結局サキが何を悩んだのかは分からぬまま、サクラはアキラと共に彼に続く形でリビングについた。まだ邸宅へ戻って然程時間も経っておらず、コトネ達が戻って居ないのは判りきった事だ。しかしそこにいる筈の男が、一人居なかった。
「あれ、助手さんは?」
リビングへ入るなりサキは円卓へ向かった。その円卓には既にフジシロが腰かけており、彼がサクラを振り向いてひとつ頷く。その様子の意味を取りあぐねれば、サクラの横で足を止めていたアキラが代わって口を開いた。
「この三日ろくに寝てなかったそうで、流石に限界だと言ってさっき帰りましたわよ」
なるほど、カンザキは確かに満身創痍の顔付きだった。サクラがひとつ頷いて返せば、「明日の昼にはまた来るとの事ですわ」と続けて補足される。本来、とても忙しい筈の立場の彼だが、そこにそう言った事情はあまり見せてはこない。
サクラはウツギ博士の元で過ごしていた時間が長かったので、特に『そういう感性』は無かったのだが、アキラは「研究者にしては人情溢れる方ですわね」と零した。サクラはやはりひとつ頷いて返す。『そういう感性』が無くとも、偏見とも言うべきその感性を理解はしているつもりだった。
世間一般的に研究者と言えば、世の真理を解き明かす為、様々なものを犠牲にしていると言う偏見がある。事実ウツギ博士は良く研究所に泊まり込んでいて、家族との時間を多く犠牲にしていたし、カンザキにしても未だ未婚のようで、種の本能を介さない彼は、人間としてで言えば『欠落品』なのかもしれない。
サキが座った横に、アキラと挟まれる形で円卓に腰掛けながら、サクラはふうと息を吐く。ともあれこうして彼の不在を訝しく思うサクラだが、カンザキが『部外者』である事は重々承知している。むしろウツギ博士と言う犠牲者が出ている以上、カンザキにとっては関わらない方が良い案件なのだろう。それでも対P派装置や、様々な知恵を持ち出してくれた彼には感謝してもしきれない。もっとも、家族同然に育ったサクラにとっては感謝こそすれば、必然的だったようにも感じるが。
そこに『研究者』だとか、『人間の生業』だとかはあまり関係が無いのかもしれない。『家族』を気にかける心は、きっとどんな生き物も抱く心なのだから。
「……あ、忘れてましたの」
思慮に更けるサクラの隣で、アキラが柏手を打った。そしておもむろに席を立つと、「すぐ戻りますわ」と告げてリビングを出ていく。彼女に短い返事をしたサクラは、しかしここに至っては手持ち無沙汰だとサキを一瞥する。
先程、部屋で悩んだらしい事は「話さない」と言ったくせに、未だどうも悩んでいるようだ。その相貌は険しく、どこか『話しかけるな』と言うオーラを纏っているようにさえ感じた。サキを挟んで更にその隣で、フジシロは薄く笑っている。サクラの視線が彼に流れれば、男は小さく口を開いた。
「サクラちゃん……。そろそろ髪の毛が伸びてきてしまっている。後で染めに行ってはどうかな?」
不躾に言われた言葉にサクラは「あ、はい」と少し戸惑いながら返す。バッグから手鏡を取りだし、鏡面のカバーを裏返しに立てては机に置いた。鏡面に見るも慣れ親しんだ自分の相貌が映る。
「元の色を知っているとどうも茶髪が目立つね。金髪と言うのは」
と、フジシロは朗らかに笑う。
サクラも薄く「うん」と笑って返し、そう言えばサキに言われたなぁと鏡を見つめた。
どれ程目立っているのかと見てみれば、なんだかんだ二月では精々根本が暗く見える程度。成長期のサクラは髪が伸びるのも早いものだが、所詮は髪の毛である。元の成長ペースが遅いものだから、大して目を見張る程に早い訳ではない。
それでも根本が暗く見えると言うのは、つまるところ『髪の毛染めてますよ』と公言しているようなもの。コガネならば兎も角、これから向かうアサギやタンバ等は比較的風情溢れる落ち着いた町並み故に、染髪と言うのはそれだけで目立ってしまうかもしれない。
コガネを出る前に染め直した方が良いかなぁ。サクラは前髪の毛先を両手でつまんで二房に割き、しげしげと眺めて見る。
金髪は似合っているし、気に入ってもいるサクラだが、この染髪の意義はサキが前に苦言した通り『変装』のひとつにあたる。つまり、『染髪している』と一目に判って、更にそれが目立つと言う事はあまり宜しくはないのだ。
これから強襲作戦が決行されるとはいえ、それさえも成功失敗云々の前に、あくまでも『確認するに値する』レベルの机上論の上に成り立っている事は百も承知である。特にシルバーが『ホウオウが居たとして検知出来ない場所』に渦巻き列島を挙げていた以上、その近隣に位置するアサギやタンバで目立つ事は避けておきたい。
そうだよね、サキ?
と、サクラは思案を口に出さないまでも、隣に座る少年を見た。しかし彼は俯き、考え込む時に良く見せる右拳を顎に当てた姿で、サクラとフジシロの会話を耳に入れていないような様子だ。
むー……。と、サクラは唇を尖らせた。サキの向こうで僅かに察したらしいフジシロが呆れたように微笑を浮かべる。
キキョウシティでは染髪のひとつに対してあれほど苦言を漏らしたくせにと、少女は構って貰えない寂しさやら、言い知れぬもどかしさを不満げに、ぷいとそっぽを向く。勿論サキは気付きもしなかったが。
はあ、あの時は
あれ?
そこでサクラは不意に違和感を感じた。
フジシロへ向き直って、変わらずの微笑を浮かべる彼に疑惑の視線を向ける。彼は視線に違和感を感じたのか、微笑を辞めてうんと小首を傾げた。
――私、フジシロさんに元が茶髪だって言った事あったっけ?
今、少女の髪は金髪だ。金髪の下に僅か三センチ程に満たない茶髪が潜っている状態。一目に見れば、その色合いの差から『黒髪』が潜っているようにしか見えない筈だ。
あれ? と、サクラはやはり疑念を拭えない。確かにフジシロはサクラの足取りを追っていたと言うし、サクラと出会う前の数日に彼女の元の髪を拝んでいて不思議ではない。不思議ではないが、普通『茶髪』が一日にして『金髪』に変わっていたのなら、元の髪色が『茶髪』と思える事自体おかしくはないか……?
ごくりと息を呑む。
隣に座る少年はやはり俯いていて、サクラの違和感には気付いていない。ただ、少年が気にかけていないと言う事はつまり、あまり気にしなくても良い事なのだろうか?
サクラは分からなくなった。
「ただいまですの」
その時、リビングの扉が開く。
白いショート丈のドレスのようなワンピースを着た、桃色の髪を揺らす少女が帰ってきた。彼女はHの烙印が捺された黄色と黒のハイパーボールを片手に持ち、「控えから連れてきましたの」とサクラ達へ見せる。
そして真っ先にサクラのおかしな表情に気付いては、「どうかしましたの?」と、キョトンとした表情で小首を傾げた。
「う、ううん。なんでも……」
咄嗟にそう言って、首を横に振る。
もしかしたらメイやレイリーンから、前以てサクラの容姿を聞いていただけかもしれない。そう思い直せば、大した疑問ではなかった。そう結論付けて、少女はどうせ『悩む容量が少ない頭』が見つけた違和感なのだからと、その悩みをモヤに溶かした。
「そう言えば雨が降ってきましたの」
アキラにそう言われ、それじゃあ染髪は夕方まで後回しにしてしまおうと、心の隅で思うサクラだった。