『昔々あるところに……』
そんな言葉から始まった物語を、私は今でも覚えている。漠然的に、断片的に、だけども。
幼い頃に両親に手を引かれ、旅行へ行った時の話だ。ピカチュウを頭に乗せた少年のポスターを見て、これが観たいと駄々をこねた。お母さんは『旅先で映画なんてつまらないじゃん』と言ったけれど、お父さんが許してくれて、私はその映画を観る事が出来たんだ。その映画の一番最初の言葉が、『昔々あるところに……』だった。
馬鹿だ馬鹿だと言われる私だけど、記憶力は多分良い方だから、きっと間違いない。
映画の内容はポスターの通り、ピカチュウを連れて旅をする少年の話。その後シリーズ化して、今となっても何年かに一度新作が出る程、当時は絶大な人気が出ていた。周りの子供たちが親に連れられて映画館へ入っていく姿に、私も私も――となったのはある意味必然的だろう。その時は知り得なかった情報だけど、そのお話は『レッド』と言う名前の伝説のトレーナーをモチーフにした話で、相棒のピカチュウとレジェンドホルダー……いや、ポケモンマスターを目指す話だ。わくわくしながら鑑賞して、時に『頑張れ!』と声を上げて、お母さんに『静かにしなさい!』って怒られたのを覚えている。
その時に観た映画は、私の転機になったのかもしれない。
ピカチュウに『レオン』と名付けて、旅をする少年が、当時の私にはとても格好良く見えたんだ。その映画がトレーナーを目指すきっかけとは言わないまでも、私はその映画がとても好きだった。それは一時ポケモン嫌いになった筈の私が、それでも続編の物語を観てるあたり、我ながら解りやすい人間だと思う。チラーミィに『レオン』と。加えては続編で登場したピカチュウのヒロインたるプリンからとって、チュリネに『ルーシー』と。そう名前を付けた事から、どれだけその物語を好いていたかを解って貰えれば……とは思う。
余談だけど、お父さんとお母さんは、映画の主人公のモデルたる『レッド』さんに会った事があるそうな……。ウツギ博士が内緒だよって教えてくれた事だけど、再会したらこの話題を話したいなってずっと思っていた。まだその機会はないけれど。
あれから何年経っただろう。
私は今。長く別れていたお母さんと再会した。そして明日、再びお母さんと別れる事になる。
でも、私はお母さんを前にすると巧く甘えられない。お母さんの温かな身体に、素直に飛び込む事が出来ない。お風呂場でもみくちゃにされた事はあるし、泣きついたりもしたけれど、未だに気恥ずかしさが先立ってしまって、お母さんに甘え足りない自分がいる。
本当なら、こんな事を悩む事自体がおかしいのかもしれないけれど……。
正直に言ってしまえば、お母さんの事は大好きだ。再会してすぐに確信した。時に腹立たしく、鬱陶しくも感じるけど、私はお母さんの匂いが好きだ。骨張った身体が好きだ。ふざけてばかりいる声が好きだ。なんだかんだ優しいお母さんが心の底から大好きだ。
だけど同じくらい大嫌いなんだ。私の幼い頃の記憶と違って小皺が目立つ顔が嫌い。大きく感じた筈なのに私より小さい身長が嫌い。私に余す事なく受け継いだド貧乳が嫌い。……私を一〇年も放ったらかしにした事が大嫌い。
――一〇年を取り返そうとして、一〇年の時間を怖がって、お母さんに甘えられない自分が大嫌い。
なんで私なんだろう。
なんで私の家族なんだろう。
私はきっと、『特別』でなんかいたくなかった。
当たり前のように両親が居て、当たり前のように家で団欒する時間が、特別だなんて感じたくなかった。ずっと一緒に居て、大人になるまで面倒を見て欲しかった。泣き、笑い、怒り、尊ぶ時間を共に過ごしていたかった。
だけどそんな後悔をすれば、多分そうなっていたら出会わなかった人達が恋しく思えて、その人達に申し訳なくなって……。
私の心は悪循環を繰り返す。
出会った大切な人たち。
死なせてしまった大切な人たち。
築いた大切な思い出。
だけど与えられなかった当たり前の幸せ。
私はこれから、一〇年と言うあまりに大きな時間を、ちゃんと埋めていけるのかなぁ……。
※
夕方。雨が降るコガネの町を、私とアキラ、サキの三人で歩いていた。行き交う傘を差した人々の間を縫うように、アキラの先導で私達は都会の喧騒を尻目にして進む。
「あ、あのお店ですの」
やがてアキラが指を差したお店は、都会に似合わない木造の小民家のような装いをしていた。入り口は一つ、洒落た縁取りがされた小窓が二つあって、中は初夏の湿気のせいかガラスが曇っていてよく見えなかった。だけど入り口の上に掲げられた看板には、ファンシーな横文字と共に『小物屋』と書いてある。
「え、なんか可愛すぎねえ?」
「大丈夫ですわよ。置いてある小物のジャンルは多いですし、サキの趣向にも合う筈ですの」
フジシロさんに留守番を頼み、私達三人だけでの外出。初めは私の染髪が目的だったけれど、その道中でハッとしたアキラの提案でここへやって来た。
――もしよければ、お母様にプレゼントを買いたいのですが、お二人もいかがですか?
だなんて、アキラらしい思い付き。
これから厳しい戦いをしてくるかもしれないお母さん達へ、無事を願って贈り物をしようじゃないかと、そういう提案だった。勿論私とサキは二つ返事で頷いて、アキラの提案に便乗させてもらう事にした。そこで訪れたのが、この小物屋さんだった訳だ。
店内へ入ってみれば、内装も外観通りの木造が基調だった。優しく感じるアロマの匂いがして、その中に樹木特有のつんと香る爽やかさがある。初夏のじめじめとした湿気を感じさせない、心地よい匂いだった。
腰の高さのテーブルが並び、その上には小さなアクセサリーが所狭しと並んでいる。アキラが言った通りジャンルは豊富なようで、だけど区画別にきちんと分けられている為にごちゃごちゃとした雰囲気も無い。実に彼女が好みそうな整理整頓された様子だ。
「いらっしゃいませー」
そしてそんな小奇麗な装いながらも、私達以外にお客さんはいない様子。店主らしきお婆さんが態々立ち上がってにこやかな表情でそう告げてくれるくらい、暇な時間だったらしい。
「ゆっくりご覧になって行って下さいな」
続く言葉に私は会釈をして返す。サキは私と同じようにしていたようだけど、アキラはさっさと傘を傘たてに入れて「では後ほど」と零すと、その店主の方へ歩いていってしまった。
私もアキラに倣って傘をしまう。
「あら、アキラちゃんだったのかね」
「ええ、ごきげんよう」
不意に聞こえた会話。どうやらアキラはこのお店の常連のようだった。続いて「新作はございまして?」だなんて聞いているのだから、コガネを出てからの内に入荷した品を漁ろうという様子。何となく良いなぁなんて思えて、クスリと笑ってみれば、隣でサキも同じような表情を浮かべていた。やがて彼と見合っては、「俺達も別れて探すか」と提案されて、うんと頷き返す。
じっくりと見て回ってみれば、実に様々な小物が並んでいた。一応インテリアの類も取り扱ってはいるようだけど、どうも品揃えはアクセサリーがメインのようだ。カロスで有名なゴシック調のものや、ホウエンのガラス細工、当たり前だがコガネで流行りのものまでもあり、その種類は多岐に渡ると言っていいだろう。
だけど――。
「んー……」
ガラス細工に黒い布紐が通されたネックレスを取り上げてみる。しげしげと眺めてみた感想としては『綺麗』なんだけど、これを仮にお母さんが着けた様子を想像してみると……似合ってない。
じゃあ、と次に取り上げるのは赤と黒のタータン・チェックと呼ばれる柄のシュシュ。少し洒落っ気は強いけども、柄としては落ち着いたものだろう。お母さんの年齢でも問題はないと思う……が、あのバナナ型のツインテールがこれで結ばれていたらと想像すると気持ち悪い。
当たり前だけどギンガム・チェックの可愛らしいリボンだなんて似合わないし、ハート型のイヤリングだなんて論外も良いところ。リストバンドは普段から女性っぽさが無いお母さんに着けさせたら更にそれが助長されそうだし、帽子は普段から被ってるキャスケット帽があるからダメ。指輪は……ダメだ、サイズが分かんない。
あーでもない、こーでもない。
私がそんな風に悩んでいると――。
「サクラ、まだ決められませんの?」
と、声を掛けられてハッとする。視線を上げれば、既に小袋を片手に提げたアキラが呆れた表情をしていた。彼女の向こう側には、今正に会計をしているサキの姿。
「え? 二人とも早くない?」
「……いえ、貴女が遅いだけでしょう」
と、アキラは私の頭上を指差してそう言う。唇を尖らせながら彼女の指が示す方を視線で追えば、私は今に「そんな事ないよー」と言おうとした口を閉ざした。
三〇分は経っていた。加えて、美容室の閉店時間が割と急がなくちゃいけない程に迫っていた。
「……まあ、コトネさんと再会して間もありませんものね。無理もありませんわ」
驚く私を他所に、アキラはそんな感想を述べる。
と、すればその感想が私の中にスッと落ちてきて、あぁ、そうか。と納得するに至る。
――そうだよ。
だって私は、お母さんの事殆んど知らないもん。
本当は似合うのかもしれないものも似合わないように見えるし、お母さんが欲しがりそうなものも分からない。好きな柄が分からなければ、好きな色だって知らない。
私はお母さんの事を、知らないんだ。
手早く選べる筈が無い。
「まあ、そういう時は数少ないでしょうが、思い出を辿るのが良いですわよ」
と、俯く私にアキラがそう零す。ハッとして顔を上げれば、彼女はうんと頷いて人差し指を宙に立てた。
「考えてもみなさい。わたくしやサキは確かに貴女より両親との思い出が多い。だけど、多いと言う事は、選択肢が多すぎると言う事ですの」
例えば、ほら。
とアキラは続ける。
「わたくしが貴女との思い出に学校での何気ない話を挙げたとして、貴女は今の日常を思い浮かべるかもしれません」
私はアキラにうんと頷いて返す。
するとアキラはクスリと微笑んでから、「まだ分かりませんか?」と問い掛けてきて、続けた。
「思い出の数が少ないのなら、きっと貴女が覚えている数少ない思い出は、コトネさんも思い起こす思い出のひとつ……。きっとわたくしのお母様や、サキのお父様よりもずっと、色濃く覚えていらっしゃっておいででしょう?」
その言葉に、私はハッとした。
――ああ、そうだ。
色濃く残っている思い出は、確かにあるじゃないか。
「……うん。ありがとう」
そして私はアキラにお礼を言うと、すぐに踵を返した。
向かう先のコーナーは決まっている。
そう、あの時の映画の――。
※
受け取ってくれるだろうか。
覚えてくれているだろうか。
あの日、あの時、私が駄々をこねた事を……。
いや、もしも忘れていたら思い出させてあげるんだ。
あの時私とお母さんと一緒に居た、もう一人の人を彷彿させて。
「お似合いですよー」
美容師さんが笑顔で告げてくれる。
目の前の鏡に写る自分の容姿に、私は思わずクスリと笑った。
うん。
これならきっと大丈夫。
私はお父さんと同じ真っ黒の髪を見詰めて、そう心に言い聞かせた。
――泣いても笑っても明日で暫くお別れなんだ。
ちゃんと甘えよう。
甘えられるよね、私……。
あの日言った、『わがまま』のように……。