アカネが抜けた一行は、彼女が足止めをしてくれると言う分、実にハイスピードで歩を進めた。穴を抜けて現れたごつごつとした岩肌をシルバーのバンギラスの背に乗って登り、コトネが薄れた記憶を必死に思い起こしつつ先導する。ここに至ってもやはり野生ポケモンは居ない。しかし待ち伏せているようなトレーナーは見当たらず、姿を見せる事も無かった。
そう、その必要が無かった。
コトネの記憶によれば、あと二回穴を潜れば山頂に出る。と言う所で、『彼』は居た。その姿を遠目に見たシルバーが舌打ちをすれば、待っていたと言わんばかりな風で、彼は三人の足を無言の圧力にて止めさせた。
「……レッドさん」
「やっぱ居やがったか」
コトネとシルバーがそう呟く。
赤と白のジャケット。薄い青色のジーンズ。そして顔に影を落として、表情の一切を隠すかのようなキャップ帽。端から見れば何処にでも居そうな姿だが、しかし確かな強者としての風格があった。
「ピカピッ!」
片手をポケットに入れ、キャップ帽の鍔を余った右手で伏せさせる青年。その足下で佇む黄色の愛らしい電気ネズミポケモンが、元気良さげに片手を挙げて挨拶をしてくる。
ビリビリと伝わってくる緊張感。……いや、威圧感。しかしそのピカチュウの様子は、全く以って緊張した風でもない。懐かしい顔を見たと言わんばかりな風で、コトネ達に向かってぺこりとお辞儀をしてきた。
「……そこを通して欲しい」
そんな姿に、もしかしたら彼は敵では無いかもしれないと、一縷の希望。それを込めてか、シルバーが僅かに肩を上下させながらそう零す。
「レッドさん。その先に、ヒビキが居るのよね? お願い、通して」
シルバーの言葉に微動だにしない彼へ、続けてコトネが声を出す。
「ピーカ、ピカチュッ」
しかし青年へ向けた言葉に答えたのは、彼の相棒たるピカチュウだった。どう見ても若くは見えないそのポケモンは、残念そうに首を横へ振った。
そして次にメイを指差して、更に地面を指差す。まるで『キミはここに居ろ』とでも言いたげだった。
「……お二人は構わないと?」
メイがそう問い掛ける。
「ピカ」
その言葉を正しく受け取ってか、ピカチュウはこくりと頷いた。代わりにメイはダメだと言うように、前足を着いて僅かに放電する。
「何で……」
「……メイだけがダメなのか?」
戦力的にはメイかシルバーがこの一行で最も強い。いや、おそらくシルバーに問えば、大胆不敵な彼でもメイには敵わないと述べるのではないだろうか。
そんな戦力が削がれる事は、最も避けたい状況のひとつ。ここまでは野生ポケモンの掃討や、警戒にあたっていた彼女だったが、それは温存するまでもなかったが為。それほどまでに彼女の戦力は高かった。多勢に無勢と予想出来る決戦まで、コトネ達のポケモンを温存するようにさせた彼女は、まだまだ余力があるのだ。
「……ピカ。ピカピッ」
再度ピカチュウが先程と同じ動作をする。
どうやらメイは通さないつもりで、意思は堅いらしい。しかしそうなると、シルバーはひとつ気になった。彼は膝を折り、ピカチュウへ視線の高さを合わせて述べる。
「……まさかと思うが、お前のトレーナーは
「ピカピッ」
その通りだ。シルバーの問い掛けに答えたピカチュウは、そう言わんばかりに片手を挙げた。
自らの意思……つまり、ホウオウに操られている訳では無い。何となくだが、元気良さげに快活な声を挙げるピカチュウは、己のマスターを憂いている様子がないような気がしていた。かつてコトネのメガニウムがそうだったように、もしもマスターが操られて非道に手を染めているとすれば……そんな顔は出来ないだろうと、そう思った。
ならば何故……。シルバーはそう思う。
「そこの先に居る輩は、ワカバやエンジュに甚大な被害をもたらした
尚も問い掛けるシルバーに、ピカチュウは少しばかり表情を曇らせつつも、こくりと頷いた。どうやら承知の上だそうだ。
「ねえ、レッドさん。何で? 何でなの?」
コトネは悲痛な声を挙げる。
青年はゆっくりとした動作で首を横へ振った。キャップ帽から手は離さず、彼の皺が寄った口角が少しばかり影から臨めた。……唇は堅く結ばれ、どうにも一言さえも喋る様子はない。
どうしたものか。直ぐ様襲い掛かってくる様子がない青年とその相棒ながらも、しかし時間の猶予は元より少ない。アカネがやられるとは思えないが、彼女の足止めがもしも突破されてしまえば、挟み撃ちにされてしまう。
そう思案をしている二人を他所に、メイが一歩前へ出た。そして、閃光。
「……仕方ありません。行って下さい」
そう言って、彼女は隣に緑色の蛇のような体躯を持ったポケモンを従える。気品だかいように見える襟に挟まれ、そのポケモンの顔付きはどこか怯えるように目を震わせていた。
「……勝てるのか?」
「メイちゃん……」
二人が心配そうに見詰めれば、彼女は首を横へ振る。
「……前に一度戦いました」
零された言葉に、コトネは目を見開く。隣のシルバーが立ち上がり、声を漏らして本当かと問い返した。
クスリと笑うように、彼女は顔を二人へ向ける。
「勝ちましたよ。その時は……」
そしてその後、彼女は再び青年へ向き直った。
「十二分に手加減された上で、ですが」
そう零す言葉は、僅かに上擦ったような印象を持たせる。どこか強がったように聞こえる声は、まるで怯えているのかとも思えた。
「お二人を通してくれるって事は、おそらく敵はもう私達の襲撃を察しています。急がないと、逃げられちゃうかもしれませんし……」
それでも自分を追い込むように語るメイ。
いや、彼女も分かっているだろう。ただの詭弁だ。相手が逃げるつもりなら、最初のフロアで出会した集団を真っ向からぶつけてきているだろう。挟み撃ちのような陣形をとると言う事は、むしろコトネ達を『逃がさない』と言うようで、迎撃すると言う表れに感じた。
むしろこのレッドの対応が気になる所だ。二人を通すと言う事……即ち、コトネとシルバーが行く意義があると言う事。スイクンを持つコトネはその意義が明白だ。しかし、そうなると何故シルバーが通されるのかが謎めいている。
――まさか、こいつか?
シルバーはベルトの一番後ろに位置するマスターボールを、視線だけで確かめた。しかし、その可能性は低いだろうと思い直す。
「ピーカ……」
そこでピカチュウが小さく唸る。ハッとして見てみれば、可視化する程の青白い電流を体毛に走らせ、愛らしい相貌も『今から攻撃するぞ』と言わんばかりに険しくなっていた。
考える時間はもう与えてくれないらしい。
「行くぞコトネ!」
「え? ちょ、シルバー!?」
やむを得ずシルバーはコトネの腕を引いた。
相対する男は、頂点とも謳われるトレーナー。そして一行の目的は彼を打倒する事じゃない。目的は彼を越えた先に居る筈なのだ。
ならば、迷う必要は無くていい。メイには済まなく思うが、どのみちここで三人揃って倒されたり、体力を大きく削られたりする事が、何よりの愚行。
コトネの腕を引きながら、一〇歳近く年下のレジェンドホルダーを横目に見据える。彼女はうんと頷いて、『それでいいんです』とでも言いたげな表情だった。
「レッドさん! お願い。メイちゃんを殺したりしないで!!」
去り際に、コトネは思わず叫んだ。
その言葉はまるでメイの敗北を予期するかのようだったが、それも仕方の無い話。彼女が向かい立つ男は、まさしく『最強』の二文字に相応しい男だった。
風格だけで察した。
かつてコトネが見た、ヒビキと相対した時よりもずっと、彼は強くなっている。そして、その戦力はメイのジャローダと言う相棒を、敵意も無しにすくませていた。
おそらくメイは死力を尽くすだろう。敵わないと思って引くのなら、今この場に彼女はいない。
「…………」
頂点の男の背が遠くなる頃、彼がズボンのポケットから左腕を挙げて、背中越しに返して来てくれた事だけが、唯一の救いだった。