それは一五年前のこと。
この世界にサクラの存在が出来上がったばかり。
胎内に宿す母さえもが、まだ認知していなかった頃だった。
嵐吹く渦巻き島。
気高い海の神が我を忘れて、自らがもたらした文明を破壊せんと、咆哮を上げた。
対するは、この地の英雄。
互いを半身として愛し合う、男女。
しかしその身は傷付き、従順なる僕達も、既に意識を失くしていた。
妻を庇って、落石を受ける夫。
その崩れ落ちる姿を認め、妻は絶叫した。
もう、全てを諦めようかとしたその時――。
彼女を物陰から見守る影があった。
崩落した入り口の隙間から視線を寄せて、中を覗いているのは、二人の男女。
「不味いね……あれじゃ、勝てない」
老いた男がそうごちる。
傍らに立つ女は、心配そうに彼へ視線を寄せた。
「これって……やっぱり」
彼女の問い掛けに、彼は一つ頷く。
悲しげな双眸で見返して、首を横に振った。
「……うん。
「そんな……」
女は苦虫を潰したような表情を浮かべる。
すぐにハッとして、辺りに響く地鳴りに辛うじてかき消されない程の声を上げた。
「どうにかしないと……お母さんとお父さんが死んじゃう。どうにか、助けないと」
しかし、それを相談した男は、悲しげに首を振る。
「無理だ。コトネもボクも、あのポケモンを捕獲する為のボールを持っていない。倒す為のポケモンさえ、尽きている……。助けるにしても、ホウオウをあそこに出すと大変なことになる。対してキミのレオンは未だ目が癒えていない。シャノンひとりで何とかなる相手じゃない……それは、ワカバで痛感したろ?」
「だけど! それじゃ……このまま見殺しにするの!?」
女はせがむように問い掛ける。
しかし、男は尚も首を横に振った。
その表情は見るも明らかに葛藤しているようだ。
「なら、どうするって言うんだ……。仮にホウオウを出して、
「でもっ……でもっ!」
女は身を震わせて、衝動を堪えるように身体を抱いた。
その目は揺れ、唇は震え、何か策は無いかと模索する様子を顕にする。
答えが分からない。
こんな史実は彼女の世界に無かった。
テレビでこれを見た際、もしやと思って駆けつけたが……これではまるで無意味ではないか。
このまま……このまま世界が終わる様を見届けなければいけないのだろうか?
何か、何か打つ手はないのか。
自分がここへ来た意味は、何か無いのか……。
と、そこで女はハッとした。
唐突にバッグパックを降ろして、その中を弄る。
そして、何をしていると咎める男の前に、バッと手を振り上げた。
その手には、Mの烙印が捺された紫色のボール。
全てのポケモンを捕獲出来るとされる、最高品質の貴重なボール。
「私の……私のボールがある!」
その言葉に、男は目を見開いた。
続いて動き出した女を止めようと手を差し出し、しかし老体故の愚鈍さで、その手は空を掴む。
「待ちなさい! サクラ!!」
その声の先で、彼女は僅かな穴から、ボールを投擲する。
それは決してルギア本体に当たることはなかったが……代わりに、今に立ち上がろうとしていた英雄の半身へと、辿り着いた。
そして――ルギアはコトネの手によって、捕獲された。
舞台は移る。
どこかは知れぬ、宿舎の一室だった。
そこでベッドに腰を降ろし、膝に肘を突いて手を組む男。
その向かいの椅子に腰を降ろし、テーブルへ突っ伏す女の姿。
「……幸い、コトネはボールを奇跡だと思って、ルギアはウツギ博士が封印してくれたようだ」
男がそう零す。
その傍らには、半透明な鈴があった。
それが空中に投影している映像には、丸眼鏡を掛けた老人が、紫色のボールを前に、息を吐いている姿が映し出されている。
「うん……」
女は顔だけをその映像に向け、小さく応えた。
しかし、『幸い』の言葉とは裏腹に、男の表情は暗い。
「ルギアはホウオウと同格だ。如何なマスターボールとはいえ、海鳴りの鈴が呼べば、殻を破ることなど容易いだろう」
「……うん」
そして、補足された言葉に返す女もまた、表情を暗く歪ませていた。
「ごめんなさい。……私が勝手したばっかりに」
女は目を瞑り、震えた声でそう零した。
対する男もまた、目を瞑る。
言葉は「いや……」と繋がれた。
「ああするしかなかったのも事実だ。サクラの行動は尊いよ」
男はふうと息を吐くと、天井を仰ぐ。
すうと息を吸って、ふうと吐く。
やがて彼は小さく拍手を打った。
「過ぎたことを考えても仕方が無い……それより、これからボク等がどうすべきかを、考えようじゃないか」
男はそう言って、薄く微笑んだ。
認めた女は、机に方頬を預けたまま、頷いてみせる。
「何か提案はあるかい?」
男が問う。
女はやおら身体を起こすと、天井を仰ぎながら、片手で目を覆った。
静かな深呼吸を挟んで、彼女は手を下ろす。彼へ向けて改まった。
「……私が、ポケモンを持っちゃいけないんだと思う」
そして、消えそうな声でそう言った。
男は怪訝な表情を浮かべ、小首を傾げる。
「思い当たることがあるのかい?」
すると女は首を横に振る。
確証は無いと、そう付け加えて、再度唇を開いた。
「海鳴りの鈴は、こっちのお父さんにもお母さんにも反応してない……これは私達の世界でもそうだったよね?」
「ああ、そうだね」
男は頷く。
二度三度と頷き返して、女は続けた。
「私にも反応は無かった……だけど、それは変わると思う」
「……捕獲したボールが、キミのだからね」
「うん」
女はゆっくりと立ち上がった。
そして、投影された映像を眺める。
そこには、口に手を当てて、気持ちが悪いと主張して崩れ落ちる英雄の半身。
傍らの男性が大慌てな様子で、丸眼鏡を掛けた老人が『まさか』という表情を浮かべていた。
女はその光景を認めて、目を瞑る。
再び息を吐いて、首を横に振った。
「……私がポケモンと触れ合えば、間も無くその声を聞くと思う。そしたら、漏れなくルギアの声だって聞く……でも、神に認められるような気質を持ってないのに、接触させる訳にはいかない……よね」
独り言のようにごちる女に、男は辛そうな表情で頷いた。
そして彼もやおら投影された映像を見て、苦虫を潰したような表情を浮かべた。
「さしあたっては……ボクとコトネが傍に居ると、この世界のキミの才能が目覚めるのを早めるだろうね。出来ればずっと、キミの才能は目覚めない方が良さそうだ」
「うん……
女は憂いを帯びた声でそう零した。
その顔を見て、男は目を細める。
「良いのかい? キミとメイちゃんの接点は、あそこから始まったんじゃなかったか?」
すると女は浅く頷く。
「知らなければ……無いのと一緒だよ。少なくとも私の親友は、この世界のメイちゃんじゃない。……そう、思うことにする」
「……そうかい」
消えそうな声で、男は零した。
「なら、ボク等の目的は、二つだね」
改まって、男は告げる。
女は小首を傾げた。
「二つ?」
問い質されて、彼は頷く。
「ああ、そうだ。一つはこの世界のボクとコトネを浚うこと。……もう一つは、プラズマ団の壊滅だ」
悲しげな笑顔と共に、提案。
女は僅かに目を開き、やがて頷いた。
「うん……そうだね。せめて、泥を被るぐらいは……しても良いかもしれない」
そして、舞台は再び移る。
それは、ある春の日だった。
荘厳な金色の塔の頂点で、金色の髪を風に靡かせ、女は俯く。
隣に立つ男は、コートを着込み、ハットを被り、懐かしそうに空を仰ぐ。
その傍らで、頭を垂れる霊鳥。金色の鶏冠を撫で、男は小さく唇を開いた。
「……来たね」
二人と一匹の背後へ、降り立つ一つの影。
悠然と羽ばたいて、そこへ現れたもう一匹の霊鳥。
七色の羽根を散らして、気高く鳴いた。
背から降り立つは、一組の男女。
「コラー! 来てやったわよ。目的を話しなさい!」
茶髪をおさげにした女が、甲高い声を上げた。
その横に立つ黒髪の青年が、彼女を宥めつつも、二人を睨むかのような目付きで見据えた。
「そのホウオウ……
いや、違う。
彼が認めたのは、初老の男の傍らで振り向く霊鳥だった。
ハットを片手で押さえ、男がふうと息を吐く。
隣で女が振り向く姿に合わせ、やおら振り返った。
「……は?」
「えっ……ボク?」
すると、今しがたここへ来たばかりの二人が目を丸くする。
それもその筈……男の相貌は、黒髪の青年と酷似していた。違うのは年齢。見るも明らかに、青年の倍以上の年を取っている。深い皺と、白く染まった髪が、それを如実に表していた。
「……ごめんね。コトネ。キミには少し……静かにして貰おう」
そして、老人側の霊鳥が気高く鳴いた。
ハッとした表情を浮かべ、茶髪の女性が驚愕の表情を浮かべる。
傍らで青年が声を上げて、彼女へ手を差し伸べるが……物陰から飛び込んできた別の影が、女性を浚う。
「コトネ!」
「動かないで」
女の声が青年を制す。
駆け抜けた影は、金髪の女性の傍らへ。
背に茶髪の女を背負うそのポケモンは、紫色の毛並みに黄色の模様を持っている。その顔には斜め掛けにされた皮の眼帯。しかし、手負いとは思えぬ程、悠然と改まった。
隻眼のレパルダスを従え、金髪の女は今一度唇を開く。
「手荒な真似はしたくないの。でも、
「おかあ……さん?」
青年は問い質す。
しかし女は答えることはなく、隣の男を窺った。
彼はこくりと頷き、青年へと向き直る。
「ボクの名はヒビキ……お察しの通りだ。この子はサクラだ」
男は隣の女の背を叩き、そう言った。
まさか……。見目を開き、青年は言葉を失くす。
「端的に言おう……ヒビキ、キミは娘を捨てろ。さもなくば……」
男はそう言って、手を振る。
彼の傍らの霊長が一声鳴いて、レパルダスの背に背負われて、意識を失くしている女へ向き直った。
「言わずと、分かるね?」
「……卑怯な真似をするね。ボクはそんな性悪になった覚え、無いんだけど」
青年は苦虫を潰したような表情でそう零す。
金髪の女が、一歩前に歩み出た。
「ごめんなさい……許してとは言わない。これは、他でもないこの世界のサクラの為なの」
そして――サクラの両親は奪われた。