Dumb corpse.
メイと別れて数分が経った。道中に一度バカでかい揺れを感じて、後ろ髪を引かれるようにコトネとシルバーは足を止めた。今の振動は下の階層からで、メイかアカネが激戦を繰り広げているからだと考える事も無く分かった。ただ、それが二人の勝利を意味するのか、敗北を意味するのか……。
「二人を信じるしかない。特にメイは不要なリスクを侵す奴じゃねえ」
「……うん」
今すぐにでも戻りたい。
二人が残してきたのは単なる知人じゃない。愛すべき娘の師と、娘の親友の母親なのだ。もしも無事に帰してやれなければ、謝罪で済むような罪ではない。
だが、やるべき事は何を押してもやらなければならない事。例え友と思う二人が心配でも、戻る道は選んではいけない。分かっている。
――例えそれが後悔をする事になったとしても。
「……アカネ。メイちゃん」
「行くぞ」
名残惜しく辿ってきた道を見据えながら、コトネは物憂げに零す。叱咤するシルバーの声も言葉ばかりで、とても静かな、荒々しさの欠片もない抑揚だった。
後ろ髪を引かれながらも、コトネは小さく頷く。シルバーに腕を掴まれ、引かれ、そこで漸く前へ向き直って歩を再開した。
断崖絶壁の壁を登る。希少価値があるだろう白銀の鉱石にさえ目も暮れず、ひたすら前に広がる一本道を駆け抜ける。
気圧の変化がとても息苦しく感じるが、元はここにいたと肯定されるかのように、コトネの身体はこの地に大して拒まれる事はない。普段からセキエイの奥にいるらしいシルバーも、コトネと同じく苦し気ではあれ、我慢出来ない程ではないらしい。
ただ、進むにつれて口数は減る。喋っている場合でも無いし、そんな和気あいあいとした雰囲気でもない。加えて息苦しく感じるのだし、高山特有の頭痛も少しばかり感じてきている。端的に言えば、余裕がないのだ。
それでも進むペースは早い。急がなければいけない事は勿論、後ろを守ってくれている二人の為にも、と言う気持ちが、後ろ髪を引きながらも背中を押すような感じだった。随分と可笑しな感覚ながらも、確かな焦燥感とも言えた。
不思議な感覚だった。
かつて、ルギアを捕まえた時がこんな感じだったろうか……。コトネは間隔の短い足音を鳴らしながら思い起こす。まるで頭痛と共にフラッシュバックするかのようだった。
大雨の日に向かった渦巻き島。
突然目覚めたと言う海の神様。
目覚めて間も無く暴走した神様の力。
ルギアのエアロブラストで打ち砕かれた渦巻き島の神殿。沈んでいく列島。落石からコトネを庇って倒れてしまうヒビキ。
『コトネ……。後はお願い、ね……』
『無理よ。私じゃ、私じゃあんたにも勝てないのに!』
そんな風に悲痛な叫びを上げた覚えがある。ルギアが荒れ狂うように切な気な咆哮を上げ、その眼下で今に殺されるとさえ思っていた。なのにヒビキは頭からとめどない血を流しつつも、コトネの髪をゆっくりと愛しそうに撫でて、笑って見せた。
『出来るよ……。コトネなら。ボクの相棒、だろ?』
うっすらと微笑みながら、慈愛深く見詰めてくる瞳。澄んだ黒色に見詰められて、コトネの胸がドクンと高鳴った。
――いけるよ。やれる。ボクとコトネならなんだって出来る!
そんな声を、頭の何処かで確かに聞いたんだ。
そして、コトネは決意する。最後の最後に渡されたマスターボールを手に、目から零れた雫を拭って立ち上がった。
向かい合う白銀の神様。
その双眸には青き光。
恐ろしいまでの爆音と言うべき咆哮だったが、コトネにはまるでそれが歌のように聴こえた。悲しい、辛い、助けてと、そんな風に聴こえた。
ざわつく肌も、震える四肢も、流れる血も全て気にする事はない。ただ真っ直ぐとその目を見詰め、コトネは涙を零す。
『望んで無いよね。ただただ穏やかに過ごしたかったのに、起こされて、苦しまされて、辛かったね……』
そして、紫のボールを構えた。
――でも大丈夫。
これからは私達が貴方を護るよ。
ヒビキより弱い自分が、何故ルギアを捕獲出来たのかは分からない。ただ、彼はとても怯えていて、とても弱っていて、とても悲しんでいて。必死に『なんとかしなくちゃ』と自分に言い聞かせ続けた。
気が付いた時にはヒビキを連れ、マスターボールにルギアを納め、スイクンの背に股がりながら、渦巻き列島が沈んでいく様を見届けた。
何故、ルギアが突然目覚めたのかは未だに分からない。少しばかりサクラと話す機会はあれど、コトネ自身が必死過ぎて殆んど覚えちゃいないから、ルギアがサクラに話したらしい記憶の欠片以上の事は分からないままだ。
あの時と今は似ている。
ミカンやシジマ。渦巻き列島の近場に居たジムリーダーと共に鎮圧に向かい、暴走の果てに襲い来る野生ポケモンの群れに、二人を残して駆けて行った。……あの時と、まるで同じだ。
シジマは倒れ、現役を娘に譲った。ミカンは力不足を嘆いて、他所の地方へ旅に出てしまった。
渦巻き列島が沈んでしまった事実は、決して癒えない傷をジョウトに刻み付けた。
――思い過ごしだ。思い過ごしであって欲しい。誰かを喪うのなんて、もうまっぴらごめんなのよ……。
コトネはきつく目を閉じ、開く。今を見詰めろと、そう自分に言い聞かせるように、前を走る旧友の背を拝んだ。
何処か、シルバーの背は
「――っ!?」
「ちょっ」
その背が唐突に止まる。後ろを駆けていたコトネは、シルバーの背中に顔をぶつけて、返ってきた反動に足元をふらつかせる。
それまで思い起こしていた事を全て払拭されるかのように、現実へ引き戻され、コトネは表情を強張らせて叫んだ。
「急に止まんな! 危ないでしょ!?」
「……わりぃ」
肩越しに振り返って来て、少しばかり申し訳なさそうに目を伏せるシルバー。随分と高い位置にある顔を見上げながら、コトネは目を細めて返した。
「……何よ」
端的に聞く。
目を伏せ、まるで歯噛みするかのようなシルバーの表情。単純に辛そうに見えたその顔付きは、まるでコトネ宛てのように感じた。不躾に返した言葉に、シルバーはふうと息を吐く。メイと別れてからここまで一本道。頂上も近いのか、彼の吐息は真白に染まって見えた。
「……コトネ。辛いものがある。我慢しろよ」
「…………」
辛いものって何だよ。
そう思った。
だが、敢えて彼がそう言う事はと考えれば、答えはすぐに見つかる。
まるで押し退けるかのように、コトネはシルバーの腕を引いて、前へ出た。
居住スペースだろうか。あまりに質素で、狭苦しい小部屋だった。奥には頂上へ続くだろう、光が射し込む出口が見える。勿論、この小部屋は極寒と言うように凍えるような寒気を感じた。
壁に備えられた松明なんて、この小部屋を照らすぐらいにしかならないだろう。だって凄く寒い。もう、手足どころか、背筋も凍れば唇も震えて、全身の臓器を鷲掴みにされたような息苦しさだって感じる。
いや、この寒気が単なる気温じゃないなんて、分かりきった事だ。
丸く削られた小部屋には、家具なんて無い。敷かれた布が寝床っぽさを思わせるものの、何とも薄汚いものか。その哀れな寝床は二人分。ひとつは小汚ならしくも綺麗に畳まれて、今は主を寝かしていない。
だが、問題はもう片方。
物言わぬ骸が、安らかな表情で眠っていた。
霜が降りている閉じられた瞼。細く力が感じられない白い髪の毛。痩けた頬。胸の上で組まれた手は皺だらけで、眠る唇は当然ながら不埒な侵入者たるコトネを責める事がない。
決して、二度と、開かぬ、動かぬ、唇、瞼。
ああ、なんで分かるのだろう。
私が知っている彼ではないのに。
私が見た事もない姿なのに。
敵なのに。
胸が痛い。
敵なのに。
胸が熱い。
彼だから。
喉が震えた。
「ヒビキ……」
コトネは小さくその骸の名を口にした。