さて、と零して、サクラは席を立つ。
足許に降ろしていたリュックサックを持ち上げ、二歩前へ進んで振り返る。二人へお辞儀をして、改めて礼を述べた。
「長くお邪魔してすみません。そろそろお
サクラがここへ来た理由は、極秘の書類を届けに来たに他ならない。
望んでいたとは言え、サキに促されるままお宅へお邪魔し、この状況に至った訳だが、本来ならば書類に不備がないかの確認さえ必要はないだろう。
中身を知ってはいけないから極秘と銘打たれているのだし、渡したら渡したですぐに帰ってしまっても良かったわけだ。
現にシルバーは書類については一切触れていない。
元々急いでいた理由もあれば、新たに急ぐ理由も出来た。
熱意は熱を失わないうちに話してしまいたいのだ。でなければ元の安穏とした日々に甘んじて、落ち着いてしまいそうになる。
だからそろそろ帰ろう。
今から出れば、深夜にはなるだろうが、ワカバタウンへ一気に帰れるかもしれない。
「まあ待て、サクラ」
そんなサクラを、シルバーは薄く微笑みながら否めた。
キョトンとする彼女へ、「徒歩なんだろ?」と彼は尋ねてくる。二つ返事で頷くと、彼は「なら」と、自分の腰に着けているモンスターボールを指差して肩を竦めて見せてきた。
「29番道路のはずれまで送って行ってやる」
「えっ? い、いいんですか?」
口に手を当てて驚きつつ、サクラは逆に問い返す。
嬉しい申し出ではあるが、多忙な身では……と、思ってしまう。
するとシルバーは「散歩がてらだ」と、何とも無いように微笑んだ。
そして、ならば早く準備をしようとする彼女を、更に制してくる。
「飯くらい食ってから行こう。何、お前が思っている以上に俺のポケモンは速いぞ?」
そう言ってシルバーは片目を閉じてにやりと笑う。
そのすまし顔にサクラが呆気にとられれば、そこで神の悪戯が起こった。
なんとも絶妙かつ、奇遇なタイミングでサクラの腹の虫が『クーッ』と可愛らしい音を立てたのだ。そう言えば、朝御飯は携帯食糧だった為、小腹を満たす程度のものだった。
思わず赤面して腹を押さえ、サクラは自分の腹の虫を呪う。
彼女を指差してきたサキが、「だっせぇの」と、声を上げて笑った。そんな彼をサクラが呪わしげに睨めば、横から割って入ったシルバーによって、彼へ拳骨がプレゼントされた。そして更にその首根っこが掴まれて、「手伝え」と、サキはキッチンへと連行されて行く。
「サクラはそこで待ってな。本棚のものを適当に読んでいて構わない」
「……はい」
恥ずかしくて逃げ出したい衝動に駆られながら、虫の鳴き声のような小さな声で返事をする。激しい自己嫌悪をしながらも、言われた通り本棚へ向かった。
「……わぁ、すごい」
その本棚を見上げて、サクラは思わず羞恥心を忘れて感動を覚える。
先程遠目に見た時に幾らか目を見張ったが、間近にしてみると、それはやはり驚きを隠せないものだった。
背表紙に『マニューラ』と銘を打たれているファイルは、どれも膨れ上がっており、明らかに一冊のファイルの許容量を越えた紙が挟まれていた。それが一冊で済まず、五冊も並んでいるのだから、どれ程彼がマニューラと言うポケモンの為に時間を割いたかと、雄弁に語るより確かだろう。
パッと見ただけでも、他の育成記録も同じような数を用意されている。
壮観にさえ思える光景だった。
その『マニューラ』の中でも一番新しそうなものを取り出し、開く。
先ずは図鑑等で見られるような写真があった。
そして、その次のページを捲って、サクラは目を見開く。不意に息を呑んでしまう程の衝撃に襲われた。
『氷の
小難しい言葉の隣には、技を取得しているマニューラと、取得していないマニューラの、毛並みを拡大したらしい写真がクリップで留めてあった。
研究所でもここまでの資料は早々お目に掛かれない。
思わずサクラは手を震わせた。
次々にページを送って、ザラ読みするかのように目を通していく。
「すごい……すごい……こんなの見たことない」
一つ一つが、学会の論文に引けを取らない程の考察をしていた。
それはポケモンの生態系や、技だけに留まらず、育成環境による相違、個性、性格、戦ったポケモンの種類や、戦った土地によって起こる肉体的変化等、一個人で調べられる域を大きく越えていた。
そしてそれを踏まえた上で、筋力値、筋力分布、知能、速度、耐久力を最も活かす育成論も書かれている。
最強のトレーナーを目指していたとは、口だけではないという証明だった。
いや、その記録は真新しいものもある……シルバーはまだ現役なのだ。
そして、その調査の為に育成されたマニューラが今、誰の手元にあり、何の役割を負っているかもきちんと書かれていた。
実験と言えば聞こえは良くないが、中には育成するだけ育成して棄ててしまう研究者だっている。彼の場合はどうやら育成したポケモンは協会の任に当て、活躍の場をしかと用意しているようだった。
どこかホッとしたような気分になって、ファイルを閉じる。
改めてシルバーと言う人間が傑物と呼ばれる由縁を知った気がした。
『マニューラ』を棚へ戻し、その隣を認める。
背表紙に『バンギラス』と銘を打たれたファイルは、マニューラよりも二冊分多くあった。その更に隣には、『オーダイル』、『オンバーン』等と続く。
先程書類を読み飛ばした時のように、下の段へ目線を移していくと、一番下の段に『H』と銘を打たれた細いファイルがあった。
何だろうと思って、それを取り出す
そして何気なく開いた。
写真は無かった。
『便宜上Hと称する』
言葉はそう始まり、『天を司る伝説級ポケモンの一体』と書かれていた。
サクラはその言葉にどことない既視感を覚え、次のページを捲る。
そこには一人の少年の写真があった。
『現在のHのトレーナー、ヒビキ。Hが強く好む志を持ち、Hとの関係も良好。この度の調査に協力を要請、限られた時間しか用意出来なかったものの、Hの生態調査に協力を得る』
その写真には確かな見覚えがあった。
そう……サクラの父、ヒビキの写真だ。
不意に焦燥感に駆られて、再度ページを捲った。
するとそこには、そのポケモンのデータベースが記入されていた。
タイプは炎と飛行。
大きさは三・八メートル。
体重は一九九キロ。
その他にどのような技を扱うかも書いてあったが、そこは読み飛ばして次のページへ目を移す。
そこには『姿形は写真に撮らないでおく』と書かれ、その代わりに石盤に彫られた絵の写真があった。注釈によると『アルフ遺跡にて記録あり』との事。
それは昔、学校の教科書で見た事があるものだった。
更に次のページを捲る。
すると少し古びた一枚の写真があった。
一言で言えば、『翼竜』を思わせる形をしていた。
胴体と同じぐらい大きな一対の翼を持っており、その翼の先が指のように分かれているからか、手と思わしきものはない。対して、足は鳥のように退化している訳ではなく、しっかりとしたものが二本あるようだ。あとは長い首と尾もあるが、特徴らしい特徴は突起物があるぐらいだろう。
胴は白が貴重で、腹部だけが青い。
所々にある黒い突起物は硬そうだが、全体的な印象はとても柔らかに見えた。
それでいて輪郭はシャープで、今に羽ばたきそうな躍動感を感じさせる。
先程認めた写真は遺跡の石碑だったが、こちらはかなりの遠方から撮られた写真のようだ。ピントが合っていないのか、まるでモザイクがかかった風にも見え、相貌等はきちんと確認出来ない。
背景は嵐を思わせるどす黒い雲が写っているが、稲光が照らしているのか、そのポケモン自体が光っているのか、色や輪郭ばかりが確かだった。
『Lとの関連性は強く、LとHはジョウト地方において生態系の頂点に君臨。対立していると示す文献も確認出来る。尚、Lは現在――』
「サクラ」
思わず読み耽っていれば、シルバーに呼ばれた。
ハッとしたサクラは、即座にファイルを閉じて、本棚へ戻す。
返事をすれば、食卓へ着くように促す声が続いた。
了解を得ているにも関わらず、サクラは何故か「見てはいけないものを見てしまった」という罪悪感を抱く。しかし同時に、確かな疑問も持った。
『H』……幼い頃、その名を聞いたような気もするし、データベースに載っていた情報もどこかで覚えがある。
父が所持しているのなら、それそのものには納得がいくが……。
そして、『L』と呼ばれるポケモン。
何故かは分からないが、やはりサクラはそのポケモンも知っているような気がした。
――リーン。
食卓へ着こうとして、不意にそんな音を聞く。
一瞬ばかり立ち止まるサクラだったが、そんな音を出すものは見当たらず、気の所為かと小首を傾げながら席へ着いた。