燃える。
全てが、燃える。
自分が出来上がるまでの確かなルーツを、自らの手で滅ぼしていく……ああ、何て罪深い。
緋色を撒き散らしながら、ホウオウが気高く声を上げた。
自分が生まれ育った家が燃える。
幼い頃、料理をしていた母の記憶を呼び起こす――そうだ。もう既に母はいない。
自分の偉業を称えた桜が燃える。
同じ名前の少女を思い起こす事は無い――もう、合わせる顔が無い。
そして、自分の旅の始まりを――。
指示を出そうと上げた手が、戸惑う。
その建物の中には、どれ程頭を深く下げても足りない恩人が居るだろう。そんな事は、確認するまでもなく分かっていた……だから、あれを燃やせば、いよいよ自分が踏み入れてはいけない領域に身を落とす事になると、そう思えた。
果たして、誰に許されたいと思わない。
自分のやっている事は過ちで、決して正しい事ではないのだ。
分かっている……既に踏み入れてはいけない領域に、踏み入った後だ。
「……どうしたの?
不意に声を掛けられる。
ハッとして尻目で認めれば、サクラだった者はこんな状況で、笑っていた。
その笑みは……見覚えが無い。
自分を呼ぶ呼称も、聞き覚えが無い。
「やれないのなら? 私がやろうか?」
にっこりと笑う
その清々しい笑顔は、どうしようもなく残酷だった。
思わず胸が痛む……だが、ヒビキは毅然と首を横に振って答えた。
「いや……キミが手を汚す必要は、無い」
そして――ホウオウへ指示を出した。
唐突に轟と音を立て、緋色に包まれるウツギ研究所。
唇の裏を噛んで、その光景をしかと目に焼き付けた。
だが、不意に――。
研究所の中で、悲鳴が上がった。
そして、間髪入れずに開く扉。
中から転がり出てくるように、飛び出してくる初老の男。
思わず、ハッとする。
男性にしては高い声。
長身痩躯な身体つき。
印象的な丸眼鏡。
気が付けば……自分がやった事なのに、彼の元へ駆け出していた。
「博士!」
そして、困惑して研究所を振り返っている彼に、声を掛ける。
その顔はゆっくりとこちらを振り向いてきて……。
「ヒ、ヒビキく――」
ウツギ博士の顔が驚きの顔を浮かべたまま、硬直する。
あと数歩で辿りつこうというその時――彼の身体は明後日の方向へ吹き飛ばされた。
その姿を目で追って……ヒビキは息を呑んだ。
目を見開いて、開けた口が動かなかった。
ハッとして辺りを見渡せば、見知らぬポケモンが頭を振っていた。
その口腔から鋭い岩が吐き出されて、宙を裂くように飛んでいく。
そして――小さな断末魔が上がった。
何が……何が起きた?
やっと塞がった口が、自然と震えた。
焦点が定まらない視界で見渡して、視界の端で改めて認めるバンギラスの姿。
ああ、先程の攻撃は、ストーンエッジか。
とすれば……しかし、一体誰が……。
そのバンギラスを注視すれば、その後ろから現れるのは……見知らぬトレーナーだった。
金色の髪をオールバックにして、格式高そうなスーツを纏っていた。
誰だ……あれは……。
「ボクが用意していたのさ……」
すると、その男の更に後ろから、皺だらけの老人が現れる。
彼は白髪を炎の灯りで橙に染め、陰る顔でにやりと笑った。
「この数年、キミが自由にさせてくれたからねえ。用意ぐらいはするさ」
そう言って老人は視線を促す。
ちらりとその先を追えば、離れた所で大文字を撃っているサザンドラを認めた。
そのトレーナーにも、やはり見覚えは無い。
ヒビキは喉を震わせた。
まさか……ホウオウの洗脳で、人を集めたと……。
そして同時に、脳を支配する怒りの感情。
ヒビキは口を大きく開いて、声を上げた。
「無関係な人間まで、巻き込むのか!!」
この罪は自分が背負うだけで良かった筈だ。
赤の他人に背負わせて良い罪ではない筈だ。
ヒビキは怒りを顕に、彼を詰ろうとした。
しかし――。
「ああ! こっちのレオンだ」
ハッとすれば、傍らに居たククリが腰を降ろしていた。
ふとそちらを見やれば、隻眼ではないレパルダス。
見覚えの無いそのポケモンは、ククリの頬を愛おしそうに舐めている。
「人集めの最中に見かけてね……コトネが見て、サクラのレオンと同じ個体だと言ったから、捕まえておいたよ」
再度ハッとする。
老人を認めれば、彼はにやりと笑って、間違いなく自分を見ていた。
そうだ……その言葉は、ククリに経緯を説明しているのではない――再度ハッとして見渡すも、やはりコトネは居ない。やはり、人質として、上手く使い続けるつもりらしい。
「クソっ!」
ヒビキは不服を顕に、先程吹き飛ばされたウツギ博士を一瞥。
その方向へ駆け出した。
そして、傍らに立って、気付く。
先程のストーンエッジが、彼へ致命傷を負わせていた。
「博士……博士っ!」
腰を降ろして、その肩を揺さぶる。
しかし……反応は無い。
喉が震え、胸に熱いものがこみ上げてくる。
自然と身体に力が籠もり、脳がどす黒い感情に埋め尽くされていくように感じた。
衝動のままに、振り返る。
やはり、これは間違いすぎる程に間違えている。
もう、コトネが人質に取られている事等、気にしてはいけない。
修羅に身を落とすのは……間違いだった!
腰に手を掛けて、古いモンスターボールを取り上げる。
目に見える全てのポケモンを一挙に相手どっても、彼ならば――。
「良いのかい?」
すると、ヒビキの挙動を制止させる声。
老人が含んだような笑みを浮かべて、こちらを認めていた。
その手には、端末が一つ。
それを一瞥して、老人は口元に当てる。
「コトネ。ボクが死んだら、目の前の民家に居る親子と、
『はーい。了解』
スピーカーを通じて、聞こえて来る無邪気な声。
ハッとすれば、その対象が誰か、すぐに理解出来た。
コトネは……そう、報告を寄越した時と変わらず、シルバーの見張りをしているのだろう。
つまり――。
言い様の無い程、やり場の無い怒り。
ヒビキは膝を崩して、言葉も無く地面を殴った。
これ程……かつてこれ程、自分を呪った事があるだろうか。
気が付けば、全てが手遅れだった。
全てがあの老人の手の平の上だった。
何より……自分の不甲斐なさが許せない。
何処で正しい道を見逃した。
何処で修羅に身を落としてしまった。
何が……いや、全てが間違いだった……。
「まあまあ、悔いるのはそこまでにしておくれよ? キミにはもう少し働いて貰わないといけないからね」
頭上に掛かってくる声。
面を上げれば、いつの間にか目の前で佇んでいる老人。
その醜悪に歪んだ横っ面を、思い切りぶん殴ってやりたかった……。
しかし願いは叶わず、悠々と彼は肩を竦める。
今一度端末を一瞥した。
「言う事を聞いてくれなければ……分かるね?」
そして――全てが