そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

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■31話 美少女と血痕

 

 

「マ、マスコミ…っ!?」

 

 名刺の文面を聞いた一色さんは、まるで虫にでもたかられたかの様に、嫌悪も(あらわ)な声を上げた。きっと私の顔も似たような事になっていると思う。これから彼の取るであろう行動を考えれば、至極当然の反応だろう。

 

 そんな嫌悪に満ちた声色から早々に手応えの悪さを察したのか、男性はこちらに向けていた顔を一度ぐるりと巡らせる。おそらく聞き込みに慣れているのだろう。警戒している者とそうでない者の判断が実に早い。

 次に男性が目を止めたのは、如何にも状況を飲み込めていないといった顔で呆けている由比ヶ浜さんだった。

 

「えっと…ちばスポって…新聞のアレ?」

 

「そうそう、新聞のアレね! 最近はスマホ向けにも配信してるよー。で、みんな事件の関係者なのかな?お友達の容態はどんな感じ?」

 

 まさか、もうこんなところまで嗅ぎ付けたというのか。学校の方ならいざ知らず──いくらなんでも早過ぎるのでは。その手の事情に明るい訳ではないけれど、この迅速さの裏側には何か、第三者的な要素が絡んでいる様な気がする。

 

「お話出来るような事はありません」

 

 会話という名の尋問が始まる前に、二人の間へと割って入り、きっぱり拒絶の意を示す。由比ヶ浜さんには申し訳ないけれど、彼女はマスコミとの相性がとても良さそうだ。勿論、悪い意味で。

 

「いやいやいや! それ、その血ね。お友達のでしょ? 現場に居なきゃそんなにならないんだから。話すこと無いって(こた)ぁないでしょ。事件のこと聞かせてちょうだいよ」

 

 彼が指差す私のスカートには、流血の痕跡が今も惨たらしく残っていた。この状態で無関係を主張するのは確かに無理があるだろう。けれど、まともに頭が働かないこの状況で彼の相手をしていては、下手な言質を取られかねない。そうなれば後々、何かしらの形でこちらの不利益に繋がる可能性が高かった。

 

「お引き取り下さい。今、それどころではないんです」

 

 自分の声に苛立ちが混じるのが分かる。大抵の相手なら怯むはずの視線を思いきりぶつけているのに、その男性は食らいついたまま離れようとしなかった。海千山千の記者にとっては、私の眼力など小娘の虚勢に過ぎないのだろう。

 

「そう、そうだよねー! でもそこを何とか! ほら、こっちもお仕事だからさ、助けると思って! ちょっとだけ、ねっ?」

 

「──ストーップ。日野さーん、がっつき過ぎ」

 

 警察の名前でも出してやろうかと携帯電話に手を伸ばしたあたりで、男性の向こうから、酷く聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「若い子相手だからって興奮してるんですか? これだからオジサンって生き物は…通報しちゃおうかしら」

 

「勘弁してよハルちゃーん。俺まだ47よー?」

 

「うーむ、もはやオジサンですら生温い。次からはジイサンと呼んで差し上げましょう」

 

 ネイビーのロングコートの襟を弄びながら、食堂の入り口に若い女性が身体をもたれている。謎の男性に軽口を叩く、ハルちゃんと呼ばれたその人物。

 

 私の姉──雪ノ下陽乃がそこに居た。

 

「ね、姉さん…!」

 

「はーいお姉ちゃんですよー。ひゃっはろー、後輩諸君」

 

 手をひらひらとさせながら、彼女はその場の緊張感を台無しにするような、何とも気怠い様子でこちらに歩み寄る。

 

「みんな、ちばスポ知ってるよね? このしがないオジサン、見た目こんなだけど、一応ベテラン記者だから。あんまり邪険にしないであげてね」

 

「しがないってねー。そういうの、自虐以外では勘弁してほしいなー、なんて。たははー」

 

 ガリガリと頭を掻く男性は彼女のコネのひとつと、どうやらそういう事らしい。

 感じていた違和感の種は明かされたものの、今度はその理由が思い当たらない。苛立っていた私は、手っ取り早く尋ねてしまう事にした。

 

「どうして姉さんが記者と一緒になってここに居るの?」

 

「そりゃあ、ブン屋は現場に涌くって相場が決まってるでしょう?」

 

「涌くってそんな虫みたいに言わないで欲しいなー…。実はタレコミがあったんだよね、アッツアツのやつがさー」

 

「タレコミ…そんなこと、一体誰が…」

 

総武高(ウチ)の生徒の誰かかな? みんな見てたし」

 

 あの時、現場にはスマートフォンを携えた無責任な野次馬が大勢集まっていた。その中の誰かであるのなら、追求するだけ時間の無駄というものだろう。けれど、ひょっとすると──。

 

「ちなみにタレこんだのは私、はるさん特派員でーす!」

 

「ええぇっ!? なっ、陽乃さんが…?」

 

 やっぱり…。

 由比ヶ浜さんは仰天している様だけれど、姉さんのコネだと聞いた時点で、そうなんじゃないかとは思っていた。けれども重要なのはそこじゃない。

 

「んー? 雪乃ちゃんはあんま驚いてないみたいだね?」

 

「伊達に何年も妹をやっている訳ではないのよ。それより、どこから聞きつけたの? こんな根回しをしているくらいだし、今さっき知ったばかりとは言わせないわよ」

 

 実際に事件が起きてから、まだそれほど時間は経っていない。つまり、かなり早い段階で情報を得ていた筈なのだ。

 問い詰めてやると、彼女は軽く首を傾げて目を眇めた。値踏みしているような、薄笑っているような。色気があると言えば聞こえは良いが、私はそれを厭らしい表情だと感じた。

 

「ふぅん…少しはモノを考えられるようになってきてるのかしら。でもまだまだ合格とは言えないかなー。もっと頑張りましょう!」

 

「姉さん、茶化さないで!」

 

「──私が頼んだんだ」

 

 後ろから肩を叩かれて振り向くと、そこには電話に行ったきりになっていた筈の、平塚先生の姿があった。

 

「せ、先生が?」

 

「ああ。昔の教え子に頼るというのは、私の矜持と照らし合わせてもかなり苦しいところだし、悩んだんだがな…」

 

 言葉以上に苦々しい表情で、彼女はその長い黒髪を乱雑にかき上げる。

 

「しかし、現実的に使えるコネの中で、文句なく最強のカードには違いない。何より、今は私如きのプライドよりも遥かに優先されるべき事態だと判断した」

 

「そんなに嫌そうな顔されると、燃えてきちゃうよねー! 意地でも期待には応えてあげないと。ふふっ」

 

 悪女の様に目を細める姉さんを前に、先生はやはり苦笑いも出来ず、複雑そうに眉を歪めている。学校からの電話にしては少し様子が変だと思っていたけれど、まさか彼女に連絡を取っていたとは…。

 

「平塚先生、それはどういう…」

 

「あ、あの…陽乃さん、先生も。どうしてわざわざマスコミに…? こうゆうのって、なるべく騒ぎにしない方がいいんじゃないんですか?」

 

「問題はまさにそこなんだよ、由比ヶ浜。今回ばかりは──」

 

「甘いっ、甘いよーガハマちゃん。このまま放っておいたら『モテない男子の逆恨み』みたいな冴えないテロップと一緒に、私達の母校がお茶の間に晒されちゃうでしょ?」

 

 それが何だと言うのか。またお得意の冗談かと思ったけれど、話を遮られた形の平塚先生も、姉さんを咎める様子がない。ニュースのテロップがそれ程重要な事なのだろうか。

 

「えっと…それは…そう、なるかもですけど…」

 

「そういうの、あんまり好みじゃないのよねー。どうせなら、もっと面白く報道してもらいたいじゃない?」

 

「お、面白く…?」

 

 それまでずっと萎れていた一色さんが、目の色を変えてテーブルを叩いた。水だけが注がれたグラスが、その心情を代弁するかの様に激しく波打つ。

 

「面白いことなんか何もないです! 先輩大ケガしてて、こんなに大変なことになってるのに! それ、あんまりじゃないですか!」

 

 彼女はこの中で一番年若く、姉さんと深い交友がある訳でもない。私の記憶違いでなければ、むしろ隙在らばすり寄っていくスタンスだった筈だ。そんな彼女が、親の仇でも見つけたかの様な目で姉さんを睨んでいた。

 雪ノ下陽乃という人物は、元から空気を読まない…意図的に読み飛ばすような性格ではあったけれど、それにしたってさっきのは非常識にも程がある。自然、私の咎めも驚くほど冷たい声となった。

 

「…姉さん、不謹慎にしても限度を超えているんじゃないの? 今は冗談を言っている場合じゃないでしょう」

 

 憤慨する私達を横目で流し見ながら、しかし姉さんは余裕の笑みを崩すことなく、人差し指をゆっくりと左右に振ってみせた。

 

「ノーンノン。言っている場合なんだなぁ、これが」

 

「陽乃。いい加減にしろ」

 

「はいはい、分かってます。少しくらい勘弁してよね、私だってイラついてるんだから…」

 

 ぼそぼそと溢しつつ、彼女は窓際に歩み寄った。縁に腰掛けて、外の様子を窺いながら淡々と語る。

 

「いい? ここはDTT(デトロイト)じゃないの。千葉の片隅でこーんな目立つ事して、大騒ぎにならないなんてこと、ある訳がないでしょう。余所のマスコミだって嗅ぎつけて、すぐにわんさか押し寄せるんだから。さっきのは、その予行演習みたいなものね」

 

 ちらりと送られた姉さんの視線に、記者の男性が無精髭の生えた顎を撫でる。どうやら先程のやりとりは、彼女の差し金という事らしい。本命の記者団が殺到すれば、あれの比ではないのだと言いたいのだろうか。

 

「マスコミが来たら面倒になるって言いたいのは分かったわ。でも、何もあんな、けしかける様な真似をさせなくても…」

 

「それなんだけどねー。さっきの、丸っきりヤラセって訳でもないのよ」

 

「どういう意味ですか?…もしかして、さっきのニュースの話と関係が…」

 

「おっ、鋭いねーキミ」

 

 窓枠に腰掛けていた彼女は、一色さんの問い掛けにパチンと指を鳴らした。

 

「情報の隠蔽ってのは言うほど簡単じゃないわ。けど、()()なら別。幸いな事に、まだ先走った報道は流れていないみたいだしね」

 

「制御って──姉さん、何をしようとしているの?」

 

「私がっていうのは少し違うかなぁ。力は貸してあげるけど、この舞台の主役は貴女だよ、いろはちゃん」

 

「わたし、ですか…?」

 

 話を振られた一色さんは、ぴくりと身体を震わせキョロキョロと周囲の様子を窺った。どうして自分が、と思っているのだろう。私にも皆目見当がつかない。

 

「わたしに、何が…」

 

 不安そうな一色さんを前に、姉さんは胸元で腕を組み、にやりと口の端を歪める。その顔に浮かぶのは、誰かの後ろ姿を彷彿とさせる、憎たらしい含み笑いだった。

 

 

「乗っ取るのよ。この事件をね」

 

 

 

《---Side Hachiman---》

 

 

「事件を、乗っ取る…?」

 

 鸚鵡(おうむ)返しに言葉をなぞった雪ノ下に対して、陽乃さんは弟子に教えを説く哲学者のように、悠々とその自説を披露した。

 

「『県内有数の進学校で、生徒による刃傷事件。被害者は重傷』──これで終わったらぜーんぜん面白くない。学校の評判は下がるわ、静ちゃんの婚期はますます遠ざかるわ、良いコトなぁんにもなし」

 

「…笑えない冗談はよせ」

 

 平塚先生の声がすげえ低くてほんとに笑えない。

 学校の評判の方はともかく、婚期については確かに致命的だよな。このままでは色んな意味で俺が責任を取らなければならなくなってしまう。

 

「だからこう続けるわ。『しかし、女生徒の懸命な救命活動によって、被害者は一命を取り留めた。事前教育の賜物か』」

 

 はーん、乗っ取るってそういう意味ね…。

 

 凹んでいる年下女子をいびって楽しんでいるのかとか本気でドン引きしかけたが、今の一言でようやく真意がハッキリした。雪ノ下達の視線からも既に敵意は消え失せ、しかし代わりに色濃い困惑が浮かんでいる。

 

「本当に出来るの? そんな事が…」

 

「私がって、そういう意味ですか? ぜ、絶対無理ですよ…!」

 

「えっ、えっ? どゆこと? 分かんなかったのあたしだけ?」

 

うん、たぶんお前だけ。

テンポ悪くなるからちょっと黙ってような?

 

「今のどうゆう意味? それ、言い方がちょっと違うだけじゃないの?」

 

「いろはちゃん、この前、警察の講習を受けてたんでしょう?そこを最大限に押し出していくわ。横に今の写真でも載せれば、絵面のインパクトもバッチリだし」

 

「ちょっ、陽乃さん、スルーしないで下さいー!」

 

「由比ヶ浜さん、後で説明するから…」

 

 約一名、違う意味で困惑してるわんわんを華麗に放置しつつ、陽乃さんは自分の指で作った四角いフレームに一色を収め、一人満足そうに頷いている。

 それにしても…マジに一色を矢面に立たせる気なのか。この最低最悪のタイミングで? アンタどんだけ鬼畜なんだよ。

 

 実のところ、彼女の言わんとしていることも分からないではない。騒動の渦中から一歩引いているからこそ見えることなのだが、美少女と血痕というギャップが生み出すのは、どうやら悲壮感だけではないようなのだ。

 美と醜というか、プリティー&バイオレンスというか…。とにかく、捉え方次第では良い意味でのインパクトともなり得る何かを、今の彼女は身に纏っている。あ、そうそう、例えば『セーラー服と機関銃』とかね、ちょうどあんな感じな。

 もしもニュースや新聞に写真が載せられたりすれば、彼女のルックスと相まって、それこそドラマの広告並みに目立つんじゃないだろうか。陽乃さんが言いたいのは、つまりそういう事なのだろう。

 

 そこまでして、この案件のイニシアチブを奪い取る目的と言えば──。

 

「いい? 同じ報道をするなら、少しでも数字が取れそうな伝え方をするのがマスコミという生き物なの。そんな彼らをコントロールすることは、そのまま世論を操作することに他ならない。彼らを釣ることさえ出来れば、後は放って置いても上手く転がってくわ」

 

 やっぱそう来たか。

 

 つまるところ、恣意的報道によって事件の印象操作をしようという腹積もりなのだろう。"学生が起こした傷害事件"を"学生が起こした奇跡"で塗り替えてしまえ、と。

 理屈そのものは全面的に同意できる。世論ってのは民主主義の象徴みたいに崇められてるけど、実際のとこは思いっきりメディアに依存してるもんな。しかし、言うほど簡単にいくものだろうか。

 それとこのやり口…なんかつい最近、どっかで聞いたような気がするんだけど、気のせいですかね…?

 

「一応、話は理解したけれど…。それで、その大事な大事な第一印象の中に、どうして警察への胡麻擂(ごます)りが?」

 

「そこはほら、腐っても公権力(おかみ)だから。うまく彼等の利に寄り添っていれば、見えないところでお尻を押してくれるくらいの事は期待出来るかなーって」

 

 どうやら魔王様は官民の癒着まで利用し尽くすおつもりのようだ。一体全体、腐っているのはどちらなのか。

 

 警察にしてみれば、管轄内で事件が起きるのを防げなかったと叩かれるのは望ましい事ではないだろう。講習のお陰で人命が救われたと言われれば、それなりに面目も守られる。その為なら、一色に感謝状のひとつも寄越しかねない。考えるほど、実にありそうな話である。

 

 それにしても姉ノ下さん…相変わらずと言うか、腹ん中マジで真っ黒だな。まだ大学生とか誰が信じるよ。裏で時とかかけまくってるだろこの人。

 

「はぁ…凄いこと考えるんですね…」

 

 陽乃さんの提案を聞いて、一色は思い悩むように俯いていた。

 

 戸惑うのも無理はない。そんな事をすれば、校内での立ち位置どころの話ではなくなる。世間的にも広く顔が知れてしまうのだ。いくらプラスの方向にアピールする方針とは言え、猛烈に悪目立ちすることは避けられない。

 それは俺達が忌避していた状況の極め付けとも言える展開だった。ここまでの流れを読めないお人でもあるまいに、何故こうもエキセントリックなやり方を推すのだろうか。

 

 小さくなっていた由比ヶ浜が、おっかなびっくりという感じでちょこんと手を挙げ、口を差し挟んだ。

 

「あの、言ってること、ちょっと分かります。あたし達もついこの間、ヒッキーが立てた作戦で…。それ、今の陽乃さんのと、すごく似てて。その時も、何だかんだでうまくいったし」

 

「へえ、そうなんだ? 流石は比企谷くん。だったら話は早いね」

 

「でもそれ、内輪のハナシですよ? そんな、ニュースとか、世間とか…。それにうまくいかなかったら、いろはちゃんの立場とかも…」

 

「大丈夫、世の中ってのはその内輪を卒業した大人達が形作るものだから。あなた達が思ってるよりずっと、子供っぽかったり単純だったりするものよ」

 

 俺達にはいまいちピンと来ない感覚だが、親父達の世代にも等しく学生時代というものはあったわけで…。かつて学生であった彼女が世の中を見聞きしてきた上でそう言っているのだから、ここは信じて従うべきなのだろうか。

 

「って言うか、大丈夫じゃなくてもやるけどね。やらなきゃ最悪になるだけだし。だったらチャレンジしない理由はないでしょ?」

 

「ええと…そう、なんですかね…?」

 

 おいおい、一気に不安要素が増したな。しかもこれまたどっかで聞いたような屁理屈を持ち出すし。盗撮騒ぎの時はリスクを負うのが俺一人だったからまだ良かったのだ。今回は学校ぐるみの一蓮托生になってしまう。どう考えても、一色独りが負うには荷が勝ち過ぎている。

 

「乱暴な意見ではあるけれど、否定は難しいわね」

 

 くそう、この姉妹…揃いも揃って目先の評判とか気にしなさ過ぎなんだよ。雪ノ下家の家訓ではそうなってるかもしれませんけどね、一般人(パンピー)はあなた方のように鋼の人間強度は持ち合わせてませんのことよ?

 

「姉さんの意図は分かったけれど、それって要するに、一色さんに張りぼてのヒロインになれって事じゃない。晒し者にされる彼女の気持ちは考えているの? まして写真を公開するだなんて事、以ての外でしょう」

 

 ほほう、雪ノ下が他人の心境を(おもんぱか)って怒るというのもなかなか珍しい光景だな。噂の火消しに望まぬ水着写真まで晒した後だけに、台詞にもなかなか説得力があるというか。

 しかしそんな妹の主張を前に、それがどうしたと言わんばかりの姉は、顔色を一切変えなかった。

 

「犯人くんだけは法律にきっちり守られてて、顔出し厳禁…この国の法制度って、どうしてこんなにアタマ悪いのかしら。ま、だからこそ、そこに付け入る隙があるんだけどね。こちらのモデルちゃんはルックス抜群だし、これは楽勝かなー」

 

 陽乃さんのプランは、あくまでも一色の顔出しが大前提らしい。まあ出来る出来ないで言えば、確かに出来るのだろう。何せそのふざけた法制度、『批判』には口煩い癖に『称賛』する分には実質無制限という謎ルールがあるからな。

 

 それにさぁ、と彼女は続けて言った。

 

「その"気持ち"ってのを優先し続けた結果がこれなんでしょ。ああ、それ自体は人道的だと思うし、責めるつもりは無いの。でもね──」

 

 それまで全ての反論を飄々と受け流していた彼女は、ここで初めてすっと目を細めた。

 

「この期に及んで個人の感情を優先する余裕があるとは、お姉さん、ちょーっと思えないなあ。降り掛かった火の粉はまだ消えてない。いつまでもうじうじ泣いてると、みんな仲良く焼け死んじゃうわよ?」

 

「それは…っ」

 

 ねめつける蛇のような視線に、その場の誰もが反論出来なかった。

 

 でもこれ、言い方はキツイけど、実際その通りなんだよな。このままでは小火(ぼや)が大火になりかねない。油を注いだ張本人が偉そうに言えた事ではないんだが、俺としてもこれ以上の被害拡大は許容しかねるところだ。

 

「でもわたし、そんな、役に立つどころか、怪我をさせた原因のほうですし…。そういう、褒められるみたいな役回りなら、雪ノ下先輩の方がいいと思います」

 

 一色は申し訳なさそうに顔を伏せ、小さな声でそう言った。

 陽乃さんの話には一理も二理もあるのだが、今の彼女は自責の念で半ば潰れかかっている状態だ。いや、仮に万全の状態だったとしても、まず出来ることではない。色んな意味で、これは実現不可能な話なのだと思う。

 

「変に持ち上げられると、かえって心苦しいかな?」

 

「わたしはもっと責められるべきなんです…。そうじゃないと、先輩にも皆さんにも申し訳なくて──」

 

 

「甘えたこと言ってんじゃないの」

 

 

 幾ばくかの怒りを含んだ、冷たい叱責。

 

 さして大きくもなかったはずのその声は、人気のない食堂によく響いた。

 

「後悔や自責なら後で好きなだけしたらいいわ。今はそんな自己満足に浸ってる暇は無いのよ。もしも責任を感じているのなら、解決の為に努めなさい。あなたになら出来る、あなたにしか出来ない事があるんだから」

 

 陽乃さんは両手を広げ、この場に集った女子達全員に語り掛けた。

 

「忘れないで。彼が帰ってくるのは()()なのよ。頑張って頑張って、誰かの為に頑張った挙げ句に酷い目に遭って──それでも帰ってきた場所が、もしも滅茶苦茶になっていたとしたら、その人は一体どう思うかしら」

 

「…先輩の、帰ってくる場所…」

 

「…そうだ…そうだよ……なんとかしなきゃだよね…」

 

 んー、そりゃま、確かにな。

 何の因果か、こうして状況を見聞きしてしまえた以上、あの渦中で復活するのも中々に気が重いと考えてはいた。リスポーン地点があんまり危険な状態だと、復活した直後にまた死んじゃうかもしれないし。

 しかし、下手をすれば…いや、どうあっても、これだと一色は全国の晒し者だ。戻ってくるかも分からないぼっちの為に、そこまでのリスクを侵すことは到底お勧めできない。結果的に彼女の望まぬ展開になったとしても、俺ではその責任を負いきれないのだ。

 

 お前はリスクリターンの計算が出来る女だろう?

 

 無理だと言ってくれ、一色いろは。

 

 

「やります」

 

 

 俺の独白を吹き飛ばすかのような、力強い返答。

 

 顔を上げた一色の目には、強い意思の光が見て取れた。一体何が彼女をそこまで突き動かすのだろうか。胸中に様々な憶測が浮かびかけたが、今は考えるべきではないと、見て見ぬフリをする。

 

「わたし、やります。教えてください。何をすればいいですか?」

 

 陽乃さんは、ギロリと音が聞こえそうな目付きで一色の目を覗き込んだ。それまでの気怠さが嘘のように、周囲の空気が張り詰めていく。

 

「…いいのね?」

 

「はい」

 

「…………」

 

 数瞬の睨み合いの末、陽乃さんはパンとひとつ、手を打ち鳴らしてから言った。

 

「──結構。ついてらっしゃい。どこに出しても恥ずかしくないくらい、バッチリ仕込んであげる」

 

 

 

《---Side Yukino---》

 

 

 その日の夕方、千葉県のお茶の間に一色さんの姿が届けられた。

 

 いや、私が見たのが地方局だったというだけで、実際には全国区で流れたのかもしれない。

 

 姉さんによって諸々を仕込まれた彼女は、健気さと勇敢さを併せ持った素晴らしい若者としてよく振る舞った。そしてその姿は手配したメディアを皮切りに、実に大々的に報道されたのである。

 

『あの時はとにかく必死で──あ、はい。お世話になってる先輩なので、なるべく早く良くなって欲しいです』

 

 当たり障りのない、主観というものを極力取り除かれたそのコメント。型通りの台詞を()()()()()つっかえながら並べたてる彼女の姿に、違和感を感じる者は少ないだろう。しかし本心を知る立場から見れば、彼女が上手に演じれば演じる程、貼り付けた仮面の内側で堪えているであろう苦悩に、見ているこちらまで胸が苦しくなる思いだった。

 

『比企谷くんへの想いを語る必要は無いわ。ううん、絶対に熱くなっちゃダメ。…そうね、同じクラブの先輩の一人──その程度にしておきなさい。強すぎる感情は視聴者が白けちゃうから。必要なのは注目であって、同情じゃないのよ』

 

 そんな偽りの役回りは、彼女の心にどれだけの負担を強いたのだろうか。事の真偽はさておき、少なくとも彼女自身は、自分こそが一番の元凶だと考えていた。そこへ来て、さも立役者であるかの様な振る舞いを強要されたのである。

 取材の対応を終えた彼女は真っ先に化粧室へと駆け込み、何度か嘔吐していた。文字通り「反吐が出る」くらいに抵抗があったのだろう。

 

 その苦労の甲斐あってか、仕上がりは上々。

 姉さんの首を縦に振らせるに値するものとなった。

 

 メディアに否定的な人間が見れば、露骨な印象操作であるのは明白だったかも知れない。しかしネットを軽く探った限りでは、彼女自身に対する反応が一番多かった様に感じられた。見目麗しい今時の女子高生が、血塗れになって同級生を救ったというドラマの様な実話。それが目論見通りに大衆の興味を惹いたという事だろう。

 

 勿論、未成年者のモラルや学校の責任を問う形の報道をする局はあったし、それに賛同する意見も少なくはなかった。それでも、もしも私達が動こうとしていなければ、これ程までに拮抗した展開にはなっていなかっただろう。

 

「流石は姉さん、という事なのかしら…」

 

 これで安心だとは口が裂けても言えないけれど、打てる手立てが他に思い当たらない私達は、今はひたすら流れに身を任せるしかないのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 事件から一夜明けて──。

 

 平塚先生に言い含められて一旦家に帰った私は、殆ど眠れぬままに朝を迎えた。

 

「ん…頭…痛い……」

 

 窓の外は暗く、室内の空気は冷たく淀んでいる。

 テレビを付けてみると、昨日と同じ一色さんの姿が、早朝のニュースとして放送されていた。知人がモニターに出演している違和感をミルク多めの紅茶で飲み下すと、眠気に軋む頭を抱えて部屋のソファへと倒れ込む。

 

「学校、どうなってるのかしら…」

 

 いずれにしても行く気にはなれないが、どうせだったら休みになっていてくれないだろうか。電話するのも億劫だけれど、下手に無断欠席なんてして、母さんに連絡でも行ったら厄介だ。

 

「ああ…そうだ、あの人…」

 

 母さんと言えば──。

 今のところ、実家の方はまだ何も言ってこない。今回の事件について、厳密に言えば、私は被害者でも加害者でもない、第三者だった。そういう意味では怯える事は無いのかも知れない。かと言って、あれだけの騒ぎの中心に居た事は間違いないのだ。それで何のお咎めも無いと言うのは楽観が過ぎるのではないだろうか。

 

「きっと、今は姉さんが上手く取りなしてくれているのね…」

 

 そうに違いない。

 そうでも思わないと、空っぽの胃に穴が空いてしまいそうだった。

 

「…本当…どうするのが正解だったのかしら……」

 

 部屋の中で一人、時計の秒針に耳を(そばだ)てながら、定まらない思考を持て余す。

 

 

──、──。

 

 

──、──。

 

 

 どれだけそうしていただろうか。

 

 テーブルの上に投げ出していた携帯電話が立てる無機質な音で、私の意識は現実へと引き戻された。

 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。時計を見上げると、時刻はもうすぐ正午というところだった。

 

「…はい、もしもし──」

 

『ゆきのんー! アイ…シーアイ…CIA? あれ、もうだいじょぶだって! だいじょぶだってさ、ゆきのん!』

 

 音量過多な由比ヶ浜さんの声が、スピーカーから飛び出してきた。

 電話を少し耳から遠ざけつつ、少々呆け気味の頭で何とか内容を解読する。

 

「…念のため確認するけれど、集中治療室(ICU)の話よね?」

 

『そうそれ! アイシーユー!』

 

 手術の後、比企谷くんは集中治療室へと運ばれた。

 入室が許されるのは当然、家族だけだ。如何にも深刻めいたその状況に、一色さんは枯れかけた涙を更に絞り出し、落ち着かせるのには実に骨を折らされた。

 

 あの部屋を出られたという事は、彼が『峠』を無事に乗り切ったと考えて差し支えないだろう。吐息と共に肩が下がるのを感じ、知らず知らず、電話を掴む手が力んでいたことに気が付いた。

 

「ふう……。なら、(ようや)く一安心という事かしら…。全く、脅かしてくれるわね」

 

 "手は尽くしたが、駄目かもしれない"

 世の中でそんな無責任な発言が許されるケースというのは、あまり多くない。医者というのはそれに該当する数少ない職業だ。仮に患者に何かあった場合、本当の意味で命の責任を取れる人間なんて居ないのだから、それが仕方のない事だというのは分かっている。

 分かってはいるけれど、この寝不足の原因は間違いなくあの医師の残した脅し文句なのだ。恨み言の一つくらい、言ったところで罰は当たらないだろう。

 

「ええと…つまり彼、もう通常の病棟に移ったの? …随分早いのね」

 

『だよねー。嬉しいけど、ちょっと微妙。ホントにもう良いのかなーって』

 

 聞けば集中治療室というのはいつでも満員御礼で、場合によっては半日単位で追い出される事もあるのだとか。何とも世知辛い話だけれど、気を揉まされる期間が短くなったのだと前向きに解釈しておくことにした。

 

『でね、午後にはお見舞いオッケーらしいから、一緒に行かない?』

 

「ええ、分かったわ。…ところで一色さんの様子はどうなのかしら。由比ヶ浜さん、彼女と話した?」

 

『ううん、小町ちゃんから話だけ。やっぱ、すっかり抱え込んじゃってるらしくてさ。なんかわりとマズイみたい。このままだとそのうち倒れちゃうかも…』

 

「そう…やっぱり…。どうしたものかしら…」

 

『だからさ、あたし達が交代してさ、それで今日は少しでも休ませてあげたいかなって』

 

「それは賛成だけど…でも彼女、承諾してくれると思う?」

 

『うっ…。そ、そこはホラ、少しくらい強引にでも!』

 

 比企谷くんが集中治療室に入った後、一色さんは待合室のソファに座り込んで動かなくなった。いや、動けなかったのかも知れない。事件のショックで打ちのめされた上、延々と慣れないマスコミの相手をし続けたのだ。気力も何もかもを出し尽くしたのだろう。

 

 平塚先生は当然、家に帰って休むよう、一色さんに繰り返し勧めていた。しかし彼女は、その場を離れるのは嫌だと言って、頑なに拒み続けたのだ。

 結局、その姿に(ほだ)された小町さんに「自分も泊まるのに居てくれた方が心強いから」と言わしめるに至り、昨晩は彼女もまた、病院で一夜を明かしていたのだった。

 

 そんな一色さんを比企谷くんから引き離すのは非常に心苦しいけれど、看病疲れで倒れさせてしまっては、その彼に合わせる顔がない。由比ヶ浜さんの言う通り、少しくらいきつい言葉を使ってでも、彼女を休ませないといけないだろう。

 彼が帰ってくる場所。そこに一番必要なのは、何よりも彼女の笑顔の筈だから。

 

「では、13時に病院で」

 

『オッケー! また後でね!』

 

 今日が平日である事や、今が授業の真っ最中であろう事。

そんな話は、どちらの口からも(つい)ぞ出る事はなかった。あちらの状況がどうなっていようと、私達のすべき行動は変わらない。

 

 手早く身支度を整えると、私は再び病院へと向かった。

 

 

 

* * *

 

 

「あっ、マズったかも…。なんかお見舞いとか買ってくればよかったー」

 

 病院のエントランスで合流した由比ヶ浜さんは、困った様にその空手をぶらぶらと振っていた。言われて、私もつい自身の両手を見る。当然のことながら、私用のポーチ以外に気の利いたものなど持ってはいない。

 

「そう言えば…。ごめんなさい、私も全然気が付かなかったわ。ここの売店に何か無いかしら。お花とか、果物とか」

 

「あ、そだね。おっきい病院だし、あるかも。あたしちょっと見てくる!」

 

「あっ、私も一緒に──」

 

「ゆきのんは先行ってていいよー!」

 

 やはり彼女も浮かれているのだろうか。リードの切れた子犬の様に、パタパタと駆けて行ってしまった。かと思えば、曲がり角でバッタリ出くわしたスタッフに注意されている。

 

「ふふっ…落ち着きのない人ね……」

 

 その姿に久方ぶりの笑いを小さく溢していると

 

「失礼、そこのお嬢さん。ひょっとして総武高校の生徒さんではないですか?」

 

 と、急に背後から男性の声がした。

 

 振り返れば、ブランドものと思しきスーツを着込んだ長身の人物が一人。

 四十代か、あるいは既に五十に近いのか。恐らくは昨日の記者と同じくらいの年頃と思われる。しかし、整髪料できっちり固められた頭髪とスマートな着こなしのせいか、同じ中年男性というカテゴリでは括れない程に、その印象は溌剌(はつらつ)としている。治療や見舞い目的で来たにしては、少々趣が異なる様に感じられた。

 

「比企谷さんのご友人、で合っていますか?」

 

 見知らぬ人物の口から出てきた名前に、どきりと心臓が跳ねる。

 

(まさか、またマスコミ関係の…?)

 

 思わず眉根に力が籠ったその瞬間、ちょうど私の目の高さの位置──彼の胸元に、鈍く光る小さなバッジが目に入った。

 中央に特徴的な意匠を掘られた、小さな向日葵のバッジ。

 

「──っ…」

 

 牽制をすべく喉から出かかっていた言葉が、ぴたりと止まる。

 かつて私は見たことがあった。そのバッジを付けた人間を。

 だから私は知っていた。それを着けた人間が何を生業とするのかを。

 

(何故…一体どうして、このタイミングで、()()が出てくるの?)

 

 口を半開きにして固まった私の無言を肯定と捉えたのか、その男性はゆっくりとこちらに頭を下げた。

 

「初めまして。西山と申します」

 

「えっ? に、西山って──」

 

「ええ、()()の父です」

 

 予想外の人物の口から飛び出した、衝撃的な告白。

 冷静さを旨とする私の思考は、一瞬で真っ白に塗り潰された。

 

 




切り札その一、投入!

助けてハルえもーん!

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