※
よう、災難だったな……。
酷い倦怠感の中、微睡みを抜けて目を薄く開くと、少女はそんな風に声を掛けられた。
毎朝喧しく鳴るポッポの置き時計ではないその声に、サクラは僅かに疑問を抱く。
開いた視界は酷くぼやけていた。
白い小さな影と緑の少し大きな影が、何か目の前で動いている。
瞬きを数回挟んで、漸く合ってきた焦点に何故かほっとする。
ボーッとする頭でも、二つの影は、大事な家族だとすぐに解った。
「レオン。ルーちゃん。おはよう」
そう喋ったつもりだった。
しかし、実際に何と言っていたかは知れないが、第三者の声で「なんだって?」と聞き返された。
「ふぇ?」
思わず小首を傾げる。
「チィノ、チィチィーノ!」
そして、少し怒ったようなレオンの声を聞いた。
あれ? と小首を傾げて返す。
――あれ、レオン? なんで尻尾解いて構えてるの? 私起きたよ? 起きてるって……。
べしん!
「いったぁーい!」
「おー。そうやって起こすのか」
叩かれた頭を押さえ、サクラは跳ねるように身を起こした。
「ルー!」
と、そのつもりだったのだが、肩を強く押されて再び寝かされる。
その手はやけにみずみずしく、ルーシーの葉であるとすぐに理解出来た。
「へ?」と、思わず間抜けな声を出せば、不意に身体を覆う感触に違和感を覚える。
そのまま視線を降ろせば、すぐに別の声が飛んできた。
「ば、バカ! そのまま起きるなよ。ずぶ濡れだったから服は洗わせて貰って――ぐへっ!?」
と、言われるより早く確認して、サクラは手近に居たレオンを鷲掴みに。
そのまま少年、サキへぶん投げていた。
後頭部にほわほわしたチラチーノがぶつかって、しかし投てきの威力だけで首が可笑しな方向に曲がった彼は、それでも器用に片手でチラチーノを自由落下から救う。
そして思わずといった様子で振り返ってきて、叫ぶように言った。
「何も見てねえよ!」
「嘘! だって私下着だもん!」
サクラは顔を真っ赤にして叫ぶ。
毛布を肩まで引き寄せて、これ以上ないくらいに声を上げた。
若干喉が痛んだが、コンプレックスの塊を見られたかもしれないと思えば、気にしちゃいられない。
少年も少年で、顔を真っ赤にして、目を余った手で僅かに隠しながら口を開く。
「手探りだったから見てねえよ!」
「触ってるじゃん!」
もう最っ低!
と、叫び、サクラは喚く。
サキは次に投げたドレディアを抱き締める形で受けとめ……こちらへ改まってきて、唖然とした表情を浮かべていた。
「サイ……テー……だよぉ」
そう言って、涙を流して、サクラは誤魔化すように言葉を漏らしていた。
唐突に蘇ってきた記憶。
意識が鮮明になればなる程、コンプレックスを恥に思う心が、誤魔化しになっていく。
はだけた毛布さえ気にならず、少年を詰り続けた。
やがて彼はごめんと呟いて、黙ってしまう。
彼の謝罪は全く的を射ておらず、それは彼自身も解っていただろう。
だけどサクラには、泣く事しか出来なかった。
「……夢じゃ、無いんだよね」
ひとしきり喚いて、サクラはそう問い掛ける。
確かめるまでもない。
そもそもサキの家で寝かされていた時点で、分かりきった事だ。
身体を覆う倦怠感だって、きっと……。
「ワカバの事なら……そうだな。夢じゃない」
サキは誤魔化す事もせずに、そう言った。
毛布の下の膝を立て、顔を埋める。
半裸の身体が寒気を訴えてきたが、構わずに膝を抱いた。
「サイテーだよ。ほんと……」
「だな」
それだけ交わして、サクラは暫く泣いた。
その嗚咽に切れ目は無かったが、やがて少年が状況の説明を始めた。
先ず、サクラは二日間寝ていたらしい。
寝ている間はチラチーノとドレディアが彼女をずっと心配していて、その間世話をしたサキと、初対面の時の事を仲直りしたんだとか。
そして、悪いと思ったらしいが、サクラのリュックサックと、その中の衣類は洗濯されたそうだ。それ以外のものは分けて置いてあると指された所には、ぐしゃぐしゃになったファイルしかない……多分、下着も洗濯された。
マスターボールはメディカルマシンにかけた後は触っていないらしい。
鈴は二日間ずっと光っていたが、鳴ってはいないとの事。
占めて三〇分程。
サクラは泣きながら説明を聞き終えた。
しかし、聞き終える頃には、「やっぱ下着見てるじゃない」と、泣きながらも彼を茶化して見せた。
年下の彼に心配させている現状に……ちっぽけなプライドがそうさせた。
「とりあえず飯でも食うか?」
誤魔化された訳ではないだろう。
しかし少年は、呆れたような薄い笑みを浮かべて、問い掛けてきた。
サクラは首を横に振って応える。
「んーん。良ければシャワー借りたい」
洗濯し終えた洋服と下着を渡してやれば、サクラは毛布を体に巻いてそのまま風呂場へ向かった。
サキは溜め息混じりにその後ろ姿を見送り……飯でも作るかと息を吐く。
チラチーノとドレディアに食卓へつかせて、一人キッチンに立った。
『博士ぇ、はかせぇぇ……』
風呂場から聞こえる嗚咽には、聞こえない振りをした。
チラチーノとドレディアにも目配せをして、そっとしておいてやれと告げる。
こう言う時は、時を待つ他ない。
自分だって母親を亡くした時は、何を言われても辛かったものだ。
子供心に死を理解出来ず、「もう会えないって何?」と、父を困らせた。恐怖心ばかりを抱いていた筈の父へ、食って掛かったりもしたものだ……。
単なる喪失感とは、違うのだ。
そこにある、拭えない憤りは……。
それでも意識は削がれるらしい。
簡単な料理をするのに、サキは珍しく指を二回も切って、食器を落として粉々にしてしまった。
ほんと……女の子の泣き声が、こんなにも胸に痛いものだとは、思わなかった。
やはり、慰めの言葉ぐらいは、かけておくべきなのかもしれない。
仮に八つ当たりされても、自分ならば理解出来るのだし……。
「いただきまーす」
風呂から上がったサクラは、快活な表情で強がった。
サキが促してくるまま食卓へつくと、笑顔を浮かべながら食事を楽しんだ。……いや、無理矢理楽しんで見せた。
レオンとルーシーにとっても、思うところがあるかもしれない。
そう思えば、多少の強がりは、むしろ心地好く感じる程だった。
食事が終われば、片付けはやっておくというサキに、礼を挟んで甘える。
席を立って、踵を返した。
二匹と一人へ、笑顔を向ける。
「ちょっと……外の空気吸ってくるよ」
そう言って扉へ向かい、扉に手を掛けたところで振り返る。
後ろに続いていた二匹へ、「ごめん、待ってて」と告げて、一人で外へ出た。
ふわりと香る、春の香り。
天を仰げば、水色の空には雲一つ無かった。
快晴の日の真っ昼間だ。
そして風呂上がりに加えて、食後の一時。
天へ向けて、手を組んで伸ばす。
――気持ち良く無い訳……無いのになぁ。
背伸びをしたまま、表情を曇らせ、やがて両手を降ろす。
そのまま扉の前から横にずれ、壁に背を預けて腰を降ろした。
立てた膝に顔を埋めて、
はあと息を吐けば、強がっていた心が、やっぱりダメだと言うようだった。
胸に宿る熱が、顔に移っていく……自然と、着替えたばかりのワンピースが濡れた。
「博士……。旅なんて出来ないよ……」
弱々しくそう漏らす。
脳裏に宿るは、博士の遺言。
そしてその最期の顔。
崩落したワカバの町並み。
シルバーのポケモンが絶命させたであろうポケモンの死体。
知った顔の二度と動かない表情。
消し炭になった町並み。
炭になったサクラの樹。
隣人だったサクラの樹が燃え果てたように、まるでサクラの心までも燃え果てたかのようだった。
あの夜、サクラはシルバーに向かって旅に出る約束をしたが、それもどうして……熱は冷めてしまった。
冷静になればなるほど、酷くその記憶は恐ろしい。
ルギアが確かめ、シルバーが確かめ、ワカバタウンの生存者は〇だった。
ウツギ博士だけじゃない、知った顔も沢山……それこそ、ここへ向かうその日にバトルしたケンタ達も、みんな死んでしまった。
両親が旅立ってから世話をやいてくれたウツギ博士の家族も、もう居ない。
サクラを残して、みんな逝ってしまった。
「何で、私だけ……」
サクラはあの日、博士の遺体を弔う事さえ許されなかった。
自分が死んだと言う誤報を流す為、ポケモン協会や支援団体が来るより早く、ワカバを去らなければならなかった。あまりに辛く、あまりに自分が卑怯者に思えて、仕方無い。
これから関わる全ての人に、等しくワカバと同じリスクを背負わせてはならない。
とは、シルバーの弁だが、自分を誤魔化す為の言い訳に甘んじているようにしか思えなかった。
とはいえ――。
「でも、ここに居たら、サキくんに迷惑だよね……」
はあ……。
と、溜め息を零す。
今一度膝を抱く手に力を籠めた。
と、その時だった。
『バーカ。むしろ無下にしたら俺が親父に殺されるっつーの』
と、不意に扉の向こうから声が聞こえた。
聞こえていたのだろうか?
いや、流石に零すような言葉が、そのまま聞こえる訳が無い。
盗み聞きされていたらしい。
しかし、行いはさておき、それはサクラを心配しての事だろう。
それは確かに理解出来た。
サクラは薄く微笑んで、小さく零す。
「私、多分疫病神だよー」
とすれば、隣で扉がガタンと揺れた。
どうやらその向こうで、彼が凭れかかったらしい。
『サクラのポケモンって可愛いよな。むしろ癒やされるぜ?』
何だそれ……。
思わずくすりと笑って、サクラは首だけで扉を振り返る。
今度は独りごちるではなく、そこへ言葉を投げかけた。
「私、旅に出ないといけないの」
『出れば? 着いて行くかもしんねえけど』
返って来た言葉はとてもあっさりとしていた。
かもしれないと言うが、きっとそれは額面通りの言葉ではない。
サクラは少しばかり表情を曇らせて、首を傾げる。
「私に関わると、多分死んじゃうよ?」
そしてそう言った。
すると、扉の向こうから、小さく溜め息を吐くような音が聞こえてきた。
『ヤバい時はとりあえず逃げるに限んだろ。それに、シロガネ山に比べりゃ大抵の所は安全だ』
ああ、確かにそうかもしれない。
話を聞く限り、彼は相当なサバイバルを繰り広げて生きてきているのだ。
『そんな事より大変だぞ』
サクラが納得するなり、彼は笑ったような声を上げた。
「え?」
と、小首を傾げて返す。
『チラチーノとドレディアがすんげえ形相だ』
「それは大変だね。……うん。泣いてすっきりしたら戻ろうかな」
サクラは微笑んで返す。
優しさが……少年の気遣いが、ただただ胸を満たした。
もう、温かくて仕方なかった。
泣きたくて、悲しくて、嬉しくて、視界が滲む。
『おう、早くしろよ。八つ当たりで殺される』
扉が揺れる。
彼が、その向こうから離れたということだろう。
「……うん。うん。うんっ」
サクラは声を嗚咽に変え、膝に顔を埋める。
もう思いきり泣いた。
声を我慢せずに、ひたすら泣いた。
声が枯れるまで、泣き続けた。
ごめんなさい。
誰に宛てたかも分からない謝罪の言葉を、何の罪を負っているかも分からずに、ひたすら並べ続けた。
早くしろよと言われながらも、懺悔のような号泣は、一時間以上続いた。