天を渡るは海の音   作:ちゃちゃ2580

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しあ××な日々。

「すまないサクラ! 無理をさせたね」

 

 叫ぶような声を上げて入って来たのは、お父さんでした。普段は清潔感が溢れる短い黒髪を濡らして、オールバックのようにしてしまっています。旅仕様の軽装の上からレインコートこそ羽織っているものの、傍目から見ても中の服ですらびしょ濡れな状態でした。

 

「大丈夫。レオンがやってくれたから。……サキとお母さんは?」

「今こっちに向かってる」

 

 私の問い掛けに短く答え、玄関横のクローゼットを漁るお父さん。肩で息をしていて、声は何処か枯れているように感じます。どう見ても疲れ果てたような姿ですが、休んでいる暇は無いと言いたげの、忙しない動き。

 

「サクラ、ベルト一回外して」

 

 そして厚手のコートとレインコートを一枚ずつ取り上げ、私にそう告げます。やはり先程私が察した通り、逃げなければいけないようです。コートは二枚とも私の方へ開かれていました。

 

「……私も戦えるよ?」

 

 お父さんの指示に従い、ベルトをレパルダスに一度預けます。厚手のコートを着せてもらう最中にそう進言すれば、お父さんは短く「ダメだ」と切り捨てました。

 

「ルギアってわかるかい?」

 

 着せてもらったコートの前のボタンを留めながら、私は記憶を辿ります。しかし真新しい記憶にはありません。足下で見上げてきているレパルダスへ視線を向けました。

 

「なんだっけ、レオン?」

『渦巻き島に眠る海神じゃないかしら。ホウオウの対なす存在って、前にエンジュで聞いた記憶があるわ』

「……つまり、伝説級?」

 

 ぽつりと零しながら、ボタンを留め終えた私はお父さんが開いてくれているレインコートに手を入れました。

 

「そうだ。伝説のポケモンだよ。聞き覚えはないかい?」

 

 その最中、レパルダスの声は聞こえないだろうお父さんがそう聞いてきます。私は首を横に振りました。

 

「ごめん、覚えてないや。レオンは?」

『名前しか覚えてないわ。ただ、海の神様と崇められていた筈よ』

「……海の神様、か」

 

 私がレインコートに両腕を通せば、後ろでお父さんが腰を降ろし、レパルダスを「良い子だ」と、言葉が聞こえないながらも彼女が知っていたらしいと察して撫でていました。

 

「つまり、ホウオウが居ればなんとかなる?」

 

 レインコートのボタンを留めながら、レパルダスを撫でるお父さんへ振り返ります。私の言葉に手を止め、首は横に振るわれました。

 

「最近分かった事だけど……。どうも二匹とスイクン達の三匹は()を司るポケモンに関係があるらしい。無闇にぶつける訳にはいかないんだ」

「……じゃあ、どうしてワカバに?」

 

 私はレインコートのボタンを留め終え、体ごとお父さんへ向き直りました。

 

 五〇も近い歳に対して、若々しい筈のお父さんの顔は、何時もよりずっと老けているように見えます。……本当に疲れきっているようでした。

 

「……ルギアが止められないんだ。海鳴りの鈴に反応してか、ホウオウに反応してか、あのポケモンはここを目指している」

「じゃあ、ワカバの皆を避難させないと!」

「大丈夫。さっきシルバーが来て、協会総出で避難をさせていたようだから」

 

 私が焦ってみせるも、お父さんは僅かに微笑んで返してきました。

 

 そんな物々しい音はしなかったんだけど……。そう思い、耳を澄ませば、そこで初めて外がどしゃ降りの雨になっている事を察しました。意識をしていなかったとは言え、気が付かなかったのは、妊娠してから暫く現役を離れていたからでしょうか。

 

 しかし、ここまでくれば理解出来ます。この豪雨を降らせるようなポケモンが、ワカバに向かっているのです。お父さんは万が一に備え、直々に私を避難させに来たのでしょう。

 

 事は私が思うよりずっと、深刻でした。

 

「さ、あまり無駄話をしている時間は無い。ホウオウと二つの鈴は預かろう」

「うん。レオン、渡して」

 

 私がマスターボールを渡し、レパルダスが首に提げた鞄をお父さんに差し出します。鞄を開けて中から鈴を受け取り、透明な鈴はお父さん自身の鞄へ。海鳴りの鈴だけを片手に持ち、もう片方の手で私からホウオウを受け取り、彼は頷きました。

 

 手に握った海鳴りの鈴を一瞥し、お父さんは目を細めます。

 

 鈴は、群青よりも濃い、紫色のような色に染まっていました。リンと奏でる音は、私が初めて聞くその鈴の音でした。

 

「……不味いね。やはりあのルギアは自らを無くしている」

「その鈴、普段白色だよね?」

「ああ。もう一刻の猶予も無いよ。急ごう」

 

 そう言われ、私は頷きます。先程はレパルダスがそのまま用意してくれた仕度だったので気付きませんでしたが、鈴は明らかに『異常』を示していたのです。

 

 もっと早く気が付いて……いえ、どのみち私にはどうする事も出来なかったでしょう。ポケモンに指示を出す事は出来ても、今の私は愚鈍にも程があります。それにもしも無理をしてお腹の中の命を失うような事があれば、きっと私は――。

 

『サクラ、乗りなさい。なるべく揺らさないようにするわ』

 

 レパルダスが促してくれる背へ、昼間とは違い、跨がります。よしと頷いたお父さんが扉を開きました。

 

 扉の向こうは斜めに雨が降っていて、地を跳ねる滴がまるでバケツを逆さまにして流した水のような音を立てています。とんでもない大雨……いえ、大嵐でした。

 

『サクラ、何処へ行くべきか聞いてもらえるかしら?』

「お父さん、私何処に逃げればいいの?」

 

 大嵐の中へ一歩進み、お父さんは私を振り返ります。心配そうに目を細め、まるで今生の別れだと言わんばかりに悲しそうな笑顔を浮かべていました。

 

「……森を抜けなさい。この雨だからカントーへ渡ろうにも難しいだろう。シロガネ山の方に向かうんだ。いいね?」

「……分かった」

 

 頷いて返します。

 

「お父さん――」

 

――気を付けてね。

 

 そう、言おうとして。

 

 

――ギャシャァァアアア!!

 

 

 とんでもない音量の鳴き声が響きました。

 

 まるで心臓を直接叩くかのような爆音に私の肩は跳ね、尻を預けるレオンの毛が一気に逆立ちます。

 

 その瞬間をまるで見計らうかのように、家の中へ吹き込んでくる暴風。ガシャガシャと音を立てて崩れる家財。紙がくしゃりと折れる音が高速で重なり、何処からかガラスの割れる音も聞こえました。

 

 目の前の風景が、とてもゆっくりとしていました。

 

 暴風に煽られた体がバランスを崩し、振り返ってくるレパルダスの顔付きが驚愕に染まっています。視界は動かしていないのにお父さんの方へ流れ、彼が居るより僅かに遠い所へ白銀に煌めく閃光が降り注いでいました。

 

――なに、あれ?

 

 私はそのまま床へ落ち、レパルダスが悲鳴のような鳴き声を上げました。視界の先でお父さんが横凪ぎに吹き飛んでいく様を、確かに見ました。

 

「っぁぁああ!!」

 

 瞬間、私の腹部に感じた事が無い激痛が走ります。

 

『サクラ! サクラ!!』

 

 私の元へ駆け寄り、私の耳元で絶叫するレパルダス。不意に上げた視界が、見てはいけないものを見ました。

 

 家の二階にあたる天井に、大きな亀裂。

 

 痛みを堪えて、私は口を大きく開きました。

 

()()()()!!」

 

 すると、即座の閃光。レパルダスが首から提げていたベルトのロックが自ら外れ、そこに着いたままの状態で開かれます。

 

『任せろ!』

 

そう叫びながら出てきたのは濃い紫色と肌色の毛並みを持つポケモン。襟から炎を吹き出し、二足で立ち上がった状態で、出てきました。

 

 ルーシーと言うのに雄のバクフーンは、叫ぶなり私が危惧した天井を見上げ、今まさに崩れてきたそれを巨大な炎で躊躇無く焼き払います。

 

『ルー! 何て事を!』

『言ってる場合じゃねえ。もう倒壊しちまう。さっさとサクラを連れて――』

 

 そこで私はハッとしました。同時に、バクフーンも気が付いたようでした。

 

 全方向の壁が、一斉に崩れてきたのです。

 

 天井が崩れた内側、つまり私達の方へ――。

 

『……サクラ』

 

 そう呟きながら、バクフーンは正面に向かって火炎放射を放ちます。私とレパルダスの頭上を駆けていった炎は、今まさに崩れようとした家の玄関を焼き払いました。

 

『一五年。俺は幸せだった』

『ルー!』

 

 バクフーンの方を信じられないと言わんばかりに見るレパルダス。私は激痛さえも忘れそうな程、彼が浮かべる慈愛染みた笑顔に見いり、言葉を無くしました。

 

 優しく抱えてくれた腕は暖かく。足下で見上げていたレパルダスの背に私を乗せ。

 

『頼むぞ』

 

 瞬間的に悟ったのでしょう。

 

 身重の私が逃げられないと。その私を逃がせるのは、俊足を持つレパルダスだけだと。そして、彼女に私を乗せる事により、自分が逃げ出す為の時間を、落ちてくる瓦礫を焼き払う時間を、無くしてしまう事を。

 

『……ええ』

 

 返すレパルダスの声は短く。即座に彼女は駆けました。私の目の前に立っていたバクフーンの姿はすぐに遠くなり――。

 

「うそ。い、いやだ。ルーシー!!」

 

 そこで初めて声が出ました。

 

 顔を強く打つ雨の滴に景色を乱され、彼が崩れる我が家の下敷きになる姿は私の目に見えず。

 

――グシャリ。

 

 そんな音と、瓦礫の下から勢いよく吹き出したどす黒い滴が、彼がどうなったかを示していました。


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