「……サキ」
稀有な別れを終えた少年に、サクラは小さく声を掛ける。
すると彼は、赤くなった鼻筋を恥ずかしそうに掻いて、悲しげに微笑んだ。
普段は傲慢にも見える態度が多いサキだが、根は真っ直ぐで、心優しい。
きっとあのシャノンのことを、『異世界の』等というラベルを付けて見ていなかった。正しく自分の相棒そのものだと感じながら、接したことだろう。
彼の涙は、それを如実に語っていた。
果たして、自分は彼程のことをしてやれるのか……。
サクラはそんな事を考えながら、サキと入れ替わる形で前へ歩み出た。
自然と手持ちの四匹とバクフーンが傍らに続いてきて、揃ってククリと向き合うようになる。
ククリは薄く微笑んだ。
まるでサクラの心配を見越したように、首を横に振って、小さく「大丈夫だよ」と告げてくる。
「レオンはね……ママとずっと一緒に居たポケモンなの。だから、ママがサクラである限り、大丈夫」
それは、サクラの本質を指しているのだろうか。
明確に理解は出来なかったが、この場でそれを問い質すのは野暮ったく感じて、サクラは頷いて返した。
ありのまま接してやれば良い。
きっとそう言いたいのだろうと思った。
ククリが静かに手を振り上げる。
先程、異世界のシャノンが現れた時と全く変わらぬ様子で、真白のシルエットが現れた。
それはすぐに纏まり、爆ぜる。
現れた紫色のポケモンは、大地にしかと四本の足を付け、悠然と頭を振るう。
長く窮屈な場所に閉じ込められていたと思わせるように、くわぁっと欠伸をして、身体を伸ばしていた。
『……ふう』
そして彼女――もうひとりのレオンは、小さく鳴き声を上げる。
その声は猫らしいもので、サクラの緊張感を揺るがす程、気の抜けたものに聞こえた。
彼女は伸びを終えると、身体をぶるりと震わせる。
頭を下げたかと思えば、前足を二度、三度と舐め、それから漸く面をこちらに向けた。
左目を眼帯で塞ぎ、残りの右目でしかとサクラを見詰めてくる。
その悠々とした仕草に、思わずサクラは息を呑んだ。
緊張を悟ったのか、彼女はふっと笑うように、開いている目を僅かに細めた。
『……ほんと、若い時のサクラそっくり。同じ存在なんだから、当たり前だけど』
そう零して、彼女は隣に立つククリをちらりと横目に見上げる。
翡翠色の眼は、どこか悲しげに揺れた。
『申し訳ないけど……私はもう一人のサクラより、貴女に興味があるわ』
その言葉を聞いて、サクラは胸にちくりとした痛みを覚える。
しかし、彼女の言わんとする事はよく分かった。
自らの主が全てを賭して産みたかっただろう存在。
その人物が傍らに立っているのだ……それもそうだろう。
彼女の眼差しを受け、ククリは少しばかり困ったような顔をした。
その顔はすぐに苦笑を浮かべ、首を横に振るう。
「……あたしは、何にも染まっていない真白。それ以下で無ければ、それ以上でも無い」
そして、ククリはサクラを見直してくる。
促されて、異世界のレオンもこちらへ改まった。
「どう育つかは……パパとママ次第。だから、レオンがあたしに伝えたい事を、ママに伝えて欲しいの。あたしも、レオンも……ここから先の未来は無いんだもの」
ズキリ。
ククリの言葉に、先程よりもずっと明確な痛みが胸を襲う。
それは変え難い未来なのだろう。自分ではどうしようも無く、自然の摂理として、そうあるべき事なのだろう。
だが、あまりに辛い言葉だった。
思わずサクラは顔をしかめて、俯く。
『勘違いすんなよ。サクラ』
そんな折、サクラの傍らで少年のような声が上がる。
不意の声にハッとすれば、サクラの相棒であるレオンが、呆れた様子で地面を蹴った。
そのままサクラの腕にしがみ付いてきて、身体をよじ登ってくる。サクラがうろたえるのも構わずに、彼はすぐに頭の上まで登りきって、額をぺしぺしと小突いてきた。
彼は向かい立つククリを手で指して、サクラの視線を促す。
頭上の彼と正面のククリを交互に見直していれば、彼は小さく声を上げた。
『あいつ等の人生は終わりじゃない。サクラが生きている限り、サクラがこれから観ていくものだ。……これからあの子が死んじゃうんじゃない。これからサクラがあの子を生み出すんだ。……その為に、あの子はあそこに立ってる』
そして、レオンは小さく息をつく。
軽やかにサクラの頭上を発って、宙返りをしながら、サクラの前に着地。
振り返ってきて、にっこりと笑った。
『同じ存在なんだろ? 違うのは、ボクと
レオンはそう言って、もうひとりのレオンを認め直す。
こちらを静観していた彼女の眼差しは、先程投げ槍な態度を見せた時とは、僅かに印象が違った。少し険しく見える顔付きで、レオンを認めている。
『……そうね』
そして、もうひとりのレオンは小さく零す。
薄く微笑んだように、安らかな顔付きで、隣のククリを見上げた。
『分かったわ。貴女の言う通り……少しばかり伝えてくる』
一歩。
異世界のレオンは歩み出る。
その背を、何か良からぬ事をしてしまったのではないかと、ククリが不安げに見送った。
差し出しかけた手を、虚空で握り……サクラを認めてくる。
その目は、『良い?』と問い掛けてきているように見えた。
サクラは喉を鳴らす。
不意に向かい立つレパルダスを見れば、父のバクフーンを相手取った時より、明確な威圧感を覚えた。
その実力は……母のような目を持たずとも分かる。
逆立ちしたって、サクラのレオンが勝てる相手じゃない。
しかし、正面に立つ白い背中は、こちらを振り向きもしない。
サクラよりずっと顕著に力の差を感じているだろうに、臆した様子は一切見られない。
ここでレオンを送り出せば、どうなるかは分かる。
特有のぴりぴりとした雰囲気は、肌を刺すように感じているのだから……。
今一度生唾を飲む。
震える手を、力強く握り締めた。
そして、言葉を出そうと、唇を開いて……。
「――っ」
不意に、先程父から味わった恐怖心を思い起こす。
家族を失うかもしれないという予感が、心臓を鷲掴みにするような恐怖心となって、サクラの言葉を遮った。
背筋を嫌な感触が撫でる……気が付けば、身体が震えだしていた。
目に見える景色が急速に色を失くし、ぐらりと揺れるように歪んでいく……。
と、その時。
『サーちゃん……大丈夫よ。レオちゃんだもの』
不意に掴まれる手。
その感触は艶やかで、清涼感を感じさせるような冷たさを持っていた。
ハッとして傍らに視線を落とせば、もうひとりの相棒がにっこりと笑っている。
彼女は小首を傾げると、サクラを真っ直ぐに見上げきた。
『信じてあげて? レオちゃんのこと』
ドクン。と、胸が鳴る。
再度面を上げれば、確かに色づいた景色が映る。揺れても、歪んでも、いない。
思わずサクラの口角が上がった。
ルーシーを見返して、頷き返す。
そして、再び正面へ。
白くて小さな背中をしっかりと見据えて、今度こそ口を開いた。
「頑張って。私の
レオンは鋭く鳴いた。
今、この場で自分を呼ぶ主人公が居る。
自分をヒーローと呼んでいる。
なら、負ける筈が無い!
何の合図も無く、駆け出した。
何の指示も無く、四本の尾を解き放った。
向かい立つ紫のレオンも、即座に動き出す。
掻き消えた姿に、気配を――右っ!!
頭から伸びる尾で受け止めた一撃。
止めた前足の向こうで、もうひとりの自分が笑っている。
――成る程。強い。
その思考は果たして自分のものか。
それとも、熱の籠もったバトルで偶に起きる、思考の共有か。
共有しているのは誰か――
レオンは鋭く鳴いて、身を翻す。
首から伸びた尾を振って、強引に身体を捻った。
そのまま繰り出すスイープビンタ。
しかし、空を切る。
逃した気配を辿って――上っ!!
素早く身体を前方へ転がす。
すぐに先程まで自分が居た場所に、衝撃が墜ちてきた。
あの技は何だ……?
そう考えるも、『いや、それは重要じゃない』と投げ捨てる。
大事なのは負けないこと。
今の自分がヒーローとしてやるべき事は、たった一つ。それだけだ。
大地に着地したレパルダスが口腔を開く。
ギラリと目が光ったかと思えば、喉の奥から緋色が溢れ出すのを認めた。
――か、火炎放射!?
思わず狼狽する。
しかし、すぐ様理性を取り戻して、口内にエネルギーを溜める。
吐き出した種マシンガン。
それを燃やし尽くす火炎放射。
種を模したエネルギー体が爆ぜ、黒煙と化す。
目の前に迫る火炎放射を飛び越し、その黒煙へと突っ込んだ。
そこで身体を捻る。
煙を抜けてすぐ、変わらずの位置で口腔を開くレパルダスへ、スピードスターを放った。
が、再びレパルダスの姿が消える。
ハッとすれば、その姿は目の前に。
突っ込んでくる頭部を、丁度前に出していた尾を重ねて受け止める。
そのまま身体を捻って、電光石火の衝撃を明後日の方向へいなす。
そこで何となく覚える違和感。
――これは……まさか。
不意に悟る。
レパルダスがどんなポケモンかはあまり知らなかったが、よく見知った同じ種のポケモンが使っているのは見た事があった。
レオンの身体が大地を捉えるより早く、先に地面に着いたレパルダスが再度口腔を開く。
その身体にグッと力が籠もったのを認めれば、小さな口から、溢れんばかりの絶叫が飛び出してきた。
可視化する程の衝撃に吹っ飛ばされる。
これは――確かに、ハイパーボイス。
――これは、やっぱり……。
そう思いながら、追撃せんと飛んできたマジカルリーフを受ける。
そのまま成す術無く、更に吹っ飛ばされた。
無意識の内に視線をやれば、心配そうに見てきているサクラと、目が合う。
その目は未だ迷いを持っているようだが、決して挫けてはいない。
自分が負けない事を、信じてくれている。
じゃあ、負けない。
レオンは受身も取らずに地面へ墜ちた。
痛い。苦しい。しかしそんな事は些事だ!
即座に立ち上がって、思い切り大地を駆った。
尻尾を振り上げ、そこにエネルギーを集中する。
こちらを認めたレパルダスが、口腔から炎を放つ。
それは決してレオンをすぐに襲っては来ず、彼女の身体に纏わりつくような鎧と化した。
――構う事は無い!
迫り来る火炎車へ、アイアンテールを思い切りぶちかました。
衝撃。
そして、爆ぜる。
ありったけの力を籠めた尾は、火炎車を押し返すには至らない。
そこに感じる歴然たる力の差。
しかし、吹っ飛ばされて尚、レオンは再度立ち上がる。
口腔に桃色の閃光をチャージしているレパルダスを認め、足許の大地を尻尾で砕いて、構えた。
ノーマルタイプではない破壊光線が襲い来る。
そこへ投げつける石の礫は、まるで効果が無い。触れた瞬間にじゅうと音を立てて、蒸発した。
そして、その桃色の光に、レオンの視界が埋め尽くされる。
だが、諦める事は無い。
自分は負けないのだから!!
振り上げる右腕。
瞳を閉じて、ありったけの力を籠めんと、集中。
そして何処が先端かも定かでは無い光へ、正拳突きをぶちかます。
ぶわりと風が凪いで、目を開く。
駆け抜けた桃色の光――その中央をぶち抜いて、レオンは気高く声を上げる。
死して尚、
その絆は、正しく見事!
だけど、負けない。
負けられない。
ボクがヒーローで。
この物語の主人公は、ボクのサクラだ!
全力を以って大地を駆る。
数多の花弁を纏い、優雅に佇む紫色の好敵手へ、確かに近付いていく。
何が来ようと恐れるな。
何が来ようと臆するな。
吹き飛ぶな。
堪えろ!!
振り上げる右手。
届けと願い、打ち出す拳。
柔な身体を襲う圧力に屈する事無く。
ただひたすら前へ――前へ!!
打ち出した拳の先に、しかと認める花びらの舞。
しかしそれとは別に、漠然とした影を、認めた。
彼等は、そこに居た。
『上出来だ』
にやりと笑うバクフーン。
『良いと思うぜ? レオ』
すまし顔で零すオオタチ。
『まあ、ボクもいますし』
飄々とした様子のニンフィア。
『ラヴィも良いと思うの!』
両手を揃えて微笑むキレイハナ。
その向こうに――。
『そう……貴方達が良いなら、私も構わないわ』
微笑むレパルダス。
身体を撫でるような温かみを確かに感じながら、レオンは拳を押し出す。
それがどういう事かを身体に刻みつけ、決して忘れる事なきよう、しかと記憶しながら、思い切りぶち抜いた。