そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

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■34話 ここでこうしている理由

 

《---Side Hachiman---》

 

 

 本日の太陽はいつにも増して撤収が早いようだ。気がつけば日の当たる時間は終わりを告げ、窓には色気のないカーテンが引かれていた。おかしいな、さっきICUを追い出されたばかりだと思ったのだが…。

 スタンドによる攻撃か、はたまた永遠(クローズドクロック)の使い手が潜んでいるのか。個人的には後者だったら嬉しい。KAWAII イズ ジャスティス。

 

 個室に入院するのは初めてだったが、どうやら思っていたほど良いもんじゃないらしい。家具もほとんどない空間にぽつんとベッドが置かれた景色は、どこか霊安室を彷彿とさせる。さっきまでは女子が三人で文字通り(かしま)しかったのだが、居なくなってしまうと静けさが一層際立っている。

 

 ゆらゆらと室内を揺蕩(たゆた)い、自分の寝顔を視界に納めながら、俺は物思いに耽溺していた。

 

 

 それにしても、まさか一色があんな方向に進化を遂げるとはな。黒化(ニグレド)の素養があるとしたら、絶対に雪ノ下の方だと思っていたのに。過度のストレスにより変異してしまったのだろうか。エロはすなら大歓迎だが、クロはすは遠慮させて頂きたい。なんなら天使のようなシロはすの方が──うーんいまいちピンと来ないな。

 

 ともかく、強襲が未遂に終わったのは不幸中の幸いだった。あの程度のハサミを突き立てたところで大した怪我にはならないだろうし、そもそもこちらが純粋な被害者ではなくなってしまう。

だから、花瓶が()()()()()()のは本当に運が良かったのだ。

 

…ん? お前が倒したんじゃないのかって?

 

 そうだな、それなら今回やられっぱの俺でも少しは格好がついたんだろうけど。残念ながら、俺じゃない。

 あの世に片足突っ込んでるかも知れない今になっても、結局新たなスキルが発現したりはしなかったのだ。ちゃんと試したから間違いない。いくら睨んでも後輩のスカートすらめくれなかった…ガッデム!

 

 前に水見式を試したときは、浮かべた葉っぱがほんのちょっぴり動いたんだよ。だから多少なりとも操作系の素質があるんじゃないか、とか密かに期待してたのに、ほんとガッカリだわ。

 まあ真面目に考えてみれば、あのやり方で葉っぱがピクリとも動かない方が不自然なんだけどな。我ながら(ゼツ)が上手過ぎるもんだから、ひょっとしたらと思ってしまった。俺達の日常において、現実は何となく超絶(スーパー)になったりしないのである。

 

 

 閑話休題──

 

 

 一色のかいしんのいちげきを阻止した花瓶の件だが、種を明かせば実につまらないオチだ。

 ほら、空き缶とか入れといたビニール袋が後で突然ガサッってなって、「えひっ…たたたターンアンデッド!ターンアンデッドォ!」ってなることあるだろ。あれあれ、あんな感じ。要するに、アグレッシブ過ぎたフラワーアートが時間差で崩れ、不安定だった花瓶を巻き込んだのだ。

 誰かさんは『大は小を兼ねる』とか誤魔化していたが、どちらかと言えば小が大を兼ねなかった結果だな。結果的にいろはすの仕掛けたセルフタイマーが効果を発揮しただけなので、ああも見当外れの感謝をされてはこちらとしても据わりが悪いのだが──あの時の剣幕を思えば、テンプレ美談で有耶無耶にした雪ノ下達を責めるのは酷というものだろう。

 

 真の美形の力というのは単に異性を惹き付けるに留まらず、真剣な表情にも迫力が宿るものだ。だから真顔で睨まれると超怖い。実際、雪ノ下や由比ヶ浜も、怒ったときにはかなりの重圧を発することが既に実証済みである。

 一色も時折ゾッとするほど冷たい声を出すことはあったが、作り笑いというフィルターがどれほど重要な役目を果たしていたのか、今回身に染みて理解した。表情を完全に殺したいろはすのプレッシャーは、そのまま人も殺しかねない。

 あれほどの殺気をモロに浴びたのだ、西山の精神にはハサミや女性に対するトラウマが少なからず刻まれた事だろう。美容師のお姉さんが背後でチョキチョキ鳴らせば最大限のシナジー効果が狙えるかもな。メシウマメシウマ。

 

 

──コン、コン──

 

 

 部屋の扉をノックする音によって、俺の思索タイムは終わりを告げた。食事に行った女子連中が戻ってきたのだろうか。それにしては話し声も聞こえなかったが…。

 

『──御免下さい。総武高校の平塚です』

 

 噂をすれば…というわけでもないが、訪問者は平塚先生だった。この時間だと定時上がりからの直行だろうか。なかなかホワイトな職場ですねと言ってやろうかと思ったが、今の彼女の状況を思えばブラックユーモアにしても皮肉が利き過ぎかと思い、自重した。

 

「…なんだ、一人とは珍し──いや、失言だったな」

 

 ほんとだよ。

 そのフォローが失言だよ。合ってるけど。

 

 病室へ入ってきた平塚先生は、脱いだコートを膝の上に抱え、ベッドの側のスツールに腰を下ろした。ハンドバッグをごそごそと漁り、「土産だ」とジュースの缶を取り出してみせる。現れたるは黄色と黒の警戒色が目にも優しい、懐かしの我がソウルドリンクだった。

 嬉しい。嬉しいんだけど…ごめんなさい、こういうときどんな顔をすれば以下略。とりあえず笑っていいですかね。プゲラ。

 

 彼女はプルタブを開け、手にしたそれをワンカップよろしくグイッと(あお)った。って自分で飲んじゃうのかよ。何の嫌がらせですか?

 

「…うぷ……よく飲むなこんなもの…胸焼けがしそうだ」

 

 飲まず食わず、ひたすら点滴が続いている俺の好物をわざわざ目の前で干した挙げ句、更に酷評までしてみせた彼女は、それでも残りを一気に流し込み、げふっと空気を漏らした。

 

「病院で酒というわけにもいかんしな…。ほら、ちゃんと君の分もあるぞ」

 

 バッグからは同じ缶がもうひとつ現れる。片手でカキッとやると、それを据付けのテーブルにそっと置いてみせた。

 ああうん、スタイリッシュで大変結構なんですけどね。でもこのお作法、見舞いっていうより墓参りでしょ縁起でもねーな! そこは開けなくて良いんだよ、後でちゃんと飲むんだから。

 

 彼女はしばらく缶を眺め、記された成分表示に顔を(しか)めていたが、やがてふっと苦笑いを浮かべた。

 

「…しかし、雪ノ下には参ったよ。急に会議の場に乱入してきて、何を言ったと思う?」

 

 ああ学校は再開してたんですねーとか、あいつらさっきの見舞いは授業フケて来てたのかなーとか、なのにわざわざ殴り込みに戻ったのかーとか、突っ込みどころが山盛りなんだが…とりあえず一言だけ。

 

 何してんだアイツ。

 

「教師一人の責任を糾弾するなら、学校側としての対応に根本的不備がなかったかどうかを県議会に掛けるよう、陳情させてもらう──とさ。全く…教師を脅す生徒とは、前代未聞だな」

 

 マジで何してんだアイツ…。

 

 雪ノ下がそんなことを言うなんてな。いろはすの変異に呼応して、とうとう姉化が始まってしまったのだろうか。胸周りの特性は変化の片鱗すら見せていないというのに、成長とは斯くもままならないものなのか。

 

「彼女の発言が現実的なものかどうかは、この際どうでもいいんだ。ただ、あの雪ノ下が自分から親の名前を使ったという事には本当に驚いて…その、不謹慎ながら、嬉しく思ってしまったよ。聞いたぞ、君が仕込んでいたそうじゃないか。随分と頼られる男になったものだな」

 

 ねえちょっと、何でそこで俺の名前が出てくるの?議会に刺客を送り込むとかどこの暗黒卿ですか。

 雪ノ下め、勢いで飛び込んだはいいけど怖じ気付いて、俺の入れ知恵って形にしやがったな。そういうのは"頼る"じゃなくて"なすりつける"って言うんだよ。

 

「身体を張って一色を守ったお前に、感じるものがあったのか…それとも単に毒されたかな」

 

 毒されたて…。でも確かに、あいつら俺の血にジャブジャブ触ってたっけな。もしも比企谷菌なる病原体が実在するのなら、完全に手遅れに違いない。やっぱり感染したら俺みたいな性格になってしまうのだろうか。モテないことを全力でお前らのせいにするような、めんどくさい女になってしまう、恐怖のウィルス。…微妙にどこかで聞いたような症状だな。

 

 

「──なあ比企谷」

 

 声色を改めた平塚先生は、教師の顔をしていた。

 

「私はな、約束は守る方の人間のつもりだ。常にそうありたいと思うし、だから他人にもそれを求めている」

 

「いつか言ったな、君達の心と身体を守れと。なのにこのザマは何だ。心も身体もボロボロじゃないか」

 

 いやはや、返す言葉もない。

 一色はおろか、他の人間にまで負担をかけてしまっている。平塚先生にだって、こんなに気を掛けてもらっているのに、迷惑を掛けることしか出来ていない。今回に至っては完全に恩を仇で返してしまった形だ。

 

『──君のやり方では、本当に救いたい相手を救うことは出来ない』

 

 ふと思い出した、いつかの忠告。

 

 奉仕部に助けを求めてきた一色を見て、確かに俺は、何とかしてやりたいと思った。助けてやりたいと思ってしまった。例えそれが父性に由来する保護欲のようなものであったとしても、これまでの俺の活動にはなかった、能動的な感情であったと思う。

 だからなのだろうか。そんな思いを抱いた結果が、これなのだろうか。確かに、いつだって満点とはほど遠い成果だったことは認めよう。それでも、ここまで上手く行かなかったのは初めてだった。

 強く願うほどに、相手は救いから遠ざかってしまう。そんなジレンマを抱えたヤマアラシが奉仕部を名乗っているだなんて、まるで出来の悪い童話のようではないか。

 

 そんな鬱々とした俺の自虐が聞こえたわけでもなかろうに、平塚先生は励ますような口調でこう続けた。

 

「だがまだ挽回は可能だぞ。たった一手で全て覆る」

 

 凄いな、本当ならまさに神の一手ってやつだ。そんな都合のいい話があるのなら、是非とも教えて頂きたい。とは言え、こんな体たらくでは、その一手さえも打てないのだが…。

 

「君は身体を治せ。とっとと目を覚まして、いつものように減らず口を叩け。そうすれば一色の、そして皆の心も救われる。そら、ハッピーエンドだ」

 

 ああ、それなら俺にでも出来るかもしれないな。なんせ食って寝るだけの簡単なお仕事だし。

 だけどそれって、自分で掘った穴を埋めるようなもんじゃないのか。マイナスがゼロに戻っただけ。失ってはいても、何も得られてはいない。そんなんで本当にハッピーエンドと言えるのだろうか。

 

「君には責任がある。何なら義務と言ってもいいだろう。これは君が為すべき事であり、君にしか果たせない事だ」

 

 しかし、そんな穴を開けてしまった俺だからこそ責任があるのだと、彼女は言った。

 

「自分の尻くらい拭いてみせろ。男の子だろう?」

 

 手を伸ばし、横たわる俺の前髪を指先で弄びながら呟くようにして、彼女は言葉を紡ぐ。優しい叱咤が耳に心地よく沁みてくる。

 

 そうだよな。立つぼっちは跡を濁さない。常識だ。

 仕方ない、もう少しだけ頑張るか──。

 

 そんな風に腹を括った途端、唐突な眠気が俺の意識を揺さぶった。まるで夜更かししちゃった月曜の朝の布団のような(こう言っちゃうと大したことなさそうだな)、とにかく抗いがたい、強烈なヤツだ。

 今の俺はずっとWi-Fiしてたみたいなもんだろうし、そろそろバッテリー的なものが切れてきたのかもしれない。しかしこのまま意識の手綱を手放してしまうと、セーブデータ消失の可能性がありそうだ。早いとこ本体に接続してしまおう。

 

 …あれ、これどうやって戻んの?

 復活の呪文とか唱えないとダメかしら。

 よーし、そんなら──これでどうだ。

 

 鏡よ鏡、八幡に力を!

 世界に輝く一面にょ──ああくそ噛んだ!

 

 どういうわけか、目を覚ましたいと強く思う程に、泥沼のような眠気に意識が引きずり込まれていく。まごついている間に視界に黒い(とばり)が降りてきて、遂には何も見えなくなってしまった。

 

 くそっ、エピローグくらい最後まで見せろよ。

 走馬灯だってまだじゃねえか。

 

 嘘だろ…これで終わりとかマジでないわー…。

 

 ………。

 

 ……。

 

 …。

 

 

 ………あいつ、どうなったかな──。

 

 

 

 

 

《---Side Iroha---》

 

 

 先輩の病室はビジネスホテルのような作りになっていて、入り口の側にはシャワールームがついている。お世辞にも広いとは言えないその個室の中で、わたしは鏡に向かってムニムニと顔を揉みほぐしていた。

 

「ひっどい顔…。先輩が起きる前に治るかなぁ…」

 

 メイクで隠しきれないクマと、冷やすのが追い付かないほど腫れっぱの目蓋。今のわたしは自分史上、かつてないほどに不出来ないろはだった。

けれど、これでもさっきよりは随分マシになったのだ。先輩方に二人掛かりで慰められ、一緒に食事をして、先輩のところに戻るのだからとなけなしの気合いを入れて、それでやっとここまで漕ぎつけた。

 

 早く目を覚まして欲しい。

 

 でも、こんな顔だけは見られたくない。

 

 胸を張って先輩の目覚めに立ち会えるよう、せっせとマッサージを続けていると、病室のドアを叩く軽快な音がわたしの意識を引き戻した。

 

(このノックの仕方って…)

 

 音のカンジから、誰が来たのかはすぐに目星がついた。けれどさっきの一件が喉に引っ掛かって、上手く声が出ない。もしもまたあの声が聞こえたら、次こそどうにかなってしまうかも。

 

 やがて静かに戸が引かれる音がして、革靴が床を叩く音が部屋に入ってきた。

 

「──おっ、珍しく独りじゃん。うんうん、これでこそお兄ちゃんって感じだよねー」

 

 思った通り、聞こえてきたのは先輩に話しかけるこまちゃんの明るい声だった。彼女はわたしに気付かずにシャワールームの前を通り過ぎ、部屋の奥へと進んでいく。ここに居ることを教えようと思ったのに、開いた口からは声にならない吐息が漏れただけだった。どうやら怒り以外にも、この身体を縛るものがあったみたい。

 

(負い目…なんだろうな…)

 

 正直なところ、わたしはこまちゃんの目を見るのが怖くて仕方がなかった。そんなことはないって分かっていても、どれだけ彼女が優しく気を遣ってくれても、彼女の目に映ったわたし自身が、わたしの罪を糾弾してくるから。

 逃げ場を失って、ついついその場で息を潜めてしまう。こんなんで見つかったりしたら、ますます肩身が狭くなってしまうというのに。

 

(でも…合わせる顔なんて、ないよ…)

 

 今さらノコノコと出ていって、彼女と二人きりになるのも耐えられない。結果、臆病者のわたしは「何もしない」という選択肢を選ぶしかなかった。

 ぽつぽつと小さな声で、こまちゃんが先輩に話しかける。自然と聞こえてくる声に、黙って耳を傾ける。

 

 

 

「っとに、ごみいちゃんたら…どんだけ心配かけたら気が済むの? 小町、来週もう受験本番なんですけどー」

 

「でも小町が落ちたら、多分お兄ちゃん落ち込むよね? 俺のせいでーとか言って」

 

「…まー実際、落ちたら100パーお兄ちゃんのせいだけどね?」

 

「てか、どうせすぐ起きるでしょ? そんでウジウジ自分責めてるお兄ちゃんの相手するとか超めんどくさいし」

 

「…だから小町は受かるよ。絶対、合格してみせる」

 

「あ、あはっ! 今の小町的にポイントたーかいー♪」

 

「──そんなわけでー、小町は小町のやるべきことをするから、お兄ちゃんはお兄ちゃんの仕事をすること!」

 

「寝て起きるのが仕事とか、ほんっといいゴミ分だよねー」

 

「合格、雪乃さんと結衣さんと、それにいろはさんと。みんなにお祝いしてもらわなきゃなんだから」

 

「それまでには何があっても起きてよね。…バカ」

 

 

 ──。

 

 入ってきた時と違い、ガラリと威勢よく引かれた戸の音を聞いてからしばし。わたしはそっと、シャワールームから顔を出した。

 

 さっきまでわたしが使っていたスツールが、少し移動している。きっと彼女が座ったんだろう。恐る恐る、そこに近付いてみる。

 

 先輩の枕元──清潔そうなシーツの上に、いくつもの滴の跡が描かれていた。

 

「──っ…!」

 

 分かっていた。

 

 見えてはいなくても、聞こえてはいたのだ。

 

 彼女の一方的なお喋りは、ずっと涙に震えていた。

 

 わたし達の前で泣かないと言い切った彼女。確かにこまちゃんは、人前で涙を見せたりしなかった。先輩が集中治療室に入れられた時も、泣いているわたしの背中をずっとさすってくれていた。大事なお兄さんを傷つけられた、そんな彼女の気持ちに目を向ける余裕すらないわたしの側に、ずっと寄り添っていてくれたのだ。

 

「ごめん、こまちゃん…ごめんなさい、先輩……」

 

 みるみるうちに涙が溜まってきて──

 

 けれどここへきて初めて、わたしは涙を流すということに対する抵抗みたいなものを感じた。

 中学生の彼女があんなに我慢しているのに、年上の──しかも半分は加害者みたいな立場の自分が、真っ先に泣き散らかしているだなんて。そんなこと、許されるはずがないではないか。

 

 唇をギュッと引き結び、目尻に力を込める。既に溜まった涙がポロっと零れたけど、指で掬って見なかったことにする。

 

 はるさん先輩が言った。

 泣いてる暇があったら、出来ることをやれって。

 

 平塚先生が言った。

 わたしの力は、すぐに必要になるって。

 

「今なら、やれること、ありますよね…」

 

 もう一度だけ目尻を擦ってから、先輩の寝顔をじっと見つめる。

 穏やかな吐息が僅かに聞こえてきて、わたしは胸に暖かなものが溢れてくるのを感じた。

 

 

 

 

《---Side Yui---》

 

 

「うーん……」

 

 ヒッキーの入院している病室。

 その扉に手をかけたまま、あたしはなんて言って入るのがいいか、あれこれと考えていた。

 

 あれから、みんなで一緒にお昼を食べて、だいぶ落ち着いた様子のいろはちゃんが病室に戻ったのを見届けると、ゆきのんはそのまま学校に行ってしまった。ちょっとヤボ用があるからって言ってたけど、なんなんだろ。

 あたしはまだそういう気分になれなかったし、さっきはあんまりヒッキーの顔も見れなかったから、こうしてまた病室まで戻ってきたのだ。

 

 部屋の中にはいろはちゃんも居るはずなのに、人の息遣いみたいなのをほとんど感じない。なんとか愛想笑いが出るくらいには持ち直してたカンジだったけど、やっぱりまた塞ぎ込んでるのかも。

 こういう時は神妙な顔して静かに入るのが正解かもしれないけど、あたしの役割って、たぶんそういうんじゃないと思うんだよね。

 

…というワケで、ひとつ気合い入れてぇ──

 

「どーん!」

 

 ノックもせずに、目の前の扉を勢いよく開けた。

 ビックリでもなんでもいいから、とにかく俯きっぱなしの顔を上げて欲しくて。だから子供っぽいと思いつつ、出たとこ勝負でやってみた。

 

「やっはろー、ヒッキー! いろはちゃー…」

 

 みたんだけど──。

 

「あ」

 

 病室の中を見たあたしは、目の前の光景に言葉が出なかった。なんかちょっと…ううん、かなり想像してたのと違う。

 

 いろはちゃんは、なぜかヒッキーのベッドの上に乗っかっていた。寝ている彼のズボンに手を掛けたまま、目をまんまるにして固まっている。なんとなく、ゴハンの途中で背中を叩かれたネコみたいだなって思った。

 

「ゆ、結衣先輩…?」

 

「えっと……」

 

 あ、あわわわ…。

 こ、これはどーゆー状況なのかな?

 ひょっとして、そーゆー状況、なのかな?

 

「…ハッ!お、お邪魔だったかな…?」

 

「い、いえいえー、お構いなくですー」

 

 戸口とベッドの上で、それぞれ固まったまま、愛想笑いを交わす。

 

「も、もー! 最近あたし、ダメダメだよねー! 空気読めないだけじゃなく、タイミングまで悪いなんてさぁ…」

 

 あははー、と苦笑いしながら回れ右をし、そそくさと病室を後に──って違う違う、もひとつ回れ右!

 

 結局その場で一回転してから、あたしは力の限りにツッコんだ。

 

「いや構うよ! 何やってんの!?」

 

 

* * *

 

 

「すみませんでした」

 

「う、ううん…こっちこそ…」

 

 ベッドを挟んで二人向かい合い、あたし達はペコペコと頭を下げあっていた。

 

 どうやら彼女は、ヒッキーの身体をタオルで拭くために下を脱がそうとしていたみたい。男子のズボンをひっぺがすのに十分な理由かってゆーと微妙なんだけど、少なくともあたしが考えたみたいな、その──そういうコトをしようとしてたワケじゃなかった。一人で想像して騒いじゃって、超恥ずかしいデス…。

 

「興味がないと言えばウソになりますけど、どうせならちゃんと反応ある時がいいですよね」

 

「同意求められても困るよ…」

 

 いろはちゃんは最初こそビックリしていたものの、今はすっかり落ち着きを取り戻していた。上半身はもう拭き終わったって言ってたけど、二人っきりでヒッキーの裸に触ってたってコトだよね。さっきやけに静かだったのって、いま思えばホントに()()()の最中だったんじゃ──って、勝手な妄想はこのくらいにしておいて。

 

「いろはちゃん、やっと元気出てきたみたいだね」

 

「この流れで頷くのは、まるでエロの化身みたいでちょっと心外ですけど…はい、お陰さまで」

 

 笑顔を浮かべた彼女からは、確かなエネルギーみたいなものを感じる。それはさっきまでの空元気なんかと比べても、明らかに違うものだ。

 

「メソメソしてても時間が勿体ないですから。それにもう、泣きすぎて涙も打ち止めって感じです。干上がっちゃいました」

 

「なんか久しぶりに笑ってるとこ見た気がする」

 

「わたし、笑えてますか? やっと前向きに頑張ろうと思えるようになったばっかなんですけど」

 

「んー、言われればまだ少しぎこちないかな。疲れてるんだよきっと。落ち着いたなら自分ちで寝た方がよくない? ヒッキーが心配なら、あたし泊まるし」

 

 考えてみれば、屋上の事件がおきてからずっと、いろはちゃんは家に帰っていない。いくらここでもシャワーを浴びられるからって、疲れもそろそろ限界なんじゃないかなー、とかとか。

 

「それはそうなんですけどねー。でも、どうせ家に帰っても眠れないと思うんですよ。夕べは何度もフラバっちゃって、ちょお大変でしたし」

 

 てへへ、といろはちゃんはほっぺをかいてみせる。

 笑い話にしようとしてるけど、やっぱり心の傷はかなり深いんだろうなぁ。

 

「そっかぁ。寝れないのはツラいよね…」

 

「あっ、でもでも、たぶん今夜は大丈夫です。こうしてれば眠れるって分かりましたから!」

 

 そう言って、いろはちゃんはヒッキーの手を取ってみせる。まるで愛用のぬいぐるみを抱き寄せるような自然な仕草だった。

 この状況ならそうなっちゃうのも分かるんだけど、優しげな目をして両手でスリスリされると、さすがに胸がモヤモヤしちゃって素直な言葉が出てこない。

 

「その…お、おうちの人には、何か言われたりしないの? 泊まりっぱだとさ」

 

「いえ、そっちは別に。母も仕事柄、常に似たような生活してますし。そもそも父と出会った切っ掛けがちょうどこんな感じだったらしくて、逆に頑張ってお世話しなさいって言われてるくらいです」

 

「へ、へぇ~…」

 

 ぐぬぬ…親公認とか…。

 いや、うちのママだって、ヒッキーの看病したいって言えば、応援くらいしてくれるとは思うけどさ。

 

「そっかー。それなら良いんだけど…。ちょっと痩せたみたいだから、気になってさ」

 

 これはウソじゃない。いろはちゃんはもともと小柄だけど、ここ数日でさらに一回り小さくなったように見える。このカンジだと、たぶん3キロ以上減ってるんじゃないかな。

 

「えっ、ホントですか?それなら派手に泣き散らかした甲斐もありますね。大丈夫ですよ、太るのは一瞬ですから。スイパラにでも行けば一日でお釣りが来ます。今度一緒に行きましょう」

 

「えーヤダよー。あたしそんなに痩せてないし」

 

 あそこ、キャッチコピーが怖すぎて行ったことないんだよね。『5kg太ろう!』ってなんなの?それ、女子に死ねって言ってるよね?

 

「でも、結衣先輩こそ、おっぱい一回り小さくなったような気がするんですけど」

 

「あ、分かっちゃう? そうなんだよねー痩せる時ってまずここから小さく…ってなに言わせるの!?」

 

 それまでの気安い笑顔をふっと引っ込めて、いろはちゃんはあたしの目を覗き込んだ。

 

「そのままお返ししますけど、ちゃんと寝てますか? 結衣先輩が責任を感じることはないんですから」

 

「それは…ちょっと無理かな、あはは…。あたしが悪くないなら、誰が悪かったのってカンジだし」

 

 だって、あの時一緒に居たのはあたしだから。あたしがいろはちゃんをひとりで行かせたりしなかったら、きっと誰も泣かずに済んだはずだから。

 

「決まってます。わたしです。わたしのせいですよ」

 

「ううん、いろはちゃんは被害者だもん…」

 

 自分が悪い、いや自分の方が──。

 

 昨日も繰り返した、このやりとり。

 きっとまた飽きるまで悪役を奪い合うんだろうな。

 それで少しでも気が紛れるんなら、いいのかな…。

 

 内心でそんな風に考えていると、

 

「…ごめんなさい、結衣先輩。わたし今からちょっと空気読めないこと、言わせてもらいますね」

 

 いろはちゃんは、これまでとは雰囲気の違う答えを返してきた。

 

 思ってたのとは違う反応に顔を上げると、パッチリと開かれた大きな目があたしを真っすぐ見つめていた。さっきの明るいカンジとも違う、ゆらゆら揺れる炎みたいな瞳。見ているとどうしてか怖くなってきて、思わず目を逸らしたくなった。

 

「もちろん、気を遣って頂けるのは凄く嬉しいです。ホントに感謝してます。けど、わたしは別に、自虐的な意味で自分の責任だって言い張ってるワケじゃないんですよ」

 

「え…?」

 

「だってあの時、わたしは(さら)われたわけでも何でもなくて、自分で判断した上でアイツについて行ったんです。そんなの、どう考えたって自分の責任じゃないですか。それなのに、こんな状況になってまで、お前には責任がないだなんて言われたら…なんだか、まるで──」

 

 そこで目を伏せたいろはちゃんは、悲しそうに、そして心から悔しそうに、声を絞り出した。

 

「わたしだけ、一人前って認められてないみたいじゃないですか…」

 

「あ……」

 

 あたしは──あたし達は、大きな勘違いをしていた。

 いろはちゃんは自分を責めて、その責任で潰れちゃうんじゃないかって、そればっかり。耐えられる強さをもっているだなんて、最初から考えてもいなかったんだ。

 

「すみません、せっかく慰めてもらってるのに、生意気言ってますよね…。でも、わたしだって子供じゃないんです。誰よりも責任を感じますし、そうする義務と、そうする権利があると思ってます」

 

 責任を感じる権利。

 

 そんなもの、普通なら頼まれたって欲しくない。

 けど、言われてみると、すごくしっくりくる表現だった。

 

「はるさん先輩だけでした。あのひとだけが、わたしの責任を認めてくれました。だから、すごく怖かったけど、逃げずに頑張ろうって思えたんです」

 

「そっか…。そう、だよね」

 

 どうして怖いって感じたのか、やっと分かった。

 だって、いろはちゃんの目に込められてたのは、不満、悔しさ、それに怒り──当然の権利を取り上げて、未だに自分を恋敵として認めないあたしに対しての、真っ直ぐな敵意だったんだから。

 

「ごめんね。…ごめんなさい」

 

 謝罪の言葉は自然と口から溢れてきた。

 

「…きっとあたし、まだいろはちゃんのこと、どっかで子供扱いしてたんだと思う。ゆきのんみたいに同じとこに立ってるライバルじゃなくて、後から追いかけてくるだけの後輩だと思ってた。でも、違ったんだよね」

 

 ヒッキーが助けたのはいろはちゃんで、助けられたのはいろはちゃん。一番心配する権利があるってゆうの、ホントにその通りなんだと思う。なにより、もしもあたしが同じ目に遭ってたら、きっとこんな風に感じただろうから。

 

「謝らないでください。ただの我が儘なんですから。ただ、結衣先輩にだけは、改めて知っておいて欲しかったんです。わたしがここでこうしている理由が、罪悪感だけじゃないんだって」

 

 正直、いろはちゃんの反応は見方を変えれば少し行きすぎている面もあって、だからこそ、それだけ抱え込んでいるのかなって思ってしまった。そうするだけの理由があることを、少なくともあたし達は知っていたはずなのに。

 

 耳に掛かった髪の毛をすくいながら、いろはちゃんは少し長いため息を吐いた。鋭い視線が重たげなまぶたにさえぎられ、射すくめられるような緊張感が消えていく。

 

「…最悪ですね、わたし。いま言うべきことじゃないのはよく分かってるんです。こんな形で認めてもらうつもりなんて、無かったのに…」

 

「あたし、同じ立場なんだから、ちょっと考えたら分かりそうなものなのに…。ぜんぜん気づかないとか情けなさ過ぎかも…」

 

 もう何度目かも分からなくなった、重苦しい息を吐く。

 ここ数日の間に、いったい何年分の幸せを逃がしてしまったのだろう。そんなとりとめもないことを考えていると──

 

「結衣先輩っ」

 

 いろはちゃんは、スイッチでも切り替えたみたいに、いつものような明るい声を出した。

 

「わたしの方からけしかけておいてアレなんですけど、この話、しばらく預けてもらえませんか?」

 

 彼女の向けた視線の先には、ベッドで静かに寝息を立てるヒッキーの姿があった。

 

 確かに、容態(こっち)の方が気になっちゃって、今はあんまり冷静にはなれそうもない。それに、ヒッキーが元気になれば避けては通れないのだ。少し気持ちを整理する時間も欲しいし、その提案を断る理由はなさそうだ。セリフを取られちゃった感はあるけど、こんなお通夜を続けるくらいなら、喜んで乗らせてもらおう。

 

 あたしは、今度こそ目を逸らさずに、彼女の視線を受け止めた。

 

「…うん。近いうちに」

 

「はい、必ず」

 

 お互い、ぜったいに逃げないように。

 それと、早く良くなるようにって願掛けもかねて。

 眠り続ける本人の前で、あたし達は密かな約束を交わしたのだった。

 

「…これって、宣戦布告かな?」

 

「もう始まってたじゃないですか。休戦協定ですよ」

 

「そっか。あははっ、そだね!」

 

 半分冗談のつもりだったけど、いろはちゃんの方は十分過ぎるくらいのやる気に溢れていた。

 あたしが目指してるのって、たぶんいろはちゃんとは少し違うゴールなんじゃないかって思うんだけど…そーゆー話もまた今度、だね。

 

 しっかし、ゆきのんだけでも難しいのに、ホントどうしたもんかなぁ…。

 




 
やっと終わったぁぁああ!



めんどいパートが。

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