そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

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人生初インフル、きつかったです。
今年もどうぞよろしくお願い致します。


■32話 汚い大人同士のケンカ

 彼は名乗った。

 口にするのも憚られる、忌々しいあの男子の父である、と。

 

 父親。

 

 保護者。

 

 あんな人間にすら、立場を保護してくれる者は居る。

 そんな、当たり前の事実がどうにもしっくり来なくて、目の前の男性と犯人との関係が、すぐには頭に入ってこなかった。

 

 そのまま何度か瞬きを繰り返し、言葉の意味するところを正しく理解した私は、思わずその場から一歩後じさる。

 

「この度は、不肖の息子がご迷惑をお掛けしまして──」

 

 定型の挨拶に耳を貸す余裕などどこにも無かった。

 居る筈もない正義を求め、咄嗟に辺りを見回す。

 

「ど、どうしてこんな所に…! け、警察っ…!」

 

「ええと…どうか落ち着いて下さい。お気持ちはお察ししますが、私自身が何かした訳ではありませんし、何もしませんから」

 

 見ればその男性は両手を軽く上げ、無害である事を主張していた。

 

「……っ……!」

 

 確かに、この人が直接、私達に危害を加えた訳ではない。それでも、あんな事をする子供を育てた人間なのだ。どう言い繕ったところで、鬼の親が鬼呼ばわりされるのは当たり前ではないだろうか。

 けれども、ここで喚いても仕方がないと思える程度には、私の中にも冷静さが残っていた。胸に手を当てて一つ息大きくを吐き、心にも無い言葉でもって、形ばかりの謝罪を示す。

 

「……そうですね。失礼しました…」

 

「いえいえ、こちらこそ」

 

 それにしても、無駄に落ち着き払ったこの態度は、本当に癇に障る。彼が紳士的に振る舞えば振る舞う程、心がささくれ立っていく様だ。

 

(でも、由比ヶ浜さんが行ってしまった事だけは、運が良かったわ…)

 

 彼女がここに居たら、もっと大きな騒ぎになっていただろう。彼女の激昂する様子に()てられれば、引きずられて自分を見失いかねない。少なくともその程度には、私の(はらわた)も煮えくり返っている。

 けれどそれでも何とか、お腹の底から沸々と沸き上がってくる激情を唾と一緒にごくりと飲み下し、澄まし顔を取り繕った。これまで気にする余裕の無かった、しかし放っておく訳にもいかない、加害者(あちら)側の状況。それを確認する絶好の機会だと思ったからだ。

 

 長く顔を会わせていたい相手でもなし、思い切ってストレートに訊ねてみる事にした。

 

「…息子さんは、どうされているのですか」

 

「ああ、はい。あれも一言皆さんに謝罪したいと申しておりまして…。今は病室の方にご挨拶に伺っているかと思います」

 

「は……?」

 

 予想の斜め上を行く回答に、私は再び固まる羽目になった。

 

 待って、待って頂戴。

 ご挨拶?

 だって、彼は比企谷くんを…!

 それが、どうしてそうなるの?

 

 張り付けた筈の無表情は滑稽なほどあっさりと剥がれ落ち、私は今度こそ無惨に狼狽させられた。

 

「ど…どこから病室を…いえ、そうではなくて、何を…え…ここに、来て…?」

 

「病室でしたら、受付で伺いましたが、何か?」

 

「だ、だって、あんな事をしておいて、何をそんな堂々と!」

 

 手が後ろに回るべき立場の人間が、平気な顔をして闊歩していると、彼は言う。自分の常識から大きく逸脱した事態に、酷い混乱が私の頭を埋め尽くしていた。

 

「確かに昨晩、任意出頭の要請がありました。これから事情を説明しに署の方へ伺う予定です。しかし、今の時点ではまだ何も確定してはいません。ですから、出来ましたら犯罪者呼ばわりは遠慮して頂けると、大変ありがたいのですが」

 

「そんなの、分かりきった事じゃない!」

 

 誰が遠慮などするものか。あれが犯罪者でなくて、それ以外の何だというのだ。

 それにこの親も親だ。どうしてこんな余裕の表情でいられるのか。警察の事にしたって、少し話をするだけだとでも言いたげな話しぶりで、すこぶる気に入らない。

 そもそも、こんなにも分かりやすい事件なのに、どうして任意出頭なのだ。それではまるっきり参考人ではないか。所詮は未成年同士の諍いだと思って、軽く見られているのだろうか。

 

「それと病室の件ですが…。患者の方から特に要求しない限り、身分の明らかな相手に対して、病院側がわざわざ隠すことはありませんよ?確かに今回は多少、込み入った事情が介在していますが…少なくとも私は職業柄、止められるような事は滅多にありませんね」

 

 そう言って、彼は洒落たデザインの名刺を差し出してきた。そこに名前と共に記されていた肩書きを前に、改めて息を飲む。

 

成瀬(なるせ)法律事務所……弁護士──!」

 

 やはりそうか。

 胸元のバッジは葉山の叔父様がつけているのと同じ、弁護士の身分を示すものだった。

 

「ええ。まあご覧の通り、しがない雇われの身ではありますが」

 

(よりによって、という感じね…)

 

 このタイミングで現れたその肩書きからは、言い表せない嫌な予感が立ち上っていた。警察の動きが鈍い事にも何か関係があるのでは。どうしても、おかしな深読みをせずにはいられない。

 

 しかし、今は下手な勘繰りよりも優先すべき事があった。さっき彼が口にした、到底聞き流すことの出来ない言葉。聞き間違いでなければ、あの男子がこの病院に、比企谷くんの病室に向かったと、彼はそう言ったのだ。

 

「そ、それより、今すぐ息子さんを呼び戻してください。病室には今、被害者の女生徒も居ます。今度はここで騒ぎを起こさせるつもりですか。失礼ですが、とても常識的な判断とは思えません!」

 

「ええと、確か一色さん、でしたか。まあ馬鹿な息子ですが、あれにも分別くらいあります。一度振られた相手にまた迫るような度胸もありませんし、ご心配には及びませんよ」

 

「笑えない冗談ですね。衝動的に人を刺すような人間の、何をどう信じたら分別なんて言葉が出てくるんですか」

 

「これは耳が痛い…。しかし、彼女の方に怪我はなかったと聞いていますが…」

 

「ナイフを突きつけられ、あまつさえ大事な人を目の前で殺されかけて! それでも彼女に何も危害を加えてはいないと、そう主張するのですか!」

 

 反射的に彼の頬に走ろうとする手を、私は必死に押さえ付けた。脳裏には、昨日から嫌というほど見続けてきた、憔悴し切った一色さんの姿がはっきりと浮かんでくる。彼女の心の傷は明らかに重傷だ。比企谷くんにもしもの事があれば、人生が狂ってしまっても不思議ではないと、そう思えた。

 暴行罪とは、肉体のみならず精神(こころ)の傷にも適用される。弁護士ならば、その程度の事を知らないだなんて思えないのだけれど──。

 

「なるほど。やはりその点に関しては、関係者の皆さんと、一度きちんとお話しさせて頂く必要があるようですね」

 

 その男は、まるで聞き分けのない子供でも相手にするかの様に、額に皺を寄せ、ふうと息を吐いた。

 

「…どういう意味ですか」

 

「そちらが一方的に害されたという様な表現は、些か語弊があるのでは、と申し上げているのです。()()に落ち度があったのなら、まずは公平な立場で話し合うべきではありませんか?」

 

「……なん、ですって…?」

 

 己の耳を疑った。

 

 今、双方と言ったのか?

 この男は何を言っているのだ。

 何をどう解釈したら、そんな言葉が出てくるのだ。

 

「ば、馬鹿な事を言わないで! そちらが一方的にした事じゃない!」

 

「息子から話を聞いた限り、状況はあなたの認識とは少々異なるように思います。確かに、刃物を用意したのは間違いなく息子自身でした。しかし、本人は単に威圧目的で見せびらかしたと言っています。それを比企谷さんとのもみ合いで一旦奪われてしまい、身の危険を感じて取り合っているうち、誤って刺さってしまった、と」

 

「嘘を言わないで…」

 

 どうやら彼はこの件に、この衝動的で身勝手な事件に、『過失』だとか『正当防衛』だとか、そういった言い逃れを紛れ込ませようとしている様だった。

 息子か、あるいは自分の立場か。どちらを守るためかは分からないが、彼は間違いなく嘘をついている。目つきを見ただけでも、直感的にそれが分かる。

 

「そんなの、作り話に決まってる!」

 

 だと言うのに、相手の言葉を論理的に否定出来ない。

 何故なら私は──

 

「ふむ。でしたらお聞きしますが、不幸な事故の瞬間、あなたは現場に立ち会わせていましたか?」

 

「っ……!」

 

「そこには居なかった…そうですよね?」

 

 そう、私も由比ヶ浜さんも、比企谷くんが刺された決定的瞬間だけは、見ていないのだ。どれだけ違和感のある主張であっても、それが虚言である事を証明する事が出来ない。

 奥歯をぎりりと噛み締める私に向かって念押しする彼の声は、強い確信に満ちていた。きっと息子から、前もって詳細を聞いて来たのだろう。

 

「…でも、私達は誰よりも早く現場に駆けつけた!」

 

「それは事件の()()に、でしょう? その瞬間を実際に目撃したのは息子と比企谷さん、それから一色さんだけのはずです」

 

「そ、そうよ! こちらには一色さん──証人がいるわ」

 

 例え比企谷くんが話せなくても、同じものを見聞きしていた彼女が、全てを明らかにしてくれる筈だ。しかし、そんな私の反応を予測していたかのように、彼は「ですが」と顎に手を添えた。

 

「聞けばその一色さんは比企谷さんと、とても親しい間柄だとか。ならば、仮に証言をして頂くとしても、彼にとって有利な証言をするであろうことは想像に難くない。となると、客観性を求められる裁判の場において、それが決定的な要素として扱われる可能性は低いでしょう」

 

「そんな……」

 

 この男が語る話は事実なのだろうか。被害者の証言が重視されないなんて事が、あるものなのか。(にわか)には信じられないけれど、法廷の話となると私には判断がつかない。何よりあんな肩書きを見せられた後では、まともな反論が出来る筈もなかった。

 

 それどころか、相手はすっかり怯んでいる私に、ここぞとばかりに追い討ちを掛けてくる。

 

「ところであなたは先程、息子が一方的に凶器を振るったような表現をされましたが、何を根拠にそう考えられたのですか?」

 

「そ、それは……だって…!」

 

 考えてみれば、色々と慌ただしかったせいで、一色さんから詳しい話を聞く機会は無かった。いや、聞くまでもないと思っていた、と言うのが正解だろうか。

 比企谷くんと別れて行動していたとは言え、屋上に到着した時間にそれほど差は無かった筈だ。けれども、厳密に計っていたという訳でもない。この男が言うように、彼らが取っ組み合いをしているような時間的猶予があったのかどうか、はっきりとは分からなかった。

 

「特に根拠がある訳ではないのですね?」

 

「……っ!」

 

(この男と会話を続けてはいけない…!)

 

 このままではこちらの大きな不利に繋がる。私は今更になって、自分が置かれている危機的状況に気が付いた。揺さぶられ、動揺して、あっさり手の内を晒してしまった後でだ。きっと彼は、現場に第三の目が無かったという事実に、強い確信を抱いたことだろう。

 

(しくじった…何て迂闊な…っ)

 

 敵対者が自ら接触してきた事の意味を、もう少し深く考えるべきだったのだ。慌てて口を(つぐ)んだ私を慰めるかの様に、男はわざとらしくゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「この様な事情ですから、そう考えてしまわれるのはとても自然なことです。ただ、そういった先入観を捨て、正しい事実を詳らかにする必要があるのではと、そうご提案しているんですよ」

 

 弁護士バッジをつけた詐欺師が、理解ある大人の振りをして私に語り掛ける。穏やかなその口調の奥には、言い返せない私を嘲笑うかの様なニュアンスが潜んでいる様な気がした。

 

 今すぐ言い返さないといけないのに、武器となる証拠を、私は何一つとして持ち合わせていなかった。

 

「こんな、こんな事……」

 

 許されていいのか。

 許されていい筈がない。

 

 悔しくて、腹が立って、自分の不甲斐なさに、じわりと目頭が熱くなった。

 

 

 

「喧嘩両成敗──それがそちらの主張ですか?」

 

 

 

 せめて涙は溢すまいと唇を噛み締めていると、今にも倒れそうな私の背中を支えてくれる、懐かしい声がした。

 

 振り返ると、見慣れた女性が一人。

 彼女は殊更ゆっくりとした歩調でこちらに近付いて来る。

 

「姉さん…」

 

 その顔に貼り付けられた、いつもより少し露骨な作り笑い。感情を殺しきった平坦な声は、頼もしさというよりも、恐ろしさをこそ、強く感じさせるものだ。

 不意に思い起こされた記憶の傷痕に、私は思わず身震いがした。かつてこの能面の様な表情をしてみせた姉に、一体どれだけ泣かされた事か。

 

「ええと…?失礼ですが、関係者の方ですか?」

 

 彼の誰何を聞いた姉さんは、ふっと僅かな失笑を漏らした後、「ええ、そんなところです」と適当にお茶を濁した。

 

「これはこれは…比企谷さんのご友人には素敵な女性が多くていらっしゃる。羨ましい限りです」

 

「それはどうも。お話の続きをしても?」

 

 下らない世辞を冷笑でいなすと、姉さんは私の半歩前に立って柔らかく両腕を組む。そんな反応に少し鼻白んだ様子の男は、とても加害者側とは思えない──実際そうではないと主張しているのだが──そんな態度で両手を広げた。

 

「責任の大小で言えば、そもそも刃物を用意していた息子の責が大きいでしょう。例えそれが()()とは言え、です。しかし大枠で見た場合、両者に非のある案件という認識でおります。ですが、本日はその手の抗議や、勝ち負け目的の争論をしに伺ったのではありません」

 

「と、仰いますと?」

 

 続きを促す姉さんの言葉に、ほんの一瞬、彼の口の端がにやりと吊り上がる。さっきから感じていた嫌な予感が、毛虫の様に背筋を這い回った。

 

「こちらには示談の用意がある、とご家族にお伝えに参ったのですよ。先程はあの様に申し上げましたが、事は裁判沙汰です。傷害事件で争った経歴なんてものは、お互いに何の得もないでしょう? 未来ある若者の将来となれば、尚の事だ」

 

「…成る程、そういうお話ですか」

 

 どうやら、これが彼の本当の目的だったらしい。

 

 死なばもろとも、もしくは破れかぶれ。

 今さら失うものが無い側だからこそ取れる、捨て身の戦法だった。あちらは放っておいても破滅一直線。ならばこちらの足を全力で引っ張り、あわよくばそのまま地獄から這い上がろうという魂胆か。

 

 冗談ではない。そんな悪足掻きに付き合わなければならない義理なんてあるものか。

 

「争う余地なんてどこにも無いじゃない! これは一方的な傷害なのよ?」

 

「ですから、重ねて申し上げますが、それはそちらの主張です。こちらの主張はそうではありません。そして、そこに裁定を下すのは、裁判長のお仕事なんですよ」

 

「警察がきちんと調べれば、貴方の言う事が出鱈目だって事はすぐに分かるわ!」

 

「そうかも知れませんし、そうでないかも知れません。私は息子を信じていますが、あれが保身のために嘘をついていないとも限りませんからね。ただ、事実がどうあれ、裁定を公的に求めた時点で、誰もが間違いなく損をする。むしろ、より大きな損をするのはそちらだと思うからこそ、このような提案をしているのです」

 

「よ、よくも、いけしゃあしゃあと…!」

 

 馬鹿げてる。

 なのに、反論できない。

 弁護士とは、裁かれるべき罪を無かったことにする職業ではなかった筈なのに。

 

 すっかりやり込められている私を、姉さんは後ろ手で押し留めた。相変わらず薄い笑みを絶やさず、額に手を当ててわざとらしく呆れた声を出してみせる。

 

「ご子息の為を思うお父上の軽挙──今ならまだ、そういう事にして差し上げます。先ほどの発言を撤回し、そのまま回れ右をして頂ければ、ですが」 

 

 姉さんのやり口の真価というのは、味方にしてみると、成る程よく分かる。絶対的な窮地に陥っているのはこちらの筈なのに、まるで相手を追い詰めている様に錯覚させるのだ。

 彼女は勝利を確信するに足る、何かを隠し持っている──そんな悠然さは、終始余裕の表情を崩さなかったこの弁護士からさえ、怪訝そうな顔色を引き出した。

 

「ご両親以外に説明する義務はないのですが…まあいいでしょう。どうもそちらの皆さんにはご理解頂けていないようですし」

 

 一度顎を撫でつけてから、彼は仕切り直すようにして言葉を紡いだ。

 

「いいですか? 現場には息子と比企谷さん、そして一色さん。屋上という閉じた空間に全部で三人しか居ないかった。その事実だけは覆りません。当事者同士が異なる主張をしている中で、第三者が言及する余地は無いという、そういう状況なんですよ」

 

 だから私達がいくら騒いだところで、法廷まではお互いに平行線にしかならない。そんな彼の主張をつまらなさそうに聞いていた姉さんは、ふと思い出したかの様に口を開いた。

 

「あ、そうそう、比企谷くんと言えば…。実は彼、事件の真っ最中に、とある教師に対して電話を掛けているんです。現場の状況を密告し、息子さんの罪を証明するために。ご存知でした?」

 

「それは…初耳ですね…」

 

 そうだ、それがあった──!

 どうして思い出せなかったのだろう。平塚先生が教えてくれたではないか。生中継されていた、と。

 

「ですが、例えそうであったとしても、その電話を受けた人物の証言も同じ事です。結局は直接目撃していない訳ですからね。それならばまだ、現場に居合わせた一色さんの発言の方が信憑性がありますよ」

 

「彼女に証言なんてさせるつもりはありません。息子さんが全てを自白している記録。これ以上、何か必要なものがありますか?」

 

「ハッタリがお上手ですね。残念ですが、電話会社が保管しているのは通話があったという履歴だけですよ。仮に照会したところで、内容なんてどこにも残ってはいない」

 

 この男には揺さぶりというものが通じないのだろうか。私には天啓の如き名案だと思えたのに、それすらも一瞬でひっくり返されてしまった。

 けれど、姉さんはそれでもなお、泰然自若とした姿勢を崩そうとはしない。

 

「まさか。しませんよ、そんな面倒な事。だって録音していたのは彼の携帯電話ですから」

 

「自分で録っていた、と? …確かに携帯電話にはそういった機能がありますね。しかし普通、電話する度にその内容をいちいち録音するような人間は居ません。まさか今回に限ってたまたま録っていただなんて、都合のいい主張をなさるおつもりですか?」

 

 本当に?

 比企谷くんは、そこまでやっていたの?

 もしもそうなら、きっと勝てる。

 けれど、私だって把握していないのに、姉さんがそこまで知っているとは…。

 

「ええ、勿論そのつもりです」

 

 そんな私の迷いを笑い飛ばすかの様に、姉さんは真正面から相手の言葉を打ち返した。もしかしたら、決定的な何かを平塚先生から聞いているのかも知れない。そう思わずには居られないくらい、その態度は自信に満ち溢れていた。

 

「そもそも、非常事態の状況を教師に密告するような電話が、あなたの仰る"普通"に該当すると思いますか? 私はむしろ、通話はあくまで手段であって、彼の目的は現場音声の録音にあったと考えています。どこかのご子息のお陰で、本人に確認は取れていませんが」

 

 そう言って、姉さんは相手の男に鋭い眼光を放った。相手の弱味を突く事で、間接的に否定をさせにくくしているのだろう。いやそれ以外にも、個人的な怒りから来る当て(こす)りというのもありそうだ。

 

「………」

 

「………」

 

 二人は言葉を途切らせたまま睨み合っている。互いの腹を探り合っているのだろう。

 

 姉さんの主張には、かなり高い確率でブラフが混じっていると思う。けれど私は彼女の手札を知らなくて、そしてこの時ばかりはそれが幸いだった。もしもこれがハッタリであるという確信を持っていたら、自然と漏れ出た態度から、あの男に悟られかねないからだ。

 

「…そもそも、本当にそんな電話があったのですか? 息子から聞いた限り、とてもその様な余裕があったとは思えませんが」

 

(あっ……)

 

 その瞬間、場の空気が変わったのが、私にも感じられた。

 ほんの少し、けれど確かに、ここまでずっと強気一辺倒で居続けた相手が、初めて引いてみせた瞬間だった。

 

(ここが勝負の(きわ)──)

 

 私の予想に違わず、姉さんは畳み掛けるように返す。

 

「それこそ通話履歴が残っているはずです。何でしたら調べて頂いても結構ですよ、西山弁護士?」

 

「…良かったらその通話内容、お聞かせ願えませんか?」

 

(くっ…しつこい…!)

 

 これは恐らく、あの男の最後の抵抗だろう。

 もしも本当にそんな録音が存在するのなら、突き付けてやれば、下らない言い掛かりにこれ以上付き合う必要も無くなる。それどころか、偽証を新たな罪として告発出来るかもしれない。

 相手の要求に応じる義務なんてこちらには無いけれど、姉さんがここで要求を受け入れなければ、録音自体が存在しない、あるいは決定的な内容ではないという事を認める形になってしまう。

 

(あの携帯電話は、小町さんに預けられていた筈…)

 

 姉さんだって神様じゃない。こんな事態を見越して予め受け取っている訳がないし、何よりもまず、録音データが実在するのかが相当に怪しい。

 しかし、この場で決着がつかなかった場合、それは引き分けではなくこちらの敗けだ。悔しいけれど、裁判が論争になってしまった時点で、こちらも無傷では済まなくなる。

 

 勝ったと思ったら、いつの間にか逆転されている──。

 これが本当の駆け引きというものなのだろうか。

 

「…うーん、それは難しいと思いますよ」

 

 眉根を寄せ、姉さんは困った様な声を上げた。

 やっぱり彼女は今、比企谷くんの携帯電話を持っていないのだ。その答えを聞いて、男ははっきりと口の端を吊り上げた。

 

「何故ですか? 本当に録ってあったのなら、少し聞かせて頂いても不都合はないでしょう? あなたからご両親にお願いしてもらえませんか」

 

「それが、警察に証拠品として預けてしまったらしくて」

 

 あっけらかんと答えた姉さんの一言。

 苦し紛れの様にも聞こえたそれは、しかしこの場における唯一無二の正解だった。

 もしもこれが事実であったなら、私達の立場ではそれを取り返すことは不可能だし、同じ理由で彼がデータの実在や内容を確認する事だって出来はしない。

 

 

「────分かりました」

 

 

 彼は長い沈黙のあと、(ようや)くその言葉を口にした。

 

「…申し訳ありませんが、示談の件は無かったことにさせて下さい。こちらも弁護の準備をし直す必要がありそうです」

 

(勝った…の……?)

 

 やはり、本来であれば論じるまでもない事だったのだろう。負けて当然、あわよくばという考えでの接触。だからだろうか、彼は至極あっさりとこちらに背を向けた。

 

「それでは、失礼します」

 

 さっきまでの饒舌が嘘の様に、足早にその場から立ち去っていく。狐につままれたみたいな心持ちでしばし呆然としていたけれど、例の嫌らしい笑顔でこちらを覗き込んでくる姉さんの視線に気が付いて、彼女に向き直った。

 

「…さっきは助かったわ。私だけではどうにもならなかったと思う」

 

「いいのよー、汚い大人同士のケンカだもの。それより雪乃ちゃんが素直!お姉ちゃん嬉しい!」

 

「そういうのはいいから…。それよりさっきの話だけど、あの携帯電話──本当に録音なんてされていたの?」

 

「ん? さあねー。静ちゃんに中継してたって聞いたから、比企谷くんならそういう事もあるかなーって、そんだけ」

 

 そう言って、姉さんは片目をぱちりと瞑って見せた。

 

「やっぱり…」

 

 我が身内ながら、とんでもない大法螺吹きである。きっと姉さんの心臓には、鋼鉄の剛毛が束になって生えているに違いない。

 

「それにしても向こうの言い分…あれって脅迫にあたるんじゃないの? 逆に訴える事も出来そうなものだけど」

 

「そうねー、言い方がもっと高圧的だったなら、まあ出来なくもないってトコかしら。でも、訴訟前に示談の交渉をするのは弁護士の常套手段だし、あの程度だと難しいかな」

 

「…ちなみに、あれで相手が引かなかったら、どうするつもりだったの?」

 

「その時は面倒だけど正面戦争ね。どうせこっちの勝ちは決まってるし。万が一、裁判沙汰になったことで比企谷くんに実害が出るんなら──そうね、その時は囲ってあげるのも手じゃない? 確か彼、専業主夫志望だったわよね」

 

「姉さんなら本当にやりそうだから怖いわ…」

 

 クスクスと笑う姉を尻目に、色々な意味で、そうならずに済んだ事に安堵した。

 向こうも、女が相手なら簡単に黙らせられると思って仕掛けてきたのだろう。実際、姉さんでなかったら、相当危なかった。

 

「少し釈然としないけれど、取り敢えずこちらの不利は避けられたんだし…。さっきのは犬に噛まれたと思って忘れる事にするわ」

 

「えー? 雪乃ちゃん、あいつ許すんだー? やっさし~い♪」

 

 彼女はそう言って、上着の内ポケットからスマートフォンを取り出した。画面では何らかのアプリが起動していて、カウントアップされていく数字、そして録音中を示唆する赤丸が表示されている。

 

「それ、もしかして録っていたの? さっきの会話」

 

「少年Hくんの手口を真似してみましたー。てへり☆」

 

 ぺろりと出した舌を引っ込めると、そこには獲物をいたぶる残虐な捕食者の顔があった。

 

「本当のギャンブルっていうのはね、例え途中で勝負を降りたとしても、賭けたチップは返って来ないものなのよ」

 

 彼は、自分が喧嘩を売った相手の事を、もう少し知っておくべきだったと思う。雪ノ下のお膝元であれだけやらかしておいて、この(ひと)が見過ごす訳もないのだ。

 勿論、同情の余地なんて微塵も無い。今回ばかりは、彼女が報復するだけの力を持ち合わせている事に感謝し、私はこっそりと溜飲を下げたのだった。

 

 

 ひとしきり含み笑いをした後、姉さんはころりと表情を切り換えて言った。

 

「それより、病室。援軍が要るんじゃないの?」

 

「そうだったわ…!急がないと」

 

 結局、何ひとつ得るものが無いやりとりで、たっぷりと足止めを食らってしまった。由比ヶ浜さんは既に向こうへ着いているだろうか。何事もなければいいのだけれど…。

 

 私はすぐさま、彼の病室へと足を向けた。

 

 

* * *

 

 

 さっき手に入れた録音(おもちゃ)を弄びながら「野暮用が出来たから」と怪しく笑う姉さんと別れ、私はエレベーターを使って比企谷くんの病室があるフロアへと移動していた。

 

「何だか、胸騒ぎがする…」

 

 例の男子が、またナイフを隠し持っているのではないかとか、そういう心配をしているわけじゃない。いや、その手の懸念もゼロという訳ではないのだけれど、いま心をざわつかせるのは別の事案だった。

 

 

 エレベーターを降りるとすぐ、目の前には簡素なカフェの様な空間があった。入院患者や見舞い客向けに設置された、談話スペースだ。その一角に、テーブルを前にして頭を捻っている女の子が一人。やはり先を越されてしまっていたらしい。

 

「由比ヶ浜さん」

 

「あれ、ゆきのん? 遅かったねー、もしかして迷ってた?」

 

「いえ、ちょっと…。それより、病室にはもう顔を出したの?」

 

「ううん、これからー。今ね、お見舞い向けのをチョイスしてるとこ」

 

 テーブルに盛られているのは、無計画に買い漁ったであろうお菓子の山。花もフルーツも、それらしきものはどこにも見当たらなかったけれど、お小言は後回しだ。

 

「一緒に来て」

 

「え、なに? どしたの?」

 

 手を引かれ、目を白黒させる彼女に、なるべく簡潔に状況を伝える。

 

「向こうの父親に会ったわ。例の男子が病室に来ているみたいなの」

 

「はああぁっ!? アイツ、牢屋の中じゃないの!?」

 

「世間的に、まだ犯人って扱いではないみたいよ」

 

「意味わかんない! ケーサツ仕事しろし!」

 

 彼女の頭の中では既に実刑が下されていたらしい。本当に、もしもそれだけ仕事が早かったら、こんな心臓に悪い状況にもならずに済んだろうに。

 

「まさかヒッキーに…? それともいろはちゃん…?」

 

「…とにかく急ぎましょう」

 

 何にせよ、今は一刻も早く、彼らの元へ駆けつける以外に選択肢はない。

 間に合わないだなんて事は、もうこりごりだ。

 

 今にも駆け出しそうになる脚をすんでのところで抑えながら、私達は足早に病室へと向かったのだった。

 

 

 




あっ…いろはす出てこなかった…。

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