で、自分が培ってきたものは何だ?

 

 アキラが教えてくれた覚悟。

 サキが教えてくれた真っ直ぐな心。

 

 母が教えてくれた勇気。

 父が教えてくれた愛情。

 

 大切な家族達が教えてくれた信頼。

 

 そして、今、此所で、自分に出来る事。

 自分がするべき事。

 

 

 もう、子供のままじゃいられない。

 さあ、立て。

 真っ直ぐ認めて、満面の笑みを浮かべろ。

 

 

 大人になれ、サクラ(わたし)

 

 

 言いたい言葉を捨てる。

 言うべき言葉に、万感の想いを全て籠める。

 

 遠くなっていく影に、ありったけの笑顔を。

 

 彼が好きだと言ってくれた表情を。

 彼女に教えてあげたい表情を。

 

 

 大好きだよ。ルギア。

 また逢おうね。ククリ。

 

 

 曇天が割れる。

 陽光が射しこめば、それは先程よりもずっと強い光となって、世界を照らす。

 

――リィーン。

 

 いつか聞いた鈴の音が響く。

 一度、二度、鳴り響けば、澄みわたる天空は消え、少女達はあるべき世界に戻される。

 

 終わった世界に終わりを告げ。

 進むべき未来への福音となれ。

 

 

 天を渡るは海の音。

 

 




一先ず、此処までご覧頂き、本当にありがとう御座います。
長いばかりか、誤字脱字誤用等も多く、文章構成についても誤った箇所が多々あったかと思います。それでもこのページ、このあとがきをご覧頂けたこと、本当に嬉しい限りです。
ページ数、文字数に対して、あまり多くの感想や評価を頂けた訳ではないかと思いますが、ひとつひとつに胸を張ってお答え出来る最終話だったと自負しております。また、長いついでに番外編、エピローグと、今正に書いているところですので、そちらも恥ずかしくないものを仕上げられたらと思う限りです。大変恐縮ですが、もう少しだけお付き合い頂けましたらばと……。

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