紺と肌色の体毛がちりちりと音を立てて揺れる。
周囲の景色がゆらゆらと歪み、如何にその身体が高温を放っているかと知らしめるようだった。
首からは襟のように炎を吹き上げ、低く唸り声を上げるそのポケモンは、バクフーン。
向かい立つ父の相棒として、象徴として、彼は両の拳を握って、天へ向けて極太の火炎を吐き出した。
両側と向かいの泉を壁で遮られ、背後には岩壁。
密閉されたこの空間に、その火炎は熱を余すことなく伝えるようだった。
そこそこに大きな体躯を誇るロロでさえ、ゆとりを持って動けそうなこの空間。
それでもサクラは、身に纏う衣服を脱ぎ捨てたくなる程の熱気を感じた。
『うへぇ……なんつう温度だよ。あれ』
強敵を前に、うんざりしたような表情で、レオン。
身構えてこそいるが、緊張感の無い一言は、頼り甲斐があると思えば良いのか、躾けが成っていないと反省すべきか……と、思えば、余裕綽々と言わんばかりにルーシーが両手に当たる葉を肩の高さに上げて、首を横に振る。
『ほんとほんと。暑いのは苦手なのよ。ロロ、冷凍ビーム撃って頂戴』
『へ? あ、あの……いいの? 敵の前だけど』
ロロがうろたえて、サクラを窺ってくる。
良い訳が無い。
おそらく肩の力を抜こうというつもりなのだろうが、あまりの緊張感の無さに、さしものサクラとて呆れてしまう。そういえば母と相対した時も、緊張感の無いやりとりをしたか……と、思い起こし、サクラは溜め息混じりに肩を落とした。
「もう、皆真面目に――」
『サクラさん!』
叫ぶリンディーの声でハッとする。
即座に正面へ改まれば、先程まで向かいの端に居た筈のバクフーンが、片手を振り上げながら迫ってきていた。その速さたるや、レオンをも上回らんという程。ほんの僅かな隙を突いて、四匹が成す陣の中央を突破せん勢いだった。
狙いは確かに――サクラ一人。
『待……てコラァ!』
響くのはレオンの声。
その白い体躯は、彼を上回っているのではないかと思わせた速度へ、あっさりと追いついた。
サクラの目前に至るより早く、ぶんと振られた白い尾が、バクフーンの腕に絡まる。
スッと細まった双眸が、視線だけでレオンを認めた。
その視線を睨み返し、彼は小さく鳴き声を上げる。
チラチーノの尾は化粧油のコーティングが災いして、拘束には不向きだ。それを一番知っている筈の彼は、気合を込めるような声と共に、すかさず残り三本の尾を振り上げた。
そして、鍛え抜かれたスイープビンタが炸裂する。……が、自信満々に振り下ろされた尾は、顔面を捉えて尚、彼に苦悶の声一つ上げさせることは無い。
その代わりと言わんばかりに素早く制止し、ゆっくりと彼へ顔を向き直らせるバクフーン。
その目は、何の感情さえも持たないよう。ただただ腕に絡まる煩わしいものを見て、瞳孔を広げていった。
ハッとしてサクラは悟った。
間髪入れずに大口を開く。
「レオン! 避けて!」
叫ぶような指示と、バクフーンの口腔が開いたのは同時。
僅かに息を吸う音が聞こえたかと思えば、次の瞬間には真白にさえ見える灼熱が放たれていた。
ぶわりと熱風が吹いたかと思えば、轟と唸るような音と共に、サクラの視界が緋色に染まる。色が視界に焼き付くような光量だった。
『レオちゃん!』
『リンくん!』
腕ごと広範囲を焼き払うようなその炎は一瞬。
しかし、その一瞬の間に壮絶な被害をもたらした。
狙われたレオンは言わずもがな、その方向に居たリンディーさえも巻き込まん勢い。
一瞬の内に彼等の姿は掻き消え、大地の焦げ跡が白い煙を上げていた。
が、認めたサクラは確かな違和感を覚える。
揺らめく煙が上へ昇る光景が凄まじく速く見え、代わりに先程はあんなに俊敏だったバクフーンの動きが、今尚こちらへ改まってこない程、鈍い。
とすれば、目の前に着地する紫色の体躯。
その口にレオンを咥え、こちらをちらりと振り向いてきた。
『サクラさん。ごめんなさい。指示無くトリックルームを使いました。流石に光の壁じゃ防げそうにないです』
悠々と語るリンディー。
吐き捨てるようにレオンを降ろせば、彼は身体をぶるりと震わせて、ふうと息を吐いた。
レオンは目をパチパチと瞬かせ、サクラを見つめてくる。
『……し、死ぬかと思った』
「あ……ありがとう。レオン。リンちゃん」
今の一瞬の内に、レオンが居なければサクラが殺され、リンディーが居なければレオンが殺されていた。
目に見える違和感は、体感速度を狂わせる空間――トリックルームがその正体。それがあるからこそ、追撃もされていない。ということは……。
そう思案すると共に、改めてサクラはバクフーンから距離を置こうと駆け出す。
その間にルーシーとロロに視線を向けた。
――ごめんね。
そう心に抱きつつも、後方のバクフーンを指差し、唇を開く。
「ロロ、水の波動! ルーちゃんは宿り木の種!」
そして、ちらりとヒビキを認める。
彼はこちらを見ていた。
その相貌には真っ直ぐ挑むような視線……いや、挑んで来いと言っている。まるで、サクラの指示を予期しているように――。
ロロとルーシーの応答を聞かぬ内に、サクラはヒビキを指差した。
「レオン! お父さんを!」
そして、禁忌を破る。
一目見て分かった。
一合交わして確信した。
あのバクフーンは倒せない。
レオンの鍛えられた尾の連撃でびくともせず、トリックルームで愚鈍過ぎる程に愚鈍になった。それはつまり……こちらの攻撃は殆んど通用せず、速さにおいてレオンが追いついたのも、彼が最高速を出していなかったからだ。
トリックルームが切れた瞬間、次を仕掛ける前に全滅しても、可笑しくはない。
流石は父の相棒。
コガネでコトネに言われたことだが、やはり敵う筈が無かった。
この場に居るのがサクラ一人なら、それで良い。
禁忌を破るくらいなら素直に殺されよう。しかし、愛すべき家族が居る。愛すべき人が居る。愛すべき友が居る。今、ここでバクフーンを暴れさせる訳にはいかない。
指針となる父を倒し、隙を突いて何とかするしかない。
が――やはりそれは、ヒビキの予想の範疇だったらしい。
彼は帽子の鍔を掴み、顔を伏せてにやりと笑う。
「甘いよサクラ。やるならその子だけじゃなくて、全員を向けてくるべきだ」
そして、そう言った。
その帽子が落とす影に、僅かに見える瞳。
ハッとして視線を辿れば、それはサクラの背後へ――。
『キャァッ!』
『ルー様!?』
短い悲鳴を上げて、宙を舞う緑色の体躯。
その顔に映る、一瞬ばかりの苦悶の表情。交差させた二枚の葉には、痛々しい黒い傷痕。
受け止めたルーシーの身体と、彼女を殴り飛ばしたバクフーンの左手から、
それは幾多の方向へ屈折し、バチバチと音を立てる。
一目に雷パンチだと分かった。
ルーシーに庇われたらしいロロが、悲鳴を上げた。
『いや、ルー様ぁぁ!!』
トリックルームはまだ切れていない。
現にルーシーの身体から迸る電気は、ダメージの一瞬を過ぎて尚、目に見えている。
なのに、バクフーンが止まっていない。
先程は確かに愚鈍になっていた筈なのに、この僅かな時間で、距離を置いていた筈の二匹を追い詰めていた。
宙を舞うルーシーは、今に意識を手放そうとしている。
相性が幸いして、致命傷ではなさそうだが、それでも瀕死寸前のダメージを負っていた。
そんな無防備な彼女が、追撃されない筈は無かった。
バクフーンの口腔が開かれる。
その中から漏れる空気が、景色を歪ませる程の熱を放つ。
『やめて、やめてぇぇ!!』
狙いがルーシーだと悟ったらしいロロが、我を忘れた様子で飛び出す。
その身体からはアクアリングを放っているが……一目に分かる。あんな些細な水技では、蒸発させられてしまいだ。役に立たない。
が、それと同時に飛び出したのが紫色の影。
『間に、合えっ!!』
リンディーはそう言って、二匹の前で身を翻していた。
認めている一瞬一瞬があまりに早くて、サクラは悲鳴さえ上げる暇が無い。
漸く喉が震えたかと思えば、バクフーンが灼熱を放ったのと、全く同じタイミングだった。
「ルーちゃん! ロロ! リンちゃん!」
悲鳴さえ焼き尽くすかのように、炎が轟と唸った。
天へ突き抜けるようなそれは、三匹の影を確かに呑み込んだ。