大変長らくお待たせしました。それでは続きをどうぞ。
《---Side Yukino---》
「体調が優れないので、申し訳ありませんが早退させて下さい」
授業を遮って突然挙手した私の一方的な申請は、教壇に立って浪々と英文を読み上げていた壮年の男性教諭によって、実にあっさりと受理された。
クラスメイトの物問いたげな目が身体にまとわりついてくる。校内を駆け巡っている噂を聞きつけ、色々と想像を捗らせているのだろう。そんな視線をまとめて軽い会釈で断ち切ると、私は手早く荷物をまとめ、しかし幾分重たげな足取りを演出しながら教室を後にした。
事件の日から数えて三日目。
そろそろ実家の雲行きが不穏になってきたという姉さんの
(今度ばかりは、みんな嘘だと気付いたかしら…)
ともあれ、してしまった事を悔やんでも仕方がない。いくら私でも、
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From : 比企谷 小町
To : 雪乃さん, 結衣さん
Subject : 意識が回復しました
おはようございます。
先ほど、兄が目を覚ましました。
お医者さんの話では、身体の方は問題ないようですが、ちょっと困ったことになっています。
お時間がありましたら、一度病院まで来て頂けるととてもうれしいです。
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さっき届いた小町さんからのメール。この文面を見た瞬間、私は思わず教室の中でガタリと椅子を鳴らしてしまった。すわ何事かと集まる衆目を咳払いで逸らし、必死に澄まし顔を取り繕っていると、すかさずもう一通。先のメールを待ち構えていたとばかりに、二通目のメールが飛び込んできたのだった。
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From : 由比ヶ浜 結衣
To : ゆきのん
Subject : No title
すぐいこげんかんまつてる
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装飾過多な普段のそれとは打って変わって、最低限の体裁すら見失ってしまった様な一文。そんな彼女の言葉は、そわそわと背中を揺らしていた私の迷いを小気味良く吹き飛ばしてくれた。
* * *
「ありがと…ごめんね」
「別に、皆勤賞が掛かっているという訳でもないから」
少しだけ申し訳なさそうに眉を下げ、それでも信頼の光を湛えた由比ヶ浜さんの眼差し。それを正面から受けきれず、格好の悪い照れ隠しを吐きながら、二人揃って玄関をくぐる。グラウンドに響く教師の声に少し足を忍ばせつつ、私達は校門へと向かった。
「うーん、この時間だとバス微妙だー…」
由比ヶ浜さんがスマートフォンを弄りながら困惑の声を出している。通勤や通学の時間帯以外では、このあたりのバスの間隔はあまり短くない。いや、車の前にそもそも人が通り掛かる気配すら無かった。昼間の学校近辺なんてものは、大抵こんな状態なのかもしれない。
「これはタクシーを呼んだ方が良さそうね」
携帯を開いて番号を探していると、
「あ、ラッキー! 来たよ!」
「えっ?」
幸運の星ならぬ、星型の装飾をルーフに飾った一台のタクシーが、折よく曲がり角から姿を現した。
「おーい、乗りまーす! 乗せてー!」
青になった瞬間に飛び出していく小学生の様に、手を上げてそちらへ駆け寄る由比ヶ浜さん。その背を追いかけようとして、ふと足が止まる。
(こんな時間のこんな場所に、こうも都合よく…?)
残念ながら「これぞ日頃の行い」と天に感謝できるほど、雪ノ下雪乃という人間は素直ではない。思うところがあって、私は校舎を振り返った。
自分の教室ではない。
由比ヶ浜さんの教室は、あの辺りだろうか。
……やっぱり。
遠目でも目立つ白衣の女性が、窓際で腕を組んでこちらを見守っていた。
向き直って深く頭を下げてから、私を呼ぶ声の方へと走る。
「ゆきのーん、早く早くー!」
「ええ」
返す言葉もそこそこに車内へと乗り込み、行き先を告げる。
「超特急でお願いします!」
身を乗り出した由比ヶ浜さんが無茶な要求を口にしても、それを咎める言葉は出てこない。安全運転の念押しが出来るほど、私の心にも余裕がある訳ではないらしい。
学生二人が昼間から病院へ急いでいるという状況に非日常を感じ取ったのか、運転手は浮かべかけた営業スマイルを引っ込めると、短い返事と共に手際よく車を動かした。
* * *
「やっば! ゆきのん、忘れてた!」
「…もう。運転中に大声を出しては迷惑よ?」
発車からしばらくして、由比ヶ浜さんが急に顔をはね上げた。
「忘れ物なら後で取りに戻りましょう」
「そうじゃなくて、いろはちゃん! 置いてきちゃった!」
「あっ」
言われて、それが実に致命的な忘れ物であることを把握する。
何故こんな当たり前の事を失念していたのだろう。いくら急いでいたとは言え、よりにもよって彼女を意識の外に置いていたとは、我ながら度し難い。
「も、戻った方がいいかな?」
「……いえ」
思い返してみると──先のメールの宛先に、はたして彼女の名前はあっただろうか。私は小町さんからのメールを読み直し、自分の記憶違いでない事を確認した。
「一体どうして…」
小町さんが出し忘れた可能性はとりあえず除外する。彼女がこういった状況でそんな簡単なミスをする人間だとは思っていない。もしもこの状況で、一色さんにだけ連絡しない、あるいはしなくても良い理由があるのだとすれば──。
「そもそも一色さんって、今日は出席していたの? まだ落ち着かないでしょうし、来ていないものだと思っていたわ」
「ど、どうだろ。そいや、今日はまだ連絡してないや」
「もしかしたらなのだけど…彼女、また病院に居るんじゃないかしら。小町さんからのメールに宛名が無かったのも、口頭で状況を伝えてあるからだと考えれば辻褄が合うし」
「あー、たぶんそれだ…。昨日話したけど、あんまし帰る気なさそうだったし。どーせ授業なんかさっぱりアタマ入ってこないんだから、あたしも休めば良かったよー。そしたらもっと早く行けたのに!」
「あら、まるで普段は集中出来ているみたいな口ぶりね」
「うっ…。それはほら…ソレはソレ、コレはコレってゆーか…分かるでしょ?」
「冗談よ。これだけ迅速に動けたのなら、立派なものだと思うわ。それに容態が回復したという朗報なのだから、そこまで慌てる必要も無いんじゃない?」
半ば自分に言い聞かせるような内容を発することで、自分の浮き足立った心を徐々に落ち着かせてゆく。
「でもさ、こんなんゆわれたら、気になるじゃん…」
メールを読み返す彼女の横顔は優れない。かく言う私も、小町さんから受け取った内容が気になって仕方が無かった。
何事も無く回復しているのであれば、あんな思わせぶりな書き方はしないだろう。彼女は歳のわりに配慮の行き届いた子だ。不用意に周囲を騒がせるような事をするとは思えない。
逆説的に際立ってくる不安感をかみ殺し、シートに深く身を委ねる。窓から見上げた先には厚い雲が広がっていて、まるで私達の不安を空に描き出してみせたかのようだった。
* * *
病院の玄関を潜った先に広がる正面ロビー。
そこには、予想通りの人物の姿があった。
「いろはちゃん」
「あ…おはようございます、結衣先輩、雪ノ下先輩。さすが、お早いですね」
彼女はこちらに気が付くと、刹那のうちに笑顔を浮かべてみせる。安心が半分、虚勢が半分といったところだろうか。あまり上等ではないけれど、作り笑顔も笑顔のうちとも言う。こんな表情が出せるくらいには良くなったと考えるべきなのだろう。
ただ、引っ込んでしまったさっきまでの素の彼女は、今にも泣き出しそうに見えた。それが小町さんの示唆した懸念を肯定している様に思えて…。
「一色さん。貴女──」
「こーら、いろはちゃん。またこっちに泊まったでしょ。気持ちは分かるけどダメだってば。疲れて倒れちゃったらどうするの?」
「すみません…」
目を伏せて顔を逸らす彼女の顔色は、お世辞にも良いとは言えなかった。よく見ると、いつもよりメイクが濃いのが分かる。きっとまた彼のベッドの側で夜を明かしたのだろう。この場の誰よりも年若い彼女ではあったけれど、流石に隠しきれない疲れが滲んでいる様に見えた。
「あ。べ、別に責めてるワケじゃなくて! その、ほら…」
「それで貴女が身体を壊してしまったら、今度は比企谷くんが気を病むでしょう。彼、意識が戻ったって聞いたわよ」
(ちょ、ちょっとゆきのん! それはさすがに…)
(だってこうでも言わないと彼女、ずっと帰らないでしょう?)
些か卑怯だとは思ったけれど、この名前を出せば聞き入れてくれるのではないか。由比ヶ浜さんでは到底口に出来そうにない、打算にまみれた説得に、しかし彼女の口から返ってきたのは、諦念をたっぷりと含んだ苦笑いだった。
「あは…。その心配は、ないかもですね…」
「いろはちゃん!」
由比ヶ浜さんの叱声がロビーに響いた。そのボリュームに自分でも驚いたのか、気まずそうに口を押さえてから、俯いている彼女に歩み寄って、両肩に手を添える。
「そんなワケないじゃん。心配するに決まってるよ。今さら疑うトコじゃないでしょ、そんなの」
「…違うんです。違うんですよ、結衣先輩」
「…何か問題があったという話だけれど、もしかしてそれと関係があるのかしら」
悲しげに目を伏せたその表情からは、先程の言葉が謙遜や自嘲といった皮肉めいた感情からではなく、本心から発したものである様に感じられた。比企谷くんが自分を心配する事なんて無いのだと。してはもらえないのだと、彼女は本気で悲しんでいる。
「──それ、小町の方からお話します」
掛けられた声に顔を向けると、通路の奥から制服姿の中学生がやってきたところだった。
「小町ちゃん」
「おはようございます。すみません、お呼び立てしてしまって」
「あ、ううん。それはぜんぜんなんだけど…」
「お早う、小町さん。早速だけど、何があったのか聞いても構わないかしら」
「…立ち話も申し訳ないですし、場所を変えませんか」
この数日で一回り大人びたような印象の小町さん。口振りから察するに、やはり諸手を挙げて喜ぶという訳には行かないのか。結論を急かしたいという気持ちはあったけれど──
「…それもそうね」
ここだって、少ないとは言え人目はある。さっきのやり取りで、私達は既に十分過ぎるほど目立ってしまっていた。逸る気持ちを押し殺して、私達は無言で彼女の後を追ったのだった。
* * *
『お兄ちゃーん、お友達がお見舞いに来てくれたよー』
『ちょっと小町ちゃん、怪我人相手に皮肉はおやめなさい。傷に染みんでしょうが。主に心の方の』
『んー、そっちのはここの病院じゃ治んない傷だから。心のツバでもつけといて』
『それ遠回しに独りで泣いてろって言ってるだろ…つか結局誰よ? あ、ひょっとしてエア友達のともちゃんか? あれは他人に見えるような低次元の存在じゃ──』
たったの二日。
ただの週末と変わらない空白にも関わらず、彼の声を聴いた瞬間、私の胸には懐かしさのようなものが去来していた。比企谷くんのベッドはカーテンに覆われ──個室でこのカーテンに何の役目があるのかは定かではないけれど──中からは一風変わった兄妹の喧騒が漏れ聞こえてくる。
同じ事を感じたのか、見合わせた由比ヶ浜さんの顔も久し振りの笑顔に一瞬だけ綻み、けれどそれも、すぐに別の感情に塗り潰されてしまう。
『あーもうグダグダ言ってないで。もう来てるんだから、とっととお見舞われて!』
『あのな小町、正しい謙譲語の使い方ってのを──って、え? なにもう来てるの?』
「はーい、オープン ザ カーテーン!」
マジックショーの様にシャッと開かれた白布の向こうには、相変わらず死んだような目をそれなりの驚愕に見開いた、見慣れた男子の姿があった。
ベッドに座る彼の腕には太い点滴のチューブが繋がれていて、既に何度か見たはずのそれが、妙に痛々しく目に写る。小町さんがその粗雑な口調とは裏腹に、甲斐甲斐しく背中へ手を添えているのも印象的だった。
「…こ、こんにちは…ではなくて」
間違えた。今は午前中だ。
「お早う比企谷くん。お邪魔しているわよ」
どうやら、私もそれなりに緊張していたらしい。私が彼と言葉を交わすのは大抵が夕方。だからこそ、咄嗟に出た挨拶がこれだったのだろう。
「……………」
瞬間、室内の空気が一瞬で切り替わったのを肌で感じた。プライベートを他者に侵されたという息苦しい緊張感が、場を急速に満たしていく。
「あー、えとその…。ど、どうも…」
頭だけをかくんと下げた彼は、一瞬私と目が合って、しかしすぐにそれを逸らしてしまった。
行動だけを見ればいつも通りとも言えるのだけれど、そこに含まれていた感情の違いに、私はショックを隠せなかった。何より、彼の口から出た言葉は、先ほど小町さんの説明した事案が冗談ではないのだという事を、端的に証明するものだったのだ。
「あ、兄の八幡です……」
× × ×
「きおくそーしつ…」
それこそ中高生の分の記憶を失って退行でもしたかの様に、由比ヶ浜さんは危なげな呂律でもって小町さんの語った言葉を反芻した。
「まあ、わりとよくある話らしいんですけどね」
小町さんと合流した私達はフロントから場所を移し、喫茶コーナーでテーブルを囲んでいる。
彼女の声は思ったよりも元気そうで、それだけが唯一の救いだった。比企谷くんの回復が医者の見込みよりもずっと早かった為だろう。応急措置のお陰だと何度も頭を下げられて居心地の悪い思いをしたのは、つい先程の話だ。
「それって…ここはどこー、わたしはだーれって…あの記憶喪失?」
「いえいえ、兄は自分がどこの八幡か、ちゃあんと分かってますよ? 小町のことも覚えてるみたいです。ただちょっと…その、ここ最近の記憶だけ、ごっそりすっ飛んでるみたいで──」
「ゆゆゆ、ゆきのんどーしよ。そだ、病院! ヒッキー、病院に連れてかないと…!」
「取り敢えず落ち着きなさい」
実の所、この展開は私の予測の範疇にあった。
感染症の件で気を揉まされている間、私はこの手の重傷についてあれこれと調べていたのだ。だから小町さんのメールを元に、いくつかの状況とその対応を先んじて検討しておく事が出来た。では、それが何の役に立ったのかと問われれば──由比ヶ浜さんと一緒になって慌てふためく羽目にならずに済んだ、程度の事でしかないのだけれど。
ただ、彼女の言葉にはどうにも見過ごせない表現があった。仮に記憶を失ったとしても、事件前後の数日程度の話ならば、『ごっそり』とは言わないのではないか。
「最近と言うと、具体的にどの程度の期間なのかしら」
ええと、と小町さんは言い難そうに目を逸らした。
「もしかして、事件のこと、覚えてないとか?」
「…目が覚めた直後、あの犬はどうなったか、と聞いてきました」
「え…?」
その言葉を噛み締め、意味を探る。
"犬"と言えば──。
由比ヶ浜さんの方へ視線をやると、やはり彼女とのそれとかち合った。
「それって──」
忘れようもない、去年の春先に起きた交通事故。それは私達の関係を語る上で欠かす事の出来ないトラブルだった。彼は由比ヶ浜さんの飼い犬を庇って事故に遭ったのだ。その直後だと勘違いしている、という事になる。病院に担ぎ込まれるという状況の類似性が、記憶の混同を招いたのだろうか。
「っく…」
しゃくりあげる声の方を見やれば、一色さんがハンカチを目元に押し当てて肩を震わせていた。小町さんの説明に感情の昂ぶりが再燃したのだろう。
「そう…。さっきの貴女の言葉、そういう意味だったのね…」
例の事故の直後という事であれば、なるほど私達の関係はまだ始まってすらいない時期だ。随分と長い間、こんな関係を維持してきたようなつもりでいたけれど、改めて数えてみれば、驚くほど短いものなのだと気付かされる。彼が入部してからまだ一年も経っていなかったのか。
「………」
由比ヶ浜さんも、無言で指を折っている。その手は微かに震えていて、迂闊に口を開ける状況ではなかった。
「…そうなると、この中で彼の記憶に残っているのは、小町さんだけという事になるのかしら」
慎重に言葉を選んで小町さんに確認すると、
「会ってみたらすぐに思い出すかもですけどね。皆さんみたいな美人さんの顔なら、忘れたくても忘れられないでしょうし」
と、空気を軽くするかの様に彼女は笑ってみせた。けれど残念ながら、そこに私の望んだ否定は、含まれてはいなかった。
『自分の事を忘れて欲しい』
そんな台詞を、私は過去に何度となく使ってきた。勿論その時々では本気でそう願っていたけれど、内心では「そう簡単に忘れられる訳もない」とも思っていたのだ。私自身の鋭角的な人間性だとか、単純な見た目だとか──理由はともかく、簡単に埋没してしまうその他大勢とは違うのだという、自負みたいなものが確かにあった。
だからだろうか。自分の事を忘れられたのだと言われても、今ひとつ理解が及ばなかった。
「こういう場合、一般的には数日以内に回復するものだと聞くけれど…医師の見立てでは何て?」
「あ、はい。先生も大体そんな感じで。あくまでも
「そう…」
またそういう…いや、この際医者の口上は気にしたら負けだろう。
「…いろはちゃん、もうヒッキーと話した?」
「いえ、まだ。その……こ、怖くって…」
ぐずっと鼻を啜り、ハンカチに顔を埋めたままの姿勢で彼女は答えた。
怖い、と言いたくなるのも分かる気がする。恋愛的な視点で見ると、嫌われるよりも遥かに苦しい状況になったと言えなくもないからだ。『好きの反対は嫌いではなく無関心』なんて有名な言い回しが頭を過った。
関係が初期化されたと告げられた私達も大概だけれど、それでもまだ切っ掛けが残っているだけマシなのだろう。関係が根本から消失してしまった彼女よりは、ずっと。
「そういう事情ですので、皆さんにはご不快な思いをさせてしまうかもしれません。お呼び立てしておいてなんですが、兄が思い出すまでは会わないでおくというのもアリかと──」
「あたしは会ってく。ゆきのんは?」
小町さんの言葉尻を掻き消すようにして、由比ヶ浜さんはきっぱりと言い放った。その目は普段よりもずっと凛々しく輝いている。いざという時、彼女は決して迷ったりしない。見た目とは裏腹に、逆境の時こそ強いタイプだ。
「私も──」
由比ヶ浜さんに張り合ってという訳でもないけれど、内心の動揺を隠し、精一杯の平然を取り繕う事にした。
「彼の負担でなければ、顔くらいは出していくつもりよ。一応、学校を早退までして来たのだし、何もせず帰るというのもね」
そんな私達に向かって「ありがとうございます」と、小町さんは丁寧に頭を下げる。
「いろはちゃんは?」
「行きます…」
「うん、行こ」
ハンカチをグズグズにしつつも、その答えに迷いは無い。そんな一色さんの手を、そして私の手を両の手で引っ張って、由比ヶ浜さんは力強く歩き出した。
× × ×
「ええと…その……。お、お加減は如何かしら」
「へ? はぁ、お、お陰様で…」
余人の数倍は見積もって然るべき、比企谷くんのパーソナルスペース。それを侵さぬ様に細心の注意を払いながら、私達は数日ぶりの言葉を交わしていた。
互いに上滑りする挨拶が滑稽極まりない。いや、滑っているのはこちらだけなのだろう。彼は本当に戸惑っているのだ。気が付けば入院していたという状況すら満足に飲み込めていないところに、知らない異性がぞろぞろと現れたのだから。もしも私が向こうの立場だったなら、そろそろナースコールに手が伸びていてもおかしくない。
「…え…えーと……」
落ち着き無く泳ぎまわる比企谷くんの視線は、所在無さげに私達を一通り掠めた後、最後に縋るようにして小町さんの方へと向けられた。
(…ねえ、何で俺の病室で美少女コンテストしてるの? 今日は俺の誕生日とかじゃないんですけど。つかお前、いつの間にウチの高校に知り合いとか作ったん?)
(うーん、あれみんなお兄ちゃん関係なんだけどねー)
自慢ではないが、聴覚は鋭い方だ。
漏れ聞こえてくる兄妹の会話とその顔色から、これが演技という可能性も潰えた。いやはや、どうやら私はこの期に及んで、これが演技であって欲しいなどと思っていたらしい。そんな自分に心の中で苦笑する。
(──っ)
すうっと、身体が宙に投げ出されるような感覚が身体を覆った。
そのまま放置していたらすぐさま眩暈に繋がったであろう、強い喪失感。しかしそれは、引っ張られるような感触を得て、強引に拭い去られた。由比ヶ浜さんの指が私の袖を握り締めている。力を入れ過ぎて、文字通り白魚のような色合いになっていた。
「ヒッキー……。あ、あたし達、初めましてじゃあ、ないんだよ?」
「ヒ、ヒッキーって…。色々とその、なんだ。ギリギリ感のある呼び名だな…」
「あ……」
喉から零れた小さくか細い悲鳴が、私の耳にだけ届いた。さっき私が感じた痛みを、彼女も感じているのだ。いや、特別な呼び方をしていた分だけ、一層苦しいに違いない。
これは、痛い。
覚悟していたよりもずっと、痛い。
「…あー!そういや、そうかもだね! ゴメンね、すっかり慣れちゃってて。えへへ」
流石の由比ヶ浜さんも泣き崩れるかとさえ思ったけれど、彼女は一瞬で毅然とした態度を取り戻し──むしろ普段よりも一本筋の通ったような姿勢でもって、その顔に優しげな微笑を浮かべてみせた。
それは喜びや安心といった正の感情の発露ではなく、相手の気持ちを揺さぶらないために彼女が会得した"愛想笑い"の極めつけでしかなかったのかもしれない。けれどもこんな時に相手にまで気を配れる彼女は、やはり私よりもずっと強い人間なのだと思った。
「二人はその…俺んとこのクラス委員か何かで?」
「ん? 違うよ? あ、でもあたしは同じクラスで──てか、いろはちゃん、そんなトコに立ってないで。ほらほらー、コッチおいでー!」
由比ヶ浜さんは病室の入り口で立ち竦んでいた一色さんの腕を取り、強引に彼の前へと引っ張り出した。
「あっ、あう、あうぅ…」
言葉に困り、スカートを両手でくしゃくしゃと握る彼女の姿は弱々しく、普段のマイペースさなど微塵も感じられない。高校の制服を着ていなければ、むしろ小町さんの同級生に勘違いされかねないな、とさえ思ってしまった。そんな彼女は、瞳に大粒の涙を湛えながら、それでもなけなしの勇気を振り絞り、彼に声を掛けようとした。
「あ、あの…わっ、わたし…っ……せん──」
「ど、ども…」
「──っ!?」
たった一言。
彼の短い挨拶を聞いた一色さんは、咄嗟に顔を伏せると、弾かれたように病室を飛び出していった。
「い、いろはさん!」
「は…え、なに…?」
比企谷くんは訳も分からぬという様子で、彼女の走り去った戸口と床に残った水跡へ交互に視線を送っている。当然こちらのフォローも必要なのだけれど──。
「私が行くわ。悪いけど、少し外すわね」
「え…あ、うん。わかった。ありがと、任せて」
二の句も告げさせずに役割分担を終え、私は一色さんに続いて部屋を退出した。
言うまでも無い事だけれど、この二者択一ならば、一色さんにとって追いかけてきて欲しいのは由比ヶ浜さんの方だろう。けれど、今の比企谷くんとの会話を上手くこなせそうなのもまた、彼女の方だった。そして何より、由比ヶ浜さんは不安そうな彼の元に残りたそうな顔をしていた様に見えたのだ。
ならば、
これがあの一瞬で構築された
(こうやって、言い訳ばかり上手くなって…)
私と彼とのコミュニケーションは、他人が見れば半ば口喧嘩にも聞こえるほど捩くれたものだ。実際、最初のうちは顔を突き合わせる度に喧嘩をしている気分だった。今でこそ、そこに特別な何かがあるような気がしているけれど、この状況でそんなやり取りが成立するとは考え難い。
私が少し気を遣えば済む事なのかも知れないけれど、これでも少なくないショックを受けているのである。只でさえ愛想が欠落しているこの身では、彼女の様に振る舞う事などとても出来そうもなかった。
『ご、ゴメンね? ちょろーっと行き違い的な…。別にヒッキーのせいとかじゃないから!』
『いやいやいやー。甘やかすことないですよ結衣さん。今の100パーこの人のせいですから。女の子泣かせるとかマジ最悪ですよねー。そのうち刺されますよ』
『いやそれ…俺のコレってば刺されたんですよね? なのに言っちゃう? そゆこと言っちゃうの小町さん?』
場を取りなすような明るい声を背に、廊下へと躍り出る。辺りには既に一色さんの姿は無かったけれど、泡を食ったような看護師さんの視線が、彼女が走り去ったであろう方向を教えてくれていた。
* * *
慣れないフロアを適当な方向感覚のみで進んでいくと、やがて非常脱出口がある行き止まりに辿り着いた。
扉に鍵が掛かっていたのだろう、残念ながら外に出られなかったらしい一色さんが床に座り込み、膝を抱えていた。ここが病院だった事が不幸中の幸いと言うべきか、人通りというものは殆ど無い。時たま通り過ぎる看護士も、忙しいのか見慣れているのか、塞ぎ込んでいる女の子にいちいち奇異の色を向けては来なかった。
「ごめんなさい…」
「謝ることは無いわ。涙を堪えただけ、立派だと思う」
「な、泣き過ぎ、反省したばっかなので…。ギ、ギリギリ堪えて、ます…」
今にも決壊しそうな震え声。道中ぽつぽつと零れていたものには知らないふりをしつつ、私は今彼女に掛けるべき言葉が何であるのか、頭を捻った。
「わたしなんかと関わらなければ、先輩も、雪ノ下先輩も、結衣先輩も、こまちゃんも──みんな、誰も泣かずに済んだんです」
「………ねえ、一色さん」
普通、ここは否定してあげるべきなのかもしれない。けれどこの件について、表面的な慰めがあまり有効でない事は、既に学習済みだ。だから──
「彼に頼った事、間違っていたと思う?」
「そ、そんなわけない!」
思った通り、この方向に煽れば噛み付いてくる。それくらいの気力はあるのだ。なに、昨日までと比べれば随分と健全ではないか。憤慨する彼女を見ながら、私は密かにそんな事を考えていた。
「この前からずっと、後悔の言葉ばかり聞いている気がするのだけど…まさか目覚めた彼にも、そうやって謝り倒すつもり? 感謝の言葉はいつ出てくるのかしら」
「し、してます、すっごい感謝してます! 何て言えばいいのか分からない、言葉に出来ないくらいに! …でも、なのに、それを伝えることも出来なくなっちゃって…だから…わたしっ…!」
「どうして伝えられないの?」
「だ、だって先輩、わたしの事、何もかも忘れちゃってて…!」
「あら、会話が出来るのだから、少なくとも感謝の言葉を伝える事くらいは出来るでしょう? その前提として、私達が特別な関係である必要は無いんじゃない?」
「それは…っ! で、でも!雪ノ下先輩、辛くないんですか!?」
また彼女の瞳の端が、じわりと潤っていく。ああ、今度は私が泣かせてしまった、と気まずい思いが込み上げたけれど、私がその様子をまじまじと観察しているのに気付いたのか、彼女は辛うじて涙を引っ込める事に成功した。
「わたしは辛いです…。辛くて辛くて、もう頭がどうにかなっちゃいそうです…。先輩さっき、『ども』って言いました。わたしが後輩だってことも、忘れてるんですよ…」
「それは否定しないわ。でも、この状況が辛いというのは、彼ではなく私達の都合でしょう? 忘れられた辛さに耐える事と彼にお礼を言う事は、そんなに両立が難しいかしら。極端な話、これが赤の他人相手だったとしても、やはりまずは最初に助けてもらったお礼を言うのが筋というものだと、私は思うけれど」
彼女とそんなやりとりを続けながら、何と不毛な会話だろうと、私は思っていた。
彼の行動が謝意や見返りを求めてのものではない事ぐらい、誰もが分かっている。まして彼は最近の出来事を忘失しているのだ。礼を述べられたところで、何の話かと首を傾げるのが落ちだろう。
結局、今の彼に何を言ったところで、それは彼をあんな目に遭わせてしまった私達の懺悔でしかないのだった。
「ごめんなさい、無駄話を振ってしまったわね。それよりも今は、もっと建設的な話をしましょうか」
「…建設的、ですか?」
「ええ。今後、彼とどう向き合っていくか。今のうちにスタンスを決めておいた方が良いかと思って。すぐ思い出すとは思うけれど、本人の為にも一応ね」
別に彼を寄ってたかって謀ろうという腹積もりでもないけれど、ある程度は話を合わせておかないと、ひょんな所から綻びが生まれないとも限らない。
「…雪ノ下先輩は、どうするつもりですか?」
「幸か不幸か…あの独特な人となりはちっとも変わっていない様だったから、基本的にはこれまで通りかしら。元より私、他人に合わせられるほど器用じゃないもの」
「そうですか。でも、わたしは…同じようには、出来そうにありません…」
さっきまでとは違う色の悩みを湛えて、彼女の瞳は揺れていた。
「こんなに好きになっちゃった後で、今さら前みたいになんて、出来ないです…。先輩の手を握ってないと、落ち着かないんです。少し前まで、どれくらい離れて歩いてたかさえ、もう分からなくって…」
吊り橋効果だとか、ナイチンゲール症候群だとか──いくつかの単語が頭を
「だったら、無理に前のように振る舞う必要は無いんじゃない? 記憶がどうとか、人間関係がどうとか──細かい事は抜きにして、心の求めるままに、自分らしく。彼が求めた本物っていうの、私は今でも分からないけれど…でも、きっとそういうものの先にあるんじゃないかしら。そんな気がする」
それは、ずっと自分がやりたくて、けれども出来ずにいる事。
他人に言うのはこんなにも簡単なのに、どうして私は──。
「わたしらしいって何ですかね…? どういうのが、わたしらしいんでしょうか…」
「知らないわよ。貴女の事、あまり詳しくないもの」
「ええ…。ここまで来たら普通、答えとかバシッと教えてくれるものじゃないですか?」
「そんな事言われても…。困ったわね、私、哲学はあまり得意ではないのだけれど…」
この子は恐らく、この私を恋敵と認識してはいないのだろう。でなければ彼を好きだと言う悩みを、こうも盛大にぶちまける筈もない。業腹ではあるけれど、それも私自身の不甲斐なさの結果だと思えば、甘んじて受け入れるしかなかった。確かに私は彼女達と同じ土俵にすら立っていない。それは既に、私自身も認めている事なのだ。
「大体、自分らしさなんてものは、そうやって頭を捻って考える事じゃないでしょう。仮に、思うがままにやった結果がたまたまどこかの誰かと同じだったとして──それは自分らしくない事なの? 自分らしさの基準は常に自分であるべきよ。間違っても他人じゃない」
それを言い出すと、厳密にはこうして私の言葉に耳を傾けている時点で定義が崩壊してしまうのだけど…今はディベートの時間ではないから、些細な矛盾は見て見ぬふりだ。
「そういうものでしょうか…ていうか、雪ノ下先輩って基本、誰とも被ったりしませんよね? ビジュアル的にもスペック的にも、ナンバーワンかつオンリーワン、みたいな。…あれ?もしかしてこれ、相談する相手間違えたかな…」
失敬な。私にだって、人より明らかに劣っている所はある。いくらバランスが大事だと言い繕っても、足りないものは足りないのだ。その点においては、きっと一色さんにさえ負けている事だろう。
思わず気持ちが沈みかけたけれど、今はアドバイザーとして弱味を見せる訳にはいかない。なるべく自然体を装って、髪を軽くひと撫でして見せた。
「私はそういうの、あまり興味無いもの。やるべき事とやりたい事をやっていたら、結果がそうなっただけだから」
「はぁ…参考になるような、ならないような…。でも…ふふ…すんごい雪ノ下先輩らしいですね、その考え方」
「そう? ありがとう」
「うん、カッコいいですよ、すっごく。あははっ、わたしそれ、気に入りました!」
吹っ切れたような顔で笑う一色さんを見て、私は安堵した。こんな助言でも、何かの役には立ったらしい。彼女の瞳で弱々しく揺らめいていた炎は、再び力強く燃え盛っている。こんな風に、慰められて素直に立ち直れるところも、私にはない美点の一つだろう。少し羨ましくなって、思わず目を細めた。
「──もう大丈夫そうね。そろそろ戻りましょうか」
「はい。とりあえず、やりたいようにやってみようと思います。今、わたしが先輩にしてあげたいことを」
「そうね、それで良いんじゃないかしら」
元気良く立ち上がった後輩の様子を見ながら、少々肩入れが過ぎたかもしれないと、私は心の中でもう一人の友人に詫びたのだった。
* * *
「改めまして、私は雪ノ下。貴方と同じ二年よ。一応、貴方が所属している部活動の代表を務めているわ」
比企谷くんの病室に戻って仕切り直し──。
由比ヶ浜さんと小町さんが暖め直してくれた空気の中、さっきよりは随分リラックスした状態で、私達は自己紹介をしていた。
「あたしはね──」
「由比ヶ浜、な。さっき聞いた」
「ちゃ、ちゃんと最後まで聞けし! クラスはヒッキーとおんなじ! 部活もおんなじ! ほら新情報!」
「ふーん…。あれ? 俺、部活やってるって言った?」
「ええ」
「な、何部?」
「奉仕部」
「は? …何て?」
「奉仕部。
「おお! なんか時代劇っぽくてかっこいい!」
由比ヶ浜さんは語感だけでおかしなイメージを受信してしまった様だけれど、流石に比企谷くんにはきちんと意図が伝わったみたいだった。
「それ、額面通りに受け取ると…いわゆるボランティア的なヤツに聞こえるんだが…」
「厳密には少し違うのだけど、その理解で概ね合っていると思うわ」
「えぇー…マジで?」
「マジマジ。あたしとゆきのんとヒッキー、毎日部活してるんだよ?」
「毎日進んでご奉仕してるとか…俺の高校生活に一体何があったんだ…」
「比企谷くんは毎日奉仕をしていた訳ではないわ。むしろ普段は消費しかしていなかった…いえ、浪費と言った方が適切かしら」
「やった覚えの無いことでディスられるのって、わりと不本意なんだが」
「大丈夫よ。何もやっていない事を批判しているんだもの」
「何も大丈夫じゃねえだろ…なんなんだこの女…」
「ゆ、ゆきのん、その、そろそろ…」
つい何時もの癖で言い返しそうになった私を引き留め、由比ヶ浜さんが背中で隠していた一色さんを再び彼の前へと立たせる。
「あら、御免なさい。もう一人紹介しないと」
「ほーい、んじゃオオトリのいろはちゃん、どーぞー! パチパチパチー!」
部活もクラスも学年も違う、本来関わりの無い彼女。一体どんな切り口から責めるのか、私は固唾を飲んで動向を見守った。いつかの如く、無駄に高く積み上げられたハードルにも怯まずに、彼女はとても自然な──そう、かつて見た事も無いほど素敵な笑顔で口を開いた。
「こんにちはー、先輩♪」
「せん…? …ああ、おたく一年なのね」
「はい。一色いろはです。一年生ですけど、いちおう生徒会長とか、やらせてもらってます」
「へぇ…人は見た目によらないってか…。まあでも、納得はできたわ。つまりお前は会長だから来たんだろ? 生徒代表として、校内で大怪我したバカの見舞い的なヤツで」
「ちょ、ヒッキー。そーゆーのじゃなくてね?」
「おバカ! バカの八幡! 何ですぐそういうこと言うかなー! す、すみませんいろはさん…」
「だって事実だろ。手間とらせて悪かったな…ってか小町、アホの坂田みたいに言うのやめてね?」
そうだ。彼はそういう理由付けが出来ないと、他人の厚意を素直に受け取ることが出来ない人種だった。記憶が有ろうと無かろうと、その壁は変わらない。小町さんと由比ヶ浜さんに取りなされても、正に馬耳東風といった調子だ。
このひねくれ者に一体どう返すのかと肝を冷やしていると、一色さんはその魅力的な笑顔を曇らせる事無く、きっぱりと答えてみせた。
「ぜんぜん違います。恋人だから来ました。カノジョとして、愛しい愛しいカレシのお見舞い的なヤツで♪」
「……は?」
「……えっ?」
「……うわ~ぉ」
(……ああ、成る程…)
三者三様の反応を眺めつつ、私はひとり、一色さんの
「ちょ、え? い、いろはちゃん? な、ナニゆって…」
「あー、そう言えば結衣先輩には言ってなかったんですけど…実はわたし達、けっこう前から付き合ってたんですよー」
「は!? い、イミわかんない…どゆこと?」
「わたしと、先輩は、恋人同士! ってことです」
「それは分かるし! いやぜんぜん分かんないけどっ!」
口をぽかんと開けていた比企谷くんは、けれどすぐに我に返ったらしく、いっそ冷たい目でもって一色さんを睨み付けた。
「あのなあ…。これでも一応、記憶がぶっ飛んでてさ、わりとテンパってんだよ。そういうの、あんま笑えないからやめてくんない?」
「いえいえ、ホントにホントですよ?」
「全く、一切、微塵も、記憶に無いんだが?」
「大丈夫です、わたしはちゃあんと記憶あるので、ご安心を♪」
「いや、だからそうじゃなくて………ん? ……あ…」
呆れた様に頭を振ってから、彼はそのまま硬直してしまった。どうやらさっき私を感心させた、この策略の要に至ったらしい。
そう、記憶の無い今の彼には、彼女のどんな言葉をも否定する事が出来ないのだ。比企谷くんがいくら口から生まれた屁理屈の申し子であったとしても──いや、屁理屈屋であればこそ、理屈の土台となる情報が無ければ言い返す事など出来ないのである。
「か、仮にだ! 仮に百歩譲ってお前の言う通りだとして、記憶無くした相手となんか付き合えるわけないだろ。なら、どっちにしてもこれからは他人同士だな!」
「あ、ちょっと記憶が無くなったくらいで別れる気とか、わたしにはぜんぜん無いんで。もう大体のことはしちゃってますし、責任取ってもらう約束ですから」
「な、う、嘘…だろ……?」
「だだだ大体のことってなに!? ねえいろはちゃん!?」
「えー、結衣センパーイ…。アレをこまちゃんの前でカミングアウトさせるっていうのは、流石にハードル高過ぎじゃないですかねー…?」
「アレってどれ!?」
完全にパニックになった由比ヶ浜さんが、助けを求めてこちらに泣きついてくる。けれど──
「ゆ、ゆきのんゆきのーん! なんかワケ分かんないことになってるんだけど!?」
「これは一本取られたわね…。当事者が二人しか居ない男女交際において、一人に証拠能力が無く、もう一人がこう言い張ってしまったら、一体どうやって事の真偽を証明すればいいのかしら」
口に出してみて、全く同じようなやり取りが昨日もあった事を思い出した。昨日は姉さんのハッタリで勝ちをもぎ取ったけれど…彼女の言を覆せるほどの材料は、今のところ、どこを探しても無い様に思える。
「で、でもさ! あたし達、知ってるじゃん!」
「どうかしら。こっそり付き合っていました、と言われてしまうとね…。少なくとも私は、それを否定出来るほど二人のプライベートに明るくはないし」
「だだだだ、だって、だって!」
「ちなみに似たような状況に痴漢告発のケースがあるのだけど、女性に"やった"と言われた男性は、事実の有無に関わらず、殆ど全てが敗訴になるそうよ」
「なにそれ!? 言ったモノ勝ちってこと? じゃ、じゃあハイ! あたしも付き合ってた! ヒッキーと付き合ってましたー!」
手を挙げてピョンピョンと自己主張をする由比ヶ浜さんに、ベッドの主から冷ややかな声が掛けられる。
「お前、この流れでそれが認められるとか本気で思ってんの…?」
「ううっ、結衣さん…おいたわしや…」
目の前で繰り広げられている言動は、由比ヶ浜さんにとって、かなり致命的な内容を孕んでいる。にも関わらず、比企谷くんはそこに気が付いていない様だった。あまりに支離滅裂な展開に、彼女の行動が意味する感情の矛先について、考えが追い付かないのだろう。
彼は大きく溜め息をつくと、一色さんに向き直って言った。
「そっちの、えーと、イッシキだっけ? お前も病人からかうのはやめてくれ。何の罰ゲームか知らんけど、お前みたいなタイプが俺を…とか、一番ありえないだろ」
「むぅ、やっぱり信じられませんか?」
「当たり前だ。まかり間違ってお前に好かれるような性格だったとしたら、もう別の世界線の俺だなそれは。超ありえん」
「ふふっ、まあ先輩ならそう言いますよね。任せてください。ちゃあんと、信じさせてあげます♪」
「へ?」
ニコニコと相変わらず良い笑顔を浮かべる一色さんの顔が、やけに紅潮している事に私が気付いた時──彼女は既に動いていた。
「ん──」
比企谷くんの肩に手を添え、そのまま流れる様に自然な動きで、彼の顔へ自分のそれを寄せる。
「ふほおぉぉー!」
一色さんの真後ろに位置していた私や由比ヶ浜さんからは、何が起こったのか、よく分からなかった。ただし角度的に丸見えであろう、反対の枕側に座っていた小町さん──彼女が色めき立つ様子から、おおよその状況は把握できた。
「ひゃ、ひゃぁぁ…ほぁぁ……」
興奮しきった小町さんの、悲鳴にも似た掠れた声だけが、時間の固まった病室に響く。一色さんの行動──そのあまりの迷いの無さに、誰もが不意を突かれた形となっていた。
何秒──いや何十秒だったのか分からないけれど──ふあっと甘い息をついた一色さんが顔を離し、ぺろりと赤い舌先が唇を舐め、それからやっと周囲の時間が動き出した。
「な、ななっ、なぁっ──」
「ふぅ…。これで信じられました…?」
「ななななナニやってんのいろはちゃんっ!?」
すぐさま、由比ヶ浜山──もとい由比ヶ浜さんが大噴火を起こした。やらかされた本人よりもおかんむりだ。いや、この場合やらかされたのは彼女という解釈も間違いではないのか。
私としても文句の百や二百が無い訳ではない。けれども人間、目の前で誰かが取り乱していると存外冷静になれるというのはご存知の通り。何だか最近こんな役回りばかり…
「何って…
ごく自然な仕草で、未だに固まっている彼の唇をチュッと
「あーーーっ! に、二回目、二回目ぇーっ!」
「え? 二回目じゃないですけど…あ、今日のって意味ですかね? それなら二回目ですねー」
呼吸の仕方を忘れたような顔で呆然としていた比企谷くんは、その気さくなライトキスで息を吹き返した。まるで女の子の様に慌てて唇を隠しながら、言葉の意味を反芻して顔を紅潮させる。
「おまっ、それ…っ、こんなの、え? い、いつも!?」
「ま、まさかヒッキーに先を…じゃなく!いろはちゃんに奪われ…。な、なんなのこの展開…イミわかんない…」
虚ろな顔でぺたんと床にお尻をついた由比ヶ浜さん。そんな彼女を尻目に、
「うーん、まだ信じられないって顔してますね…。ではでは、もすこし濃ゆいのを…」
そう言って、一色さんは再び彼の肩に手を掛ける。既に完全に屈した様子の比企谷くんは、慌てて両手を挙げ、降参の意を示した。
「わ、わかった。信じる、信じるから…待て待てギブギブギ──!」
ブッチューーッ
今度こそ思いきり痴態を正視してしまった私の脳裏には、コミックの様なありふれた擬音が浮かんでいた。
亜麻色の髪の暴君が、艶やかな唇を彼のそれに重ね──いや、貪っていた。
そしてとうとう、湿った水音らしきものが、唇の隙間から漏れ始め──
「ファーーーーーッ?!」
脱け殻と化していた由比ヶ浜さんの奇声が、
次回、『覚醒のいろはす』お楽しみに!(嘘
サービスのつもりでぶっ通しましたが、地味にいつもの1.5倍くらいあります。もしも長過ぎて読みにくいようでしたらコメント下さい。分割して載せなおしも検討しております。