宣告
目の前にはかつて見た光景が広がっておりました。表面が滑らかな鉱石は、人工の淡い光を反射し、まるで辺り一面がキラキラと瞬いているように見えます。そこらにいる筈の野生のポケモンは、縄張りを侵すわたくし達に怯え、ひっそりとした息遣いでこちらを見ているのでしょうか、ぬかるみに足跡こそあるのに、気配のひとつもございません。
幻想的な光景でした。自然を感じる要素はいくらでもあると言うのに、それらはまるで手の届かぬ宝だと言うように隠れてしまっているのです。何処か感慨深く思わせてくれるものでした。
『アキラちゃん』
わたくしの名前を低い声で呼ぶのです。
『どうしました?』
振り向いてみれば、その男は足を止めてわたくしをジッと見詰めていました。
袖が短いシャツに、作業着のようなズボン。わたくしよりも随分と大きな体躯を持つ彼は、奇抜な服装も相まって、きっとわたくしの同行者には見えないことでしょう。
工事現場でドテッコツやホルードに指示を出しながら、つるはしでも振っていそうな見た目です。腕周りも太く、筋骨隆々とは、おそらく彼の事を指す言葉なのでしょう。ポケモンと殴打で渡り合うという発言もあったりと、中々見た目に違わぬ豪快な人物です。しかし口ぶりばかりはいつもぼそぼそとか細く、男性特有の声の低さもあって中々聞き取り辛いものです。特にこんな洞窟の中では、小さな音が反響してしまうので、わたくしは彼の言葉を聞く為に足を止めました。
『……フジシロ?』
暫くジッと見詰めてみたものの、彼はわたくしを見詰めてくるばかりで、唇を閉じたままでした。思わず小首を傾げてみれば、彼はすぅと息を小さく吸い込み、やがてふぅと音を立てながらゆっくり吐き出します。
大袈裟な動作にわたくしはクスリと笑って見せました。
『疲れたのですか? 貴方と言う人が珍し――』
『ありがとう』
わたくしの言葉を遮って、フジシロは短い言葉を吐きました。
その単語はきちんとわたくしの耳に届いてましたが、あまりに唐突。わたくしの言葉が重なっていた事もあって、わたくしは聞き取れていたのにも関わらず『はい?』と声を漏らしてしまいます。しかしハッとして聞き取れた言葉を胸の内で反芻してみても、何を以ってその言葉を与えられたかが分かりませんでした。
『……何を、ですの?』
わたくしは彼へ身体ごと向き直り、首を傾げて見せます。
するとフジシロは安らかな表情で微笑みました。リュックサックを背負い直し、首を横に振って見せると、続いて唇をゆっくりと開きます。
『何をって、キミはもう分かっているだろう? 分かっている筈だ』
『……言葉にしないと伝わるものも伝わりませんわ』
何を回りくどい。
わたくしは咳払いを一つ挟み、踵を返しました。
与太話は嫌いではありませんが、態々話を回りくどくするのは男性に似合いません。女々しく思いますの。言いたい事があるならはっきりと言えば良いし、それが感謝の弁であるのなら何に対してかをきちんと言及しないと有り難味も御座いません。
『……あの夜』
フジシロの態度を鼻で笑って、今に足を踏み出そうと思った時でした。
わたくしの背中にかけられた単語。
『えっ』と零して振り返ろうとしましたが、わたくしの肩がフジシロの大きな手に掴まれ、振り返る事は叶いませんでした。『そのままで……』と告げられ、わたくしは問いかけます。
『どういうおつもりですか? 年端もいかぬ女性の肩を掴むだなんて』
『すまない……。でも、他意はないよ』
『ならばどうして……』
尚も問いかけると、フジシロの手が肩からゆっくり離れます。再度前を向いたままで居てくれと言われ、わたくしは溜め息混じりに分かったと返すのです。
すぅ、ふぅ、とまたも大きな息遣い。
『アキラちゃん』
『……はい』
言い辛い事なのでしょうか?
わたくしはその時になって漸く、フジシロの話を聞かないといけない義務感を感じました。大事な話をしようと言うのなら、女々しいとバッサリ切り捨てるのは、あまりに情が無いでしょう。
すると彼は、らしくもなく震えたような息遣いをし始めます。
『……フジシロ?』
問いかければ、小さく息を吐くような音。そして――。
『済まない。サクちゃんとサキには、絶対に秘密にして欲しい事なんだ』
『秘密……ですか? あの子達に関わらない事でしたら構いませんが……』
じゃあ、そんな口火の切り方で、フジシロは再度唇を開いたようでした。
『僕の寿命は、もうすぐそこなんだ』
そして告げられたのは、あまりに唐突で、すぐには理解出来ない事柄でした。
わたくしは『は?』と零し、振り向くなと言われたのに思わず振り向いてしまいます。
――どういう事ですか?
そう問いかけようとして、わたくしはハッとして立ち尽くします。
突如変わった視線の高さ。
いつの間に屈んだのか、地面が近い……。
いえ、わたくしはどうも直立しているようでした。
辺りは先ほどまで佇んでいた洞窟とは大きく変わり、ドス黒い闇に包まれました。と、同時に身体を打つ冷たい雫。大地に落ちたものはバチバチと音を立て、わたくしの身体もその音が示すような微かな痛みを覚えるものです。……いえ、これはわたくしが感じている『痛み』ではないのでしょう。おそらくこれは――。
と、思案を進めようとするわたくしの前で、何処か面影を感じる影がこちらへ向かって来ます。
右へふらつき、左へふらつき、しかしわたくしの姿を見て、『ああ』と声を漏らしながらこちらへ歩いて来るのです。白いスーツの上に白衣を着たその姿。しかし打ち付ける雨や、何処かで被ってきたらしい泥のせいで、大部分が汚く染まっておりました。
『アキラちゃん、どうしよう……。あの人、こ、こっちに歩いてくるよ』
声にわたくしはハッとします。即座に振り向けば、そこには遠い記憶にある少女の姿。
一目に一〇歳ぐらいの少女だと分かります。この土砂降りの雨の中、転んでしまったのか方頬を泥に染め、先ほどわたくしが見た人影の方を見ながら表情を恐怖に染めています。
その少女の姿を見た時、わたくしは漸く気がつきました。
――あぁ、これは
と。
『良かった、人がいた。人がいた……』
わたくし達の目前、膝を崩すその男。
そしてその顔を見た時、わたくしは理解をするのです――。
※
バサァと言う音。
少女、アキラは布団を跳ね飛ばすような勢いで身を起こした。
額には玉のような汗の粒が並び、双眸は大きく開かれて、息遣いはまるで全力で走ったすぐ後のように大荒れの様子だった。寝間着のパジャマは乱れに乱れ、彼女の平たい胸が顕になろうかと言うところまではだけている程。普段の彼女ならばそれをすぐに直そうとするだろうに、その時の彼女は右へ左へと顔を勢い良く向けて、辺りを確認するかのような姿を見せた。
「……はぁっ。……はぁっ」
荒い息遣いを押し殺すように喉を鳴らし、心臓に落ち着けと言うかのように、はだけた胸元を右手で鷲掴みに。それでも足りないと言わんばかりに、彼女は膝を立てて、身体をぶるりと震えさせる。やがて大きな溜め息と共に、立て膝の上に引き寄せられてきていた布団へと、頭をうずめた。
アキラは首を僅かに回し、左手の方を臨む。
そこには正に今、アキラの物々しい様によって起こされたと言わんばかりに、彼女を寝惚け眼で見上げてくる小さなポケモンの姿。
「……チィ?」
パチパチと目を瞬かせ、そのポケモン、クチートはゆっくりと身体を起こす。
白いふかふかな布団を這うようにしてアキラへと近づいて来て、どうしたの? と言わんばかりに小首を傾げて、汗でぐっしょりと塗れた背を静かに撫でてきた。
「ごめん、なさい。ウィル……」
荒い息遣いの合間合間でアキラはそう零し、左手をウィルの頬へと伸ばす。その手が届けば、彼女は背を撫でてくるのを止め、アキラの手を取ってゆっくりと頬擦りをしてきた。
――大丈夫、ここに居るよ。
とでも言いたげなその姿に、アキラの双眸は細くなり、小さな雫が零れ落ちる。
「……ありがとう」
と、その言葉を告げて、アキラは布団へと顔を埋め直した。
埋もれていない唇は、何かを悔しがるように歯噛みして、「うぅぅ」と小さな嗚咽を漏らす。
――ありがとう。
その言葉の意味を、少女は知っていた。
「なんで、今更……。何も返せないまま、見送れと言うのでしょうね……」
少女は零す。
その言葉の意図を知ってか知らずか、ウィルはアキラの手へ頬擦りするのを止めて、彼女の腰に柔らかく抱擁してきた。
「ほんと……。酷い人です。あの人は……」
少女の脳裏には
『随分と待たせてしまったからね。僕の子らが元気に育った子供たちを見るまで……もともとそういう約束で生きてきたんだよ、僕は……。サクちゃんの子らを僕の子らが見たら、もうそろそろだろうね……。ありがとう、本当に……』
――ありがとう。