しあわせな日々。
天を渡るは海の音。
海鳴りの鈴が鳴る時、神は降りる。
透明な鈴が鳴る時、神は降りる。
鈴が濁る時、神は全てを無に廃す。
従順なる三匹の獣、神を鎮めんとする。
そして三匹の獣は荒れ狂う神にかなわず。
獣が絶えし時、揃いし時、最後の神は降りる。
最後の神に力無し。
しかしその命、決して失うべからず。
その命、全ての時と等価なり。
※
その日はとても晴れた日。
少なくとも、昼間は快晴でした。
私は重いお腹を抱えながら、何度も休憩を取って、愛すべき夫の服を家の外に干していました。先程見た天気予報も雨の予定はありませんでしたし、ここ最近は天気に恵まれなかったので、数日ぶりの洗濯でした。
「……ふう」
とは言え一〇枚と少しの洗濯物を干すにしては、随分と時間がかかりました。普段通りなら何て事は無い筈の家事が、何時もの何倍も大変に感じます。本当なら苦言のひとつでも零したくなるものですが……いいえ、これは
あと一月も経てばこの苦労は報われる。この苦労の何倍も幸せになれる。私はそれを知っています。
「ニャ」
足元で短い鳴き声。息を吐いていた私は、ゆっくりと向き直って、そこに居た紫色の美しい猫に、目を細めて微笑みかけます。
「
中身を干して空になった洗濯篭をくわえ、私を見上げてきていたのは
『何て事は無いわ。干すのを手伝えないんだもの。ごめんなさいね』
「ううん。気持ちだけで嬉しいよ」
私は脳に直接語りかけて来るような美しい女性の声に、当然の如く返事をします。レパルダスは微笑む代わりに頭をコツンと私の膝に当て、ゆっくりと踵を返しました。
『乗りなさい。歩くのも辛いでしょう?』
「そんな、いいよレオン。悪いよ」
私へ横腹を向け、顎で自らの背中を指すレパルダス。私が悪いよと返したのに、彼女はもう一度背中を指して顎をしゃくり、いいから乗りなさいと言ってくれます。
むうと唸るものの、仕方なく私は華奢な体つきのレパルダスの背へ、自らの尻をゆっくりと乗せました。私の足が浮いたのを見計らって、彼女もまた、ゆっくりと歩きだします。
不意に私はクスリと笑いました。洗濯篭をくわえ、妊婦を背に乗せたポケモン……実に絵にならない光景だと思ったのです。
『ちょっと、動かないで頂戴。バランスとるの大変なんだから』
「あ、ごめーん」
苦言を貰って、私は思わず舌を出して謝ります。もう、と憤慨そうに彼女が零すのは、言葉と裏腹に私が悪戯っ子のような表情を浮かべているのが分かるからでしょう。レパルダスにそんな特殊な能力が無いのは当然ですが、
『でも、笑えるのは幸せな証拠よ』
呆れた風に溜め息を吐く彼女は、やがてそう零します。私は動くなと言われた事を忘れて、こくりと頷いて返しました。
「そうだね。私、今、とっても幸せだよ……」
そう返しながら、空を見上げます。
ワカバタウンの空は実に気持ちの良い快晴でした。最近は濁りを見せてばかりいた空でしたが、今日はその分のお詫びだと言うような、そんな気がします。
まるで、私のお腹に宿る新しい命と、私が今抱えている重みのようでした。
『あ、
「うん。待ってて」
私はレパルダスにそう頼まれ、彼女の背から降ります。僅かに膝を折って降りやすくしてくれた彼女に礼を言って、重いお腹に負けじと立ち上がりました。
両脇に桜の樹を構えた民家。その扉を開きます。するとレパルダスが私の横まで歩を進め、『ソファーまでと言ったわ』と、背を促してくれます。
「ほんと、世話かけてごめんね」
『良いのよ。
レパルダスはクスリと笑いました。私も微笑んで彼女に「そうだね」と返します。
「
『大雨でしょう? 協会からの要請はアサギとタンバでの救助と支援だった筈よ』
昨日、朝早くに発って行った私の家族達。お父さん、お母さん、そして私の夫。
本来ならば私も一緒に行きたかったのですが、身重だとかえって足手まといになりますし、お腹の赤ちゃんに何かあれば大変です。渋々三人を見送ったものです。
「……はあ。でもさ、お父さんも過保護だよね?」
『ホウオウの事? そうね。何で置いて行ったのかしら』
「暴漢に襲われたら使いなさいってさー」
『あら、ヤダ。私が居るのに失礼ね』
「ねー」
ソファーに着いて、ゆっくりと降ろして貰います。レパルダスは私と話を続けながら、扉を閉めに歩いていきました。
『まあ、お父様も心配なのよ。貴女バカだし』
「……バカって。もうそろそろバカとかやめて欲しいんだけど?」
『ふふ、冗談よ』
扉を閉め、レパルダスは私を乗せていた時よりはずっと機敏な動作で、私の前に戻ってきます。甘えるように私の顔へ、短いながらも柔らかい毛に覆われた顔を擦り付けてきました。
レパルダスの猫らしい愛情表現です。私も腕を彼女の首に回して、優しく撫でてやります。
『心配なのよ。皆。……貴女がポケモンの声を聞けてしまうから』
こくり。私は分かりきった事を言う彼女に、ゆっくりと頷いて返します。
「襲われたのも一度や二度じゃないもんね。仕方ないっか……」
『そうよ。貴女がレジェンドホルダーになって、もう敵わないって分かってる筈なのに、ほんと
「そうだねぇ。あの人達、前の指導者を無くしてから、ずっと同じ力を持った人を捜してたって言うし……」
私ははあと溜め息を吐きます。と、同時にレパルダスも溜め息を吐いていました。
思わず同じ動作を同じタイミングでしてしまった事に、私とレパルダスは顔を合わせます。彼女の顔は如何にもキョトンとした風でした。……私の表情もきっとキョトンとしていたと思います。
ぷっと含んだ音をたてて、私とレパルダスは笑い合います。大きな声を挙げました。
「でも私、レオンの声が聞けて嬉しいよ。聞こえなきゃ良かったなんて、一度も思った事無いもん」
『嘘おっしゃい。貴女昔プラズマ団に、聞きたくて聞こえてるんじゃないって言ってたじゃないの』
「何の話かなー」
『こら、とぼけないの!』
そんな風に私とレパルダスは会話を続けます。
そこで私のお腹がぐうと音をたてました。
「……あれ?」
『貴女、洗濯物する前に食べてなかった?』
「……うーん。最近よくお腹減るんだよね。お母さんも臨月が近付けばそんなもんだって言ってたよ」
『そうなの。何か食べる?』
「うん」
臨月が近付くにつれ、私は身体が変わっていくのを何度も経験しました。つわりは軽い方だったようなのですが、お腹はよく減るし、身体の倦怠感は酷いし……。
『待ってなさい。冷蔵庫くらいなら開けられるわ』
そう言ってレパルダスがトンと床を蹴って、私に背を向けます。使って悪いなと思いつつも、優しく甘やかしてくれる家族の背を、私は微笑ましく見てました。
丁度、その頃でした。
ゴロゴロゴロ。
と、大きな音が響いたのです。
私の視線の先で、レパルダスがびくりと背を跳ねさせ、私を振り返って来ます。何処か呆れた風な、そんな表情に見えました。
『貴女のお腹の音?』
「……んな訳ないでしょ」
分かりきった答えだったのでしょう。レパルダスはクスリと笑って、冷蔵庫を浮かせた前足で開けていました。
と、そこで私はハッとします。
今の音は勿論私のお腹の音じゃないのです。何の音かとすれば、まさかと思いました。
「レオン。もしかして今のって雷の音じゃない?」
『え? 今日は一日晴れてるって予報の筈よ?』
彼女は冷蔵庫から茶請けのお菓子をくわえて取りだし、胴を当てて扉を閉めます。即座に跳ねるような駆け足で私の前に戻って来て、くわえてきたものを渡してくれました。
そして素早く身を翻し、彼女は玄関の脇にある窓へ向かいます。窓を開けないままに顔を押し当て、あちらこちらへ視線を向けているようでした。
「どう?」
私が聞けば、彼女は『うーん』と声を漏らします。
そして再び身を翻し、今度は別な窓辺へ行き、そこでハッとした風に背をびくりと震わせました。
『大変。どす黒い雲が広がってるわ!』
「えー、折角洗濯物干したのにぃ……」
私は唇を尖らせながら、ゆっくりと立ち上がります。羽織っていたパーカーのポケットに先程受け取った菓子を入れ、舞い戻って来たレパルダスと歩を合わせながら、玄関の方へ向かいました。
「レオン。悪いけど取り込むのはお願い出来る?」
『ええ。ハンガーごとでも大丈夫なら私でも出来るわ』
「ごめんね」
そう零し、私は玄関の扉を開けました。いつの間にか洗濯篭をくわえてきた彼女が扉から出て行き、先程私を背負って歩いてきた道を、今度は一息に駆け抜けます。
まるで雑技団の猛獣がするような身のこなしで、彼女は洗濯物をハンガーごと回収していきます。逐一篭へ放り込んでいく様を確認した後、私は先程彼女が見て大変と零した方を改めます。
その方向は昨日、家族を見送った方向でした。
空を黒く染め上げる積乱雲が稲光と共に、見た目にも分かるスピードで広がっています。あんな空を見たのは、ずっと昔にホウエンへ行った時以来でした。
「……うわぁ、凄い雨になりそう」
『そうね。早目に気が付けて良かったわ』
そんな風に交わしながら、洗濯物を回収し終えてくれたレパルダスと共に、家の中へ戻るのでした。
まさか、その雲がポケモンによって引き起こされているなんて、私は予想だにしていませんでした。
新章開幕から訳分からない展開だと思いますが、五ページ後までに回収する展開です。その為、書き溜めてきました。五ページ書き溜めてきました。しゃきーん!!←
※物凄くショッキングな内容が含まれます。
ご注意下さい。