天を渡るは海の音   作:ちゃちゃ2580

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Incensed.

 

 何時ともなく。

 何処からともなく。

 

 雪が降り始めていた。

 

 それは決して大粒ではない。この頂の頂上の白い冠を、更に厚くさせるものではないだろう。だが、それを降らす雲によって塞がれた陽光――曇天の下というこの現状は、心を覆う闇を、厚くさせるものだったのかもしれない。

 しんしんと。

 雪は降る。

 決して視界を妨げるような吹雪ではないにしろ、見えていた筈の何かが徐々に失われていく。そんな感覚を、コトネは頭の片隅で感じていた。……いや、それすらも、見えなくなっていった。

 

 怒りとは。

 どういう感情なのだろう。

 何故、抱く感情なのだろう。

 

 その意義は?

 目的は?

 

 子供を躾けるのだって、怒るではなく叱れと、昔読んだ実用書に書いてあった。他人に自分の想いを伝えたいのなら、尚の事冷静であれと、そう言われた事もある。つまり……正しい行いではないのかもしれない。

 しかし何が正しい事なのかと考えれば、この現状において、それは分からない。

 何が、どういう風に、誰にとって、正しいんだ?

 子供を奪われるかもしれないという時に、のほほんと話しこめるような気概が、本当に正しいのか?

 この状況で怒る事が正しくないと言うのなら、何故人は、ポケモンは、怒りという感情を持っているんだ。

 

 道徳的に正しくないのなら……何を正義だと思って、自分は怒りに身を任せているんだ?

 

 これは哲学?

 それとも自己分析?

 はたまた自己満足?

 

 ああ……そうだ。

 

 怒りとは、自己満足なのかもしれない。

 自慰行為と呼ばれるものに近い、自己顕示欲の表れなのかもしれない。

 

――理解してくれ。

 

 わたしはそう思っているのだろう。

 

 誰に対してかは、分からないが。

 

 

「スイクン。絶対零度!」

 

 コトネの指示が空に響く。

 それが二度目の反響をするよりも早く、他者に絶望を撒き散らすだろう寒波が、その地へ訪れようとした。

 

「コトネ! 落ち着け!!」

 

 赤髪の男が悲痛な叫び声を上げる。

 しかしそれはコトネに届く事は――いや、理解する事は無く。

 

 コトネの指示が二度目の反響をした頃になって、スイクンの気高い鳴き声と共に、青白く可視化する程の冷気が白銀の冠へと降り注いだ。それが一撃必殺技――絶対零度の、発動した瞬間だった。

 

「ふふ。そんなの、当たると思う?」

 

 コトネに相対する女性は、そんな状況でも不敵に笑う。

 その直後。まるで高台から水を流したかのように、冷気のカーテンが二人の視界から彼女の姿をかき消した。

 

「熱湯であいつの足下を溶かせ!」

 

 視界から消え去ったククリの姿。

 しかしそれでも尚、コトネの指示は休まらない。激昂している彼女だが、それでも先程見たククリのポケモンの実力の片鱗をしかと鑑みる。命中率の悪い絶対零度なんて技で決着すること等、端から期待していない。むしろ、あのレパルダスには効く事すら無いだろうと、分かっていた。

 それでもあの技を放ったのは――スイクンが放つ熱湯が、先程までククリが居た場所を的確に狙う。そこにあった雪を溶かし、視界を遮る程の冷気のカーテンの先に、蒸気を上げさせた。

 

 あくまでも狙いは一方的な視界の消失。

 あの一撃必殺技に、それ以上の価値は無い。

 

 重要なのはここからだ。

 

 コトネは叫ぶ。

 

「空気の流れで位置を読んで、的を絞りなさい!」

 

 あくまでも指示そのものは冷静だった。

 激昂しているのは、おそらく他者から見ても一目瞭然だろうに、それでもコトネの指示は抜群の精度を誇る。

 

「コトネッ!!」

 

 ただ――隣に立つ親友の声が、聞こえない(理解出来ない)だけだった。

 

 状況が動く。

 シルバーの絶叫を他所にして、コトネの指示はやはり超常的な才能を遺憾なく発揮する。

 

 もしかすると、今のコトネは全盛期のヒビキさえも凌駕していたのかもしれない。

 

 風起こしで敵勢を冷気と蒸気の中に閉じ込め続け、ククリが出していた二匹の猫型ポケモンの索敵の指針になるだろう匂いを断つ。更にその渦中へオーロラビームを撃ちこみ、オーロラ特有の電磁場によって、猫が感じる微弱な電流をもジャック。第六感さえも混乱の中へ落とす。

 直接的な攻撃は、霧と化している冷気の中へ再度の熱湯。それによって中で気圧が激変し、人の身には絶望的な状況を生み出すだろう。トレーナーさえいなくなれば、後は簡単だ。さしものあのレパルダスとて、トレーナー不在で毅然としていられる筈はないだろう。

 

 まるで圧倒的。

 竜巻にさえ見える風起こしの中、今も尚あのククリという女が、挑発的な醜悪さを維持していられる筈はない。

 隣に立つシルバーは、もう何の声を上げる事さえなかった。

 

 絶句。

 

 それがコトネの本領に対する、彼の評価だったのだろう。

 

――しかし、何時ともなくコトネは改まった。

 

「スイクン。ハイドロポンプ」

 

 振り返る事もなく、後ろに指を差して、コトネは呟くようにそう指示を出す。

 即座に呼応する湖の化身は、しなやかな体躯を翻すと同時に、高圧の水砲を発射。

 

「きゃっ!」

 

 すると――その着弾地点辺りで、小さな悲鳴。

 

 その頃になって、コトネはゆっくりと振り返った。

 倣ったように、シルバーも振り向く。

 

 その視界の先には――瓦礫の上で片膝を着く茶色の髪をした女性。そして二匹の猫型ポケモン。

 

 姿を認め、コトネは舌打ちをひとつ。

 

「……やっぱあのレパルダスか」

 

 そしてそう呟いた。

 

 ククリを寸でのところで庇ったらしい隻眼のレパルダス。その活躍によって、意表を突きに来た彼女を逆に不意打った筈の水砲は、全く以って成果を上げなかった。前足一本振り払っただけだと言わんばかりの名残を見せ、それによって水砲は女性の服を濡らしただけに留まっている。

 おそらくあのレパルダスにダメージは入っているのだろうが……バトルに差し支える程のそれを与えられたのかと言えば、到底そうは見えない。

 

 あくまでも戦闘においてコトネは冷静だ。

 絶対的な戦略で仕留めたと油断する事さえなく、敵が回避していた前提で、『同じ轍を踏まない場所』として、先程マニューラが崩した瓦礫に陣を置く事を予想。そこへ更なる攻勢を仕掛ける程の、狡猾さも残していた。

 

 だが……それでも倒れない。

 

「……ほんと、流石お母さんだよ。……生きていた頃に戦った時は、もっと弱かったんだけどな」

 

 やおら立ち上がるククリは、そんな事を呟いた。

 

「手加減されてたのか、はたまたトレーナーを殺すって考えだと、セーブする必要が無いのか……。それとも――」

 

 ククリはごちる。

 戦況が膠着する気配を感じたコトネは、隣のシルバーが固唾を呑みながらも新たに一匹、ポケモンを展開する姿を視界の端で確認。そのポケモンがバンギラスである事を認識し、再度意識を目の前の女に向ける。

 

「私と一緒の理由……なのかなぁ?」

 

 女性の問いに、コトネは目を細めた。

 

「一緒にすんな。私はあんたの娘を殺そうとなんて思っちゃいない」

 

 苛立ちと共に、言葉を吐き捨てる。

 するとククリも目を細め、瓦礫という高台からコトネを見下ろすかのようにして睨みつけてきた。

 

「一緒じゃん? 私は娘を取り戻そうとしてる。なのにそれを邪魔する……。私のククリを殺そうとしてるよね?」

 

 そして、飛躍したような論理が返って来た。

 

「違う」

「違わない」

「あんたがやっているのは単なる自己満足だ。自分で自分の首を絞めながら、自分の不幸を他人にお裾分けしているだけだ」

「不幸のお裾分け? 違う違う。だってどの道ルギアが目覚めたのなら、いつかきっとこのパラレルワールドも滅びちゃうんだもの。だからさっさと私があの子からルギアを奪って、セレビィを呼び出すの。そしてもう一回やり直すって訳。そうしたら滅びない時間軸が生まれるかもしれないでしょう? 私の目的は確かにククリを取り戻す事だけど、そのおまけに世界の平和がついてくるんだよ?」

 

 長い論理。

 そしてそれはやはり――何処か大事なものを失った論理。

 

 コトネが歯を音が鳴る程に噛み締める前で、尚もククリの論は続いた。

 

「……()()()ルギアと対峙してたんだから分かるよね? 三匹の獣、二柱の神が揃った時――セレビィが現れる。そして神が人の制御を離れていれば、もうおしまい。まさか私やお母さん、こっちのサクラが、ルギアを扱えるだなんて……思ってないよね?」

「さあね……。それを決めるのはあんたでも私でもない。こっちのサクラだ」

「……へえ? 随分と過信してるねぇ。ここに()()()が居るってのに」

 

 睨むかのような、蔑むかのような、醜悪な目付きを浮かべるククリ。

 見返していれば、コトネの熱は更に上昇していくようだった。

 

「まあ、私はそうは思わないから、ルギアを奪い次第、ホウオウと殺し合わせるつもりだけどね。それで奴の死に方が分かったら、次は失敗しないんじゃない? 今度は最初っからルギアもホウオウも殺しておくつもりだし」

 

――分かっている。

 これは明らかな挑発だ。

 

 コトネの理性が働かぬ域まで、感情を爆発させようとしているだけだ。

 分かっている。……分かっている。

 

「……あんたねぇ」

 

 しかしあまりに勝手な論理。

 そんな事が成功するとは思えないし、心の何処かで間違っていると思う自分が、更なる怒りという熱を持つ。

 

 それをついに制御出来なくなって、顕にしようとした時――コトネの腕が掴まれた。

 

「二人して馬鹿馬鹿しい講釈垂れてんじゃねえぞ糞が」

 

 そして、その時になって漸く……シルバーの声が聞こえた。


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