こうして改めて見てみると、様々な暗躍をしてくれたらしい老人は、やはりヒビキで間違いがなかった。皺が多いながらも若い頃の面影が残る顔つきは今に動きだしそうで、とてもじゃないが死んでいるとは思えない。でも、確かに死んではいる。一目見ただけで何故か死体だと分かる。
敢えて言うなら、生きているような気配が無い。そう言えた。横たえている彼から、これっぽっちの生気さえも感じないのだ。快活そうに見えると言うのに、可笑しな感覚だった。
見た目からすれば、七〇歳は越えていそうな姿。もしも彼がこんな極寒の地でずっと過ごしてきたのならば、そりゃあ死んでいても可笑しくはない。……可笑しくはない、筈だ。
だが、なんだろうこのやるせなさは……。
この男はワカバとエンジュを破壊し尽くし、コトネやヒビキの人生を長く棒に振らせ、更には娘の命さえも奪おうとした張本人。胸の内に沸き上がる熱い衝動は、確かな怒りだった。何故、こんなにも安らかな顔付きで死んでいるのか。何故、もっと苦しまなかったのか……。
――いや。
苦しんで死んでいたとしても、胸の内はスカッとしていない。そう思った。
コトネにとってヒビキと言う人物は半身とも言える存在だった。幼い頃からずっと接してきた最も自分を知る存在。……そう、目の前に横たわる骸が、『やはりヒビキが黒幕だった』と暗に述べていても、何か理由があったんじゃないかと思ってしまう自分がいる。
でも、やはりヒビキだ。
ヒビキが悪かったんだ。
そう自覚すればする程頭痛は酷くなるし、焼けつくような胸の痛みが吐き気へと変わるようにも感じる。
認めたくなかった。信じられなかった。
こうして目の前にその存在が肯定されて、初めてショックを受けた。そう思う。……なんだろう。自分は怒っているのか、悲しんでいるのか、それさえも分からない。
ただ、ひたすらに彼が惨めだと思った。
こんな山奥で。こんな狭苦しい小部屋で。こんな寒い場所で。埋葬さえされずに眠っているだなんて……。なんでここまでして、皆に恨まれる事をやらなくちゃいけなかったのか。
それでも分かってはいる。彼はコトネが知る彼ではない。存在こそ同じであれ、しかし次元を隔てた存在ではある。当人ではない。
――ただ、ただ……。
なんで話し合う事が出来なかったのか。十年前、出会った時、もっと腹を割って話し合えば、決してこんな惨めな死に様だけはしなかったろうに……。
なんでよ、ヒビキ……。
確かにあんたは思い込んだら真っ直ぐな人間だけど、常に誰かに助けられて生きてるって、知ってたじゃない。言ってたじゃない。
胸が熱い。喉が震える。視界が滲む。
頂上へ続くだろう出口にはつららさえあるのに、外気はとんでもなく寒いのに、昨日着込んだコートがまるで役に立っていないとさえ思うのに。
流れる涙の温度は、身体を巡る血液よりもずっと熱いんじゃないかと思った。背中に汗が伝う感覚さえ感じた。
怒りなんかじゃない。
胸の内に宿る熱は、憤りだった。
見ていられなくって、コトネは目を瞑り、ふうと息を吐く。すると心が落ち着くにつれ、頬を伝う雫が凍り付くように感じた。
「……成る程な」
そんなコトネの横で、やがてシルバーがぽつりと零す。上手く返せる言葉がなくて、コトネは目を薄く開いて視線を彼に向けてみるだけだった。何を納得したのかと思えば、彼もまるで目の前の現実から気を逸らすように、そっぽを向いている。
組んだ手の拳が握られているのは、何処か自分と同じ心境なのだろうと思わせた。
そんなコトネの心持ちを他所に、彼は唇を薄く開く。
「エンジュの件だ。……もしかすると、このヒビキが死期を悟って、功を急いたのかもしれん」
「……うん」
入り口で立ち尽くしていた所から、漸く一歩踏み出す。本当に小部屋としか言いようが無いこの狭苦しい空間は、大人二人と老人の骸が一体あるだけで、まさしく満員と言う様子。他に置いてあるものは、黒い塊と四つのボール。
すぐにコトネが注視したのはボールだった。赤と白のツートーンカラーのボールと言えば、モンスターボールしかあり得ないだろう。黒い塊の前に、まるで
ひとつを手に取れば、よく
擦りきれた心は荒れる事なく理解した。
「これ……私のだ」
「何?」
後ろからシルバーが声をかけてくる。振り返る事なく四つのボールをそれぞれ持ち上げて、その全てが
全てが、懐かしい。
間違いないだろう。だってコトネは一〇年前の事を昨日の事のように思い出せる。ボールのどこにどんな傷が付いているかだとか、どのボールに何のポケモンが入っていたかとか、考えるまでもなく分かる。
そして、持ち上げてみて分かった。
全部、空っぽ。
もう、中には誰もいない。
「……ごめんな、ほんと、悪いマスターで」
ぽつりと零す。そしてそれをベルトの欠番へ着け直して、肩越しにシルバーを振り返ってみた。彼は目を伏せ、苦虫でも潰したかのように顔をしかめている。
コトネは自嘲するように薄く笑った。
「……ごめん。こんな事してる場合じゃないのに」
「気持ちは分かる。無理はするな」
そう言って彼は、首を横に振った。
態々言わずしてもコトネの表情を見れば、シルバーには分かっただろう。彼女は今、この瞬間、長く連れ添った四匹の家族を失った。
それも、おそらく『死』と言う結末で。
次いでコトネは黒い塊へ視線を向け直す。
「……これ、位牌だね」
床に無造作な姿で置かれた黒い塊。手に取り上げるのは流石に気が憚られて、腰を屈めて見てみる。ボールはこの位牌の前に、
辛い心持ちを圧し殺しながら、コトネはその位牌を注視する。……そして、彼女は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。
「……えっ」
冷や水を打ち付けられたかのように、目が不意に見開かれて声が漏れる。ゾクリと背筋が嫌な寒気に襲われた。
その位牌、見覚えがあった。
中央に刻まれている名はヒビキの母の名前。今やこの世界には存在しない筈の位牌。……そう、ワカバが燃えた日、サクラが持ち出せなかった筈のもの。燃え尽きた筈のもの。
理由は分かる。横で横たわる骸は、コトネの旦那とおんなじ存在だとは思えても、同一人物等ではない。彼がこの世界に持ち込んだものだとするなら、説明はつく。
――だが。
「なによ、これ……」
そこに刻まれた名は、ヒビキの母の名だけではなかった。
決して大きくはない位牌。その全てを堀尽くしたかのように、無数の小さな文字があちこちに刻まれている。思わず不躾だとは思うものの、それを取り上げれば、側面や後ろにだって所狭しと文字の羅列。
コトネ、サキ、シルバー、ウツギ、カンザキ……。おびただしい数の名の中に、知った名前を幾つか見つける。何も刻まれているのは人名だけではなく、ポケモンの名前だって刻まれていた。ルーシー、ロロ、リンディー等、サクラの手持ちポケモンの名前だってある。
これは横たわる骸が尊んだ犠牲者の名前なのだろう。そう、思った。
しかし、しかし――。
「……サクラの名前がない」
そう気が付いた。
後ろで立っていたシルバーが腰を下ろし、横から覗き込んで来る。彼にも見せるように横へずらせば、刻まれた自分と息子の名に思うところがあるのか、顔をしかめてふむと唸る。……だが、コトネと同じようにサクラの名前は見当たらない様子。
その代わりに。
「おい、ちょっと待て」
彼が指を差した名前は、真新しく掘られたらしいヒビキの名の横にあった。
『ククリ』
小さく掘られたその名前。示すシルバーの指が、於曾けだったと言わんばかりに震えていた。
「……なんだこれは、どういう事だ」
呟くシルバー。コトネも彼の言わんとする事を理解して、訳がわからなくなった。
ククリの名前がある。それ即ち、ククリは死んでいると言う事なのだろうか? それ即ち、ククリと言う人物は
「……違うよ。そのククリは私じゃない」
そんな時、驚愕する二人の前に、ひとつの影が現れた。