聞き覚えがある高い声だった。まるでソプラノの音色を奏でるように、女性らしく高い声。伸びのある声質ながらも、歯切れが良い口調。
優しくて、滅多にワガママを言わない印象の……その声。
――ドクン。
コトネの胸が鈍器で打たれたかのように大きく鳴り、頭の痛みが鐘を叩いたかのような音を奏でる気がした。
ゆっくりと視線を上げる。
その姿はしかし、見えなかった。
外から射し込む光に影が落ち、その影が踵を返すように、横へ回転した。……出口の先に、誰かが居るのだと分かる。コトネは思わず後ろのシルバーを振り返り、こくりと頷いた。
――ドクン、ドクン。
バカみたいな爆音が胸から響く。吐き出す息は真白に染まると言うのに、胸から熱が溢れ出てくるかのように身体中が熱くたぎっていた。まるで、風邪を引いているんじゃないかとさえ思う程、その熱は容赦なく頭から思考能力を奪う。
「……外で待ってるよ。今日は霰が降ってないから、外でお話しよう?」
コトネとシルバーが言葉を返すより前に、その影はそんな事を言う。そして、ザクザクと音をたてて去っていく。コトネは暫く呆然とその方向を臨んだ後、喉を震わせながらシルバーを見やる。
「行こう」
「……うん」
男はまるで全てを已む無しと享受するかのように、沈痛な面持ちだった。ポーカーフェイスが得意な彼がそんな表情ならば、果たして今のコトネは自分がどんな表情を浮かべているのか、自分の事なのに想像さえ出来なかった。
ただ、なんとなく、そんな気はしていた。
――ヒビキが居て、私がセレビィの中にいるって聞いて、ならばあの子は何処にいるんだろうって思ったんだ。
一〇年前、出会った時。
今でも確かに覚えている。
その顔を忘れてなんていない。
ただ、信じたくなかった。
信じられなかった。
何かの間違いだと思った。
だから、誰にも言わなかった。
だから、私がここへ来た。
私が戦う事にした。
私は一度として彼女を知らない人間だなんて言ってない。言える筈がない。ただただ、目を背け続けただけなんだ。
ねえ、シルバー。
あんたもおんなじ気持ちなのかな?
ワカバで出会ったんでしょ?
なら、気付いていても可笑しくないもの。
協会の会長にまでなるようなあんたが、犯人の顔を見忘れる訳なんて無いよね。
白銀の頂の頂点。
白銀の聖域と言うべき、最も天に近い場所。空より高く、雲より高く、しかし決して天には届かない場所。
本日は快晴。
霰が降り積もって出来上がった雪のクッションは柔らかく、コトネ達の足首までも埋めながら、純白の聖域を汚しているとさえ思わせる。
キラキラと光る雫の粒子。
――ダイヤモンドダスト。
「おかえり、クリス。久しぶり、シルバーさん」
そんな風に女性は呟いた。
シロガネ山の頂点。その先端にて二人へ背を向けながら、靡く風にコートと茶色い髪を靡かせる。バタバタと鳴るその布の音だけが、この聖域での唯一無二な音。
長き洞窟を出て、外界を見下ろす聖域へ踏み入れ、三歩。そこで既に一〇歩以上は離れた場所で佇む彼女へ、コトネは歯を噛み締めながら、拳を握って震わせた。
ぐっと堪えるように俯き、やがて堪えきれなくなった涙と共に、叫ぶような声を挙げる。
「クリスなんて他人行儀に呼ぶな。私はあんたの母親だろ!」
コトネの叫び声は、まるで下界へと降り注ぐかのようにこだまする。さながら最大級の自己主張。
クリスだなんて呼んで欲しく無い。その名はクリスタルと言うコトネの二つ名の愛称だ。決して、
――しかし。
「違うよ」
女性の声は冷たかった。
振り返ってくる顔。見覚えがありすぎるその顔。
大きな瞳に、小振りな鼻筋。唇はこんな寒さの中でも桜色で、身長ばかりが高い。胸には遺伝させてしまったコンプレックスを思わせて、毅然と振る舞うにはあまりに優しすぎるかに見える姿。
彼女の頬を伝う涙は、決して嘘じゃないだろう。冷たい声の方が、よっぽど嘘っぽい。
「……私はククリ。貴女の娘のサクラじゃないよ」
「そんな筈無いでしょ。娘の顔を見間違う親がいてたまるか……」
それでも尚、ククリと名乗るサクラ。たった一人で立っているには寂しすぎる程広い空を背に、彼女は薄く笑いながら涙を流す。
「あのね……」
そして唇を開いた。
「私、ホウオウに洗脳されてるの」
ゆっくりと零された言葉。
胸がドクンと音を鳴らし、コトネは目を見開く。隣に立つシルバーが、まるで苦虫を潰したような表情を浮かべ、舌打ちをひとつ鳴らす。
「……ヒビキか」
「うん。そう」
彼の言葉に、ククリはあっさりと頷いた。
今や死に絶えた物言わぬ骸。その骸こそが、やはり黒幕だった。……彼が亡き今、しかしそれでもホウオウは彼女を操り続けているのだろうか?
「でもね、二人とも」
ククリは呟くように零す。
遠い空を拝むように、視線を高く上げながら。
「私、こんな事望んでないけど……」
と、呟くが、すぐに「いや」と自ら否定して彼女は首を横に振る。
「望んではいるのかな? 私にかけられた暗示は、『我慢をするな』だから」
そう零された言葉に、コトネは信じられないと目を見開く。思わず彼女の独白に割って入った。
「嘘……?」
短く聞き返した言葉。僅かに驚いたようにククリは目を見開いて、しかし再度薄く笑えば、彼女は首を横に振る。
「ほんと。……多分私が望んでるんだよ」
「何で。何でよ!?」
「……俺達の知るサクラは、簡単に命を奪うような奴じゃない」
信じられない。
信じたくない。
あのサクラが、あんなにも命を尊ぶサクラが、ワカバを、エンジュを、あんな風にしたとでも言うのか。……あり得ない。そう、思った。
だけど否定の言葉はまるで聞いちゃいない様子で、彼女は続ける。
「……一五年。頑張ったんだ」
こっちの世界で私が産まれてから、ずっと。
彼女はそう紡ぐ。
声をかけようと思ったが、彼女の悲しそうな微笑みに、どこか気圧された風に喉から声が出なくなる。聞くしかなかった。
「一五年前、私はこの世界に来た。……前に居た私達の世界は多分、消し飛んじゃった」
まるで大気を抱き締めるかのように腕を広げ、その場でゆっくりと回り、彼女は雪のクッションを踏み鳴らす。子供が無邪気に雪を散らかすような、そんな雰囲気。
「……頑張ったんだ。サクラを私と同じ目に合わさないようにって……」
雪を蹴りあげ、彼女はごちる。
「だけど、世界は残酷だよ」
蹴りあげられた雪は、べしゃりと音を立てて霧散する。無邪気に笑うような、そんな表情の彼女は、二人の目にどこか儚く映った。
「私は歳をとらなくなった。お父さんは実際よりずっと歳をとってしまった。そして――」
彼女は歩を止め、空を仰ぐ。
相変わらずの晴天。キラキラと降り注ぐ粒子が、彼女を祝うようで。
「ルギアが目覚めた」
ダンッ。
そんな音が聞こえそうな程、彼女は勢い良く足下の雪を右足で強く踏みつけた。小粒の雪が大気へと舞い、彼女の足下をキラキラと彩った。
「……一度目で気が付いた。私達の居た世界とズレた事に。二度目で気が付いた。サクラはやっぱり私なんだって」
ダンッ。
今度は左足が強く雪を踏みつけた。
「変わらない。変わらない。結局何も変わらない。サクラは旅に出る事を選んじゃった。ルギアは目覚めてしまった。このままいけばまた
そこでコトネはハッとした。
ククリと名乗るサクラは腹に手を当て、俯いて首を横に振る。……その双眸には、とめどない涙。先程も流していたが、しかし今の彼女は頬を真っ赤に染め上げて泣いていた。
ククリ。
お腹。
涙。
――コトネは気が付いた。
「サクラ……あんた、まさか」
そして、漸く声が出た。自分でも驚く程、震えた声だった。
彼女は激しく雪を踏みつけた。
「そうだよ!! 私は
彼女の絶叫は大きくこだまする。
上げられた顔は、強い執念を思わせるほど、怒りに満ちているように見えた。サクラが絶対にしないような顔、ククリだから出来る、そんな顔――。
「止めれるものなら、止めてみてよ、お母さん、お義父さん!!」
そして彼女はふたつのボールをベルトから取り上げた。