天を渡るは海の音   作:ちゃちゃ2580

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第七話
朝日へ


 深淵を想像させるかのような深夜の大海原。その遥か上空に、白銀の翼竜。

 

 水面より遥か上空。雨粒を落とす雲よりは僅かに下を行く。まるで大自然のオーケストラだと主張するように、ずっと遠い水面を雨粒が打つ音は、サクラ達にも聞こえていた。きっとこの雫は意図せずしてもカーテンの役割を果たし、この巨大なポケモンを誰にも知らしめる事はないとさえ思わせる。だと言うのに、このポケモンの力の片鱗なのだろうか、サクラ達の身体を雨粒を打つ事が無ければ、彼の身体さえも濡れたようには見えない。まるで透明なバリアでも張られているように、雨粒は彼の周りをかわす様にして落ちていった。

 

 羽ばたく事すらせず、このポケモンは飛ぶ。時折背にある無数の黒い突起物が動き、まるで風を受ける帆のように揺れるが、きっとこれさえも必要な事ではないだろう。彼の神通力があれば、何の動作も無く浮き上がる事だって出来る。それは先程実際に見た。

 

 巨大な海神の背で、少女は立ち上がる。

 

「ルギア……」

 

 そして名を呼んだ。

 

『済まぬ。一刻を争うと()が申した故、身体を借り受けた。乱暴な連れ出し方で驚かせたろう』

 

 するとそのポケモンはそう零す。

 

 言わんとする事は小難しい口調ではあれ、サクラにも分かる。捕縛から抜け出したサクラとサキは、その場でルギアが深夜の大空へ光臨した姿を見た。そして彼にサクラが「ここだ」と主張すれば、突如として二人とレオンの身体が宙に浮き、そのまま彼の背へ運ばれたのだ。彼が『乱暴な連れ出し方』と言って謝罪するのは、正しくその時の事だろう。

 

 サクラは俯きがちに、うんと返すと黙った。話しぶりからは察していたし、多分大丈夫だろうと思ったが、一応『私のルギア』なのか、『我のルギア』なのか、それを確かめただけだ。表面化しているのが『私のルギア』ならば、サクラが考えている事も杞憂で済むだろう。

 

「……大丈夫です。このルギアは『私』の方ですの。そしてルギアの姿はアサギの人々から察知されていなければ、大雨もただの姿を眩ませるだけのもの。……そうでしょう?」

 

 とすればアキラがサクラの杞憂を察したかのように応え、更にそう問い掛ける。すると彼女が持ってきてくれたらしいサクラの荷物が、青白い光を放った。

 

『我はここぞ』

 

 と、零すのは明らかに海鳴りの鈴だった。

 

 続くようにして、白銀の翼竜が巨大な頭部を起こしてサクラ達を振り返ってくる。黒いカーボンのようなフレームに覆われた目は鋭いが、サクラを見詰める瞳は何処か優しさを感じさせるような気がした。

 

 ルギアはその巨体が揺れない程にゆっくりと頷いた。

 

『との事だ。私の出現した際の事は少女が零す通りらしい。……そしてこの大雨でアサギの民へ被害はなかろう。気を病ませて済まぬ』

「ううん。ありがとう」

 

 サクラはそう返す。

 

「しっかし状況が読めねえ。……どういう事だよ」

 

 と、そこで怪訝そうに顔をしかめたサキが零した。言葉自体は漠然的だったが、矛先は間違いなくアキラだろう。彼はサクラの視線を促すようにアキラを横目でちらり。察したらしいアキラは、今に泣きそうな表情をしながらも薄く微笑み、首を横へ振る。

 

「現状の確認は別に良いでしょう。今こうして揃い、渦巻き列島へ向かえている事実だけで――」

「いや、そうじゃなくて」

 

 アキラが零す言葉に、サキは待ったをかける。サクラとしては現状へ至った経緯も気になるが、彼が続いてアキラの胸に抱かれた小さなポケモンを指差したのだから、疑問を飲み込んだ。

 

「……ウィル。大丈夫なのか?」

「……あぁ、この子ですか」

 

 サキが示したウィルは、アキラの左腕で胸元に抱えられ、荒い息をしていた。小さな手で彼女のワンピースを掴み、目を閉じて眠ったようにも見えるが、時折苦しそうに呻き声をあげている。ゆっくりと動く胸も、どことなく不規則なリズムに見えた。

 

 アキラはウィルに視線を落とす。そしてゆっくりと首を横に振った。

 

「メガ進化を使わせてしまったので、その弊害ですの。……まあ、後々また使わされる事もちゃんと想定していましたが、それを推して考えても使わざるを得なかったのです」

 

 背に隠していた右手を上げて、その小さな身体を労わるようにゆっくりと撫でるアキラ。

 

 と、そこでサクラが彼女の右手を見てハッとする。

 

「アキラ、右手……」

 

 明らかな血の色だった。元は白かったろうに、赤黒く染まっているワンピースの袖口。ところどころ引き裂かれたように小さく破れてもいた。

 

「別に大した事はありませんの。ガラスを殴って割っただけです」

 

 サクラの言葉に飄々と述べるアキラ。抑揚の無いような声だった。

 

 ガラスを破るだなんて騒々しい事を『大した事はない』と言う姿に、サクラの胸の内でドクンと言う音が鳴った。ここに来てはじめて、今が大事の渦中だと察したと言えば、間違いは無いだろう。

 

 よくよく考えてみればルギアが外に出ている時点で大事なのだ。

 

 サクラが捕縛され、アキラが助けに来てくれた。そしてその流れで渦巻き島へ向かっている現状。言葉にすればそれだけなのだが、ここに至ってはじめてそれが『どういう事だったのか』と思い至った。

 

 命懸けの危機だったのだ。

 少なくともアキラの中では。

 

 だから腕の傷なんて気にした風もなければ、リスクがある筈のメガ進化を『仕方なかった』と言っているのだ。

 

 そう、ルギアが他の人の手に渡っていた。それがどういう事だったのかと今更考えて、サクラは思わず背筋を凍らせる。仮にここで出されているルギアが『我のルギア』だったら……。そう考えれば、アサギの地をワカバのように変えてしまうのは自分だった可能性もあったと、そう思い至った。

 

『危機感が無さすぎる。無さすぎると言うかまるで無い』

 

 いつだったかアキラにそう言って怒られた事がある。あの時は別段危機が差し迫った状態ではなかったが、今改めて思い起こせば……正しくその通りだった。

 

「……アキラ。ごめん。ごめんなさい」

 

 思わず身体が震えた。こうしてアキラの血を見るまで、この危機感を感じなかった自分が滑稽で、腹立たしくて仕方なかった。

 

 とすれば、何かを悟ったようにアキラはふっと微笑んだ。

 

「……言ったでしょう? 胸を張りなさい」

 

 そしてふうと息を吐くと、彼女は顔を起こして遥か水平線のその先へと視線を向ける。サクラも彼女に倣えば、水平線は雨雲がかかっておらず、空と海が混じっている所に白い光が見えようかとしていた。

 

「わたくし達がこれから向かおうとする壁は大きい。しょげていたらその高ささえも分からなくなる。……今からが本当の戦いですの。間違えてはダメよ」

「……うん」

「だな」

 

 やがて水平線の果て、雨雲が掛かっていないところに朝日が見えた頃。ルギアが静かに静止する。

 

『力の昂ぶりを感じる……。ここから我が領域らしい』

 

 独り言のように零し、改めて飛行を再開した。

 

『今の内に休息をとると良いだろう。まだ先は長い故』

 

 成る程。ルギアからすれば自分のテリトリーだという事もあって、敵が何処にいるのか、何処へ向かうべきなのかをきちんと把握しているようだった。海底に潜る手法こそ言及していないものの、彼の様子を見ている限りでは心配無いようにも思える。

 

 サクラは小さく頷いた。

 

――頑張ろう。

 

 まるで自分達を此処に来いと呼ぶかのような朝日に、姿をきちんと見た事の無い天の神たるポケモンを想像する。その強さは計り知れないし、安直に立ち向かっていい壁ではない事も承知しているが……負ける訳にはいかない。

 

「あぁ、そうそう」

 

 と、そんな風に浸るサクラの注意を引く声。

 

 振り返ればアキラがウィルを抱いたまま腰を降ろし、鞄を開いていた。

 

「貴方達が買い物を済ませていないようでしたから、わたくしがちゃんと用意してきましたのよ。……今の内に食事にしませんか?」

 

 元気が無さそうだとは見るも明らかなアキラだったが、声ばかりは取り繕ったようにいつもの調子だった。

 

 淡々と中から取り出され、ルギアの背に置かれていく缶詰。パウチ。

 

 内一つをサキが取り上げて、怪訝な表情をした。

 

「げ……。携帯食料……」

「何よ。文句があろうと無かろうと、残したら承知しませんわよ?」

「……わかってるよ。わかってっけど……」

 

 まあ、サキは自分から率先してやる程に料理が好きだ。レトルトや保存料入りの食べ物は好かないらしい。そう言えば何時だって彼がいれば美味しい食事が出てくるのだ。

 

「最後の晩餐が携帯食料では死ぬに死ねないでしょう? 丁度良いではありませんか」

「賛成。帰ったらサキのご飯食べよー」

「……お前ら、ちょっとは料理の勉強をだな――」

 

 そうしてしばしの休息を一同は過ごす。

 

 緊張感に欠ける一行を密かに振り返る翼竜は、切なげな瞳をしていた。


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