臆すな。挫けるな。今一度活目なさい。
光の届かぬ水底。
深遠の果てにある神殿はしかし、高貴な光を放つ。
それは物理法則を無視して存在する滝や泉の色を受け、青白く染まっていた。
その淡く気高い青を受けて、この神殿の主は轟と唸った。
相対する宿敵へ、空気を圧縮したブレスを放つ。
対する天の神は、七色にも見える獄炎を展開。それを撒き散らすかのようにして、空気を焼き尽くした。
海の神はフレームに覆われた双眸をカッと開く。
飛び散った火の粉が、泉の直上から出ぬ内に、壁のようなものに触れて消えた。
『随分と執心な様子ぞ』
その様子を見た天の神が、嘲笑うように言った。
海の神はふんと一笑。揶揄されて尚、誇るように胸を張った。
『貴様も主は大切だろう? あれへ手出しは無用。私と貴様、あくまでもこの争いに必要なのはそれだけだ』
そしてそう言った。
天の神は七色の羽を羽ばたかせる。そして嘴を大きく開いて、空を仰ぐように頭を振った。
『くはは。愉快也。主同士の戦において、我が手出す必要等あろうか』
天の神は笑う。
しかし、と、首を横に振って、改まった。
『否、我の火の粉等、主を害するにさえ、値せず』
それはつまり、あの火の粉を払わねばならない程の人間ならば、この神の主には遠く及ぶことはない……という、挑発だった。
その挑発をふんと一笑に伏し、海の神は気にする様子も無い。
『ならば焼いてみろ。私の主を消し炭に変える時は、私が貴様に滅された時だ!』
そして、再度真白のブレスを放った。
※
さて、どうしたものか……。
桃色の髪を靡かせ、アキラはふうと息を吐く。
少女が相対するは、鋭い牙を持ち、雷雲を背負っているような姿の雷の化身。
黄色い体躯をぶるりと震わせて唸り声を上げる様は、これ見よがしな威圧感を放っている。
展開しているのは三匹のポケモン。
無表情を貫き、羽ばたきさえなく浮遊しているトゲキッス。
格闘ポケモンがやるような構えをして、丸い双眸を僅かに吊り上げているプクリン。
そして、肩で息をするように、立っているだけで苦痛の表情を浮かべるクチート。
多勢に無勢とは些か不名誉だが、相手は神の使いとさえ言えるポケモン。
それに、アキラの手持ちでエースと呼べるウィルが、先のメガ進化の弊害で既に満身創痍……多少の無礼は見逃して貰いたいものだ。
アキラは目を凝らし、向かい立つライコウの体躯を観察する。
あれがどういうポケモンかは伝記で読んだぐらいしか知らない……が、強靭な四本足に加えて、伝記で横に並び立つ他の二体と比べてどこか華奢っぽさが窺えた。つまり、速さを警戒せねばならない。
加えて、『ライコウ』の名の通り、電気タイプだった筈だ。
飛行タイプを持つトゲキッスがそれを食らえば、一撃で墜ちることも危惧しておかなければならない。
幸いトゲキッスは物理技より、特殊技の方が得意だ。彼には後方支援をさせるべきだろう。
ならば接近戦は……と、考えるが、先の戦闘で消耗しているウィルにそれを求めるのは酷だ。相性的には良くも悪くも無いが、装甲が厚い訳ではない。今の状態であれ程の猛者から攻撃されて、無事にやり過ごせる筈は無いだろう。彼女の取り得である高速戦闘も、あのポケモンが見た目通りの速さを発揮した場合、消耗している状態では対処しきれない筈……。
良し。
アキラは一つ頷いた。
「プクリン。肉壁をなさい」
「プクッ!? プックー!」
端的且つ、些か酷い指示が下された。
が、それを受けたプクリンは、アキラを一度振り返ってくると、『本当!? 良いの!?』とでも言わんばかりに、目を輝かせる。最早そこに先程身構えていた時の凛々しさは皆無。一瞬の内に涎まで垂らしていた。
その様は、どう見てもマゾヒストのそれ。
「ほら、突っ込みなさい?」
そして、アキラはにやりと笑って、そう言った。
すると、プクリンは唐突に猛ダッシュを開始する。
主の投げやりな指示に対し、策があるのかと疑う様子さえなく――むしろ策があろうとなかろうと構わない様子で――、捨て身の勢いで突っ込んだ。
そして激突……は、当然ながらしない。
身を翻したライコウは軽々とプクリンの捨て身タックルを回避し、彼女へ反撃の一〇万ボルトをお見舞いした。
「プキュゥゥゥゥウウウウウ!!」
悲鳴なのか、嬌声なのか、判断しかねる絶叫が響いた。
金色の電撃を浴びて骨まで透けているプクリンを、茫然と見詰めるウィルとトゲキッス。
二匹の表情は、どこか遠いものを見ているようだった。冷めた視線で、何も語らずに成り行きを見守った。
プクリンの攻撃に対するライコウの対処を参考に……等と、高尚な要素は何一つ無い。二匹はただただ彼女の性癖を、自分達はああはなるまいとして、見続けているようだった。
が、何もそれはアキラまでそうである筈がない。
彼女はにやりと笑うと、「今よ!」と、指を差して指示を出した。
「金縛りなさい!」
同時に、黒煙を上げてふらふらと千鳥足をするプクリンが、再度目を開く。
その眼光は、彼女から距離をおいて、泉の淵に佇むライコウを確かに捉えた。
瞬間、ライコウはハッとした様子で見目を開く。
懐疑的に自分の体躯を一瞥し、一瞬ばかり忘却させられた技を、思い出そうとしているようだった。
「ウィル!」
アキラはクチートを呼びつけ、彼女に岩壁の一角を指差して、殴らせる。
少しばかり疑問を抱いたような様子を見せる彼女だったが、指示を遂行。が、辺りの壁は強固。傷一つ入った様子さえ無い。
アキラは良しと頷いた。
視界の先で認める海と天の神の応酬。
その激しさからも感じたことだが、どうやらこの空間はかなり頑丈に整えられている。……ならば、やる事は決まった。
「トゲちゃん! プクリン! ハイパーボイス!!」
そして叫ぶ。
次いで、彼女は耳飾りを顕にして、ウィルへ視線を送った。
――宜しいですわね?
そんな風に視線で問い掛けると、こちらを認めたウィルはにやりと微笑む。
当然だ。
まるでそう言うかのように、アキラの指示さえ無く、胸に掛けた紫色の宝石が煌いた。
そこで、トゲキッスとプクリンの絶叫。
それは強固な岩壁と不可視の壁で囲われたこの空間……アキラの聴覚さえもを破壊せん勢いで響き渡る。
と同時に、ウィルの小さな体躯は光に包まれた。
「グァァオオオオ!!」
一瞬ばかりの光。
それが殻を割れば、中からはメガクチートの姿。
しかし、その表情にはいつもの彼女が持っている飄々とした雰囲気は皆無。
双眸をこれ以上無く大きく見開き、口角と二本の角から真白の涎を吐き出している。その手足はガクガクと震え、絶叫するなり彼女は、前へ倒れこんだ。
アキラは彼女に駆け寄る。
その脇を支え、苦痛を顕にする相棒の姿に、悲痛な表情を浮かべた。
「……ごめんなさい。ウィル。でも、貴女が死ぬ時は、わたしの死ぬ時よ」
「グォァァアアアアア!」
高らかな咆哮。
アキラの静かな激励に、その目はしかと開き直される。
真っ赤に染まった瞳を覆う白い目は、赤く充血。まるで眼球そのものが深紅に染まったような様だった。
しかし、その瞳は確かにアキラを見返してくる。
そして、一度、浅く頷いた。
それで十分。
それだけで十分過ぎた。
アキラは再度ライコウへ視線を向ける。
如何な二匹がかりのハイパーボイスとて、それだけであの化身を倒すには及ばない。
光を反射する壁を展開して、凌ぎきった様子だった。
それを認め、プクリンを一瞥。
未だ身体から黒煙が上がっているが、表情は愉悦そのもの。
流石はマゾヒスト過ぎて、姉が手に負えないと言っていたポケモンだ。体力と気力だけは尋常じゃない。
おあつらえ向きだ。
アキラはウィルの肩を担ぎながら、余った手で指示を飛ばした。
「プクリン! 冷凍ビームを天井に撃ちなさい!」
プクリンは即座に反応する。
大変に変態的な性癖を持っていようと、指示には従順。すぐに天井へ向けて青白い光線を放った。
その時、ライコウが轟と唸る。
バチバチと身体から放電し、一〇万ボルトではない電気技を撃とうとしていた。
ハッとしたアキラは返す手でトゲキッスを指差す。
「トゲちゃん! 凍ったところに大文字! 急いで!!」
即座に呼応するトゲキッス。
今、正に氷塊と化した天井に、真っ赤な炎を吐き出した。
凍り付いた矢先に、溶かされる氷塊。
溶けるなり、じゅうと音を立てて、真白の煙になる。
「プクリン! もう一発受けて! 飛び跳ねる!!」
非情な指示に、しかし返って来る鳴き声は狂喜乱舞と言わんばかり。
どんと来いと言わんばかりに、彼女はアキラが指を差した先……真白の煙へと、突っ込んだ。
そこで、ライコウの雷が炸裂する。
心臓にダイレクトに衝撃を与えてくるような爆音と共に、その雷は最も高い位置にいるプクリンへと吸い寄せられた。しかし、そこにはたった今作られたばかりの水蒸気。
「トゲちゃん! 追い風!!」
そこへ、トゲキッスが羽を強く羽ばたかせる。
まるで水蒸気をライコウへ向けて押し付けるように。
いや、言わずとも分かる。トゲキッスは決死の形相になって羽ばたいていた。
その追い風はこれから起こる事を予期して、アキラ自身の保身でもあった。何が起こるかを察して尚、プクリン一匹に被害を負わせるのは酷だが……彼女なら耐えられる。その確信は同じ時を何年も過ごしてきた者だからこそ、持てるものだ。
そして、轟音と共に、凄まじい衝撃が一同を襲った。
ライコウの雷が水蒸気に引火し、プクリンを中心として大爆発を引き起こした。
「ウィル! ステルスロック!!」
追い風を割って吹き付けてくる熱風。
如何に対抗策を実行していたとて、完全に遮断しきれる衝撃ではなかった。しかし、確かに軽減はされている。爆風はプクリンと共に、ライコウを向かいの壁へ叩き付ける。それを見送った矢先に視界を遮った黒煙とて、アキラを巻き込むことは無かった。
無論、それだけでアキラが無事に済む筈が無い。
続く指示を出す最中、アキラの正面には黒煙に巻き込まれるトゲキッスの姿。彼は、寡黙ながらも主を一途に想うポケモンだった。言わずと、彼女を庇ってくれたのだ。
そして、即座に動けるポケモンが居なくなった。
そんな絶対的な好機。
アキラの手持ちで唯一無二な絶対的決定力を誇るメガクチートが動くとすれば、今――。
「グォァアアアア!!」
今一度高らかな咆哮。
アキラから離れ、ずいと前へ出ると、顎に変形した角が口腔を開く。それが前方を薙ぐように一振りされれば、そこら中から鉱物がぶつかるような音を聞く。
が、そこでウィルが片膝を付いた。
「ウィル……」
虚ろな表情。傍目にも明らかに、力が抜けていく姿。
ふとすればそのまま意識を無くしそうな程、見るも明らかに意識が朦朧としているようだった。
アキラは表情を強張らせる。
僅かに目を細めつつも、一歩踏み出してスッと息を吸い込んだ。
「臆すなっ! 挫けるなっ! 今一度活目なさいっ! 貴女は、わたしの――」
叱咤激励を受け、その体躯が動く。
膝が上がり、くわっと開かれた双眸がアキラを真っ直ぐ見返してきた。
「相棒でしょうっ!?」
「グォォォオオオオ!!」
そして、絶叫。
瞬間、その姿はかき消えるかのように動いた。
黒煙を薙ぎ払い、風を切って進む。
その体躯は先程までの苦痛を忘れたかのように俊敏且つ、淀み無い。
やがて正面にライコウを捉える。
その気高い顔へ向け、鋼鉄の顎を振り下ろす。
が、それは当たらない。あまりに速い回避だった。
しかし、直後に短い悲鳴が上がる。
ウィルがその声へ視線をずらせば、すぐ近くでライコウが膝を折っていた。そのしなやかな前足に、黒煙に紛れて飛ばされていたステルスロックが突き刺さっている。その俊足は、完全に潰れていた。
「ぶちかましなさい!!」
そして、最後の指示。
轟と唸るような声を上げ、ウィルは頭を振るう。
咄嗟にライコウが放電をしようとするが――その目が驚愕に揺れる。
そう、一〇万ボルトは金縛りによって、封じられている!
黒煙を巻き上げながら、その額へ打ち下ろされる鋼鉄の顎。
それは確かな決まり手。
食らったライコウの後ろ足が跳ね上がる程、容赦無き一撃。
「グォァァアアアア!!」
雷の化身を地に沈め、ウィルは今一度咆哮を上げた。
そして、不可視の壁が崩れる。