走り去った二人の後ろ姿を見送り、メイはふうと息を吐く。正面に立つ青年は上げた左手を降ろし、再度ポケットに突っ込めば、まるでメイの初動を待てと言うようにピカチュウへ右手を差し出した。主の動作に歳を思わせるような皺が少しばかり目立つピカチュウは、放ちかけていた放電を納める。
まるで、メイがここに留まるならば戦う理由は無いと言うかのようだった。
「……私が行けば、何か不味い事でもあるのでしょうか?」
見ただけで歳上だとは解る。敵意も今しがた収められたようなもので、決して無理に対立すべき相手ではないとは思う。しかし、メイはそんな心を捨てて、不敵に言って見せた。
「…………」
男は答えない。足元のピカチュウも、差し出された手は彼のズボンのポケットへ既に戻っているのに、先程の饒舌さを忘れたように黙ったまま。つぶらな瞳でじっとメイとジャローダを見据え、何の構えもしていないのに、メイが臨戦態勢を取れば即座に動くだろうと思わせた。
ビリビリと感じる殺気。放たれる事は無く、ただただメイをこの場に留める事だけに意味を持つとさえ思わせる程、物静かな威圧感。
メイはごくりと喉を鳴らす。
――勝率は高くない。勝てない相手じゃないとは思いたいけど、良くて三割ぐらい。少なくとも本気でやり合えば命懸け……。分は悪いわね。
ちらり、横へ目をやる。どさくさ紛れに出しておいたジャローダの様子は、どうにもあのピカチュウの放つ殺気に気圧されているようにしか見えない。男が既にポケモンを出している有利性こそ何とかしてはみたものの、どう考えても戦力差は歴然としていた。
本来ならばここで無理に抗う必要は無い。シルバーが言っていた応援がどれ程の戦力かは知れないが、少なくともあのアカネがあてにする程の戦力だ。その応援が到着するまで待って、その後アカネ達と足並みを揃えて侵攻すればいい。少々ズルいが援護射撃があれば、相手がいかなリビングレジェンドとは言え、突破する事ぐらいは出来るだろう。
だが、果たしてそれで良いのか?
この男が援軍を予期していないと思うには、少々楽観視が過ぎる気がする。それに、今襲えば確実に削れるメイと言う戦力を、無理に削ろうとはしてこないこの現状。
つまり、導き出される答えはひとつ。
正に
その理由こそパッとしない。相手がメイには敵わない戦力だとか。相手が二人までしか相手に出来ないとか。相手がメイの知り合い、とか……。
最後のは些か暴論だとは思う。メイには異次元の知り合いなんて居ないし、元よりヒビキやコトネとさえ知り合いでも無かった。まあ、名前ぐらいは知っていたが……。しかし、それは今現在、
今までは有り得ない話ではない程度の認識。だけど、こうしてメイの行く手を阻んで、
そして、やはりサキの予想が正しく、別次元のヒビキが老人として姿を現していて、コトネが三人の話通りセレビィの中に捕らわれているのならば……。彼の横に立つククリと言う少女が誰かは、自ずと予想がつく。
――いや、これはちょっと、暴論過ぎるけど。
メイはふうと息を吐き、ゆっくりと目を瞑る。隣のジャローダから、彼女の心を悟ったかのように徐々に漏れ出す殺気を感じた。
――まあでも、サーちゃんがいるって考えはあり得なくない筈。サキが態々言及しなかった理由も、なんとなくこじつけられるわけだし。
そう思い至った。ククリと言う少女に対し、コトネやシルバーは覚えが無い様子だ。その点を鑑みれば、サクラがククリである可能性なんてとんでもなく低い。むしろサクラの娘だとか、そう言う可能性の方が高い気もする。だが、なんとなくメイは思った。
もしもサクラが二人のレジェンドホルダーの娘として、全うに育っていれば……きっと今頃はセキエイの頂点でメイとしのぎを削っているのだろう。……と。
師匠贔屓な目線である事は否めない。だが、彼女にはそれほどの才能を感じてきた。僅か数ヵ月でバッジを四つも集めるなんて、とんでもない逸材だ。周りにいる人間が凄すぎるだけで、彼女やサキの才能は決して凡人のものではない。そう思う。
そして何より、ククリがサクラの娘ならば大きな矛盾がある。……敵がルギアを持っていないらしい事が、先ず可笑しいのだ。もしも『サクラがルギアの主である事』がこの次元での限定的な事だとしても、敵がホウオウやエンテイ達を持っていると仮定するならば、ルギアがセレビィを呼ぶ鍵になる事は予想がつく。しかし、敵からしてみればルギアは未知の存在だろう。
それはつまり、ルギアを扱える確証は無い事。サクラがルギアを扱えている事はシルバー曰くワカバの時点で間違いが無い、ならば普通はサクラを
その可能性があるのはコトネとサクラ。ヒビキのボールではあれ、投げたのがコトネならば、本来はコトネしか扱えなくて当然だ。サクラは少し特殊だが、要するにルギアのマスターは彼女ら二人の筈。
――ならば、ククリと言う人物はサクラである証明に近いだろう。
もしも彼女が全うに成長していれば、雰囲気のひとつやふたつ違っていて当たり前。それに彼女は今まさに成長期。姿形もいくらでも変わる。……もしもそうなら、こうしてリビングレジェンドが態々足止めしてくる理由は、別次元でメイと相対し、メイの力を加えた三人には敵わないと踏んでいるのかもしれない。いや、その可能性が高いと見て良い。
メイに対する情があればこそ、リビングレジェンドに無理に襲わないように頼んだ……。些か暴論が過ぎるとはいえ、これが一番納得がいくし、なにより――。
目を開く。
メイはにやりと笑う。
「……ダメだ。ごめんね。足止めされていられる理由が弱すぎる」
そう言って、ベルトに手をかけた。
即座に激しく発光し、バチバチとおおよそ洞窟内には似合わない音が響く。その音を纏う小型の黄色いポケモンは、激しい放電とは裏腹に音も立てずにその場から跳躍する。
「ジャローダ!」
叫びながら、メイはベルトの一番奥から
「――っ!!」
この間、僅か一秒。
メイがロックを解いたマスターボールを手の中で開く瞬間には、後ろを庇ったジャローダが高圧の電流を流され、その双眸から気高い光を失う。グラリと崩れる体躯の下には、既に閃光と化したピカチュウの姿。マスターボールをショートさせようとしたのか、メイを感電させようとしていたのか、ボールを掴む彼女の手目掛けて飛び上がってくるが――。
「ロォォ!」
「ピカッ!?」
そこで一瞬は意識を飛ばされた筈のジャローダが、尾を素早く払って、小柄な体躯を強かに打つ。その一撃に驚愕し、しかしそれでもいなしきったピカチュウは、メイから少し離れた地に着地。
ジャローダが音を立てて倒れる。
そして、閃光。
「キュレム! 凍える世界!」
現れたシルエットは
メイの手元から伸びた閃光の先に、巨大な竜の姿。黒い体躯に蒼氷をまるで装甲のように纏い、強靭な二本の足で力強く大地に降り、足に対しては小振りな腕を振るう。
冷風が風を裂くような音を鳴らし、まるでそれ自体がそのポケモンの咆哮のようだった。現れただけでメイの肌が音を立てて強張り、鋭い痛みを感じる。それに負けじと彼女はジャローダをボールへ戻し、更に一番奥のマスターボールへ手をかけた。
そこで気が付く。
キュレムの前に、ピカチュウでは無いポケモンが繰り出されていた。動作を見逃した覚えは無いのに、そこに歴戦の傷跡を残す橙色の翼竜の姿。
「グォオオオ」
そのポケモンが咆哮する。ピカチュウはいつの間にか彼の後ろへ駆けており、残心を取るかのように四肢で地へ踏ん張っていた。
リザードン。
レッドの相棒として、ピカチュウの次に挙げられる程、数多くの偉業を成したとされるポケモンだ。そのポケモンが、翼を深く、強く、薙いだ。
刹那、メイの指示を受けていたキュレムが場を凍てつかせ、レッドの繰り出したリザードンが熱風でその場を溶かす。即座に上がった真白の蒸気。肌が凍り付く程の冷気を浴びていたメイなのに、一瞬にして漂う空気が燃えるように熱くなるのを感じた。
――まずい! キュレムが押し負けた。
すぐにそう悟る。
「キュレム、踏ん張りなさい!」
そして叫んだ。すぐにもうひとつのマスターボールを展開する。出したのはゼクロムであり、キュレムと融合させる事によって全力を出す事が出来るポケモンだが――融合は間に合わないだろう。
ゼクロムにもキュレムと同じ指示を出せば、メイはその場で蹲るようにして伏せる。
――そして、蒸気を燃やす程の熱風が、とてつもない爆発を巻き起こした。
凄まじい爆音に鼓膜のキャパシティが即座に超過したのか、大音量の耳鳴りが響く。伏せた筈なのに腹の下に感じた岩肌の感触は無くなり、浮遊感を感じるかと思えば、熱く焼ききられるような痛みが身体中を襲う。
どちらが上なのか、どちらが下なのか。
果たして暑いのか、寒いのか。
脳のキャパシティまでもがオーバーヒートしたかのように、頭の中が真っ白になっていく。そして、そんな自分を今私は意識を無くしたんだなんて、何処か遠くから達観視しているような感想が聞こえてくる。
気がつけば、もう瞼は開けられなかった。身体の自由もきかなかった。
ただ、自分が何処かへ落ちていっているらしい事だけは、気がついた。
――なんてね……。
まだ、行けるわよ?
もっと頑張れるわ。
こんな事で挫けてなんて、いられないもの。
――って。そんな風に説教されたくないのかなぁ……
そんな風に何処か意識の端でごちてから、しかしメイは開かないと思った瞼を見開く。そして口をも大きく開いて、出ないだろうと思った声を絞り出す。
「ゼクロム、キュレム、融合して!」
絶対に負けられない戦いなんだ。
絶対に諦めちゃいけないんだ。
その意思を汲んでか、はたまた偶然か、白銀山の洞窟内に無理矢理空けられた穴を滑落する最中、メイの目前にはポーチに入れていた筈の『遺伝子の楔』。
ほら、ゼクロムだって戦えと言っているじゃないか。寝ている暇なんて無い。
目の前で同じく滑落するキュレムとゼクロムが光を放つ姿に、メイはひとつ頷く。そして穴を上から見下ろしているリザードンと、その背に乗るピカチュウ、生ける伝説を強い眼差しで見上げて見せた。
「……ただの妄想なんかじゃない。私の英雄が、正解だって、戦えって、言ってるもの」
そして小さく、そう零した。
――レビィ。
何処からか鈴の音が、響いた。
※注釈
今更ですが、登山グッズ担がせるのは流石に格好がつかないので、作品補正であまり気にしないで頂けると幸いです。同様に登山時間もフォローしきれない部分でしたorz