<<--- Side Hachiman --->>
吐く息が白いのは、人間の魂が美しいからである、と何かの本に書いてあった。
その真偽はさておき──実際は、大気中の塵が呼気に含まれる水蒸気と一緒になるために発生する現象である。何でも、真に澄んだ空気の中において、水蒸気は塊を造ることは出来ず、息は白くならないのだとか。
これはつまり、群れることを良しとしないぼっちこそが、世界で最も美しいものであることを暗示しているのではないだろうか。違いますね。
寒さを紛らわすための思考を中断し、えっちらおっちらと大して数の無い階段を上る。
今日も朝を迎えたわが母校の正面玄関。現在時刻の中途半端さゆえか、生徒の姿はまばらだった。
ご苦労にも寒空の下でグラウンドを駆け回っているパッション溢れる連中は、もっとギリギリでないと戻って来ない。朝練が無いなら無いで、今度はギリギリに登校してくる。つまりはそういう事だ。家に居場所がなく、やる事もない人間だけが、このゴールデンタイムを味わうことが出来る。
勤勉なギリギリス達とは一線を画す、怠惰さに定評のあるキリギリスな社畜であるところの俺も、当然このエアポケットを狙って出勤してくる。教室に入るとき目立たなくて済むからだ。決して家に居場所が無いわけではない。むしろ居場所なんて家にしかない。
あと、そこそこ朝の早い小町を送ってから来ているから、というのもある。そうそれ、それが理由なんですよ。お兄ちゃんだからね。
季節感もなく寒空へ向けて開け放たれた正面入り口をくぐり、下駄箱が顔を並べる空間へ。
しかしアレだ、「下駄箱にラブレター」って言い回しの違和感ってすげえな。下駄箱という時代錯誤な単語と、ラブレターって甘酸っぱい響きの織り成す世にも奇妙なコラボレーション。とんかつパフェに負けないくらいの不協和音である。すいませんアレは美味しいらしいですね。
ともあれラブレターなんてモノ自体、都市伝説を通り越して日本昔話に載っちゃいそうな幻想種だろう。粛々と朗読された日には、ヤンチャな高校生の坊やだってネンネしてしまうというものだ。
そんな、最近では靴箱と名前を変えつつある金属製の小ぶりなロッカーには、ご丁寧にもひとつひとつに表札が下がっている。
個人情報保護どこいった? と憂慮しているのはあいにくと俺だけらしい。この、一見私書箱にも似た形状の空間は、ある意味プライバシーの塊だ。しかし驚くべきことに、なんと施錠できる構造にはなっていないのである。
これはつまり、女子の使用済みのアレが道端に放置してあるも同義ではないだろうか。アレとはもちろん上履き以外の何者でもないが、それでもここは材木座をはじめとする、変態紳士諸兄の通り道だ。そこに女子の私物をずらりとディスプレイしているようなこの設計には、色々と思うところがあるわけだ。
俺の目の前にもその中の一つ──中身はシンクロ率が一桁を切ってしまうほどにテンション爆下げの逸品──すなわち男子の上履きなわけだが、それが格納されているボックスがあった。フタの上には「比企谷」と書かれた小さなプレートが誇示されている。
どうせなら苗字じゃなくて名前の方を書くルールにしてもらえないだろうか。洒落を解さない大人の事情のおかげで、宮の字を足してこの靴箱をプチ
お社を持たないノラ八幡、人との縁を斬って斬って…いや斬る縁がそもそも無いんだっけ。無いものは斬れませんぬ。5円どころかロハで働き続ける俺、神様よりもマジゴッドと称えつつ、その鉄蓋を開ける。
中には、良い感じにひんやりとした土が、たっぷりと詰めてあった。
「………」
いつの間に母校が農林系の専門学校に生まれ変わったんだ、笑顔を失ったアイドルが転校してきて比企谷Pおおはしゃぎだぜ、というようなイベントは、もちろん俺の人生に実装されていない。
百歩譲って未来人からの秘密の伝言だったらまだ胸が躍ったが、残念ながら投函された土の中には埋葬された上履きらしきものの端が見え隠れしている。
しばし、状況を観察。
「…ふむ。これはあれか」
端的に言って、上履きが土塗れだった。
まあこれはどう好意的に捉えても──
「一緒のお墓に入りましょうという意味だな。引くわ」
「この状況で軽口を叩けるなんて、呆れを通り越して引くわね」
聞きなれた品の良い声色に振り返ると、紺のコートを羽織った雪ノ下が、寒そうに体を抱いてマフラーに口元を埋めていた。彼女の登場と共に、ただでさえ冷たい空気が身を切るような鋭さを帯びた気がした。
「それ普通に呆れて引いてるだけでしょ。通り越せてないから」
興味を失った様に目線を逸らした雪ノ下には、昨日一色と帰ったことについて言及するような気配はない。そりゃ「夕べはお楽しみでしたね」とゲヘってくる性格でもなかろうが、何も言ってこないのはありがたいやら恐ろしいやら恐ろしいやら。やっぱり恐ろしいわ。
でもあれはスイーツ連盟がやれっていったことなんだから、八幡悪くないと思うな。不条理を飲み込めるのが社会人なのだとしたら、やっぱり俺は専業主夫! もこみちよりも美味しい手料理で、大黒柱の帰りを温かく迎えるのだ。
「やっぱり例の男子かしら」
そんなに華麗なスルーされたら、目の前の人間に認識されない系の特殊能力が発現したのかとか疑っちまうだろ。あっでも俺は一生思春期煩ってる予定だから能力も消えないんじゃねラッキー!
──とか思ったが、別に能力が無くてもデフォでスルーされていた。
無視されたショックで思考に逃げ込み反応が途絶えている俺に、雪ノ下は形のよい眉を立たせる。つかつかと土属性溢るる靴箱に歩み寄ると、その中を覗き込んだ。
直後、表情に浮かんだ感情があまり喜ばしいものでないことは、彼女をよく知らないものでさえ容易に判じられただろう。それくらい、今の雪ノ下の顔色は分かりやすいものだった。
「…比企谷くんは、こういうの、初めてなのかしら」
表情に灯った色を警戒から憐憫よりに変えつつ、雪ノ下はこちらへ向き直った。
ああ、気を遣われている──。
俺はほんの少しの気恥ずかしさと、強烈な羞恥を感じていた。
ぼっちマイスターを称するこの俺だが、実のところあまり明確な
タゲられなければどうということはない。万年オールハイド状態である。我が校にイジメはありません。
そう、あれは確か小学三年のときだった。
クラスの課外活動で、無理やり「かごめかごめ」をやる羽目になった。
折よくオニの後ろで足が止まり、ドキムネMAXハートな俺に対して「うしろのしょうめんだーあれ?」と言われた、オニ役の口から出た言葉。
『え、ごめんホント、だれ…?』
わきの下に変な汗を感じて、ふと我に返る。
気が付けばいつの間にか黒光りする歴史を紐解いていた。
…と、ともかく。
人生の死角をうろうろと歩き回り、垂れ流される会話を漏れ聞いて勝手にダメージを受け、一人で腹を立て、こっそりと他人を見下すことで溜飲を下げる、エゴイスティックかつエコロジカルな生き物、それがぼっちである。
なお、進化してもだいだらぼっちにはならず、人間と友達にもなれない孤高の妖怪でもある。だれが妖怪だよ酷いこと言うな。
閑話休題──
この手の悪意の発露に対して経験値の低い俺としては、なされた迷惑行為よりも、被害に遭った事実を他人に認識されたことの方に強い忌避を感じていたらしい。初めて、昨日一色が言っていたことの意味を理解できたような気がした。文化祭の一件で周囲からダークマター扱いを受けていた時だって、思えば、一番辛かったのは気遣わしげにこちらを盗み見る由比ヶ浜の視線だったかもしれない。
「なに。ラブレターを装った悪戯なら、べつに初めてってわけじゃない」
「いえ。それはそれで、一種の苛めだと思うけれど…」
あれっ? じゃあ小四の時、手紙で呼び出されて校舎裏で二時間待ってたら風邪引いたあの件は、もしかしなくても苛めだったって事ですか?
苛めは苛めと認識しなければ苛めにはならないってことか。八幡、それ知らない方がよかったわー。
雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、苛メニモ負ケナイ者に、俺はなるっ!
何それ単なるドMじゃん。俳人てか廃人じゃん。
「冗談はさておき、本当に大丈夫?」
長い睫毛を若干伏せた、気遣わしげな眼差しが俺を捉えている。
さっきとは違う意味で、少し恥ずかしさを覚えた。
その、いつもとは違う温度を感じる瞳から逃れるように、目線を逸らしつつ頬を掻く。
「大丈夫だ。なんせこれ、俺の下駄箱じゃないからな」
言いながら、自分の名前が書かれた小さなプレートを金属扉のスロットから外した。
「…どういうこと?」
その問いへの答えの代わりに、俺は表札を失った土まみれの小部屋の、そのひとつ右の隣へ手を伸ばした。"戸部"と書かれたその下駄箱の名札を取り出し、代わりに自分のものを納める。
「どうやら昨日、このあたりに局地的な空間異常が発生したらしい」
と、出現しただけで空間振を起こした犯人であるところの俺が語った言葉を聞き、聡い彼女はと言えば「ならデートしてデレさせてあげる」とは当然返さず
「事前に戸部君の名札とすり替えて置いた、ということかしら」
と、あっさり結論を提示した。
こいつはネタを膨らませるということを知らないんだろうか。俺がどれだけの思いで文字数をカウントしているのかというメタ発言を控えて押し黙っていると、さすがに戸部に同情を覚えたらしい雪ノ下が言った。
「いくらどうでもいい相手でも、やって良い事と悪い事があるんじゃないかしら」
うーん、とりあえずその発言は悪いことの方に分類されるんじゃないですかね。
海老名さんの口から出ていたら明日の朝刊の三面を戸部の名前が飾りかねないほどの辛辣な言い草に、前もって用意しておいた言葉を返す。
「まあ待て。戸部をスケープゴートにしたのには真っ当な理由もある」
「も、と言うことは、つまり真っ当でない理由もあるのよね」
あまりに本音過ぎて、つい言葉の端に漏れてしまった尻尾をきっちり掴まれてしまった。しまったが、そのへんは言わなくても分かってもらえると都合よく信じることにする。最近その無理解が原因で派手に揉めたことはまだまだ記憶に新しいが、人間は過ちを繰り返す生き物なのだ、許して欲しい。
とりあえずは表向きの理由を説明しておく。
「一色と戸部は一緒に居るところを普段から多数の生徒に目撃されている。至極客観的に見た場合、色っぽい噂が立っても不自然な関係じゃない。違うか?」
一色がこの場に居たら、キュアグレーとしてノミネートされるくらい「ありえない」を連発しそうな話だが、幸い当人が居ないのでスムーズなものだった。
パラメータ的には一色のルックス値が少々突き出しているものの、チャラ男とゆるふわビッチの組み合わせとして、俺の見立てではそれほど違和感がないように思う。その実態がいぬぼく(犬であり下僕)なのだとしても、俺と一色の組み合わせ──いいとこキャッチに捕まった哀れなぼっち──と比べたら、随分と自然なカードだろう。
さて、戸部と一色のカップルが一般認識の上で成立し得るとしよう。ならば戸部がこの手の陰湿な攻撃に晒されたとき、どのような事象の紐付けがなされるだろうか。
「戸部君の交友関係から逆算することで、既に一色さんの教室で騒ぎを起こしていた例の人物に辿り着くことは充分可能ということね」
「アイツらは色んな意味で声がデカいからな。一年とのパイプも充分すぎるほどある。上手くすりゃ今日明日でホシの名前が挙がるんじゃないか」
まず間違いなく、戸部は葉山たちにこの話をするだろう。本当に苛められている場合は他人への相談も難いものだが、ヤツに限ってそういう卑屈さは考慮しなくていい。
そして葉山はあの通りの人間だ。事を荒げることは好まないだろうが、それでも何らかのアクションは起こすと期待していいだろう。
「なるほど…」
雪ノ下は口元に手をやると、猫の様に目を細めた。
「一色さん自身からは何も言わせないままに、葉山くん達を巻き込んだというわけ?」
マフラーに半分隠された表情は読み取り難かったが、重ねてきた時間のおかげか、浮かべているであろう苦笑いが容易く想像できた。
「だってあんなハイスペックなカード、遊ばせとくの勿体無いだろ」
一色自身は葉山を巻き込むことに抵抗がある。それは以前に自分で言っていたとおり、今回の案件が"重過ぎる"からだろう。毎度毎度重過ぎる一色にはそろそろダイエットをオススメしたいが、ともあれ本人の口から伝わったものでないなら、問題ないと判断する。彼女自身も王子様から自発的に助けられて悪い気はすまい。
「貴方が彼に解決の糸口を期待するというのは、少し意外だわ」
「敵の敵は味方って言うだろ。なら味方には敵の敵になってもらってもバチはあたらない、みたいな」
「どこぞの白いおうちの方々が好きそうな物言いね」
「一緒にするな。当事者が参戦しないんだ、100倍タチ悪い」
「自覚があるならなお悪いでしょうに…」
真の悪人とは自らの手を汚さないものなのですよ、魔王様。
「それに、葉山に解決してもらおうとは思ってない」
「なら何をさせるつもり?」
「ホシを焦らせるための猟犬だな。なるべく大きな声で騒いでもらう」
訝しげに眉をひそめる雪ノ下に目を合わせず、何てこと無い話を何て事の無いみたいに告げた。
「騒がれれば犯人は焦る。焦れば行動は雑になる。今回、戸部に誤爆っちまった以上、俺を狙っている事を正しく認識させるために、もっと露骨で派手なことをしてくるだろうな」
とりあえず、一色と俺が仲がいいという偽の関係は、引き続き強調していく。ターゲットを取り違えてしまった犯人は、それを見て頭に血が上り、更に目立つ手を打ってくるだろう。最初は地味な悪戯程度でも、のらりくらりとかわしていれば、いずれ必ず爆発する。
問題を起こすのを回避するのではない。問題は
その瞬間、ヤツの悪意が一色に向いていなければこちらの勝ちだ。男同士の馬鹿げた取り合いに、一色いろはは巻き込まれただけ。
モテる女は辛いね、いい迷惑だね。この方向に、世間の認識を誘導する。
あとはまあ…適当に下手人を憲兵(平塚先生)に引き渡せば、ジ・エンドだ。
「また、貴方はそうするの?」
当然、雪ノ下は厳しい目つきで食い付いてきた。
これも心配の一種なんじゃないかと自惚れられる程度には、今の俺には心の余裕もある。以前のように諸刃を交えるような誰も得をしない対応を取るつもりは無かった。
「今回は今までとは違う。俺は単なる犠牲になるつもりは無い。…場合によっては囮にくらいはなるかも知れんけど」
冗談抜きで、身体を張るつもりはない。それは、一色のためにそこまでするつもりが無いとかの話でなく、俺自身が物理的に痛い目を見るのは、そもそも策として認められないというだけのことだ。
昨今、精神的にMである疑惑が浮上している俺ではあるが(俺調べ)、肉体的にも悦べるのは小町に踏まれた時くらいしかない。うーんそれ物理的にもMですね。むしろシスコンとの合併症で手遅れまである。
「確かに、問題を先延ばしにするのと違うことは認めるわ。けれど、貴方だけが傷つくという点では何も変わらない」
「いや、俺だけじゃない」
今までは、被害者を出す前に俺がその位置に潜り込んでいた。
だが今回は、既に少々事情が異なってきているのである。
「もう一色が傷ついてる。形振り構っている場合じゃないだろ」
驚いたように目を見開く雪ノ下。その表情はいつかも見たことがあるな。確か俺が自分の本心を──ああうん気のせいですね初めて見ました。
反論しようにも、材料不足で口をパクパクとさせている彼女に、更に後押しするようにして畳み掛けた。
「あいつ結構参ってるみたいでな。今回はスピードを優先したい。頼む」
もともと変にすり寄ってくることの多い一色だったが、昨日の様子は輪をかけておかしかった。男に媚びているというよりも、寄る辺を求めているといった様子。
それで葉山がフォローしてくれるならば話は簡単なのだが…。今の一色にとって葉山が必ずしも救いの象徴足り得ないことは、あの日ディスティニーに行った面子ならお察しのところ。
今や関係が改善された生徒会を含め、男友達だけは多いはずの彼女が、今更俺なんぞに頼らなければならないこと自体、それだけ状況が切迫しているのだろうと考えられた。
「…ずるいわ」
雪ノ下は交渉に失敗すると気力が上がって反撃してくるタイプのユニットなので、仲介役が居ない場所での説得は危険が伴う。
目を逸らした雪ノ下を見て、今回はなんとか説得に成功したことを悟り、今回の作戦における一つの山場を無事通り過ぎたことに、俺は密かに肩の力を抜いた。
「ここで私が首を縦に振らなかったら、まるで一色さんに思うところがあるみたいに見えてしまうわね」
何も無い、と言うほど因縁の薄い二人ではないと思うが、それも半分以上は雪ノ下自身や家庭にまつわる要因が大きい。もともと一色個人に対して特にわだかまりがあったわけではないのだろう。
「もっとも、全く思うところが無い、というのも嘘になってしまうけれど」
嘘だと言ってよユッキィー!
世の中には必要な嘘もあるんですよ?
「ずるいついでに雪ノ下、ひとつ頼みがあるんだが」
はぁ、とこれ見よがしにため息をつく彼女の顔は、やけに大人びた諦観を帯びていた。言葉を続け難い空気にたじろいでいると、珍しくじろっとねめつける様な視線を寄越す雪ノ下。その目、姉貴にそっくりだな、とか言ったら殴られるかしら。ご褒美です。
「一色さん…それに由比ヶ浜さんもかしら。黙っていろと言うのでしょう?」
「お、おう…。いやお前のポリシーからしたら、黙っているなんてそれこそ馬鹿げてるって言いたくなるかもしれない。だが考えてもみ──」
「言わないわ」
説得のために夕べから考えていた小話を披露する機会を与えられなかった俺は、しかし意外にもすんなり提案を受け入れた雪ノ下の不気味な引き際に、ついついターンテーブルをクラッチしそうなイントネーションになってしまう。
「MA・ZI・DE?」
「ええ。それはもう、途轍もなく途方もなく気に入らない。貴方の言う通りにしてしまう自分も、全くもって腹立たしい限りだけれど。でも──」
百科事典で『不本意』を引いたら今の様子が写真で紹介されそうなくらい、身振り手振りで自らの不満をアピールしつつ、彼女は言った。
「私が貴方の立場であったなら、やっぱり同じように口止めすると思うから」
言われて想像してみる。
雪ノ下なら、まあ誰にも言わないだろう。いや、実際にあったことで、そして実際に言わなかったのかもしれない。友達は勿論のこと、親や姉妹にも。性格的にも環境的にも、許されない選択肢であったというだけのことかもしれないが。
今の彼女であれば、少なくとも俺や由比ヶ浜には相談して欲しいなどと、我ながら身勝手な考えが、一瞬だけ頭を過ぎった。雪ノ下はああ言ったが、本当は由比ヶ浜にも教えたいのではないだろうか。
「一色さんは元より、由比ヶ浜さんについては──」
俺の心配を他所に、雪ノ下は自らの懸念を訥々と語った。
「今回、既に犯人の目星が立っているというのが、逆に不安なのよね。貴方が害されたという事実を知った彼女が、容疑者に対して直接的な行動を起こす可能性は決して低くないでしょうね」
告げる内容は優しい理解とのはずなのに、俺の頭に浮かんだのは、人類にその行動理念を完全に把握されているチンパンジーの姿だった。
胸の包含関係で言ったら立場は完全に逆のはずなんだが。げふんげふん。
「あれでかなりのイノシシ娘だからな、あいつは…」
そんな彼女ではあるが、決して攻撃力が高いわけではない。燃費こそ悪いが瞬間火力の高い雪ノ下級とは異なり、由比ヶ浜級はもともとお菓子を消費するくらいしか能が無く、戦闘に耐えうる仕様ではないのだ。これでまかり間違って逆ギレでもされたなら、胸の悪くなるような結果になりかねない。
ま、それを言い出したら、俺だって同じようなものなんだが…。
懐かしそうな、切なそうな顔色を見せる雪ノ下。脳裏にはおそらく、俺と同じ光景が浮かんでいることだろう。
生徒会選挙の際に由比ヶ浜が見せた表情。普段とは打って変わって、何を言っても絶対に意志を曲げない頑固さ。
あの女傑っぷりときたらもうガハマーン様と呼んじゃって何ソレって真顔で聞かれるのが怖くてやっぱり呼んじゃわないレベル。呼ばないのかよ。
だって髪の色とか似てるし。いや髪の色しか似てないか。
「悪いな」
「もう慣れたわ」
分かったような、それでいて分かり合えていないことが分かっている、微妙だけれどぬるま湯のような空気感。知らず緩んでしまう頬を引き締めつつ、次の行動に頭を巡らせる。
事態がこうなってしまうと、こちらは基本は受身だ。後手に回るしかないのが歯がゆいばかりである。
「私に出来る事があったら言って頂戴」
「助かる」
「出来ない事でも相談くらいはしなさい」
「おう」
「比企谷くん」
生返事を繰り返していたところに、くいと袖を引かれたような感覚を感じた。
振り返ると、コートの裾からこっそり顔を出した白い指が、申し訳程度に、しかしきっちりと俺の制服を摘んでいた。
「気をつけて」
「……」
そのあまりに真剣な表情に、かえって恥ずかしさを覚えることもなく、さりとてこれ以上適当な言葉も出ない。おそらく同じように真面目な顔をしたつもりの、けれどもひょっとしたら間抜けな顔をしていたかもしれない俺は軽く首肯した。それを見てからようやく、か細い拘束は解かれた。
寒色に張り詰めたの空気の中、柔らかな温度をはらんだ溜息を残して、雪ノ下雪乃は校舎の中へと消えていった。
だから睡眠を優先しろとあれほど…。