私とレパルダスがゆっくりと家に入り、ソファーまで辿り着けば、見計らったように外から再び轟音が聞こえてきます。窓を認めれば、外の景色が先程見た時より暗く見えた気がしました。
『……でも、本当にどうしたのかしら』
「レオン、何か感じなかったの?」
ソファーの前で私と同じように窓へ視線をやるレパルダス。洗濯篭を目の前に置いたまま呆然と零す彼女は、まるで信じられないものを見ているかのようでした。確かに、彼女はポケモンなので、私達人間よりは随分と感覚が優れます。
猫は陸上で生活し、水辺をあまり好きません。バカでかい音を響かせる雷が発生するような雨雲なら、本来は彼女が本能的に察してくれる筈でした。
私へ視線を向け、レパルダスは首を横に振ります。自嘲するように目を細め、クスリと笑うのです。
『……何も感じなかったの。もう年かもしれないわね』
「そんなバカな。まだ二〇歳じゃない」
『まあ化け猫は何百と生きると言うのだけどね……』
「レオンは化け猫でしょ?」
『失礼ね!』
そんな冗談の応酬をして、私とレパルダスはクスリと微笑み合います。歳はともかく、彼女がボケるにはまだ早いようです。
しかしそうなると可笑しな雷です。遠くから轟と唸るような雲の音を聞きつつ、私はレパルダスの頭を軽く撫でました。
「……渦巻き島の件って、確か大雨だったよね?」
『そう、だけど……』
ぽつりと零した言葉に、レパルダスは言葉を濁すような小さな声で答えます。
長く野生から離れたレパルダスとは言え、彼女が予期出来なかった大雨。もしも
そこまで予想すれば、不意に胸がざわつきました。ポケモンが『雨乞い』をしたとするならば、予期も予報も出来なくて当然です。ですが、雷までもを伴う大雨となると――。
「レオン……。使って悪いけど、電話取ってくれる?」
私の言葉にレパルダスが身を起こします。撫でられていた頭を私に向き直らせて、小首を傾げました。
『サキに?』
「……うん。お父さんもお母さんもいるけど、なんかちょっと心配」
レパルダスの言葉に私は頷きます。すると彼女は小さく鳴き声を上げて、ソファーから少し離れたテーブルへ向かって行きました。そこで私の端末を口に軽くくわえると、彼女はゆっくりと戻ってきます。
『心配するのは分かるけど……。シャノンは私とタメを張れるような子よ? あの子が居たら大丈夫だと思うのだけど。それに彼、貴女と違って頭良いし……』
「一言多いよ。まあ、分かってるけど気になるのが妻の立場なのよー……」
不安な心をまぎらわそうとしてくれる彼女に、端末を持ってきてくれた事も加えて礼を述べます。渡された端末をすぐに開き、慣れた手付きで宛先を選択。
通話ボタンを押しました。
ツー、ツー、ツー。
即座に流れる終話音。あまりの早さに、通信回線すら繋ごうとしていないんじゃないかと思いました。諦めが早いと言うか、なんと言うか……。しかし対する私は諦めが悪く、もう一度同じ操作をして通話ボタンを押します。
即座に終話音が流れました。
「……もう、使えないの!」
そう言って端末をソファーの端に投げつけました。その様子が可笑しかったのか、足下で見上げてきていたレパルダスがクスリと笑います。
『まあ、大雨の所に行ってるのだから、繋がらなくても仕方ないんじゃないかしら。ほら、雨に濡れると端末がおしゃかに……』
「いつの話よ。そんなの私が生まれた頃の話じゃない?」
『……ふふ。そうね』
全く。歳より臭いと自嘲したかと思えば、今度はそれを使って話を茶化すなんて。と、私は唇を尖らせました。
――ピリリリリ。
しかしそんな折り、私が先程ソファーの端に投げつけた端末が音を鳴らすのです。ハッとして音のした方へ向き直れば、私は腕を伸ばしてその端末を取ろうとします。……と、届かない。
『バカね、八つ当たりなんてするから』
大きなお腹が邪魔をして上手く伸ばせない腕。すぐに苦戦すると分かったらしいレパルダスがクスリと笑って、前足で私の方へ端末を動かしてくれました。
少し罰が悪くなりつつも、一々ぐちぐち言わなくて良いじゃんと思う心の方が勝って、私は唇を尖らせてむくれながら礼を述べます。そして端末を取り上げました。
大きな液晶に映る名前は『お父さん』。残念ながら愛すべき夫の名前ではありませんでした。
僅かに肩を落としつつも、端末の通話ボタンを押します。
「もしもしー」
『サクラ! 済まない、急を要するんだ。すぐに動けるようにして欲しい』
正に第一声にして、私のお父さんはとても焦ったような声を上げていました。電話口の向こうで轟と唸る音は、凄まじい騒音のように聞こえます。吹き付ける風が、雨が、まるでノイズのようでした。
私はハッとして返します。
「ええ!? す、すぐに?」
口を突いて出た問い返すような言葉でしたが、暗に『無理だ』と主張します。
私のお腹には大切な命が宿っていて、臨月ももうすぐです。その身重な腹を気遣えば愚鈍にもなるし、臆病にもなります。すぐに動けるかなんて、聞くまでもありません。そしてその事をお父さんは知っている筈でした。
『済まない。言い換えるよ。
そしてそれだけを述べると、端末は先程聞いたのと同じ終話音を鳴らします。
「ええ!? ちょ、ちょっと……」
『どうしたの?』
いきなり告げられた言葉に、私は大慌てです。質問を受け付けないかのようなお父さんの剣幕に戸惑う自分と、すぐに用意してくれと言われた物を忘れないようにする自分。まるで板挟みにされたかのように、私は訳が分からなくなります。
しかし、お父さんはとても温厚な人です。そのお父さんがあんなにも大慌てする事態に、私の中でも確かな焦燥感がありました。先程感じた天気の違和感や、不安感も合間って、焦りながらも冷静にはなれた気がします。
「ちょ、ちょっと待ってね」
不思議そうに見てくるレパルダスに、私は手を差しのべてそう告げます。こくりと頷いた彼女の姿に頷き返し、頭の中でお父さんの言葉を反芻しました。
二つの鈴と、ホウオウ、私のポケモン、位牌……。つまり、この家にある他に代えがたいものばかりです。
「……ワカバが危ないんだ」
理解して行き着いた結論を口にします。仮に私を戦力として戦わせようとするなら、祖母の位牌なんて必要ありません。態々それを要求するのは、『逃げろ』と言う事じゃないでしょうか。
『……危ない? ワカバが?』
「話は後。海鳴りの鈴と透明な鈴、ホウオウとみんなを連れてきてくれる?」
『分かったわ。急ぐのね?』
「うん」
私の言葉にレパルダスは身を翻し、脱兎を越えるような俊足でその場から消え去ります。二階に置いている私のポケモンが入ったボールのベルトや、ホウオウが入ったマスターボールを取りに行ってくれたのでしょう。鈴は一階にあるので、後で私の元へ持ってきてくれると思います。
「……さて」
私はぽつりと零しました。大きなお腹へ視線を落とし、両手で優しく撫でてやります。
「ごめんね。ちょっとだけ我慢してね」
お腹の中の命へそう語りかけ、ひとつ頷きます。よしと零してから、両手で座っていたソファーを押さえ、両足に力を入れ、のっそりと言う形容が似合うような速度で立ち上がりました。
『サクラ! 大丈夫!?』
早くもボールを持ってきてくれたレパルダスが、階段の中腹から私を心配そうに見ています。私は薄く笑って返しました。
「大丈夫。心配しすぎだよ。……仏壇からお婆ちゃんの位牌を取らなきゃいけないの。レオンじゃ無理でしょ?」
『……ええ。でも無理は禁物よ?』
「うん。分かってるよ」
レパルダスが机の上にボール達を置いて、その場から再び駆け出します。その様子を尻目に、私は仏壇へと向かい、非礼を口にして詫びながら、父方の祖母にあたる位牌を取り出します。仏壇の引き出しにある木箱を取りだし、その中に納めました。
『揃ったわよ。鞄も持ってきたわ』
「ありがとう。私のベルトは預かるよ。悪いけど鞄持ってもらっても良い?」
『勿論よ』
レパルダスの分を合わせ、五つのボールが着いたベルトは、お腹には巻けないので肩掛けに。位牌を納めた木箱と二つの鈴はレパルダスの首から掛かった鞄に。そしてホウオウが入っているマスターボールは、私が直接手で持ち。
全てが完了した頃、玄関の扉が大きな音を立てて開かれました。