アカネがサクラの勝利を宣言し、フジシロは安らかな微笑みと共にムウマージをボールに戻した。サクラは駆け寄ってくるルーシーの頬を両手で撫でて活躍を労い、やがては彼女をボールへ帰す。
「……ふう」
大きく声を出しながら、フジシロは呼吸を整える。それがまるで合図だったかのように、彼はいつもの飄々とした表情へ戻った。そこに先程までの狡猾さは欠片も残されていない。
「……見事だった。本当に見事だったよ」
そして朗らかに、いつものくどい口調へ戻る。その声色は、どこか憑き物が落ちた――事実とり憑かれていた訳だが――かのように、優しい笑みを映す。
はいと返しながらも、サクラは一度足元に置いた私物を片す為に腰を下ろした。マスターボールをアタッチメントへ戻し、海鳴りの鈴もバッグへ仕舞い直す。銀縁のだて眼鏡と帽子を拾いあげては身に付けて、使用済みの化粧落としを丸めてはバッグへ乱雑に放り込んだ。
そしてフジシロへ向き直る。
「ありがとうございました」
そう言って礼をする。フジシロは首を横に振って、「こちらこそ」と返してきた。
「さ、それじゃこれをどうぞ。長く待たせてすまなかった。本当に申し訳ない」
そう言って差し出されるは『ファントムバッジ』。ぺこりと今一度礼をして、彼に歩み寄ると、確かに受け取った。
そして観戦していてくれていた一同へ振り返り、もう一度だけ礼をする。するとアキラが口火を切って、一同から拍手が送られてきた。倣ってフジシロまでも拍手する。そこでサキも拍手していたものだから、彼は父親に背を突き飛ばされるような形でサクラの横へ放り出された。
「馬鹿野郎、お前はそっちだろ」
と、微笑みながら言うシルバーの相貌は穏やかだった。うんと返すサキはどこか照れくさそうで、サクラは改めて彼に声をかけながら、拳を軽く握って差し出した。
「お疲れ様、サキ」
「……サクもお疲れ」
コツン。
小さな音をたてて、二人の笑顔が溢れた。
何度となく繰り返される日々のルーティンの中で、少しだけ特別な挨拶。サクラからすれば少し無骨で、サキからすれば少し物足りない互いの拳。そこに意味などなく、サキにとって恥ずかしくない、サクラにとって近親者らしい振る舞いだからと言う、非常にプラトニックな感覚での互いへの労いにあたるのだが、なにはともあれこの挨拶も『半分』を終えた。
あと四回。タンバ、アサギ、チョウジ、フスベにてこの挨拶が行われれば、二人はその時パーフェクトホルダーになる。その日までの問題は山積みなのだが、それでも二人にとって唯一明確な目指すべき指針だった。
サクラはルギアをちゃんと守り通す為。サキは父の背中を追う為。そして、二人がずっと一緒に肩を並べていようと言う約束を果たす為。
そして、約束を果たすのは何も二人だけじゃなかった。
「じゃあシルバー。少し胸を貸したまえよ」
一通り各々がサクラ達を労い、ジム戦の残り火が鎮火した頃。バトルフィールドの真ん中でコトネは隣に立つ赤毛の男を見やる。声をかけられて振り向いた彼は、どこか挑発的な彼女の顔付きに倣ってにやりと笑った。
「もうきちんと本調子なんだろうな?」
「さあ? メガニウムはどうやらここ一〇年、私の指示に反発する事もあったようなきらいがあるし……。本調子と呼ぶにはこの子との時間が足りてない。不調と呼ぶにはこの子が一〇年で培ったものを私が知らなさすぎる」
何時にもなく饒舌に、コトネはそう言い放つ。その右手に宙へ投げられては再びキャッチされ、赤いモンスターボールは午後の光を浴びてキラリと光った。
飄々とした様子で不確定要素を並べる彼女に、シルバーはひとつ舌打ちをした。相貌を僅かに陰らせ、まあいいだろうと呟く。
シルバーがコトネとバトルしようと言った理由と言えば、半分くらいはその場にあった挑発の応酬。気兼ねない互いの距離感に見合った軽口の結果なのだが、しかしコトネはそんな冗談半分の応酬ではなく、元よりやる気だったと言わんばかりの様子。
サクラは本当の理由を知っていた。別にそこにあるものは感情論だけでない。コトネはここに至るまでにメガニウムを出して『バトル』をしていない。サクラの手持ちを使って彼女の訓練に付き合う事はあれど、自身の持つ相棒を出して技を命令する事はなかった。
それは何故か――?
「……まあ、この子が今の私に御しきれないってのは悲観すぎるし。かといって中身は一〇年前だ。一縄筋にいくほど、素直な子じゃないからね」
コトネはシルバーに向かってそう言う。言葉を受けて彼は肩を竦めた。
「らしくもねぇ。まあでも、白銀山に着いてから面倒を起こされるよりはマシか……」
「……いやぁ、発案者が一番不安抱えていて申し訳ない。でも急がないとアサギの予知に後手を踏むのは困るっしょ」
「まあ、な……」
コトネはそう、不確定要素を抱えすぎていた。この一〇年の記憶が無いと言う事はつまり、この一〇年の間手持ちポケモンを別の誰かに預けていたようなものだ。加えて言えば、この一〇年の間に変化した様々な事を彼女は知らない。コガネで目を覚ました彼女も、そこが『コガネシティ』であると理解するのにいくらか時間が必要だった程だ。
そんな不確定要素が絡みながらも、アキラが見出だした『アサギの崩壊』までは二月と残されていない。白銀山の頂上への行程や、強襲の為の備え等を考えると、明日出発しても現地に到着するのは一月後。つまり、既にアサギへ発たれてしまう可能性があった。故に事態は急を要した。
そこにコトネのリハビリの為の時間等は勘定されちゃいない。むしろ彼女自身、必要とさえ思っていない。行程の最中、やれる事だけをやればいい。その為の第一歩が、今だった。
「じゃあ、私達は中に戻ろうか」
コトネとシルバーのやり取りを見守る中で、サクラは一同に対してそう言った。そこに居る面々は誰一人「見ていかないのか?」と返す事もなく、ひとつ頷く。そして各々に声を掛け合いながら、邸宅へと足を進めた。
「お母さん……。無理しないでね」
「親父も、な」
二人残った子供達は、両親に向かってそう溢す。二人のレジェンドホルダーはにやりと微笑むと、互いに互いの子供の頭を撫でた。
「ありがと、サクラ」
「ほら、お前も部屋戻れ。あんまり見せたいバトルではない」
二人は頷く。そして、踵を返すと、サクラとサキは肩を並べて邸宅へ向けて足を進めた。
「まあ、うちはなんかあったら困るさかい、見させてもらうわ。……醜い事になるんは百も承知やからな」
と、アカネ。その横にもう一人。
「サクラちゃんの気遣いには申し訳ないけど、私も強襲する仲間として、見させて頂きます」
と、メイ。
恥ずかしそうに笑って、コトネは頬を掻いた。
「いやぁ、皆に気を遣わせて申し訳ない……。本当、私ってばなまじ目利き出来るから、もう泥沼なのはわかってんだけどね」
コトネは既に自覚している。
この一〇年、メガニウムは言う事を聞きながらも、自分に対して愛想を尽かせている事を。そして全てを投げ槍に、エンジュで対面したのが主の実の娘だと言う事にさえ、気が付けない程に絶望しきっている事を。
まあ、他の手持ちが居ない時点で全部解りきった事だ。この一〇年で、コトネは手持ちポケモンの内四匹に愛想を尽かされているのだろう。もしかしたら当時拠点にしていた場所に残されているだけかもしれないが、おそらくはずっと相棒としたメガニウムと、彼女を認めては隷従の誓いをたてたスイクン以外、彼女の非道に絶望しているに違いない。
だからこのメガニウムをバトルに出せなかった。止められる明確な人間――シルバーが居ない時に出す訳にいかなかった。バトル特有のこの押し潰されるかのような雰囲気にのまれ、何をしでかすかが解らなかったからだ。
バトルフィールドで向かい合うコトネとシルバー。
快晴だった空が、陰りを見せていた。一雨くるかもしれないと、アカネは零す。しかし意にも介さず、二人はボールを投げ合うのだった。