そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

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■33話 心の声の告げるまま

 

《---Side Iroha---》

 

 

「…ん……あれ…?」

 

 消毒液の香りのする白いシーツが、視界いっぱいに広がっている。

 

 顔を上げると、自分よりも一回り大きな手を握りしめる、わたしの右手が目に入った。絡めた指先から伝わってくる暖かな感触に、少しずつ頭が覚醒していく。その先で静かに上下する胸元をしばらく見つめてから、深く息を吐いた。

 

 辺りを満たす独特の香り。しばらく嗅いでいたせいか、すっかり慣れしまった病院の空気の中に、今はほんの一握りだけ、とても落ち着く香りが混じっている。どうやら寝落ちの原因はこれみたい。

 変な姿勢で突っ伏していたせいか、腰がミシミシと痛む。軋む身体を起こしつつ、わたしはベッドの主に静かな挨拶をした。

 

「──おはようございます、先輩」

 

 

 二人きりの空間で彼の静かな吐息を聞いていると、心の底から安心できた。じっと見守っているうち、どうしても手を握りたくなった。別に誰も見てないし、減るもんじゃないしって思い切って手を伸ばして──。

 その先のことはよく覚えていない。ほとんど気を失うような感じで、眠りに落ちたんだと思う。

 

 一眠りしたおかげか、あれだけメチャクチャだった気持ちとか頭の中が、結構スッキリしていて、昨日の事は悪い夢だったんじゃないだろうかとさえ思えた。だけど残念なことに、こうして病院で目元を腫らしているのが現実なのだ。

 

「うわ、もうお昼過ぎですよ。起こしてくれてもいいじゃないですかー」

 

 改めて時計を確認すると、最後に見たときからかなりの時間が経過してしまっていた。でもまあ、色々あったんだし、寝起きの弱いわたしにしては、これでもかなりマシな方だと思う。

 先輩が集中治療室からこの個室にベッドごと引っ越してきたのは、今から二時間くらい前の事だ。その時はまだ、周りに沢山ひとが居たはずなんだけど…。

 

「てか、なんで二人きりなんでしたっけ?」

 

 昨日、それぞれの保護者が一堂に会したのは、すっかり夜も更けた頃だった。先輩のご両親はそれぞれ別の場所に長期出張しているそうで、飛行機のチケットがすぐに取れなかったものだから、到着までにかなり時間が掛かってしまったのだ。単身赴任先から飛んできたウチのパパも似たり寄ったりで、おまけにそこからコメツキバッタみたいな頭の下げあいが一晩中続いて…。

 結局、病院に残った誰もが、ろくに寝ないで夜を明かしていた。

 

「ほんと…先輩が集中治療室(あそこ)から出られなかったら、たぶん終わらなかったですよ、あれ」

 

 そうして朝になって、スタッフから彼が無事に峠を越えられたと聞かされ、両陣営の謝罪合戦はひとまずの停戦を迎えた。

 わたしはこまちゃんと手を取り合って喜びの涙を…それとさんざん脅かしてくれた医者への愚痴を、そりゃあもうボロンボロンに零しまくった。

 

「あはは…。わたし、呆れられちゃったかもですね…」

 

 グズグズの泣き顔を親御さんに晒してしまったのもそうだけど、それ以上に反省すべきはわたしのワガママだった。先輩の容態もとりあえず落ち着いたということで、みんな一度出直そうという話になったとき、それでもわたしは空気も読まずに、この部屋での留守番を希望したのだ。

 

 もちろん、うちの親も一度帰ることを勧めてきたんだけど──。

 

「あれ?これって…」

 

 すっかり聞き上手になった先輩を相手に記憶の整理をしていたわたしは、ふと、ベッド脇に据え付けられたテーブルに、花束が置かれていることに気がついた。隣には、やけに膨らんだボストンバッグも鎮座している。見たことのある柄だし、一色家(うち)のものに違いない。そしてさりげなくちょこんと添えられている、折り畳まれたメモ帳の切れっぱし。

 

 なんとも雑なこの感じ、ひょっとして…。

 

 わたしは三折りにされたその紙切れを手に取って、そっと開いてみた。

 

 

───────────────────

受けたご恩はきっちりお返しすること!

パパのことは気にしなくていいからね

───────────────────

 

 

───────────────────

 

 

「ふふっ…わかってるって……」

 

 差出人も宛先もないけれど、文面や文字を見ても、ママからわたし宛の手紙ということで間違いなさそうだ。

 うちの両親も、先輩のとこと一緒に解散して、家に戻ったはずだった。着替えとか、他に色々持ってきてくれるって言ってたんだけど…わたしが爆睡してる間に一往復してしまったみたい。相変わらずフットワークの軽いアラフォーだなぁ。

 

 ママは今回のことについて、ただの不幸な事故とは考えていないようだった。こうしてわたし一人に先輩を任せてもらえているのも、実はあのひとの暗躍による所が大きかったりする。先輩の側に居たがるわたしを止めようとはせず、それどころか、向こうのご両親に頭を下げ、「是非とも娘に責任を取らせて欲しい」と頼み込んでくれたのだ。

 ご両親はやけに嬉しそうに首を縦に振ってくれて、こまちゃんを連れて自宅へ引き上げていった。でも、彼女はしきりに「ノーコメントで!」と繰り返していたし、やっぱり呆れていたんだと思う。

 

 こんなうちのママだけど、非常識と笑わないであげて欲しい。あのひとにしてみれば、他人事とは思えない状況なのだ。もちろん、わたしが自分の娘だからという言葉通りの意味だけじゃない。

 と言うのも、最悪極まりないこの状況──実はこれが、我が家の両親の馴れ初めというやつに、とてもよく似ているのである。

 

「ほんと、なんの偶然なんだか…」

 

 ママがまだ学生だった頃、同級生だったパパに助けられたことがあったのだそうだ。トラックだかトラクターだかに跳ねられそうになったのを庇われて、代わりにパパが轢かれてしまった。で、入院したパパを介護をしているうちに以下略…と、まあそんな感じみたい。

 あれっ、改めて比べるとあんまり似てなくない?こっちの方が百倍ドラマチックだよね?

 

「気にしなくていいって言われてもなぁ…」

 

 わたしの行動について、パパはあまり賛成という感じではなかった。ママに睨まれるとすぐ、一緒になって頭を下げてくれたけど、やっぱり父親としては、あんまり気分の良いものじゃないんだって。同じ恋愛をした二人なのに、なんでこんなに反応が違うんだろう。いつか娘ができて、その子に好きなひとができたなら──わたしは全力で応援したいけどなぁ。

 ちなみに、普段の力関係を見てる身としてはとても信じられないんだけど、告ったのもキスしたのもプロポーズしたのも、全部ママからだったのだとか。明日は我が身って気がして、先行きがちょっと不安になったりならなかったり…。

 

「……ま…ありがとね」

 

さっき二人に言いそびれた言葉を口にしながら、書き置きの続きに目を通した。

 

 

───────────────────

受けたご恩はきっちりお返しすること!

パパのことは気にしなくていいからね

─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

必要そうなものを入れておいたけど

他にもあったらメールしなさい

─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

P.S.

ママはそうしてあなたを産みました♥

───────────────────

 

 

「……ん?」

 

 取って付けたような最後の一文の、いったい何が「そうして」なのか、すぐには理解できなかった。けど、それが一番最初の部分に掛かっているのだと気が付いて──。

 母の愛がたっぷり詰まった書き置きはぐしゃりと音を立て、わたしの手の中で紙クズへと姿を変えていた。

 

「な…なな…っ」

 

 なに書いてんのバカー!

 

 ママの恩返しはなんていうか…思いっきり私欲にまみれていた。娘の立場としては、聞きたくないやらコメントに困るやら、とにかく酷すぎる内容の手紙である。

 

 てか、こんなの置きっぱにして、こまちゃんやご両親に見られたらどうするの?メールじゃない時点でぜったい確信犯なんだろうけどさ…。わたしがあざといあざといって連呼されてる一番の原因、間違いなくこのひとだよね。

 

「…ほんっとに、もー!」

 

 将来のことなんて想像した直後だったからか、一気に顔が熱くなってしまった。けれどお陰で、自分の身体を暖かい血が巡っているのを感じられる。すっかり乾いて萎れていた心が、まるで水を与えられた花のように、潤いを取り戻していく。悔しいけど、きっとこれもママの作戦通りなんだろう。

 

そうそう、花って言えば──。

 

「これ、ママが買ってきたんだよね…?」

 

 花屋さんの包装そのままの、色とりどりの花束。わたしが寝ている間に、その辺で買ってきたのだろうか。確かに病室はかなり殺風景だし、そこのキャビネットに飾るだけでも、ずいぶん違ってくるんだけど…。

 

「花瓶、病院で貸してくれないかなー」

 

 とりあえずその辺は後で調達することにして、バッグの口を開き、中身を検分していく。

 

「えーと、どれどれ……なんか色々入ってる…」

 

 タオルに歯ブラシ、旅行用コスメなんかを詰め込んだ、お泊まりセット。ドライヤーに…下着類と替えの制服も入っていた。ここで私服じゃないところが()()()っていうか…下手なチョイスでわたしからダメ出しを食らうくらいなら、いっそ制服の方が外れないという考えなんだろう。まあ間違いではないけどね。

 

「わ、すごっ、ちゃんと花瓶あるし」

 

 バッグを漁っていくと、陶器で出来た小ぶりな花瓶が転がり出てきた。ついでに花を切るためのハサミまで完備。

 

「でもこれ…あんま可愛くない…それに大きさも──あ、これで切ればいいのか…」

 

 ひたすら真っ白で装飾もなく、おまけに柄さえないその花瓶。どうせ百均あたりで仕入れてきたんだと思うけど…気が利いているようで、ちょくちょくがさつなところがある。たまに男なんじゃないかって笑ったりもするけど、ママのそういう所も、わたしはそんなに嫌いじゃなかった。折角買ってきてくれたものだし、使わせてもらおうかな。

 

「おっ?まだ奥になにかあるにゃー…っと」

 

 だんだん楽しくなってきたわたしは、バッグの奥底に隠すようにして入れてあったそれを、目敏く発見した。お菓子のようにも見える、妙にカラフルな小箱である。だけど抽象的な模様ばかりで、肝心の商品の情報が一切伝わってこない。なんて不親切なデザインだろう。これ見よがしにプリントされてる大きな数字だけが、無闇に目立っていた。

 

「ぜろ、ぜろ、さん…? コスメかな…」

 

 なになに…選べる3色カラー?

 天然ゴムうすうす──

 

「ぎゃーー!」

 

 まさかの二段構えとかー!

 

 あのひとなんてもの入れてんのこれ使っちゃったらなにも産まれないじゃんって違う違うそうじゃなくてどうせならもっと薄いのあるでしょってそれも違くてーっ!

 

 酷く可愛いげのないリアクションと共に、思わず放り投げてしまったゴム製品(コンドーさん)。それは綺麗な放物線を描き、くるくると回転して宙を舞い──。

 そして、ベッドで眠る先輩の股間の辺りに、サクッと角を立てて落っこちた。

 

「ふぎゃーーっ! 大丈夫ですかせんぱーい!?」

 

 傷の辺りじゃなくてよかったあああ!

 いや、ソコに落ちるのもダメなんだけど!

 

 慌ててそのエロっちい小箱を取り除いたものの、場所が場所だけに、いつかのように「手当て」してあげるワケにもいかず…。とりあえず平謝りする以外、今のわたしに出来ることは何もないのだった。

 

「うう…ママのおバカ…。こんなん買ってくるくらいなら、食べ物とか入れといてよ…」

 

 一人でバカ騒ぎをしていたせいだろうか。色を取り戻しつつある感情に比例するかのように、胃袋の方も猛烈な空腹を感じ始めていた。

 考えてみれば、まともな食事をしたのは昨日の朝が最後なのだ。そこからは何を口にしたのか、そもそも何も食べていないのか、覚えてすらいない。どこかで水くらいは飲んだ気がするけど、それだって全部戻しちゃったし。

 

「ま、ダイエットだと思えば…イケるイケる。とりあえずお花でも飾っとこ」

 

 花を活けるなんてやったことないけど、こういうのに必要なのは、技術よりセンスのはずだ。そしてわたしはなんでも人並み以上にこなせる子(ただし勉強以外に限る)。だからきっと上手に出来るはず。

 

 出来るはず…。

 

 …………。

 

 ……。

 

「……うわ~ぉ…」

 

 技術よりセンスとか言ったのは、どこのどいつだろう。

 専門の学科もあるんだから、そんなにチョロいわけないじゃんね?

 

 切っては挿し、切っては挿しを気の向くままに繰り返して──気がつけばわたしの目の前には、実にオリジナリティ溢れるオブジェが鎮座していた。無理に全部の花を挿したのがまずかったのだろうか。これでもかと突っ込まれた切り花達はまるで盛り髪みたいなバランスの悪さで、どうして倒れないのか逆に不思議なくらいである。

 

「と、とりあえず、先輩の側は却下で…」

 

 当初予定していたポジションは危険と判断して、ちょっと離れた備え付けの棚の上に、そっと花瓶を設置する。

 

「ほら、アレですよー。大は小を兼ねる的なー」

 

 先輩に聞こえるように言い訳をしつつ、ハサミでちょいちょいっと葉を落としたりして、スタイリストを気取っていると──。

 

 病室のドアを叩く、コンコンという音が聞こえてきた。

 

 回診かな…でも他人のわたしが出るのってどうなんだろう。それともひょっとして、奉仕部の二人かな?

 

「…はーい、どうぞー」

 

 手が塞がっていたわたしは、戸口に背を向けたまま返事をした。けれど、いつまで待っても訪問者が入ってくる気配がない。鍵は掛かってないはずだけど…。

 

「あ…」

 

 そう言えば、当たり前のように返事をしてしまったけど、先輩の親戚さんとかだったらどうしよう。中から知らない女子の声がして、戸惑ってたりして。ちゃんと出迎えて挨拶しないと!

 

 

『あの…すみません……』

 

 その時、訪問者の返事がようやく返ってきて──

 

「──っ!?」

 

 声を聞いたわたしは、その場で凍りついた。

 

 扉越しにくぐもっていたって、聞き間違えたりしない。

 忘れもしない、この声。

 わたしを襲い、先輩を刺した、アイツの声だ。

 

『俺、西山です…。一色さんも居るんだ。ちょうど良かった』

 

「…な…やだ……なんで……!」

 

 なんで…どうしてアイツがここに!

 捕まったんじゃなかったの!?

 

 頭の中に、昨日の出来事が雪崩のように流れ込んでくる。せっかく温まった心も、冷水を引っ掛けられたかのように引きつっている。身体にガクガクと震えが走り、耐えきれずにその場にへたり込んだ。

 

 心臓がうるさい位に音を立てている。

 いくら息をしても、苦しくて堪らない。

 

「いやっ、いやっ…だ、誰かっ!」

 

 すぐ警察に通報して…ダメだ、間に合わない。

 さっき返事してしまったし、鍵だって掛かってない。今すぐにでも部屋に入ってくるだろう。

 それに、もしもまたナイフを持っていたら…。

 

『ま、待って! 何もしない、しないから!』

 

 そんなこと、信じられるわけがない。きっと大事になったことを逆恨みしているのだ。そうでなければ、何をしにこんなところまで追ってきたというのか。

 

『今さらって思うかもしれないけど、一応その、あ、謝らせてもらいたくって! 許してもらえないかも知れないけど…それで来ただけなんで…。あ、もちろん比企谷さんにも! …その、できたら、なんだけど……』

 

────は?

 

 その身勝手極まりない弁明を聞いたとき、わたしの中で何かのスイッチがカチリと切り替わったのを感じた。後から後から沸いてくる怒りが胸の内に広がって、恐怖や混乱をどんどん塗りつぶしていく。

 

 わたしの中のわたしが──クレバーさの欠片もない、(くら)い声で嗤うのが聞こえた。

 

『あはっ、謝るだってさ。どう思う?』

 

 謝るって、なに?

 どの面下げて、謝らせろだなんて言えるの?

 どうせ自分のためなんでしょ。

 謝って、自分が楽になりたいだけなんでしょ。

 

『わたしは、許してあげられる?』

 

 許せない──許すわけがない。

 

『何をしたら、許してあげられる?』

 

 何があっても、ぜったい、許さない。

 

『アイツは、先輩の痛みを分かってないもんね』

 

 アイツは、わたしの怒りを分かっていないんだ。

 

『だったら教えてあげなくちゃ』

 

 でも、どうやって──?

 

 

 その時、わたしは気が付いた。気が付いてしまった。

 道具なら、さっきからずっと、この手に持っているではないか。

 そうだ、これでいい。

 アイツにはこれで十分だ。

 

 わたしは何かに促されるように、ベッドへ視線を向けた。

 

『見て。わたしの大好きなひとは、まだ目も覚ましていないんだよ?』

 

 もう一度、扉を見る。

 

『それは、誰のせい?』

 

 いつの間にか、震えは止まっていた。

 

 

「………いま、開けるから」

 

 

 わたしは、ゆっくりと戸口に向かって歩き出した。

 

 

 

《---Side Yukino---》

 

 

 個室ばかりが主体となった、少し特別なフロア。それが比企谷くんの入院している区画だった。一般の患者との相部屋が難しい患者の為に用意されたもので、特別な事情や病院へのコネでも無い限り、そうそう入れるものではないらしい。

 彼がそこに移されたという話を聞いた時、例によって姉さんの関与を疑ってしまった。しかし実情としては、警察やマスコミが出入りする可能性を考慮した、病院側による采配という事だった。

 

「本当に迷ってしまいそうね、これ──」

 

 似た様な部屋ばかりが続く通路の角を何度か曲がると、廊下の先に向かい合う二つの人影が見えた。

 

 病室を守護するかの如く立ちはだかる女の子と、その彼女に必死に話し掛けている男の子。衝撃的な状況だったからか、すれ違っただけだというのに、私の目は鮮明にその背格好を覚えていた。確かにあの時現場の前ですれ違った男子生徒──やはり彼が西山くんだったのだ。

 

 一見すれば告白の場面にも見える、そんな状況。勿論、この場を満たしているのがそんな甘ったるい空気でない事は、言うまでもない。

 

「──から──俺──して────」

 

 彼の口から辿々しく紡がれる言葉が、ところどころ聞こえてくる。それが本心から出たものかは分からないけれど、少なくとも今の彼は落ち着いた様子で、唐突に暴れだす心配は無さそうに見えた。

 

「おっとと…。あれ、意外とだいじょぶそう、かな?」

 

 由比ヶ浜さんも、通路の角に身体を隠し、首だけ伸ばして様子を窺っている。

 確かに、両者が落ち着いているのであれば、ここは様子を見るのが正解だろう。下手に割って入れば、余計にややこしい事になりかねないのだから。

 けれど今は──。

 

「…違うの。そっちじゃない」

 

「ゆきのん?」

 

 実を言えば、犯人が何かするかもしれないという心配は、殆どしてはいなかった。私が気にしていたのは、彼が必死に話しかけている相手の方なのだ。

 一瞬の躊躇いの後、私は彼女に呼び掛けた。

 

「一色さん」

 

 西山くんと向き合った彼女は俯いていて、ここからでは遠すぎて表情が読み取れない。ただ、影を被ったその横顔は、どこか剣呑な気配を漂わせている様に思えた。

 

「一色さん!」

 

 再び声を張り上げる。

 けれども、その呼び掛けにびくりと反応してこちらを向いたのは、西山くんの方だった。

 

「え? ……あっ……そ、その…」

 

 私が比企谷くんの関係者だと気が付いたのだろう。彼はしどろもどろになって、支離滅裂な言い訳をし始めた。

 

「ち、違うんです! いや、違わないけど、その、俺、そういうんじゃ…今日は、違くて──ほんと、何て言うか…」

 

 その聞くに耐えない弁明らしきものに、私は耳を貸してはいなかった。彼がこちらを向いて──一色さんから注意を逸らしているなか、俯いたままの彼女が静かに動いたからだ。顔を上げた彼女の表情に格別の険しさは無く、しかしそれが余計に、名状しがたい薄ら寒さを感じさせた。

 

 一色さんは(おもむろ)に、後ろ手に回していた腕を高く掲げる。

 彼女の手元が蛍光灯の光に晒されて──。

 

「なっ!?」

「ちょ…マジ!?」

 

 その手に握られた花切り(ばさみ)が、狂気に鈍く輝いていた。

 

 

 

 そう。

 私が本当に心配だったのは、犯人の行動ではなかったのだ。

 

 もしも今の一色さんが、比企谷くんをあんな目に遭わせた相手の顔を見たら。向けられて然るべき、正しい怒りの矛先を与えられてしまったのなら──。

 

 自分だったらどう感じるだろう。それを考えた時に真っ先に浮かび、けれどもすぐさま却下された、一つのビジョンがあった。それを恐ろしい事だと感じる理性の(たが)が健在なら、心配はない。けれど、昨夜の一色さんの盲目的な行動を見ていて思ったのだ。彼女のそれは、心と同様にボロボロに傷付いて、壊れかけているのではないか、と。

 

 絶対に彼女を犯人に会わせてはいけない。その筈だったのに。

 

 止められなかった私の目の前で、想像した通りの展開が再現されようとしていた。

 

 

「やめなさいッ!」

「ダメェーーッ!」

 

 彼女に駆け寄りながら、力の限りに叫ぶ。その逡巡を体現するかの様に、振りかぶられた凶器は一度だけぶるりと震えてみせた。そして再び、無防備を晒し続ける背中に狙いを定める。

 

(駄目…間に合わない…!)

 

 どんなに手を伸ばしても、ほんの数メートルが届かない。

 避けられない惨状を前に、私は思わず目を瞑り──

 

 

 

 

 どこかで、何かが割れる音がした。

 

 

 

 

 取り返しがつかない事が起きてしまった事を比喩的に表現した訳ではない。実際に物が壊れた様な音がしたのだ。

 決して大きくはない。私の声にかき消されて、聞き漏らしてもおかしくはない程度の音だった。しかしそれは、一色さんの耳にもきちんと届いていたらしい。降り下ろされかけた彼女の手は、(すんで)の所で止まっていた。

 

 私もつい足を止め、由比ヶ浜さんと顔を見合わせた。

 

「…ね、ねえ、今のって…」

 

「…ええ…でも…」

 

 この音ならば、確かに一色さんも手を止めざるを得ないだろう。

 何故ならそれは、彼女が背にした()()()()から聞こえてきたのだから。

 けれど…だって今、その部屋には…。

 

 改めて様子を見れば、一色さんも病室の方を振り返り、呆然と立ち尽くしていた。力の抜けた手から取り落とされた鋏が、床の上で安っぽい音を立てる。

 西山くんは、その音に気付いてやっと背後を振り返った。一色さんと、そして床に落ちた鋏を何度か見比べて、目を(しばたた)かせている。ひょっとしたら、私達が止めようとしていたのは自分の事だと勘違いしていたのかも知れない。これがどんな状況なのか、頭が追い付いていないのだ。

 

「────ひっ、ひああぁっ?!」

 

 程なく理解に至ったのか、彼は地べたに尻餅をつき、言葉にならない悲鳴を上げた。

 正に()()うの(てい)といった様子で、這いずりながら後じさっていく。

 

「やべぇ…お前マジやべぇよ! 頭おかしいんじゃねえの!」

 

 自分がした事も棚に上げ、一色さんを口汚く罵っているのが聞こえてきたけれど、私達の興味は既にそちらには無かった。馬鹿に付ける薬は無いとは言ったものである。それに放っておいても、どうせこの後は警察に拘留されるのだ。それに何より、今はそんな些末な事はどうでもよかった。

 

 私は病室の戸口に近付き、一色さんの肩越しに中を覗き込んだ。

 

 まず目に飛び込んできたのは、濡れた床に散乱した、小さな破片と沢山の花。どうやらさっきの音は花瓶が割れた際のものだったらしい。そこまではいい。それは理解できる。

 一緒になって覗いていた由比ヶ浜さんも、やはりこの不可思議な状況に困惑していた。

 

「えっ、な、なんで…どゆこと…?」

 

 部屋の中には当然、ベッドに横たわる比企谷くんの姿があって──。

 

 そして、その他には、誰も居なかった。

 

「窓も開いていないのに…」

 

 一色さんを止めようとする人間が居なかったのだ。この部屋に動ける者が居ないであろう事は、中を確認する前から分かっていた。しかしそれを言うなら、一色さんは直前まで部屋の中に居たのである。彼女の驚きは私達の比ではないだろう。

 

 一体、誰がこの花瓶を倒したというのだ。

 

 よもやと思って改めて見ても、比企谷くんが少しも動いていないのは、綺麗に整えられた掛け布団を見れば明らかだった。

 

「……先輩に、怒られちゃいました…」

 

 今になって、自分がしようとした事の意味に頭が追い付いたのだろう。彼女は自分の腕を掻き抱いて震えていた。その表情はばつが悪そうで、けれども少しはにかんで見えた。

 

「ううん、守ってくれたんだよ、きっと!」

 

 由比ヶ浜さんは彼女の肩を押してベッドの側へと連れていくと、目覚める気配のない彼に向って、優しい声で話しかけていた。

 

「ありがとね、ヒッキー。──ほら、いろはちゃんも!」

 

「また、助けてもらっちゃいましたね、先輩…」

 

 正直を言えば、私の理性的な部分は「そんな訳がない、何かの偶然だ」と冷たく告げている。けれどそれが実際に口から零れたりすることはなくて、代わりにこの場に相応しい建前が、自然と溢れていた。

 

「全く…口で言えばいいのに。いつもの事だけれど、本当に手段を選ばない人よね…」

 

「あははっ、ホントにそうだ!」

 

 自分の考えを曲げてしまったら、それはもう本物じゃない──ずっとそう信じてきた。それなのに、すんなりとこの空気に迎合できた事が不思議で、そしてそれが、少しだけ嬉しかった。これまでの私は(かたく)な過ぎたのだと、今ならそう思える。いつか彼女達の語った、心のままに生きるというやり方。私にはとても難しいと思えたそれは、意外と手の届くところにあるのかも知れない。

 

 こんなのは突拍子もない話だ。お世辞にも理性的な解釈だとは思えない。それでも尚、信じたいという気持ちは、この胸の中に確かにあって。

何より、それだって紛れもなく、私自身の考えに他ならないのだから。

 

(──ほんとうに、ありがとう)

 

 悪戯っぽい顔で彼の頬をつつく由比ヶ浜さんと、それをやめさせようと騒ぐ一色さん。

 そんな彼女達の日常を守ってくれたかもしれない誰かに向かって、心の声の告げるままに、私は感謝を捧げたのだった。

 

 

 




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