天を渡るは海の音   作:ちゃちゃ2580

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I`m home.

 

 頭上で瞬く緋色が、一度、二度、と脈を打つ。

 すると、朧気だった感覚が、蘇ってくるかのよう。

 目の前の色彩が一転し、天へ伸ばした自分の手を確かに認めた。

 

 そこで、確かに見る。

 

 緋色を割って、こちらへ伸ばされている幼子の手。

 それはとても大きく、私の身の丈を遥かに超えるような……霊的な何かだった。

 

 不意に気がついた。

 

――ああ、長い夢を見ていたんだ。

 

 だけど、その夢は確かに現実。

 それを受け止められなかった私が、勝手に夢と決め付けた現実。

 

 私はゆっくりと手を伸ばす。

 

――でも、その夢も、もう……終わり。

 

 随分と遠く、随分と高く見える幼子の手。

 手を伸ばしたぐらいじゃ決して届きそうになかったけれど、私の手はやがて……その手に触れた。

 

『忘れないで、ママ』

 

 そして、確かに聞く。

 愛しい愛しい声を。

 求め続けたその声を。

 

「忘れる訳無いじゃない。ククリ」

 

 私はそう零して、微笑んだ。

 いつの間にか小さくなったその手を確かに掴み、引き寄せる。

 思いのままに、形さえ不確かな我が子を……抱き締めた。

 

 すると、空の緋色が光る。

 一度、二度、大きく脈を打てば、ぱんと音を立てて爆ぜた。

 

 そして――夢が覚めた。

 

 

「ありがと、お母さん。もう、いいよ」

 

 

 全てを理解して、私は微笑んだ。

 ゆっくりと目を開けば、今まで眠っていたというのに、視界は鮮明。

 かつてこれ程、寝覚めが良かった時があるだろうか……そんな事を思いながら、わたしはこちらを振り向いてくる懐かしい母親の姿を、視界の正面に認めた。

 

 大粒の涙を流し、ぐしゃぐしゃに顔を歪ませている母親の姿。

 その相貌は私が覚えているよりはずっと若く、私ではない私がよく見知った姿。

 

 この世界の、お母さん。

 

 どうして彼女が泣いているかも、分かる。

 その辛そうな表情。言葉に詰まるような仕草。

 その全てが、私の身を案じてのこと。

 今しがた触れた手を介して、全て教えて貰った。

 

 私が何をしてきたか。

 何をさせられてきたか。

 

 何を、すべきなのか。

 

 私はゆっくりと唇を開いた。

 

「沢山、悪い事をした私を……こんなにも想ってくれて、ありがとう」

 

 手を伸ばす。

 その手がお母さんの頬に触れれば、血で真っ赤に染まった細い腕でその手を掴まれる。

 血を流しすぎた手は、温度こそ感じない。だけど、凄惨な見た目とは裏腹に、とても力強く……まるでありったけの想いを伝えてくるかのように、しっかりと握られた。

 首は横に。

 何度も何度も振られる。

 

「あんたは、悪くない。何も悪くないじゃん!」

 

 そして、そう言った。

 私は思わず、苦笑して返す。

 

「……もう、聞き分け悪いなぁ……そういうとこ、私ってお母さんの子供なんだと思えるよ」

 

 ゆっくりと零す。

 自然と私の視界も滲み、目尻から一つ、二つと、雫が溢れた。

 

 こんなにも愛情をくれる。

 そんな母親に恵まれたことは誇り。

 そして、形はどうあれ、それを継いだ私自身も、誇りだ。

 

 やった事は決して許されざる行為。

 自分でも万死に値すると思う。

 だけど、その理念はやはり、間違ってはいなかった。

 ただただ、方法を間違えた。

 

 お父さんも、きっと……そうだ。

 

『……ママ、時間がないよ』

『サクラ、そろそろ……』

 

 そして、ククリと私の実の母がそう言った。

 こくりと頷き、お母さんが握ってくる手を、優しく解く。

 力強く感じたその手は、あまりに弱々しく……簡単に剥がれた。

 

 ゆっくりと身体を起こす。

 すると、いよいよその時だと悟ったらしい。

 痛む身体を引き摺りながら、お母さんが縋りついてきた。

 

「待って、待ちなさいよ!」

 

 その華奢な身体を見下ろし、私は胸が締め付けられるような痛みを覚える。

 だけど……分かっている。

 この優しさは、私に与えられるべきじゃないんだ。

 

 でも、でも――。

 

 今一度腰を降ろして、ゆっくりとお母さんの肩を抱き締める。

 

「色々迷惑掛けて……ほんと、取り返しのつかないことまでさせてしまって……ごめんなさい」

 

 その小さな身体を、震える身体を、優しく抱き続ける。

 仄かに香る懐かしいお母さんの匂いを嗅いで、上気した温かみを確かに感じて、どこか遠い昔を思い起こす。

 

 とすれば、不意にお母さんの服のポケットに、黄色いポケモンのキーホルダーを認めた。

 

「こんな私だけど……」

 

 零しながら、そのキーホルダーを勝手に取り上げる。

 それが何を意味するかは、きっとこっちのサクラと私、同じなんだろう。

 

 いつだったか。

 遠い昔のように思える。

 

 旅先で駄々をこねた私が、どうしてもとせがんで観に行った映画。

 サクラはどうか知れないけれど、私にとっては、トレーナーを目指す切っ掛けだったとさえ思っている。

 その、主人公の相棒。

 強く、気高い、小さな電気ネズミ。

 

 レオンのキーホルダー。

 

 私はそれを、お母さんの手に、確かに握らせた。

 そして万感の思いを込めて、微笑んだ。

 

 

「こっちのサクラの幸せを、願ってる。ずっと、ずっと――」

 

 

 そして、立ち上がる。

 後ろを振り向けば、見知ったお母さんの姿と、まだ見ぬ幼子の姿。

 その二人に挟まれて、セレビィは退屈しているように、欠伸をしていた。

 

『行こう……あんたのポケモン達も、迎えに行かなきゃ』

 

 と、お母さんが零す。

 私はうんと頷いて返した。

 

『あとは……あの子も迎えに行かなきゃ』

 

 幼子が零す。

 その声色は切なげで、出来ればやりたくないと言わんばかりだった。

 やはり私は、うんと頷いて返す。

 

 不意に、服の端が掴まれた。

 

「サクラ、サクラぁ……っ」

 

 後ろで聞こえる声に、熱い吐息をふうと一つ吐く。

 ほんと、泣き虫なんだから……。

 

 そう思いながら、わたしは声を漏らす。

 

「皆に、ごめんなさいって伝えておいて……」

 

 振り向きはしない。

 もう、振り向く必要は無い。

 

 

「大好きだよ。お母さん。沢山ごめんなさいと……ありがとう」

 

 

 一歩、前へ踏み出した。

 服を掴む手が離れ、絶叫するような悲鳴が上がった。

 

 頃合を見計らったように、ずっと待ってくれていたセレビィが、ひらりと舞って、こちらに寄って来る。

 その小さな体躯を胸に受け入れた。

 

 あの時は死なせてしまった命。

 やはり今でも、命の鼓動は感じない。

 

 時は止まったまま。

 動かない。

 

 だけど確かに感じた。

 懐かしい匂い。

 沢山の人達の声。

 

 ああ、みんな……。

 ここに居たんだね。

 

 

 ウツギ博士。

 助手さん。

 シルバーさん。

 メイちゃん。

 お父さん。

 お母さん。

 

 ホウオウ。

 

 ルーシー。

 ロロ。

 リンディー。

 ラヴィ。

 

 サキ。

 

 ククリ。

 

 

――ただいま。


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