黒いスーツ姿のサクラが居た。
あまり窮屈そうには見えない上着と、緩やかに弧を描くスカート。
それが良く似合う程、垢抜けたような雰囲気を纏っている。
双眸は今のサクラより僅かに細く、首は長い。
細身の身体に対して、少しばかり胸も自己主張しているご様子。
姿勢も彼女よりぴんとしていた。
有り体に言って、一目に明らかな程、落ち着いた姿だった。
「……黒幕登場ってやつか」
大人なサクラを認め、サキはにやりと笑う。
その言葉は確信めいたものを思わせたが、彼女は短い笑い声を上げると、首を横に振った。
「もうその争いは終わったよ」
彼女は俯き加減で首を横に振る。
その言葉は、今しがた褒め称えた少年の誤りに呆れるではなく、とても穏やかな声色だった。
微笑む様子は……まるで憑き物でも落ちたかのように、軽やかにも見える。
「よく話が見えませんが……では、何故?」
アキラが問い掛ける。
するとスーツ姿のサクラは、面を上げた。
そして、にっこりと微笑む。
「そう。
実に満足げに、彼女は頷いた。
三人へゆっくりと背を向け、後ろ手を組んで、目に見えぬ天を仰ぐ。
「もう分かってるでしょう? この争いの発端は……貴女達からすればパラレルワールドのサクラ。それで間違いない」
その言葉に、サクラは目を丸くする。
先の会議でそれらしい言葉は出ていたが、自分が関わっているとは初耳だった。
思わずサキを見てみれば……彼はサクラとアキラ、二人を一瞥してきて、溜め息を吐いた。
「思い過ごしだと思ってたんだけどな……パラレルワールドのヒビキさんが関わっているって時点で、やっぱこれは一考の余地があったらしい」
俯きながら首を横に振る少年。
アキラが訝しげな表情を浮かべて、小首を傾げた。
「何か、思い当たることがあったのですね?」
すると、少年はこくりと頷いて肯定。
彼はスーツ姿のサクラを一瞥して、肩越しに振り向いている彼女が『構わない』と言うように頷く姿を認め、改まった。
ゆっくりと深呼吸をして、吐き出す。
そして唇を開いた。
「先ず……『やり直し』。何をやり直すのかって、ずっと気になってた」
彼はそう言って、サクラへ向き直ってくる。
「それは、お前だよ。サクラ。お前の人生を書き換えようとしていたんだ」
「……私の、人生?」
サキは頷く。
そして懐を弄って、小さな白い小箱を取り出した。
それは……かつてコガネで、サクラが彼にプレゼントしたバッジケースだった。
意匠を施されていない真っ白なケースを両手で持ち、彼はそれを開く。
すると、中には五つのバッジが煌いていた。
その角度をずらして、上蓋の裏側を見せてくる。
そこには『S&S』の文字。
「お前のこれ……『SA』を纏めて、『kura』と『ki』って書いてたよな?」
問われて、頷く。
バッグを開き、同じケースを取り上げて、それをアキラにも確認させる。
サキの指摘通り、コガネで彼に見せた時と変わらぬ意匠が施されていた。
「……で、これが何ですの?」
呆れたような彼女に、サキはこくりと頷く。
彼はゆっくりとサクラに向き直ってきた。
「俺とサクラ……一つずつって、お前言ってたよな?」
そして確認される。
年齢が二つ離れていることから、一つずつ近づけたら良いなと思った。
確かにサクラはそう言った覚えがある。
事実、バッジケースに刻まれた文字の横には、矢印が刻まれている。
頷いて肯定した。
すると少年は、どこか物憂げにバッジケースへと視線を落とした。
「そう……『ki』と『ra』を一つずつ、ずらせば良いんだよ」
一つずつ……ずらす?
と、考えて、先ず浮かんだのは五十音だった。
そうすれば、すぐに覚えのある単語に辿り着く。
――えっ? これって……。
背筋を何かに撫でられたように、ゾクッとした。
思わず目を見開いて、固まる。
不意にアキラへ視線を向ければ、彼女も口元を空いた手で覆って、こちらを凝視してきていた。
少年は静かに告げる。
「そうだ。単純に一文字ずらせば、『ククリ』になるんだよ」
二人に共通している『サ』を取り除き、サキの『キ』と、サクラの『クラ』を、ちょっとしたロジックで掛け合わせる。
実に単純だった。
果たして、それは一つずつ『近付く』という意味合いからは逸れる。
五十音で言えば、『ki』は確かに近付こうとしていたが、『ra』は離れていっていた。
だから迷った。
ただの偶然かもしれないと思った。
サキはそう補足した。
しかし彼は、続いて深い溜め息を吐く。
「……けど、仮説が正解だとするなら、俺は大事なところを見落としてたんだよ」
そして、実に悲しげな視線で、サクラを認めてきた。
「もしもサクラなら……そんな細かいところより、ニュアンスを大事にするよな?」
微笑むサキ。
サクラはどんな表情をして良いかが分からず、唇を震わせた。
つまり、それは――。
「つまり……ククリは
サクラの思案を代弁するアキラ。
パラレルワールドのヒビキは老人だと聞いた。
年齢を考えれば、そうなる。
サクラもそう思った。
しかし、サキは首を横に振った。
「そこで重要になるのが『やり直し』だよ。サクラを殺してもやり直せるから構わない? もしも自分が生まれたくなかったとか、そういう理由なら、
そして、そう言った。
――確かに。
最も単純な理由として、浮かぶ事。
それは『ククリが生まれたことによって、何かしらの被害があった』というような事。
しかしその場合……ククリが生まれない世界線を創ろうと言うのなら、それはサキを殺す形でも解決する。
つまり、そういう意味合いではないということだ。
サキはふうと息を吐いて改まった。
「俺の予想だと、『やり直し』ってのは、単純にこの世界線が失敗したからってのが無難だ」
そこで少年はサクラに歩み寄って来る。
不意に身構えれば、彼はサクラの頭にぽんと手を置いてきて、実に優しく撫でられた。
そして、彼は薄く微笑む。
「どこからどこまでがパラレルワールドの史実かが分からない以上、これ以上の考察は難しかった。……だから、話せなかったんだ」
ゆっくりとアキラを振り返り、少年は「だけど」と繋ぐ。
「さっきのヒビキさんがサクラに説いたことは、我のルギアに認められる為のもの。そのルギアは、ヒビキさんもコトネさんも持っている筈が無いマスターボールに収められている……これらから確信を得た」
悠々と語るサキへ、アキラが待ったを掛ける。
マスターボールについて、どういう意味かと問い質した。
「ヒビキさんはホウオウ。コトネさんはスイクンにマスターボールを使っている。持ってる筈がねえ……普通はそうだろ?」
「し、しかし、それは不確かなことでしょう?」
真実は酷だ。だからそれ以上の考察はいけない。
まるでそう悟ったように、アキラが少年の揚げ足をとる。
しかし、彼は首を横に振った。
「考えてもみろ……なら何故『私』のルギアはサクラを受け入れた? 一〇年の時間があったとはいえ、可笑しいだろ? もしもそれが普通なら、『我』のルギアだって、いずれこいつを認めて然るべきじゃないか。そんな理屈が通用するなら、メイはNの協定なんて立ち上げてねえだろ」
「そ、それはそうですが……」
返す論を無くして、アキラは俯く。
「まあ、仮説としてでも良いんだ。ただ、この考えなら筋が通るんだ……」
サキはそう言って、サクラへ向き直ってきた。
その目は真っ直ぐ、サクラを認めてくる。
彼は僅かな微笑みを浮かべ、切なげな表情で唇を開いた。
「そのマスターボールは……サクラ、お前のだよ。正確には異世界のお前のもんだ。そして、『私』か『我』か……そのどちらかが、パラレルワールドのルギアだ」
サクラは何も言えなかった。
どうしてそうなるのかという疑問はあったが、少年の確信めいた言葉が、ただただ漠然と胸を打った。
話を戻す。
少年はそう言って、更にもの言いたそうなアキラを制した。
「つまり……俺の考えが間違っていなければ、ククリはこいつ……サクラ自身だ」
どういう顔をして良いかが分からない。
そんなサクラの頭を撫でて、少年は微笑む。
「ククリ……多分、産めなかったんだろうな。俺もきっと、死んだんだろう……俺が生きてたら、そんな安直なネーミングはしないだろうし……なんつってな」
そして――彼はやおら振り返る。
その先には、事態を静観していたスーツ姿のサクラ。
「つまり、目的は娘の生存。……違うか?」
少年は問いかけた。
彼の予想には大きな矛盾が存在する。
老人であるヒビキとククリの年齢差。
そして、ククリがサクラであるとするのなら、私と我のルギアが混同している事実が可笑しい。少なくともホウオウは二匹存在している。
だが、それだけだ。
それらの矛盾は、『時』と『パラレルワールド』という要素で片付く。
元々それらは、人智を超えた概念なのだから……。
少年に倣ってスーツ姿の自分を認めたサクラは、彼女が頷くのを確かに認めた。
「流石だね。ほぼ一〇〇パーセントの正解だよ」
そして、彼女はゆっくりと語り始めた。
パラレルワールドの世界で何が起きたかを――悲劇のその先、この世界で起きたことを。