天を渡るは海の音   作:ちゃちゃ2580

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森と海と川と、少女の慟哭と。

 夜のコガネを重苦しい雰囲気で歩く二人。

 

 一人は黒髪にブラウスとジーンズと言う装い。一人は栗色の髪に桃色のドレスと言う装い。どう見ても連れ立っていないように見える二人は、しかし同じ道を歩いた。少しばかり先をサクラがのっしのっしと歩き、らしくもなく項垂れたコトネがとぼとぼと続く。

 

 レストランから出た当初、サクラはもう表情からして実に大層な憤慨っぷりだった。自分の格好を恥ずかしがるばかりで、母はサクラの髪色にさえ指摘を入れない。それが腹立たしかったのだ。しかしそれもその筈で、コトネからすれば彼女の髪色を指摘する事によって、余計に自分の無様さが際立つだろうと思えていたのだから、ものの見事なすれ違いだった。

 

 吹き抜ける夜風は雨上がり独特の香り。それが助けてか、徐々に二人の心は落ち着いていくものの、しかし落ち着いてくれば落ち着いたで、今度はどう話し掛けて良いか分からなくなってくる……。

 

 やがてはコガネの外れに至り、そこでサクラが歩を止めた。

 

「……なんか、ごめんね」

 

 サクラは振り向きもせずにそう言った。漸く切られた口火はどこか鼻声のように聞こえて、コトネの胸を締め付けるように響き、不甲斐なさを責め立てられるよう。

 

 コトネは見えないと分かりつつも首を横に振った。

 

「違う。サクラは悪くない。私が空回っただけじゃん――」

「それでも」

 

 言い分を止めるかのような勢いで、少女は強い口調で遮った。思わずコトネは息を呑む。

 

 サクラはうってかわって零すような口調で続けた。

 

「恥ずかしい思いをしたのはお母さんじゃん。その格好も、ほんとは私の為を思ってくれたんだろうし……」

 

 コトネは少女の背中をじっと見詰めたまま、唇を微かに震わせる。ごくりと呑んだ唾が、咽に引っ掛かるようだった。

 

 恥をかかせたと思っていたのに、サクラは自分のそれではなく、コトネの心情を指摘してきた。それがなんとも、切なかった。

 

 場違い極まりない自分の姿に、恥ずかしい思いは確かにあった。ただ、コトネはそんな事よりも先ず、娘に恥をかかせたと思って気に病んでいた。しかし今の目の前の彼女が零す言葉は、てんで違う話じゃないか。

 

 思わず頬を張る。

 

――しっかりしろコトネ。あんたは母親だろ。

 

 と、自分に言い聞かせた。

 

「サクラ!」

 

 そして告げる。振り向くサクラに明後日の方向を指差して、コトネは真面目な顔で言った。

 

「遊びに行こう!」

 

 次いでにっこりと微笑んでやる。

 

 格好? そんなものはどうだって良いじゃないか。サクラが恥を被ったと思っていないのならば、私が道化なだけだ。サクラが道化で無いのなら、私はなんも気にするこたぁねえさ!

 

 そう言わんばかりに、コトネはパッド入りの胸を張って見せた。ふんと鼻息を荒くして、仁王立ちになる。

 

 呆気にとられていたサクラだったが、やがて薄く笑って返してきた。

 

「もう、お金無いくせに……」

「そ、それについては出世払いだ!」

 

 二の句を継がせまいと、コトネは断言する。本来ならば出世払いなんてサクラの台詞だろうと思うが、そんな事さえもう気にしてはいられない。

 

 私が出来る事をこの子に与える。失った一〇年を悔やむではなく、怒濤の勢いで埋め尽くしてやる。そんな決意を前にしたじゃないか。

 

 コトネはここに至って、ようやく普段の調子を思い起こす気分だった。さしあたっては「仕方ないなぁ」と薄く笑い、コガネの中心部へ戻ろうとすれ違う彼女の、自分より少しばかり高いその頭に、ポンと手を乗せた。

 

 わしゃわしゃと撫でてやる。

 

「黒い髪……ヒビキとおんなじだよ」

 

 そこでハッとして振り向いてくるサクラ。その顔には僅かに驚きと、不意を突かれては嬉しそうに揺れる瞳。まるで花が開くかのように、彼女は笑って見せてきた。

 

「うん。お父さんとお揃いにしてみたの」

「全く。子憎たらしい奴め」

 

 撫でる手を切り替え、彼女の髪どころか服ももみくちゃにしてやる勢いで撫でた。「ちょ、やめてよぉ」と零す彼女ながら、その顔は笑顔が溢れんばかり。

 

 

――そう、こんな風に笑いあっていたいんだ。

 

 かつてこの子と同じ髪色をした少年と、そうだったように……。

 

 

 そこでコトネは不意に気がつく。

 

 ここはコガネの南側。ヒワダタウンとを繋ぐ、ウバメの森への道。

 

「そうだ……」

 

 コトネがそう声を挙げて手を止めた。へ? と、小首を傾げる彼女に、コトネはウバメの森の方を見ながら「やっぱ遊びに行くのはご褒美にしよう」と零す。

 

 じゃあ、どこに? と返してくるサクラに、コトネは微笑んで見せた。

 

「知ってる? 私の実家ってこの先なのよ」

「え、そうだったの?」

「育て屋さんって名目でやってて、私の祖父母がやってたんだけど……」

 

 あー。と、サクラは言葉を漏らす。今はもう代替わりを経て、コトネの祖父母も高齢の為に他界している。故に今現在コトネの実家とは言いがたいのだが、話したいのは実家についてじゃない。勿体振るように「だーかーらー」なんて零して、続きを聞けと彼女の視線を向けさせた。

 

 そこでコトネは得意げに笑ってみせる。

 

「私この辺の極秘スポット知ってんのよ」

 

 そこに行かない?

 

 と、コトネは肩を挙げた。

 

 勿論。そう言わんばかりにサクラは二つ返事で頷いてくれた。

 

 

 コトネの言う極秘スポットは、コガネの外れからは少しばかり距離がある。普通に行けば三時間以上はかかるものだが、そこは良く知ると断言する彼女の昔とったなんとやらである。街道沿いの川辺に向かえば、彼女はひっそりとスイクンを繰り出した。

 

「はい、乗った乗ったー」

 

 と述べてサクラと二人でその背に跨がり、スイクンに指示を出す。

 

「頼むから一〇年で開拓とかされてなかってくれよー」

 

 と、ふざけたように言いつつ、スイクンを駆った。その足は水辺に乗れど、沈む事無く跳ねて、神速の如く駆け抜けていく。青い体毛は風に揺れ、白い前足が水を跳ねる。その様子はどうして、以前は殺されかけた筈のサクラからすれば、まるで別のポケモンのように感じた事だろう。あの時に感じた恐怖なんて、すっかり忘れてしまえる程に新鮮な光景だった。

 

 桃色のドレスの女性と、ブラウス姿の少女。傍目に目立つ筈の姿は、しかしスイクンの速さの前では視界に留める事さえ叶わない。かつてサクラがやはり三時間はかかったのその道程を、スイクンは一時間も要さずに駆けてみせる。街道沿いの川辺をひたすら南下し、高速で流れていく視界の中、少しばかり装いを変えたものの変わらずそこにある育て屋を過った時には、コトネは懐かしそうに笑ったものだ。

 

「懐かしいなぁ……。昔はマリルと一緒にずっと遊んでたよ」

「お母さんの初めてのポケモンってもしかしてマリルなの?」

「そうだよ。今となっちゃどこでなにしてるやら……だけどね」

 

 なんて話しながら、めまぐるしく変化する景色を楽しんだ。

 

 母の昔話は今と繋げてしまうと悲しいものもあるのだろう。だけどこの時ばかりは、サクラにとってただただ純粋な昔語りとして、温かみにあふれるものだった。

 

 そして――。

 

 やがて辿り着いた場所は、川が海へ。森が浜辺へ。

 

 月光に照らされてキラキラと輝く砂浜。

 

「わぁあ!」

 

 思わずサクラは、コトネに初めて見せるような子供らしい笑顔を浮かべた。

 

 森と海と川と。その三種が入り交じる幻想的な光景は、まさしく少女の心を強く揺さぶる。美しくて、綺麗で、素敵で、褒め称える言葉は多く脳裏に宿るのに、そのどれもが安っぽく思えてしまう程、魅了される景色だった。

 

 まさに秘境。

 

 かつてサキと訪れたあの場所とは違う印象だったが、どうしてあの時を彷彿せざるを得ない。

 

「私ね。サキと繋がりの洞窟の秘境に行ったんだよ?」

 

 少女はスイクンから降りて、あまり広くはない浜辺を駆けていく。零れそうな笑顔を浮かべて、彼女はとても大切な思い出を母に語りはじめた。

 

 サクラの背中を見送りながら、コトネはスイクンをボールへ戻す。

 

 繋がりの洞窟の秘境――と言えば、そういやサクラを連れてヒビキと三人で行ったなあ。なんて思いながら、微笑みと共に「そりゃあ凄い」と返す。

 

「あそこでサキと恋人になったんだ」

 

 照れるように、はにかむように、娘は笑う。

 

「そっか」

 

 そう零して、コトネは微笑んだ。

 

 かつて家族で訪れた地が、形を変えても娘の中で大切な場所となってくれた事は、純粋に嬉しく思える。あぁ、これが母性ってやつかもしんない……。そんな風に思いながら、コトネは双眸を細めて彼女が浜辺で振り向く様を見詰めた。

 

「――なら、あそこはあんたにとって凄く大事な訳だ」

「うん! あそこがサキとの思い出の場所」

 

 だから、と少女は笑顔に乗せて言葉を繋ぐ。

 

「ここがお母さんとの思い出の場所。かな?」

 

 満面の笑みで、月光を背に、少女は嬉しそうに背を向けた。その姿を見守るコトネは、どこか慈愛顔でただただ見詰めるばかり――。

 

 

「……でも」

 

 

 少女が次に振り向いた時、その顔は、月光を背に、悲しげに曇っていた。

 

「……明日でお別れ。なんだよね」

 

 彼女はそう言って、俯いた。後ろ手を組んでいた肩が震えだして、先程の笑顔が嘘のように無くなり、紅潮していく頬。流れる潮風に、まるで誘われるように少女の姿は儚く映った。

 

 いきなりの言葉に、コトネは薄く浮かべた笑顔を凍りつかせた。サクラの双眸が潤んでいっては、徐々に溢れだす雫を見て、そこで初めて彼女の二の句が分かった。

 

 

「やだよ!!」

 

 

 初めて見せた子供のような笑顔は、初めて見せた子供のような泣き顔に。理解が追い付かず呆気にとられるコトネの前で、彼女の双眸から雫が流れ落ちていく。

 

「やだよやだよやだよぉぉ!!」

 

 泣き叫ぶように、少女は首を横に振って、地団駄を踏んだ。ようやく彼女の言葉が何を指すか理解して、胸が締め付けられるような思いで、コトネは絶句する。

 

 ただ、呆然と見詰めるしか出来なかった。

 

「なんで居なくなっちゃうの。なんで行っちゃうの。なんで置いてくの。なんで私と離れるのが正しいって、そんな風に言うの!?」

 

 それは一〇年前の言葉だったのか。

 一〇年間の言葉だったのか。

 今の言葉なのか。

 

 果たしてスイクンを持つコトネと、ルギアを持つサクラと。決して今一緒に居られる状態で無い事は、サクラ自身理解しているだろう。

 

 理解はしている。

 

――でも、誰が納得したのだろう。

 

 彼女の幼心を、誰が察したのだろうか。

 誰が理解すべきだったのだろうか。

 

 果たして一番我慢しているのは誰だったのか。

 誰が解放してあげるべきだったのか。

 

「……サクラ」

 

 コトネは震える唇を、まるで心を磨り潰すような気持ちで動かした。

 

 なんと言えば良いのか、まるで分からなかった。

 

 一〇年前、置いていった。

 一〇年間、放置した。

 

 そして今、彼女をまた置いて行かざるを得ない。

 

 なんと謝れば良いのか、はたまた全て投げ出しては彼女に寄り添ってあげれば良いのか、果たして一〇年間の埋め合わせは、どれが一番正しいのか。

 

「やだよぉ! 一緒に居てよ」

 

 少女の()()()()は一息に集束して――。

 

 

「おかあさん!」

 

 

 少女のその姿はまるで幼い頃の姿をダブらせて、コトネの頬に雫を流させた。紅潮した頬に涙を流すサクラを、目に焼き付けようとすればする程、コトネの視界は滲んだ。

 

 何が正しいかはちゃんと分かる。

 

 ちゃんと、わかっていた。

 

「サクラ!!」

 

 思わず叫びながら、コトネはサクラに駆け寄って、自分より大きな筈の少女を、その小さな姿を、抱き締めた。

 

 途端に少女の嗚咽は堰を切り、号泣に変貌する。心の端でメイに謝りながら、その幼い泣き顔を胸へ抱き留める。

 

「絶対に帰って来る。今度は絶対に帰って来るから――」

「イヤだ! イヤだよ! もう置いて行かないでよ。もう一人にしないでよ。ずっと一緒にいてよぉ。もうひとりぼっちはイヤだよぉ!!」

 

 少女はそれでもひたすらに、少女らしく泣いた。初めて見せた大人びた仮面の裏の顔を見て、コトネは気が気で無くなる思いだった。

 

 どうすればいいか分からない。分からなかった。何が大人だ、何が親だ、何が母だと、自分を呪いながら、泣きじゃくるサクラを胸に抱き留める事しか出来なかった。

 

 

――本当に罪深い。

 

 私は親としてサクラに何も与えられなかった。果てはサクラの慟哭を聞くまで、私は何も気付かずに、ただただのうのうと与えられたポジションを享受していただけじゃないか。

 

 何がサクラにとって一番なのか?

 何がサクラにとって私がしてやれる最善なのか?

 

 それすら綺麗事のようなものしか浮かばなくて、彼女が求めていない事はよくわかった。でも、それはどうしようもない事で……。

 

 ねえ、アカネ、シルバー。

 あんた達はこんなに小さくておっきい壁と、ぶち当たり続けてきたの?

 

 誰か、教えてよ。

 

 誰か、この子の涙を止めてよ。

 

 誰か、誰か、だれ――。

 

 

 だれ……が、とめるの?

 

 

 この子の涙。

 

 誰が止めるの?

 

 アカネ?

 メイちゃん?

 シルバー?

 フジシロ?

 アキラちゃん?

 サキ?

 

 

 いや――。

 

 

 コトネはそして、静かに悟る。

 

 少女の慟哭に、一〇年の時が漸く埋まり始めた。

 

「……サクラ」

 

 鼻声混じりに、彼女を片手で抱き留めたまま、自らの目元を拭う。声をかけてはおそるおそる見上げてくる幼い顔に、コトネは薄く笑いかけた。

 

「寂しい思いばっかさせてごめん。辛い思いばっかさせてごめん。苦しい思いばっかさせてごめん」

 

 化粧が崩れ、ぐしゃぐしゃに歪んだ娘の目元を拭ってやる。

 

「でも――」

 

 コトネは今一度サクラを抱き締めた。

 

 

「行ってくるよ。ごめんね。もう一回だけ許してね……」

 

 

 少女の慟哭が再び堰を切った。

 

 コトネはそれでももう、迷う事なく、彼女を胸に抱き留め続けた。

 

 

――この子を守るのは私。

 

 誰でもない、私なんだ。

 

 泣かせても、悲しませても、いつか未来でサクラが笑えるなら。

 

 

 それでいい。

 

 それがいい。


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