――逃げない。
そう決めたサクラの心は、一行の次の行動に直結したと言える。あくまでもセレビィを通じたコトネらしき人物から得られた情報では、『ルギアが最短で相手に渡った結果』と言う形で告げられた事ではある。しかし、アサギシティの窮地になる
「アキラ、サキ……。私、アサギシティが崩壊するかもしれないその時、ここで出来る事をやりたい」
海が底無しの虚無に見えようかと言う夜半。アゲハの頼みを一旦保留にして別れた三人は、ポケモンセンターの一室で顔を合わせていた。
何処のポケモンセンターも造りは似ているのか、見飽きる程に見慣れた折り畳み式のテーブルに腰を預け、サクラは二人をじっと見据える。その双眸は穏やかで、しかし今朝まで見せていたような悩まし気な姿はない。
「……危険、ですのよ? 相手にルギアが渡ってしまえば、それこそどうなるやも知れませんの」
苦言を呈すアキラは、この部屋を借りたサクラが使うべきベッドに深く腰掛けていた。どこか悲しそうに、寂しそうに見える顔付きで、彼女は懸念する。
「貧弱娘の言う事は一利ありますわ。それは認めます。しかし、貴女がゴールドに立ち向かうのはまだ早いと思いますの。何故なら――」
「相手は同じ条件か、それ以上だから。だろ?」
そこで珍しく話の腰を折ったのがサキ。彼は定位置だと言わんばかりに、キキョウや先程見せていた姿と同じく、ベッドの向かいの壁に背を預けて腕を組んでいた。
「ええ」と、アキラは頷く。
「相手はルギアと対なすホウオウを持っています。つまり、サクラのイニシアティブは一切ありませんのよ。……スイクン相手にルギアが一分と保たず倒れたのを忘れた訳では無いでしょう?」
アキラの懸念はそこに行き着いた。もしも仮にゴールドがホウオウを持っていなければ、扱えないまでもサクラには『切り札』と言う形でルギアが存在する。しかし相手がホウオウを持っていれば、その利点はむしろサクラがルギアを扱いきれないと言う点において劣化してしまう。
加えて仮にゴールドが他のポケモンを繰り出して来たとして、サクラの手持ちに果たして彼らへ太刀打ち出来るポケモンはいるのだろうか。……考えるまでもなく、否だ。事実コトネはコガネで暗に『相手にならない』と言って、サクラのポケモンを使ったじゃないか。
サクラは目を瞑る。
事実、アキラの言う事はアゲハよりもずっと近くでサクラを見てきた人間の台詞だ。相応に重みもあれば、蔑ろに出来る訳がない。しかしそれでも、アゲハに言われた事はサクラにとって確かなものだった。
逃げて俯きながらビクビクと怯えて過ごしてきたサクラ。対してアゲハは立ち向かうと決めた時から必死に行動をして、真っ直ぐ前を向いて進んでいる。
確かな
アゲハの言葉は数える程しか接した事が無い相手なのに、サクラの心に根強く残った。
サクラは目を開く。
伝えたい事がある。知って欲しい想いがある。その事を示す為に、彼女は深呼吸をしてから、ゆっくりと膝を折った。
「ちょっと、サクラ?」
背筋を正し、膝を床に着け、研磨された石造りの床にサクラは正座をする。その様子にアキラは焦ったような声を漏らしたが、彼女は臆した様子もなく口を開いた。
「これは単なる自己満足だって分かってる」
――だけど、それでも私はエンジュで間違ったんだと思ってる。でもずっと俯いてばっか、ずっと目を逸らしてばっかだったら、私はいつまで経ってもお父さんやお母さんには追い付けない。
追い付かなきゃ、いけないの。
追い抜かなきゃ、いけないの。
思い上がりだと言われようと、出来ないって言われようと、やらなきゃいけない事なの。今日アゲハさんに言われて、やっと気が付いた。
逃げてばっかじゃあ、絶対に追い付けないって、そう思うの。だから――。
「出来る事をやりたいの」
そう言って、サクラは頭を下げた。両手を床に着け、正した背を折り曲げ、床に額を着けんばかりの土下座。今、彼女に出来る最もな誠意の表れだった。
アキラはごくりと喉を鳴らす。心臓を掴まれたような、胸に強い痛みを覚えた。
「や、やめなさい。サクラ。貴女にそんな事をさせる為に私は――」
「ちげえよアキラ」
そこで再度、珍しいサキの横槍。
少年は静かに目を閉じ、組んだ手を解きながら、預けていた背を起こす。アキラから向けられる視線を気にした風もなく、彼はサクラの横へ歩を進め、腰を折った。
労るようにサクラの背を撫で、それでも頭を起こさない頑なな彼女の様子にふっと笑う。そしてその表情のままアキラを臨んだ。
「サクラはお前が大事だから。お前や俺が大事だから……。だから巻き込みたくないけど、巻き込まざるを得ない。でもそんな我儘に付き合って欲しい。そう言いたいんだよ」
だから、そう零して彼はサクラへ視線を降ろす。
「精一杯の謝罪……のつもりだろ? バーカ」
「……うん」
サキは微笑む表情を変えないまま、アキラへ肩を竦めてみせた。
「なあ、アキラ。……出来る事をやろう。出来る事を、やらないか?」
そうして向けられた視線。
赤髪の下から臨む少年の双眸は、まるでアキラを責め立てるようにも見えた。穏やかで、微笑みさえ浮かべているのに、何故かそう思えた。
ああ、とアキラは目を閉じて思い起こす。
いつの間にかサクラを見くびっていたかもしれないと、そう気が付いた。
この言葉は何も別に、ゴールドと直接対峙しようと言う意味じゃ無いのだろう。むしろそうする必要は無いのだ。ルギアも雨を降らせる事ぐらいなら協力してくれるかもしれないし、住人の避難に従事するだけでも意味はある。
何もせずに逃げる事をしたくない。ただ、それだけなのだと、そう理解した。
アキラがゴールドと対峙する危険性を提示し、むしろそれを誰よりも知っているだろう彼女は、それでも臆した様子が無い。つまり、今現在においてはなっから対峙するつもりは無いと、そう言う事なのかもしれない。
自分が思うよりずっと、彼女は成長していた。それぐらいの危険性は提示されるまでもなく、学習している。むしろバカと揶揄されても、彼女はいつだって『どうすれば納得出来るか』と言う事を妥協しない。
――何時の間にか……。いえ、むしろ同い年だったじゃないですか。何を姉御風吹かせていたのでしょうね、わたくしは……。
アキラは目を開く。
「わかりましたの。でも、絶対に直接対峙しようなどとは思わない事。それが条件ですのよ」
そして、暗に言われた事を再確認するように、そう零した。薄く微笑み、顔を上げるサクラの表情を臨む。
サクラははにかむように笑っていた。
――そうですの。わたくしは友人としてサクラのこの
気が付けば、胸の痛みは無くなっていた。
アキラは久しぶりに微笑んだ。