そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

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遅くなりましたー。
モチベとか仕事とか、色々ありましてん。


■5話 いろんな男の子としてきた

<<--- Side Iroha --->>

 

 平塚先生を見送った先輩が部屋へ戻ってくる。

 

 彼の肩越しに見えた廊下は随分と暗い。教室側の窓に目をやれば、冬の太陽はとっくの昔に沈んでしまっていた。校庭にはライトが灯り、残っているのは熱心なクラブに所属している生徒くらい。

 

「すっかり話し込んでしまったわね。今日はもうお終いにしましょう」

 

 カップを片付け始めた雪ノ下先輩を皮切りに、各々の荷物に手が伸びる。

 

 コートに袖を通している雪ノ下先輩に、残ったお茶菓子をリスのように詰め込む結衣先輩。先輩はというと、ストーブのそばで温めていたマフラーを手早く巻いて、ひとり帰り支度を終えた顔で部屋の戸口から声を掛けてきた。

 

「──んじゃ、お疲れさん」

 

「待ちなさい」

 

 撤収を認めない凛としたその声に、半身を既に廊下に晒した先輩がしぶしぶ足を止めた。

 

「…なにか?」

 

「忘れ物があるでしょう」

 

 帰宅準備が整ったわたしの肩を両手で抱いて、先輩の前へついっと押し出す。

 

「カノジョ置いてくとか、さっそくありえないよね。はいマイナス100点!」

 

 ぴっと人差し指を立て、試験官のような顔つきでダメ出しをする結衣先輩。先輩を彼氏役にすることに対していつの間にやら静かになったと思っていたら、今度は赤点で落第にでもさせるつもりなのだろうか。

 とは言え、先輩があまりに自然に帰ろうとしたため、わたし一人だったら返事も覚束ないまま逃がしてしまうところだ。捕まえてもらったことには感謝しないと。

 

「先輩、ひとりで帰る気マンマンでしたよね?」

 

「…トイレですよ?」

 

 にじり寄り、問い詰めるわたしの言葉に目を泳がせる先輩。姿勢も美しく歩み寄った雪ノ下先輩が、とても優しい笑顔で告げる。

 

「日頃から住人扱いされているからって、そこまで卑屈にならなくても良いのよ?」

 

「トイレに帰るって意味じゃねえよ」

 

 冗談よ、と漏らす彼女の口元には、よく見ないと分からない程度に微笑が浮かんでいた。

 いつか、こんな風に軽口を言い合える仲になれるだろうか。そもそも、あんなに手を替え品を替えネタが飛び出すほどの頭の回転は、わたしには期待できそうも無いけれど。

 

「やるからには責任を持ちなさい」

 

「セキニン…うー…」

 

 "責任"という言葉に過剰に反応する結衣先輩。

 この単語が出てしまうと、やはり乙女としては多少思うところがあるのだろう。もちろんわたしも聞き捨てなら無い単語だったけれど、ここで反応してしまうとまた槍の様な視線の責め苦に晒されかねないので、徹底して知らんぷりを通す。

 

「とりあえず、今日は一色さんの家まで付き添ってあげること」

 

「…マジで?」

 

 いやいや。マジで? はこっちのセリフですよ。

 わたしを置いて帰るつもりだったんですか?

 彼氏役を引き受けておいて、一体どういうつもりなんですかね、このひと。

 

 けど、よく考えてみたら先輩はそういう経験、ないんじゃないかな。いやないはず。あるわけないよね、うん。

 

「あのですねー先輩。彼氏っていうのはですね、彼女をお家まで送るという決まりがあるんですよ?」

 

「そんな条例、聞いたことないんだが…」

 

 この世の終わりみたいな、失礼極まりない顔の先輩。

 この際、積極的に役目を果たしてくれることは期待しないほうがいい。彼は基本的に押しに弱いから、わたしがリードすれば済む話だ。言い合っているうちに逃げられないよう、するりとその腕を絡めとろうとして――

 

「っ!?」

 

 ピリリと、身体に電気が走ったような()()を感じた。

 

 冬によくある衣類の静電気のような、明確な感覚じゃない。不思議と自分でも錯覚とわかる、それでいてはっきりと感覚に残る、小さな衝撃だった。痺れるようなそれは、手を、腕を伝って、胸の鼓動の速度を引っ張りあげる。

 

 な、なに?

 まさかいまさら、恥ずかしいなんてことはないよね?

 手を繋ぐくらい、今までだっていろんな男の子としてきたんだし。

 でも、なんか…あれ? 手に、汗が。

 廊下から吹き込む風はこんなに冷たいのに、身体が、熱い──。

 

「どうしたの?」

 

 ステージに出るタイミングを間違えた芸人のように赤面し、戸惑っているわたしを見て、結衣先輩が怪訝そうな顔をする。

 

「いえ、ちょっと、身体が…」

 

「きっと拒絶反応を起こしたのね。アナフィラキシーショックには気をつけなさい。二度目は無いわよ」

 

「二撃必殺とかどこの隠密機動だよ。どこ触ってもNGとか最強すぎんだろ」

 

 ふー。

 ほんと、なんだったんだろ…。

 

 一方的な舌戦をよそに、わたしはこっそりと、熱の篭った吐息を吐き出した。

 

 

* * *

 

 

「はぁ……」

 

 冬の寒空に、弱々しい息が白く霞んで溶けていく。

 

「どうしてこうなった…」

 

 情けない声を出してる先輩の背中は、いつも以上に丸くなっていた。

 

 あのあと彼は、「せめて二人も付いてきて欲しい、間が持たない」と主張した。けれど二人きりでないと恋人同士に見えないという雪ノ下先輩の主張に押し切られてしまい、今日のところはひとまず先輩がひとりで送ってくれることになったのだ。

 

 自転車置き場へ向う彼に、てこてこと付いていく。あれだけ嫌がっていた彼だったけれど、その歩幅はわたしの速度にきっちり合わせてあった。そのことに気付いた瞬間、嬉しいのか悔しいのかよく分からない感情が、胸の中にわだかまる。

 

「お前は校門のとこで待ってて良いんだぞ」

 

「はぁ…。あのですねー先輩…」

 

 このひとは頭いいくせにバカだなー。

 恋愛オンチだからなのかなー。

 先が思いやられるなー。

 

 そう顔で語っていると、わたしの言外の罵倒を敏感に察したらしく、先輩の顔に苦々しさが広がった。努めて呆れたような声色で、わたしは先輩を教育する。

 

「あんな暗いところにひとりで立ってたら、何のための彼氏作戦かわかりません」

 

「ん、まあ…確かに」

 

「影に日向に、襲いくるワルモノから身体を張って、愛しいわたしを守りきらないと」

 

「先祖代々おまえんちに仕えてそうな設定だな、それ」

 

「なのでずっと、わたしから目を離さないで下さいね♪」

 

「あざとい…」

 

 なんと言われようと、今の先輩はわたしの彼氏。要求を突きつけることに遠慮なんてしない。まあ、彼氏でなくても遠慮なんてした覚えはないような気もしないではないけれど。

 だいたい、先輩がわたしをあざといと評するときは、わたしの仕草に魅力を感じているという事実の照れ隠しでもあるのだ。それが思い過ごしでないことは、ふっと目を逸らす彼の横顔を見れば一目瞭然。

 

「ほれ」

 

 すっかり人気のなくなった──自転車だから自転車気というべきか──利用者が去ってガラガラになった駐輪所にて。

 

 所有者よろしく所在無さげな風に置かれていた自転車を引っ張り出すと、彼はサドルにまたがって後部をぽんぽんと叩く。

 

「なんですか」

 

「乗れよ」

 

「ムリです」

 

 即答したわたしに心折れたような顔をした先輩は、重苦しい息を吐きつつ肩を落とした。

 

「まーそりゃ俺の後ろとか無理に決まってますよねすみません」

 

「いえ、そこは座席じゃなくて荷物置きです。クッションも無いんじゃ、わたしおしり痛くて乗れません」

 

 そもそも二人乗りは交通ルール違反ですし、と付け加える。

 

「小町には尻が痛いなんて一度も言われたことないんだが…」

 

「ヒップの肉付きに余裕がある方ならそうかもしれませんけど」

 

「テメエうちの小町のスタイルにケチ付けようってのか?」

 

 いきなり目の色を変え、やくざの下っ端のごとく「ああん!?」と絡んでくる先輩。妹さんを溺愛しているとはよく聞くけれど、どんな子なんだろう。先輩の妹がかわいいっていうのが、全く想像できない。

 鋭い目つきが魅力的っていうなら、かわいいと言うよりクール系なのかもしれない。そういう系統ならわたしと被らないし、どっちがかわいいと思うのか、いつか聞いてみたいなー。

 

「まあまあ、今日は寒いですし。自転車だと余計風が辛いですし」

 

 二人乗りにはかなり心惹かれるものがあったけれど、寒くて辛いというのもウソじゃない。ついでに、すぐに家についてしまうのはもったいないと感じたのもあるんだけど、自分でもどうしてそう思うのか分からなかったから、そっちのほうは単なる気のせいかも。

 色々あって疲れたし、まだちょっと怖いから、なるべく早く家に帰りたいはずなんだけどな…。

 

「はあ、わかったわかった。押していきますよ」

 

 諦めて自転車のスタンドを上げる。

 続けてすっと、差し出される手。

 

「?」

 

「カバン。カゴに入れっから」

 

 …っ。

 

 うー、またやられた。

 油断したところに急にくるから、やけにドキッとする。

 もしかして普段ぶっきらぼうなのは、このギャップを狙ってやってるの? だとしたら、ぼっちどころかとんでもないタラシだよ…。

 

 手渡したカバンを丁寧にカゴに入れると、先輩は膨れっ面のわたしを伴って歩き出した。

 

「なんでちょっと不満げなの」

 

「…べつに」

 

 すっかり暗くなったこの時間、正面玄関前の人通りはほとんどない。

 噂の二人が…このフレーズは言ってて恥ずかしいけど、そんな二人が連れ立って歩いていても、黄色い声や煩わしい視線を感じることは無かった。

 

 校門を抜け、禿げ上がった並木に彩られる通学路へ。いつもは生徒会の仕事で疲れた身体を引きずるだけのつまらない道だったけど、今日はなんだかドラマの撮影現場か何かのように感じられた。

 

 先輩が自転車を押しているせいで、体勢的に腕が組みにくい。半歩分の距離を開けたまま、わたし達は会話もなく歩いてゆく。すれ違う自動車のライトに照らされる先輩の横顔を、わたしは横目でじっと見続けていた。

 

「寒くないか」

 

「へぁっ」

 

 突然声を掛けられて、おかしな返事が出てしまった。

 だから急に優しくするのはやめてって言って…ないけど、やめて欲しい。今日のわたしの心臓は負担が掛かりっぱなしだ。

 

「もー、なんですか急に…」

 

「いや、寒そうに見えたから」

 

 薄いピンクのマニキュアできっちり決めているわたしの手は現在、寒空の下で裸のまま夜風に吹かれている。実は昨日、腹立たしいことに、わたしはお気に入りの手袋をなくしてしまっていた。たぶんカバンに入れたつもりで落っことしたのだろう。気が付いたら無くなっていて、どこでやってしまったのかも見当が付かない。

 寒さに耐え切れず時々すり合わせていたそれを見咎めたのだろう。先輩はカバンを漁ると、可愛らしいファーに縁取られた白い手袋を取り出した。

 

「妹のだけど、使うか?」

 

 期せずして取り出された優しさには、非常に残念なことに、少なくないシスコン的な要素が含まれているらしかった。

 

「妹の手袋を持ち歩いてる点と、それを他の女の子に貸そうとしている点で、二重にドン引きなんですけど…」

 

「そう言うな。四次元ポケットの中身だって実は訳アリ品ばっかりなんだぞ」

 

 カバンから出てきた便利アイテム(アウトレット品)を見て、ドン引き×2でドドンと身体を引いて見せたわたしに、しかしあまり慌てた様子も無く、先輩は答える。

 

「たまに朝チャリに乗せて送ってんだけど、あいつ最初は寒いって言うくせに、学校付く頃には暑がって俺に預けていくんだよ」

 

 若い子はいいねー、と心なしか枯れた声を出して見せる。

 

「それ訳アリっていうか単なる使用済みですよね?」

 

「そうとも言う」

 

 そうとしか言わないと思います。

 

 たしか妹さん、中三って言ったよね? わたしと一つしか違わないのに、随分お兄さんと仲がいいんだなあ。このくらいの女の子って、男家族とは距離を置きそうなものなんだけど…。

 

 自転車を操る先輩の後ろから腕を回して抱きつく、見た事もない妹さんの姿──。

 

 考えていたら、なぜか胸につかえるものがこみ上げてきた。このまま貸してもらうのは、なんだか、気に入らない。

 

「いえ、お気持ちだけ。妹さんにも悪いですし」

 

「そうか」

 

 それ以上食い下がりもせず、あっさり手袋をしまう先輩。せっかく気を遣ってもらったのに、このままではなんだか失礼ではないだろうか。それに、せっかく始まった会話をこのまま終えてしまうのはもったいない。やせ我慢をしているけれど、痛みさえ感じる冷え切った手も、そこそこ切実な問題だったりする。

 

こうなったら──

 

「…えいっ♪」

 

 最近ドラマで見たシチュエーションを参考にさせてもらうことにした。

 

「んほっ!?」

 

 ズボンの左ポケットに凍えた右手を突っ込まれた先輩は、突っ込んだわたしの方が逆に驚くような奇怪な声を上げた。

 中に篭った体温がわたしの指先に伝わり、じわじわと血液が巡る。確かめるように指を動かすと、ポケットの布地越しに女の子とは違う固さの肉感と、確かな熱が感じられた。

 

「やめっ、くすぐってぇ! ……って指動かすな!」

 

「だってかじかんで痛いです。わたしが凍えて死んじゃったら先輩、責任取れますか?」

 

「それはまずいな。凍死者なんか出したら、千葉がディスられるネタが増えちまう…」

 

 むずがっていた先輩も、実際に冷え切ったわたしの手に同情したのか、あれこれ言い訳をしながらも、無理に引き剥がそうとはしなかった。

 

「…せめて上の方にしてくれ、色々危ないから」

 

「は?」

 

 主に見た目とか、とボソボソこぼす先輩。

 何を言っているのかと思って彼の顔を見ると、その視線は地面を向いていた。

 

 まばらに並ぶ街灯に照らされ、地に落ちた二つの薄い影。

 小さい方の影は、大きい方の影の下半身に向って手を伸ばして――。

 

「やっぱいいです気持ち悪いので!」

 

「これでも訴えられたら俺が負けるんだろ? この辺はほんとにおかしいと思うわ…」

 

 慌てて手を引っこ抜いたわたしの言い分は我ながら酷いもの。

 それを聞いてなお、先輩は特に表情も変えず、いつも通り社会の仕組みに愚痴をこぼすだけ。

 

 いやいや、さすがに今のは狙ってないですからね?

 あざといとか通り越して、あんなのまるっきり痴女だし。

 バタバタしてたら、なんだかあったかくなってきちゃった。…顔だけ暖かくなってもしょうがないんだけどな。

 

「──そいや知ってるか、あの青いコ○助のことなんだが」

 

「え、待ってくださいコロちゃんの方が後ですよね…?」

 

 空気を変えようと思ったのか、珍しく先輩から話が始まった。

 

 知能のレベルが大学生並という設定のわりにサインでカタカナが全部書けず、だからこそ後ろだけひらがなになったとかいう、自称猫型ロボットに関するトリビア。

 ネコかタヌキか、それ以前にどっちにも見えないというのはなるほど確かにその通りで、体型的にもちょんまげくんの方が先だと言われたら信じてしまいそうな話だった。

 

 さっきの妙に落ち着かない薄桃色な空気は雑談の声に薄まって消え去り、あとには少し饒舌になった先輩と、飾らない相槌を打ち続けるわたしが残った。

 

 

* * *

 

 

 のんびり住宅地を縫って歩いていると、先輩が急に立ち止まった。傍にはどこか寂しげな明かりを放つ自動販売機が二台。何を選ぶのかと黙って様子を見ていると、小銭と引き換えに二つの缶を携えて、彼はこちらに向き直った。

 

右手には、某所のごくごく一部の女子にブームを起こしかけているらしい、MAXコーヒーの缶。

左手には、対照的に何もかもが無難な、ホットのミルクティー。

 

「ほれ」

 

「…!」

 

 左手を差し出すその表情は相変わらずの仏頂面で、気取っても照れてもいなかった。

 

 デートの相手が押し付けてくる厚意という名の下心とは違う。

 パパがわたしのおねだりに頬を緩めて買い与えるのとも違う。

 

 寒そうにしているのを見ていられないから、面倒だけど仕方ない──。

 

 いつもの死んだ様な目がなりを潜めたその表情は、見たことがない、しかしながら素朴な温かみに溢れていた。

 

「…明日はポップコーンでも降るんでしょうか」

 

「俺が人に奢ると浦安で竜巻でも発生するのかよ…。組織も雪ノ下も敵に回したくないから、そんなら持って帰るわ」

 

 わたしの減らず口に、ミルクティーをカバンに突っ込もうとする先輩。

 

 ごめんなさい、今日は驚きすぎて素直になる余裕がないんです。

 

 ヤンチャなこの口を使いこなすのは諦めて、もう少し正直に言うことを聞くボディランゲージの方へと切り替える。

まだ冷たい指先で先輩の右手の袖を掴み、せめてもの自己主張をした。

 

「…わたしその黄色いのが良いです」

 

「ホットは素人向けじゃないからやめとけ。下手すりゃ気分悪くするぞ」

 

「でもそっちがいいです」

 

 素人向けじゃない缶ジュースってなんだろう、とは思ったけど。もっと先輩が好きな味を知っておきたいから、選択肢は他になかった。それに、ちょっと思いついたことがある。

 

 仕方ないな、と先輩はプルタブを開けてからこちらに差し出した。

 

 …っ!

 だから、そういうさりげないのが…!

 もういい、いちいち反応してたらもたない。

 

 受け取ったMAXコーヒーを一口含むと、軽く酩酊するような甘さに襲われた。女の子が甘すぎて引くって、一体どうなってるのこれ。コーヒーに練乳じゃなく、練乳にコーヒーが入ってるんじゃない?

 

「…ちょお甘いですね」

 

「変えるか?」

 

 自分でもどうかと思うくらいわがままな言い分にもかかわらず、ミルクティーとハンカチを差し出してこちらを心配している先輩。こうなる展開を予想し、いつの間にやらケアの準備まで完了していたらしい。

 ほんとなんなんだろ、この世話焼きは。どんなに甘えても、ちゃんと受け止めてくれそう。包み込まれるような安心感? みたいなのが。

 

「…いえ」

 

 せっかくの申し出を辞去し、もう一口。

 まあ、慣れると美味しい、かもしれない。

 怖いのはカロリーくらいだ。

 

 それに──。

 

 甘いものがきらいな女の子なんていない。

 甘やかされるのがきらいな女の子なんていない。

 

「きらいじゃないですから」

 

 なにが、とは言わない。

 分かって欲しい気もするし、分かって欲しくない気もする。

 ついでに言うと、わたしもよく分からない。

 分かりたい気もするし、分かりたくない気もする――。

 

 ちびちびと飲み進めるわたしを見て安心したのか、先輩も予備に備えていたミルクティーに口をつけた。それを横目で見計らって、さっき思いついた些細なイタズラを敢行する。

 

「やっぱそっちにして下さい」

 

「おい、口つけた後で言うなよ…」

 

 さっき言えばこれやったのに、と渋る先輩。

 迷惑そうな顔をしながらも、その手はポケットの財布をまさぐる。わたしのために新しいものを買おうとしているのだ。

 

「…ほんと激甘ですね」

 

「だから言っただろ。これでいいか?」

 

「はい」

 

 先輩が掲げたミルクティーの缶を素早く奪い取る。そのまま彼が言葉を発するよりも先に、飲み口に唇を添えてしまった。冷えた金属と、一口目にはあり得ない濡れた感触を得て、触れた唇にぴくりと震えが走る。

 

「お、おい…」

 

 こくり、こくり。

 

 素知らぬ顔で缶を傾けると、甘いベージュ色の液体が喉を伝って体の中心へと流れ込む。

 

 ぜったいに分かるはずも無いのに、ミルクティー以外の何かを舌に感じるような気がする。耳が燃えるように熱くなるのが分かり、髪で隠れているはずの耳へと思わず手が動いてしまったけれど、なんとか髪の毛を軽く払うような仕草に変えて誤魔化してみせた。

 

「…こっちもけっこう甘いですね」

 

 凍えていたはずの指先まで駆け巡る体温を感じながら、両手で缶を包み込み、再度口をつける。飲みながら舌先で飲み口をちろりとやってしまうのはただのクセだ。そこに深い意味なんてない。

 

「はー…」

 

 温くなったはずのミルクティーから受け取った胸を焦がすほどの熱を、長い溜息に乗せてゆっくりと吐き出し、これで作戦(ミッション)完了。

 大丈夫、全く動揺していない!…ように見えた、よね? 先輩のリアクションを見るためには、こっちが動揺しないのがマスト。

 

「一色さんなに飲んでんすか…」

 

「これでいいかって言ったじゃないですか」

 

 すっかり蹂躙されたミルクティーを痛ましげに眺め、先輩は財布の小銭を鳴らして言った。

 

「同じの買えばいいのかって聞いたんだけど…」

 

「なーんだ、そうだったんですかー」

 

 こういうとき、演技と素の両面を知っている先輩が相手だと、実にやりやすい。わたしの目的が何だったのか、このやりとりだけでもう分かったはず。

 

「もったいないのでいいです。先輩もこれ、どうぞ」

 

 油断したところにもう一本の仕込みである、飲みかけMAXコーヒーを差し出す。濡れた飲み口が街灯の明かりを反射して暗がりの中できらりと光り、先輩は息を飲む。

 

「まだぜんぜん暖かいですよ?」

 

 どぞどぞ、と差し出された缶に彼はしばらく目を泳がせていた。けれどもわたしが平気そうな顔をしているのにひとり意識するのが情けないとふんだのか、結局は手を伸ばした。

 

「…マッカンを捨てるなんてとんでもないからな」

 

 それは大事なものだ、と誰かに言い訳しつつ、その黄色い缶をおそるおそる手に取る。

 口をつける様子をじっと観察していると、わたしの視線に気が付いた先輩は動きを止め、こちらに背中を向けてしまった。

 

「なんでそっち向くんですかー」

 

「飲み辛いんだよ…」

 

 なむさんっと唱え、天を向いて缶をあおる。

 黒髪の隙間に見える先輩の耳が真っ赤になっているのを見て、わたしの中の小悪魔が黒い尻尾を振りつつもう一声!と欲張った。

 

「あ、リップの味混じってたらごめんなさい♪」

 

「ブッ! …げほ、げほっ!」

 

 派手にむせる先輩をくすくす笑いながら思う。

 

 たのしいな。

 あったかいな。

 

 恥ずかしそうなその顔を見てると、心がほっこりする。

 ぶっきらぼうなその声を聞くと、心が弾んじゃう。

 先輩と付き合うって、毎日がこんなかんじなのかな。

 これだったらぜんぜんあり…ううん、いいかも。

 

「ったく、お前の彼氏になるやつは大変だな…」

 

「あ…」

 

 苦笑いを含んだ先輩の言葉に、広がりかけた妄想の翼が溶けて消える。

 

 そうだった。

 先輩はわたしの彼氏じゃないし。

 わたしは先輩の彼女じゃない。

 事が済んだら、わたし達は今までどおりの先輩と後輩に戻る。

 だからあの二人も、なんだかんだでこの状況を許してくれている。

 

 もしもわたしが返したくないなんて言ったら、どうなるのかな。

 あの二人はなんて言うのかな…。

 この先輩はなんて言うのかな…。

 

 肩をいからせ缶の残りと格闘している先輩の背中をじっと見つめてみたけれど、その答えが返ってくるはずも無かった。




遅くなった分、今回はいつもより大盛りでお届けです。
ウソです、キリが悪かっただけです。
個人的にお待ちかね八色シーンですが、いかがだったでしょうか。
小悪魔ないろはすに翻弄されたい。むはー。

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