書斎から出てきたシルバーは、銀縁の眼鏡を掛けていた。
赤髪に良く似合う鋭い瞳と、そこへ細身のスタイリッシュな眼鏡が合わさって、理知的な雰囲気を感じさせる。
彼はサキへお茶を淹れて欲しいと言うと、サクラの隣へ腰掛けた。
「すまないな。連れが逝ってしまってから、あいつは気楽に話を出来る相手が居なくて、どうにもお喋りが過ぎるようだ……」
キッチンへ向かったサキを見送り、彼には聞こえない程の声で零すシルバー。ちらりと尻目で確認してみれば、溜め息混じりに苦笑していた。
サクラは微笑みながら首を横に振って返す。
さしたる前置きもなく、「寂しい気持ちは分かりますから」と付け加えた。
自分も初めて友達が出来た時は嬉しかったものだ。
そう思う。
サクラとて、何ものうのうと生きてきた訳ではない。
物心ついた時には、既に両親はいなかった。
しかし、両親がいないという現実と、両親が英雄だという事実は、何度もサクラを苦しめてきた。
期待だったり、比較だったり、ラベルとして見られていたり……。
そんなサクラの感情は、決して万人に理解され難いもので、他人に好かれるような人間には育たなかったろうと思う。漸く理解を示してくれる友達が出来た頃には、随分と捻くれていたりもした。
だからと言うか、サクラにはサキの純真さは凄く稀有なものに見える。
父親のシルバーからすれば情けないと思えるだろうが、ああして真っ直ぐ育っているだけ、自分よりよっぽど偉いと思えるのだ。
そもそも、サクラ自身、その友達と偶に連絡を取ると、時間を忘れて話し込んでしまうものだ。むしろ親近感が湧いたとさえ言えるだろう。
「はい。お茶」
お茶を持ってきてくれたサキへ、シルバーは受け取るなり本棚を指差す。
もののついでに「アルバムを持ってきてくれ」と言った。
雑な扱いに口をすぼめて抗議しようとするサキだったが、シルバーはサクラをちらりと一瞥してくる。その様子を見て、彼も「ああ、そっか」と頷いて納得した。
持ってこさせたアルバムを膝の上に置き、シルバーは懐かしげに目を細めて微笑んだ。
「随分前のものだが……」
そう言って開かれたアルバムの一ページ目。
そこには一枚の写真。
巨大な扉を背後に、三人と三匹の姿が収められていた。
首からメダルを掛けた赤髪の少年が中央に。
その右手側には、キャップ帽を被って拳を突き出す少年。
反対側に、腕を組んで微笑む白い帽子におさげの少女。
キャップ帽の少年の後ろに、襟巻きの如く炎を纏うポケモン。
赤髪の少年の後ろに、巨大な顎を誇らしげに開くポケモン。
おさげの少女の後ろに、巨大な花を襟にしたポケモン。
ヒビキ。シルバー。コトネ。
バクフーン。オーダイル。メガニウム。
各々が最初のパートナーを連れ、旅の終着点『ポケモンリーグ制覇』に至った姿。
厳密には、ヒビキとコトネはシルバーのポケモンリーグ制覇を祝いにやって来たらしいが、この日、この時、少年らの旅が終わった。
シルバーの補足を受け、サクラは胸の奥でドクンという音が鳴るのを聞いた。
勿論、ヒビキとコトネがポケモンリーグを制覇した時の写真は、また別に残っている。それはウツギ研究所にあって、博士からどんな感じだったかを聞いたこともある。
ただ、こうしてシルバーと共に写っている写真を見るのは初めてで、自分が知らない両親の姿に、漠然とした新鮮味を覚えた……というより、『私には本当に両親がいたんだ』なんて、バカみたいに当たり前なことを、再確認する心地だった。
有り体に言って、博士よりも、両親を知っているのだろうと、そう思えたのだ。
「俺はこの頃まで、相当捻くれていてな……。あいつらには随分と迷惑をかけた」
懐かしそうに写真を見るシルバー。
きっと彼の脳裏には、未だその時の事が最近の記憶として宿っているのだろう。
尻目で彼を認めたサクラは、何となくそう思った。
「俺が最初にヒビキと会ったのは、丁度29番道路からヨシノシティに入ってすぐの所だった」
天井を仰ぎ、シルバーは遠い目をしながら零した。
当時、シルバーはポケモンを持っていなかった。
捕獲する為のボールさえなく、与えてくれる人もいなかった。
だからウツギ研究所で窃盗を働き、ワニノコを奪ったのだ。
そして、ヨシノシティまで逃走した頃、ヒノアラシを抱いた少年を見掛けた。
彼の姿は研究所の下見をしている時に見ており、能天気にポケモンを貰っている姿と、母親という家族に見送られて旅立つ彼が、やけに腹立たしく感じた。
だから、その憎悪が導くままに、彼へ勝負を挑んだのだ。
シルバーの父親は大罪人だった。
最強を目指し、最凶へと進み、そしてそれを諦めた。
そんな父親だった。
その姿は酷く惨めで、シルバーは幼心に父を軽蔑した。
そして決別し、泥をすすって生きてきたのだ。
ヒノアラシと笑い合う少年を見ていると、そんな自分が酷く哀れに思えた。
悔しかった。恵まれていない自分が、最強を目指す自分が、あんな能天気そうな人間より遅れを取っていることが、許せなかった。
そしてバトル。
しかし結果は完敗だった。
やがてコトネとも出会うが、彼女の持つチコリータにも完敗。
旅をする最中、ずっとニアピンを繰り返し、その度に敗北を重ねて、シルバーは遂に嘆いた。
『自分には何が足りないのか、お前達と何が違うのか……』
いつしか出会った黒マントの偽善者から言われた言葉が、呪いのようにシルバーを苦しめた。
『愛情が、信頼が、足りないと言うのか……』
躓き、転び、蹲りながら、過酷な旅を続けた。
最凶ではない、最強を目指し、父親の影を殺し、消し去りながら、ひたすらがむしゃらに旅を続けた。……しかし、いつしか目的が、変わった。
ヒビキに、コトネに、勝ちたい。
ただ、純粋に、そう思った。
そして……シルバーは気付く。
どんなに負けても、どんなに『お前等が弱いからだ』と罵っても、それでもひた向きに自分を見てくれているポケモン達が、とても尊い存在だと。
自分が寝てる時でさえ、ひとりで修練を重ねた相棒がいた。
いよいよ諦めようかと言う時、進化を果たしてもう一度希望を与えてくれた相棒がいた。
いつしか、彼等に心を許している自分がいた。
そう気がつけば、黒マントの男が言った言葉を、漸く理解出来た気がした。
そして遂に、竜の穴で最後のジムリーダーから認められ、『暫定パーフェクトホルダー』と言う扱いを受けた。
それは、最後のジムリーダーが彼を、全てのジムバッジを持つに相当する力量と心を持つと判断した特例だった。
それまでジムを訪れなかったシルバーだが、そうしてセキエイ高原へのチケットを得た。
迎えたセキエイ高原。
そこで、再び二人と
並び立つヒビキとコトネのうち、ヒビキとの全ての手持ちポケモンを用いた総力戦をした。
それまで学んだ全ての知略を尽くし、愛情を知ったが故か、それまでで一番手ごたえを感じる壮絶なバトルだった。
しかし、結果は敗北。
「気付くのが遅すぎたんだ……俺は。ヒビキとポケモン達との絆は、実力で並んでも、やっつけな絆じゃ打ち砕けなかった」
自嘲気味に笑いながら、シルバーは零す。
しかし不意ににやりと笑って、再度唇を開いた。
「でも、俺もそのままじゃ終われないからな」
二人がカントーへ渡ると聞いて追いかけた。
追いかけて追いかけて、それでもやはり追い付かなくて……。
やがて、認めてしまった。
ヒビキとコトネは『最強』ではない。
『最高』のトレーナーだと。
そして、その『最高』のトレーナーへ宣言する。
『シロガネ山に行くのか』
『うん。コトネも一緒に』
『俺はまだレジェンドホルダーじゃないから、ここでお前等を追うのは止める』
『……うん』
『代わりに……お前等が戻ってきたら、俺はお前等を見て諦めたポケモンリーグを、制覇してみせる』
『えっ?』
『だから……必ず帰ってこい』
『……ああ、勿論だよ。シルバー!』
『約束だ』
『約束だね』
そして果たされた約束。
それが――旅の終わり。
ヒビキは両手を上げて喜び、コトネは感動のあまり泣きながら笑い、シルバーは……本当に驚くべき事だが、この日、旅を始めてから初めて、心の底から笑顔を浮かべる事が出来た。
その時の写真が……そう、今も彼が大切に保管しているこの写真だ。
三人は、笑顔だった。
ウツギ博士にも、その笑顔を共にするオーダイルが、何とも立派に育てたと認められた。窃盗の償いは、オーダイルを立派に育てたのだから必要ないとも言われた。
勿論、シルバーはその償いを済ませたとは思わず、リーグ制覇後はポケモン協会に属して必死に働いた。
そして――今に至る。
「……と、話が逸れたが、つまりお前の両親は、俺を『最高』のトレーナーへと導いてくれた。ライバルと言う形で、友と言う形で」
その後も色々あったが、常に彼らは助けてくれた。
決してシルバーの不幸を嘲笑う事はなかった。
「だから今、俺はここにいる……」
そう言って、シルバーはサクラに向き直ってくる。
柔らかな微笑みは、木漏れ日のような温かさを感じさせた。
「少し主観が過ぎたが……どうだ? あいつらの事、少しは許してやってくれるか?」
「……はい」
サクラは頷き、シルバーへ礼を言う。
そして、前へ向き直り、小さく息を吸って、唇を開く。
「私、旅をしてみたいです」
呟くように零した。
サキとシルバーを一瞥して見返し、柔らかい笑顔を浮かべながら、目を瞑る。
思い返せる記憶は少ない。
昔旅行に行った記憶だったり、二人のポケモンと触れ合った記憶だったり……取るに足らない記憶達が、その全て。記憶の中の両親は、決して
興味が無かった訳じゃない……だが、切っ掛けが無かった。
ウツギ博士は二人の旅を詳しく知っていた訳ではない。どんなバトルをして、どんな人間と出会ってきたかということは、事細かに知る筈も無かった。
それを今、教えて貰った。
だから、お膳立ては済んだのだ。
そして、同時に思ったのは、自分の世界がとても狭いこと。
自分も旅をしてみれば、新しい発見があるだろうか……いや、必ずある。
自分はまだ変わっていける。
いつか、英雄の娘である事を、誇りに思える日が来るかもしれないじゃないか。
サクラは目を開く。
にっこりと笑って、シルバーを認めた。
「ワカバタウンに帰ったら、博士に話してみようと思います」
「ああ、あのじいさんならきっと解ってくれるさ」
微笑むシルバーは、まるで少年のような笑顔だった。
そしてその笑顔は、両親が彼に与えたかけがえの無いものなのだろうと思えた。