無駄じゃない一日の始まり
サクラ達がアゲハと再会してから二日が過ぎた。潮風が印象的なアサギシティは今日も穏やかな雰囲気で、ゆったりとした時の流れを感じさせる。キキョウやコガネのような都会っぽさがある区画はこの街にもあるのだが、それ以上にゆっくりと寄せては返す雄大な波の音がどこか喧騒を遠いもののように思わせた。
「ねえ、サキ。ちょっと付き合って欲しいんだけど……」
開け放った宿舎の窓からさざ波の音を聴いて、今に微睡もうかとしていたサキは、二回のノックの後に響いてきた少女の声で目を開く。
「……何処に?」
目線を窓から臨める青空へ。まだ日が空高くにあるような昼過ぎだった。普段ならばこんな時間に微睡んでいる事は無いのだが、どうにも波の音は良い子守唄になってしまう。
言葉を返すなり少年は身を起こす。首にまとわりつく赤い髪を、頭を軽く振って振り払えば、横になっていたベッドから足を下ろした。
「デートじゃないんだけど、ちょっと行きたいところあってさー」
まるで立ち上がるのを見ているかのように、少女の声は扉越しに響いてくる。
例の如くここはポケモンセンターの宿舎だ。サキは折り畳み式の机の上に雑に転がしてあったポーチを取り上げた。
「だから何処にだって……」
そんな風に返しながら、ポーチの下敷きになっていたヘアゴムを取り上げる。鏡を用意するでもなく、彼は慣れた手付きで長い髪を一筋に纏めた。しかし一応チェックをしよううと、鏡の前へ向かう。いつもの黒と赤のジャージと、乱れているようには見えない髪型を確認。よしと頷いた。
そして漸く扉へ向かう。
ガチャリと音を立てて鍵を開け、彼は扉をゆっくりと開けた。
すると目に映るのは自分より少しばかり背が高い少女。黒いショートヘアーをヘアピンで留め、白のキャスケット帽に白いシャツと、裾が殆んど無い紺のデニム。
ドキリと鳴る心臓の鼓動。
「……なんか珍しい格好じゃん」
しかしおくびにも出さず、少年は感想を口にした。
「ん。アキラが見立ててくれたんだけど……どう?」
そう言って少女はその場でくるりんと一回転。
ふむ。少年は唸った。
白いシャツとキャスケット帽はいい。若干、白いシャツの下に薄く見える肌色と、下着のラインにドキリとはするが、まだ許容範囲内だ。サキの動悸はこれが原因じゃない。
いや、なんだと言うのだこの少女は。
股下握り拳一個分も丈がないデニム。その下から丸見えになっている白い肌。剥き出しの太もも。膝上まである長いソックスを履いてはいるが、この手の平を開いた分くらいある剥き出しの肌色は一体なんなのだろうか。
純情な少年の心のどこをくすぐろうと言うのか。
「…………」
「あのー、サキくん?」
しげしげと太ももを眺める少年の姿に、少女は小首を傾げてぼやく。
「……っと、ごめん。似合ってる似合ってる」
少年は彼女の言葉に焦った風に早口でそう零し、両手を振って『俺は無実だ』と釈明する。……何の罪に問われているかは彼にしか分からない。
そんな少年の姿に、少女サクラは目敏く察したらしい。
「……へぇー」
にやりと微笑む彼女の口元。少年がおそるおそる合わせた視線の先で、少女の目は『笑ってるようで笑ってなかった』そうだ。
こっそりと感想を聞けば、どう見ても捕食者の目付きだったと、彼は零す事だろう。
「こういうのが好みなんだぁー」
「ち、ちがっ……」
「へぇー。そうなんだぁー。へぇー……」
少女はまるでたちの悪いゴーストポケモンでもとり憑いたかのようだった。サキは必死に弁解の言葉を並べようとするが、それを全く聞いていないようである。
補足するなれば、サクラはアキラに『たまには
彼女が恨めしげに見てくる理由を、『自分がエロい妄想してると思われた』と思っているのだから仕方ない。
弁解の余地が無いどころか、そのチャンスすら与えられていないのだ。実に悲しい話だった。
「……ま、それはおいといて」
しかし少女は、少年が思った以上には責め立てずに話を展開。呆れたように溜め息を吐く姿ながらも、彼は彼女の言葉に心底ホッとした。
サクラは年頃らしい大きな瞳を真っ直ぐ少年に向け、両手を腰に当てて口を開く。
「図書館、付き合ってくれないかな?」
ホッとした拍子に項垂れていた少年は、「へ?」と言って顔を上げた。『図書館』なんて堅苦しい場所を少女が好むようにも見えなければ、行くべき理由も――と、そこでサキはハッとする。
行くべき理由はあった。
「ああ、そういや悶着がありすぎてすっかり忘れてたわ」
零しながら罰が悪くなって、少年は後頭部を右手で軽く掻きながら溜め息混じりになる。
「……でしょ? 実は私もさっきまで忘れてたの」
えへへ、と少女は舌を出して笑う。
可愛らしい表情ながらも、少年は僅かに呆れながらおいおいと返してみせた。
まあ、大事な案件ではありながらも、忘れてしまう程に最近は騒動が多すぎた。そうは言える。むしろ騒動ばかりが際立って、日常と言うものの過ごし方をも忘れてしまいそうだとさえ感じていた。事実サキはこんな時間から微睡んでしまっていた。
「ま、そんじゃ
「うん。どのみちあと二日間ぐらいはアキラも帰って来ないしね」
「……だな」
そう返してサキはそれじゃ準備するから待ってろとし、サクラを部屋にあげる。彼女は「やっぱサキは綺麗好きだねー」と零しながら着いてきて、借りている部屋のあちらこちらを眺めていた。
サキは普段からすぐ使うもの以外はきちんと整理する質だ。見られて怖いものなんて何もない。
強いて言うなら、この部屋に二人っきりと言うタイミングでアキラが帰って来た場合が一番怖い。……まあ、有り得ない訳だが。
パーティのお目付け役と言うべきか、大事な仲間と言うべきか、なんだかんだ目敏く色々やらかしてくれるオラオラお嬢様ことアキラ。彼女は今、アサギには居ない。渦巻き列島の上空だろうか……。
アゲハと再会したあの後、結局アキラは彼女の頼み事を請け負った。それはこれからアサギで起こるかもしれない騒動に彼女を巻き込まない為だったりするのだが、どのみち彼女の戦力はアキラはおろか、サキやサクラ達よりもまだまだ下だった。つまり、お荷物だった。
その節では偉そうに啖呵を切った彼女ながらも、やはり実力と言うものは時間と比例してついてくるもの。その志が報われるには今暫く時間が必要だった。
故に、彼女をタンバに送り届ける事はサクラ達にとっても利があった訳だ。
そう思い至れば話は早い。再会の翌日――つまり昨日、アキラのトゲちゃんこと、トゲキッスに乗せられ、アゲハはアサギシティを去って行った。ちなみにアサギが襲われると言う予知は彼女が知らぬままだったりもした。
その背を見送りながら、サキはバレたらやべえなぁと零し、サクラはその分頑張ろうと言い合った。
予知のその頃にはアキラも戻ってきているだろう。しかしそれまでの時間のうち、ジム戦を予定しても、今日ばかりは無沙汰にしてしまい、今に至る。
「さて、んじゃいこーぜ」
必要な物を詰め込んだポーチを提げ、サキはそう声を掛ける。
「うん。行こー」
にっこりと笑って、サクラはサキの腕をとった。
あまりに自然な少女のスキンシップに少年がドキリとしながら、無駄じゃない一日が始まった。