そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

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■28話 愚かで無力な先輩男子

《--- Side Iroha ---》

 

 

 同級生の男の子と二人並んで、わたしは屋上から朝のグラウンドを眺めていた。

 

 二人の間に言葉はない。最初は程々に笑顔を浮かべていたわたしの顔も、今ではすっかり表情筋が強ばっていた。

 真冬の屋上を吹き抜ける風は冷たいを通り越して痛いくらいで、千年の恋もキンキンに冷やされかねないロケーションだ。ましてやパートナーが小指の甘皮ほども興味のない相手とあっては、得意の愛想笑いも陰ろうというものだった。

 

(まったくもー…何でこう、ひとがやる気を出してるって時に…)

 

 

 夢見心地でバスルームに入ったわたしは、目覚めるにつれて、しでかしたことの大胆さに恐れおののくことになった。

 

 夜中、たった一人で番犬のように庭を見張っていた──厳密には居眠りしてた──そんな先輩の姿を偶然見かけて、胸を打たれたというか魔が差したというか…。

 どうせすぐ目を覚ますだろうと思って、わたしは冗談のつもりで先輩の懐に潜り込んだ。けど、そこで思いも寄らない事態が発覚して、そのまま動けなくなってしまった。そこは、先輩の匂いと温もりで溢れていたのだ。

 これが思った以上に心地良くて、あとちょっと、もう一回、と胸に鼻先を埋めて深呼吸を繰り返していたら、いつの間にか鳥の声が聞こえてきた、と──まあ大体そんなカンジ。

 

 身体に残る先輩の匂いに赤面しつつ、シャワーを済ませてバスルームから出ると、彼は既に姿を消していた。

 せっかくだから朝ご飯作ってあげようと思って、メチャクチャ気合い入れてたのにー。例のエプロンを着けた後ろ姿を見せてあげようと思っていたのにー。鏡の前で全身を何度も確かめたわたしがバカみたいだった。ううん、みたいじゃなくてかなりバカなんだとは思うけど。

 

 そんな行き場を失ったパッションは、最終的に手作りのお弁当となって、今わたしの左手にぶら下がっていた。

 

(ま、ただのサンドイッチなんだけど)

 

 プラスチック製のカゴに入れたまでは良かったけれど、オシャレなお弁当入れなんてものは我が家に常備されていない。時間もなくて、結局は中学で使っていたお弁当袋に入れてきた。そのせいか、露骨なまでに「頑張ってお弁当作ってみました」感が溢れている。

 アピール手段としては悪くないんだけど、先輩相手には逆効果なんだよね…。またあざといとか言われちゃいそう。サプライズ的な意味でも、せめてお昼までは見つかりたくないなぁ。

 

 そんなことを考えながら結衣先輩と登校してきたら、校門のところにクラスの男子が立っていた。

 

 挨拶して通り過ぎようとしたところ、彼は「話したい事がある」とわたしを呼び止めてきた。どうしたのかと問えば、結衣先輩の顔をちらちらと見ながら二人きりで話したいと言う。彼の用件がなんであるのか、この時点で察しの付かない女子は居ないだろう。

 

 クラスメイトでもあり、幾度となく言葉を交わしたこともあるその人物。盗撮写真が載ったビラを見せてきた時から、あまり好ましくは思っていなかった。

 

 ただ、こうして冷静に考えてみれば、たまたまこのひとが最初に持ってきたってだけで、別にアレを作った犯人ってわけじゃないんだよね…。

 それに確か、中原君が騒いだ時も率先して止めようとしてくれたんじゃなかったかな。

 

 諸々の事情を加味した結果、わたしは彼の話をきちんと聞き、きちんと答えを返すべきだと考えた。

 

 けれど、雪ノ下先輩からわたしのことを任されていた結衣先輩としては、この状況において"場を外す"という当たり前の選択肢を素直に選んでいいものか、判断がつかなかったらしい。

 困り果てた顔でこちらを見つめてきたので、顔見知りだから特に問題ないという旨を伝え、その場を外してもらうことにしたのだった。

 

 そうして彼の後について歩いてきたら、着いた先がこの特別棟の屋上だったというわけだ。

 

 

 ぶら下げた袋を弄びながら、わたしは相対した男子が口を開くのを辛抱強く待っていた。本当は急かしてでもさっさと終わらせたかったけれど、胸にこみ上げてきた今までにない感情がそれを思い止まらせていたのだ。

 

(かわいそう、だな…)

 

 もしかしたら初めてかもしれない。

 

 わたしはこれから告白してくるであろう相手に同情していた。

 

 彼がどんな言葉を紡いでも、決してその望みは叶わない。それはわたしの一存で既に決定していることなのだ。だからこうして彼が熱意や時間を費やすほどに、失われるモノは大きくなっていく。

 昔から何一つ変わっていない、告白する側とされる側の関係だ。こんな風に悩んだりなんて経験はこれまで一度だってなかったと思う。

 

 わたしの価値観は、いつの間にこんなに様変わりしてしまったのだろう。

 

 例えば──。

 

 わたしが先輩を呼び出して告白しようと息巻いていたとして、けれど彼の心は既にこちらではない方向を向いてしまっているのだとしたら、受け入れられないわたしの気持ちはどこへ行けばいいのだろう。「すまない」なんて断られたりしたら、新しい相手に気持ちを切り替えていけるイメージがこれっぽっちも湧いてこない。

 そんな風に配役を入れ替えて考えてしまうと、胸が苦しくて仕方がないのだった。

 

(でも…このひとと一緒にされるのは、ちょーっとカンベンかなぁ…)

 

 目の前に佇む彼の気持ちは、少なくともわたしの求めているものとは違うと思う。

 なら、わたしが築きたい恋愛関係とは、どんなものなのか。

 それは「本物」と言えるのか。

 その問いには、未だに納得のいく答えが出ていない。

 

 ただ、分かっていることもある。彼が好きなのは"総武高一年のかわいい女の子"であって、"わたし"ではないということだ。どれだけ思いの丈をぶつけられても、それはあくまでわたしが演じてきた役柄に対する感想でしかない。アルバイトで振る舞っているスマイルに惚れたと言われても、ちっとも嬉くなんてないのだ。

 

(このひと、少し前のわたしみたいだ)

 

 同じ立場に立ってみて、あの時の葉山先輩の気持ちがようやく理解できた。

 そうなると、彼に対して少なからず同情とか共感みたいなものが湧いてこないでもない。寒空の下で立たされていることや貴重な時間を奪われていることにも、それほど腹は立たなかった。

 

 腹は立たなかったんだけど──。

 

(…ごめん。もう限界)

 

 それはそれとして、寒いものは寒い。普通に辛かった。このままだとまた風邪を引きかねない。

 一向に動こうとしない相手に痺れを切らしたわたしは、向こうのアクションを待つことを諦め、こちらから声を掛けようとして、けれど一つ問題があることに気が付いた。

 

(えーと。な、名前…)

 

 信じられないことに、この期に及んで、わたしは彼の名前をきちんと思い出せていなかったのである。どんだけ興味ないんだろうか。

 先日、暫定的に命名した山田(仮)という名前が自分の中で定着してしまい、余計に思い出せなくなってしまったのかもしれない。

 

(や…山中…山根…ち、違う気がする…)

 

 山が付くのは間違いないのだ。それだけは自信がある。というかそれしか覚えてないんだけど…。

 こうなったらイチかバチか、一番メジャーなやつで行ってみよう。大丈夫、今日の牡羊座は勝負運アゲアゲだって言っていた。

 

「話って何かな。…や、山本、くん…?」

 

 わたしの言葉に、彼はにっこりと笑って顔を上げた。

 

「西山。西山だよ、一色さん。やだなぁ、名前間違えるとか酷いなぁ」

 

 ぐふぅ…。

 山は山でも後ろの方じゃん! あの占い、もう見るのやめよ…。

 

「ご、ゴメンゴメン! ちょっと勘違いして覚えてたかも」

 

 名前を間違えられるなんてわりと最悪の扱いを受けて、告白する気が削がれたりはしないのだろうか。どう考えても絶望的だと分かりそうなものなんだけど、残念なことに彼は特に気にした様子もなく、そのまま言葉を続けた。

 

「いつ言おうかって迷ってたんだ。もっと良いタイミングがあるんじゃないかって思ってたんだけど、ほら、最近色々騒がしいし」

 

「え? あ、うん…」

 

 ああ、キミも一応分かってはいたんだね…。

 それで──今も思いっきりその騒動の真っ只中なんだけど、どうして今なら行けるって考えたわけ?

 

「俺達、付き合おう」

 

 まるで「雨が降ってきたから家に入ろう」とでも言うかの様に、実に自然な口振りで彼はそう言った。

 あまりの脈絡のなさにほんの少し硬直してしまったけれど、その発言の意図を理解したわたしは、いくつか用意していたパターンのうちの一つを返させてもらった。

 

「ごめんなさい」

 

 なるべく素っない感じで、ぺこりと頭を下げる。自慢じゃないけど、この手の俺様アプローチも初めてじゃない。会話にすらなっていないのが少しばかり後味悪いけど、こういうのは下手に引っ張らない方がいいのである。それに、強引に来たのは向こうが先だ。だったらこっちも遠慮なく行かせてもらう。

 

 そりゃ、中には強気な態度で引っ張られるのが好きな女の子も居るとは思うよ? わたしはあんまり好きじゃないけど。あ、先輩が言ってくれるならアリかも。でもあのひと絶対そういうタイプじゃないしなー。

 

「………」

 

 沈黙が幾分気まずかったけれど、彼とは特別仲良くしていた記憶もないし、「友達のままでいよう?」というありがちなフォローさえする気にならなかった。

 

 一向に反応を見せない彼の様子を見て、わたしは内心でため息を吐く。少しキツかったかも知れないけれど、はっきり返事はしたし、これ以上相手を続ける義理はない。ていうか、ちょお寒い。

 

「それじゃ…」

 

 わたしはきびすを返して校内に戻ろうとした。

 しかし、唐突に発せられた彼の言葉は、わたしを混乱へと叩き落とした。

 

 

「…あの…だ、抱き締めても、いい、かな…?」

 

 

「………は?」

 

 

 熱っぽい目をした西山くんは、両手を広げてじりりと一歩踏み出してくる。

 

 わたしは本能的に、同じ分だけ後ろへと下がった。

 

「…なに、言って…?」

 

 彼は少し首を傾げるようにして、それから更に距離を詰めてきた。

 こちらも同じように距離をとる。

 

 彼が前へ。

 

 わたしは後ろへ。

 

 奇妙な緊張感を抱きつつ数回それを繰り返していると、ガシャリと背中に硬い物が当たる音がした。

 いつの間にか、わたしはフェンスまで追いつめられていたのである。

 ざわ、と肌が粟立つような感覚が走った。

 

「いいでしょ、好き合ってるなら」

 

「い、意味わかんないんだけど…」

 

「受け入れるのが遅くなってごめんなさいって、さっきのはそういう事だよね?」

 

「違うから。受け入れられませんごめんなさいって意味だから」

 

 ホントに何言ってるんだろ、このひと。

 あんまり無茶苦茶言うもんだから、なんだか先輩みたいなツッコミになっちゃった。

 ポジティブ思考なんて可愛いものじゃない。焦点のずれたみたいな、ヤバい目つき。これって、現実を受け入れる気が無いだけなんじゃ…。

 

「いいから。照れ隠しとか要らないよ?」

 

「あの、真剣にキモいんだけど」

 

 少し声が震えた。

 このひと、頭、大丈夫なのかな? さっきから会話になってないよね?

 

「ほら、それ。俺のために作ってきてくれたんだよね? 今日のために」

 

 わたしのぶら下げていた、見るからにお弁当っぽい布袋を指差して、彼は言う。

 頭が痛くなってきた。今朝、衝動的に作ってきたこれを、自分の告白に合わせて用意したのだろうと言っているのだ。

 

「いつもは持ってないからすぐ分かったよ。すげえ嬉しい!」

 

 袋に伸ばされた手を見て、わたしは反射的にそれを背中に隠した。

 

「ほんとキモすぎ。これ先輩のだから」

 

「……俺達、相性良いと思うんだ」

 

 その名を出した瞬間、西山くんの顔が酷く歪んだような気がした。表情はすぐに消えてしまったけれど、代わりにさっきまでの会話の流れがぶつりと途切れている。

 やっぱり、自分に都合の悪い言葉は耳に入れない、話したくないということなんだろう。

 

「絶対、大事にするから。約束する」

 

 彼はおもむろに両手を伸ばしてきた。後ろ手に回していたせいでその手を跳ね除けられず、両肩をがっちりと掴まれてしまう。

 

「いた…っ」

 

 握り締めるかのようにギリギリと力を込められ、わたしはその痛みに声を上げた。ニコニコと不気味に笑いながらも、一切力を緩めようとしない。

 そうしてわたしを押さえつけたまま、彼はゆっくりと顔をこちらに近付けてきた。

 

「ちょ…っ!?」

 

 腕を振り解こうにも、完全に力負けしている。それなら蹴っ飛ばそうと思ってみれば、いつのまにか脚の間に膝を入れられていた。そのまま脚を押し開かれ、標本のように磔となったわたしの抵抗は、ガシャガシャと空しくフェンスを鳴らしただけだった。

 

「ふざ…っ…やだ、やめて…っ」

 

 ようやく理解した。

 相手が何をしようとしているのか。

 自分が何をされようとしているのか。

 

「やっ…めてって、ばっ!」

 

 これはなりふり構っていられない。

 乙女的な大ピンチを悟ったわたしは、即座に反撃に移った。

 

「んがッ!?」

 

 息を荒くしているその鼻っ柱に、わたしは思い切って頭を叩きつけた。 硬い頭蓋骨の直撃を受けた彼は大きく後ろへ仰け反り、キツく掴まれていた肩が解放される。

 あいたた…どーだ、ざまー見ろっ!

 ふふーん、わたしってばわりかし石頭なんですよーだ!

 

「ヘンタイ。二度と話しかけないで」

 

 鼻を押さえて悶絶する彼には、もう欠片ほども同情の余地は残っていなかった。報われないからって無理矢理だなんて、最低にも程がある。こんなのの失恋記念にくれてやるほど、わたしの唇は安くない。

 

(それにしても…さっきのはホント危なかったなぁ)

 

 決断が遅れていたら無理やりされかねなかった…おえぇ…。

 軟骨を潰したような感触が猛烈に気持ち悪い。あとで先輩に100回くらい撫でてもらわないと。

 

 乱れた前髪を整えながら、その場を離れようと背を向けた瞬間──

 

「くえっ…」

 

 わたしは首を絞められたガチョウのような声を上げる羽目になった。身体が凄い勢いで後ろに引っ張られる。

 

「きゃあっ!」

 

 フェンスが派手な音を立てて、再び戻ってきたわたしを受け止める。どうやらわたしは襟首を掴まれて、元の場所に叩き付けられたらしい。

 

「えほっ、けほっ!」

 

 咳込むわたしの顎を大きな手が掴む。強引におとがいを反らされた先には、鼻血を垂らしながらも再度近付いてくる血走った彼の目があった。突然の反撃で前後不覚に陥りながら、わたしはがむしゃらに手を振り回す。 その手は彼の身体のあちこちを叩いたけれど、それでも止まらずに唇を近付けてくる。

 

「や、やぁっ!」

 

 冬場の屋上に足を運ぶひとは滅多にいない。

 他に、わたしが今ここに居ることを知っているのは結衣先輩くらいだろう。けれど彼女は告白が行われるであろうことを知っているのだから、進んで様子を見に来たりはしないはずだ。むしろ気を遣った結果、先輩を足止めしている可能性の方が高いくらい。

 

 彼の生温かい息が鼻先を撫で、背筋に寒気が走った。

 

 奪われる──

 

 瞬間、脳裏に浮かんだ背中に向かって、わたしは反射的に声を上げた。

 

「先輩助けてぇっ! せん──っ!」

 

 突然の金切り声に慌てたのか、彼はもう片方の手で騒音の発生源を塞いだ。これでは助けが呼べないけれど、無理矢理キスすることも出来はしない。静かにしていては終わりだと感じたわたしは、ひたすらもがき、わめき続けた。

 

「んーっ! んんーっ! んむーっ!!」

 

「チッ……なんだよ。比企谷、比企谷って。あんなののどこがいいんだ」

 

 彼は顔を寄せようとするのをやめ、気分を害したという風に舌打ちをした。

 

「そう言えば、ららぽーとでもおかしなこと言ってたよね。聞き間違いだって分かってるけど、念のため確認させてほしいな」

 

 ぐっと、押さえつけるその手に力が込められる。

 態度とは裏腹に、口調だけが優しげなのがかえって不気味だった。

 

「ひ、比企谷とは、何でもないんだよね? 何もしてないんだよね?」

 

 ららぽーとという単語が出てきてようやく、わたしは彼の正体に思い当たった。この異常極まりない行動から見ても、まず間違いない。

 

(そうか、こいつ…っ!)

 

 わたしを悩ませ、脅し、いたぶってきた張本人。

 ストーカーは、なにも中原くん一人とは限らなかったのだ。中原くんを疑うわたし達に対して、先輩は何度か言っていた気がする。確証は持てないって。

 

 その事実に気付くと同時に、一つのアイディアが頭に閃いた。以前、犯人像について雪ノ下先輩が語っていたことだ。

 

『犯人は、わたしをビッチだと思いたくない』

 

 男の子は普通、意中の相手が自分だけのものだと思いたがるらしい。さっきの彼の問いからも、確かにそういった意図を感じた。その価値観については色々と言いたいこともあるけれど、今は置いておいて──。

 わたしが"お手付き"でないことに拘りがあるというのなら、逆にハッキリ教えてやれば…。

 

 答えを聞こうと緩められた手の隙間から、わたしは必死に言葉を紡いだ。

 

「…けほっ。今さら何言ってるの。デートまで尾行()けてきてたなら知ってるでしょ、わたしと先輩の関係。どこまで進んでるか」

 

「…な、に?」

 

 ここが勝負所だ。

 わたしは畳みかけるようにして、彼に()()を突きつけた。

 

「先輩とはとっくにそういう関係なの。わたしの全部、ぜーんぶ、もう先輩のだから。あんたの為のモノなんて、髪の毛一本残ってないの!」

 

 

 

 

 パン、と乾いた音が響いた。

 

 

 

 

 最初に感じたのは困惑と、物理的な衝撃だった。

 

 視界がチカチカとして、左の頬が引き攣る。

 焼き付くような熱。

 遅れてやってきたジンジンという痛み。

 

 頭の横にある振り抜かれた彼の手を見て、それからようやく、わたしは自分が何をされたのか理解した。

 

「……嘘つけよ」

 

 次に、精神的な衝撃がわたしを襲った。

 

 初めて受けた男性からの暴力。痛みそのものよりも、"殴られた"という事実に呆然とする。

 頬に手を当てると、麻酔でも打たれたかのように、自分の頬ではないような鈍い感触がした。いつの間に落っことしたのか、地面にはお弁当の袋が転がっている。

 目頭が熱くなるのを感じる間もなく、ボロリと大粒の涙が零れた。

 

「嘘だ嘘だ」

 

 頬が濡れる感触を得て、次第に"殴られて泣かされた"という事態を認識する。

 悔しさと恐怖で腰が抜けたのか、わたしは言葉も無くその場にへたり込んだ。

 

「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だああぁぁっ!」

 

 彼は狂ったようにがなり立て、両手で胸倉を掴んでくる。すっかり力の抜けたわたしは、糸の切れた人形のように引っ張り上げられ、揺さぶられるがままにガクガクと頭を揺らした。

 

「嘘だよな!? カッとなって口から出任せ言ってるだけだよな!?」

 

 叩かれた。

 

 痛くて、苦しくて、すごく怖い。

 

 どうしてこんな目に遭わないといけないの?

 わたしがなにか悪いことをしたの?

 よくわからないけど、謝ればやめてくれるの?

 

 反射的に開きかけた口を、しかしギュッと引き結ぶ。

 

 ここで謝ったりしたら、つけ込まれてしまう気がする。

 もうこんなヤツに、大事な高校生活を奪われたくはない。

 彼と一緒に居られるはずの時間を、一秒だって無駄にしたくない。

 

 震える手を握りしめ、歯を食いしばって、わたしは目の前の敵を睨みつけた。

 絶対に、思い通りになんて、してやらない。

 そんな決意を込め、せめて口元だけでも不敵に笑いながら、わたしは言ってやった。

 

「…おあいにくさま」

 

「あ"あ"ぁぁっ!!」

 

 力任せに突き飛ばされ、わたしは頭から背後のフェンスへと叩きつけられた。もうどこがどう痛むのかもよく分からない。脚が言うことを聞かず、そのままずるずると地面へ崩れ落ちる。

 見た感じ、そこまで体格がいいという風でもないのに、男の子というだけでこんなに力があるものなのか。逃げ出すこともままならないという事実に心が折れてしまいそうだ。

 

 けれどそれでも、相手を睨むことだけは決してやめなかった。

 

「このクソビッチ! んだよその目は! ヤリマン野郎が、騙しやがって!」

 

「知らないよばーか…。ビッチとかちょお失礼…野郎でもないし…」

 

「ちょっと黙ってろ!」

 

 彼は右手を振り上げ、それを振り下ろした。

 

「あうっ!」

 

 頬とも頭ともつかない辺りを平手で殴りつけられ、溜まっていた涙が宙に舞う。

 

「ああー…あんなクソ野郎の中古とかありえねえ…。これキレるわー、もうマジに終わった。終わるしかないわー」

 

「…あんた、最っ低…」

 

「黙れってんだろ!」

 

 既に抵抗する力を失ったわたしを引っ張り上げ、間を置かず、彼は再び腕を振り上げる。

 

(うわ、サイアク…)

 

 さっきまでとは違い、その手は硬く握り締められていた。いまの挑発はどうやらNGだったみたいだ。

 震える腕をなんとか持ち上げ、形だけでも頭を庇う。

 

 向けられた拳を前に、せめて顔には傷が残りませんようにと神様に祈るほかなかった。

 

 

 

《--- Side Hachiman ---》

 

 

 息を切らせて屋上までの階段を駆け上がると、そこには分厚い非常扉が立ち塞がっていた。

 俺はふと、ドアノブに掛けた手を止める。

 

「考え過ぎだったら、後で笑えば済むんだしな…」

 

 虫の知らせという訳ではないが、この先起こり得る最悪の事態を考慮し、携帯にちょっとした仕込みをしておく。

 これが出番のないまま終わる事を心から祈りつつ、扉を押し開ける。

 

 そこには予想通りの、そして最悪の光景が広がっていた。

 

 

 

 見知らぬ男子と、一色いろは──。

 

 この組み合わせは想定通りだ。

 

 胸倉を掴んでいる男子と、フェンスに追い詰められた後輩女子──。

 

 これも予想の範疇だ。出来れば当たって欲しくなかった方の予想だが。

 

「ちょっと黙ってろ!」

 

 叫びながら振り上げた手を叩きつける男子と、地面に転がる彼女──。

 

 待て待て、そろそろ脳味噌が置いてけぼりだ。

 

「もうマジに終わった。終わるしかないわー」

 

 普通に高校生活を送っていては目にする機会のない、非日常的な構図。それを目の当たりにして、俺の思考は酷く冷静だった。

 

 男はまだ足りないとばかりに、今度は握り拳を振り上げている。

 気になる後輩女子を目の前で殴られた、愚かで無力な先輩男子。さて、そんな比企谷八幡はこれからどんな行動を取るべきだろうか。選べ。

 

 ① 殴る

 ② 蹴る

 ③ タックル

 

 いやいや、ここでリズム感とか要らないから。何で「韻踏んでみました」みたいな感じになっちゃってんの?

 つか、これもう実質一択だよね。もう少し理性的な選択肢とか無かったんですかね。説得とか交渉とか、もっと穏便なのから徐々に行ってみようとか思わないわけ?

 

 やたらとアグレッシブな選択肢に異を唱えつつ、改めて状況を確認したが、残念ながら他に有効な手立ては無さそうだ。と言うか、あるいは有ったかもしれない可能性は、自分自身の行動によって潰されてしまっていた。

 

 何故ならば、俺の身体は既に相手に向かって走り出してしまっていたのである。

 

 冷静だと思ったのはどうやら思考の方だけらしい。惚れ惚れするほどのロケットスタートによって加速された身体は勢いが付き過ぎて、説得どころか制止すら不可能な状態だった。

 もしかすると、これが「らんぼうはやめろー!」と叫びながら先制パンチを繰り出す自己矛盾ヒーローの心境なのだろうか。どの口で言ってんだコイツ、と常々突っ込んでいた俺が、まさか同じような行動を取ってしまうとは…何とも皮肉な話である。

 

 やれやれ。俺、ケンカとか超弱いのに。

 パンチとか、ちゃんと相手に当たるのかしら。

 殴った俺の方がダメージ大きいとかだったらどこにクレーム入れればいいの?

 徹夜明けに全力疾走とか、やり合う前から死にそうなんだけど…。

 

 けどま、これ以上いろはすに手ぇ上げられるわけにも行かないんだよなあ。

 一応ほら、助けてやるって、約束しちまったからさ。

 

 だったら、仕方ないだろ──。

 

 

 乖離していた心身の意見がめでたく一致をみたところで、残念ながら時間切れのようだ。

 

 

 強制的に選ばされた選択肢は3番。

 

 

 俺の身体は、その男に激突していた。

 

 

 

《--- Side Iroha ---》

 

 

「ぐはッ!」

 

 握り拳の痛みに怯えて身体を硬くしていると、わたしを追い詰めていた男子が突然、絞り出すような声を上げて横っ飛びに吹き飛んだ。

 何か人影のようなものが、横合いから飛び込んできたのだ。涙で歪んだ視界でハッキリとは見えなかったけれど、それでも直感的に、あるいは期待を込めて、わたしはその影の名を呼んだ。

 

「せ、先輩っ!」

 

 男子の腰に組み付いて押し倒していたのは、やっぱり大好きなあのひとだった。見たこともないような怖い目つきをした先輩は相手と押し合いへし合い、二人で屋上を転げ回る。

 

「はっ…離…せっ! 何なんだっ!」

 

「っぐ!」

 

 お腹に膝でも入れられたのか、びくんと先輩の腰が跳ねる。怯んだ先輩を蹴り飛ばして距離を取ると、その男子はフラフラと立ち上がった。

 

「ひ、比企谷…! どこまで邪魔すりゃ気が済むんだよ、あんたはっ!」

 

 襲撃者の正体を改めたその男子は醜悪に顔を歪めると、わたしと彼の顔を交互に見やった。

 

「最初から呼んでたのかよ…そうなんだろ。二人して、オレをバカにするつもりだったんだろ!」

 

 どうやら彼の中では、わたし達が示し合わせてこの告白をからかっているという筋書きらしかった。

 お腹を押さえながら立ち上がった先輩は、相手の言い分に怪訝な顔をしている。さっきの拍子に切ったのだろうか、その唇からは血が垂れていた。

 

「げほ…こいつ何言ってんだ。ラリってんのか」

 

「あんたが…あんたさえ居なければ、一色は…っ」

 

「せ、先輩! そ、そのひと、その…ちょっとおかしいです!」

 

 まだ少し掠れる声でもって目の前の人物の危険性を告げると、先輩は振り向かずに片手を挙げて答えた。

 

「ちょっとじゃないだろ。そいつ多分、お前が思ってるよりずっと重症だぞ」

 

「うるさい! あんたのせいでメチャクチャになったんだ…。ずっと好きだったのに…ずっと、ずっと! 一色のことだけを見てきたんだ! 初めて見た時からずーっとだ!」

 

「んなこと知るかよ」

 

 怨念のように垂れ流されるその言葉を、先輩は小気味良く切って捨てた。手の甲で唇を拭って、「いてっ」っと顔を顰める。

 

「押し付けた気持ちの量でカップル成立すんなら世の中に片想いなんて言葉は要らないんだよ。大体、俺やお前なんぞが釣り合うタマかっての。少しは身の程を知ることを覚えとかないと、この先の人生しんどいぞ?」

 

「しらばっくれんな! 知ってんだよ、あんた一色とヤったんだろうが!」

 

「……は? 誰がそんな──」

 

「くそったれ…何でよりによって、あんたに説教垂れられなきゃならないんだよ!」

 

 彼は唾を飛ばして怒鳴ると、自らの上着のポケットを漁った。そこから出てきたのはプラスチックの様な黒いケース。それを両手で掴んで引っ張ると、中から更に黒いものが現れた。

 

 それを目にして、わたしは最初、オモチャか何かだと思った。

形からすぐに察しが付いたけれど、世の中にそんな色のものがあるだなんて、知らなかったのだ。

 

「…やめとけ。それはマジで洒落にならん」

 

 諭すような先輩の態度と、その先端をこちらに向けて威嚇する彼の振る舞いを見てようやく、あれがオモチャではないのだと理解するに至った。だって、まさかこんな物が自分に向けられる日が来るだなんて、誰が想像するだろうか。

 

 彼の手には、15cmはあろうかという真っ黒な刃物が握られていた。

 

「それ…ナ、ナイフ? …な、どうして…」

 

 狼狽するわたしの様子に気を良くしたのか、彼は手にした得物をヒラヒラとさせながら、聞いてもいないことをまくし立てる。

 

「はっ! 知らないのかよ。普通にネットで買えるっての。ステンレスだし、5000円もしなかったかな」

 

 素材がどうだとか、グリップがどうだとか、彼はベラベラとよくわからないウンチクを垂れ続けている。

 けれど、わたしはその話を全く聞いていなかった。

 興味がなかったからじゃない。先輩が信じられない行動に出たからだ。

 

 相手を刺激しないように気を遣ってか、先輩はわたしに付かず離れずの距離を保っていた。それがナイフを出された途端、その身をじりじりと動かし始めたのだ。これが逃げ出そうとしていたのなら気持ちは分かるし、責めるつもりもなかった。けれど先輩は、よりによって、わたしとアイツとの軸線上に割り込もうとしていたのだ。

 

 自らの身体を盾にするようなその態度。

 

 彼に護られているという感激や喜びといった感情は、しかし次の瞬間、何倍も強い恐怖によって覆い尽くされた。

 ずっと見つめてきた彼のことだ、こちらからは顔が見えないけれど、今どんな目をしているかくらい想像できる。だって、いつもなら貧相に丸められているはずの背中が、真っ直ぐに伸びているのだ。

 

「一色。そのまま、そこ動くなよ」

 

 心の底からイヤだけど、仕方がない──。

 

 想像に違わず、振り返った彼の顔には、諦めたような苦笑いが浮かんでいた。

 

 わたしが初めて凶器を向けられて感じた恐怖は、自らが刺される可能性に対してではなく、彼がこの身を庇ってしまうことに対してのものだった。

 

「や、やめて…」

 

 思わず口から零れたか細い声は、一体どちらに向けられたものだろう。

 

「そうだ…そうだよ。生まれ変わってくればいいんだ。キレイな身体になってさ。そしたら、今度こそ一緒になれる」

 

「ならまず自分からキレイにしとけ。主に頭の中とかな」

 

 浮ついた口振りでとんでもないことを言い出す彼に対して、先輩はポケットに手を突っ込むと、不貞不貞しくふんぞり返って笑い飛ばした。わたしに向けられた敵意を自分に向けようと挑発しているのだろう。

 

「大体、こんな真冬の朝っぱらから、しかも特別棟の屋上でとか、俺でもドン引きのセンスだぞ。フラれない方が難しいだろ」

 

「うるせぇええ!」

 

 彼は腰溜めに構えていたナイフを両手で前に突き出した。

 切っ先を冬の朝日に輝せながら、そのまま、こちらに向って走り出す。

 

 唇は恐怖に震え音にならず、わたしは頭の中で叫び声を上げた。

 ショックが抜けていないのか、目の前の恐怖に竦んでいるのか。

 脚は全く言うことを聞かず、逃げるどころか立ち上がることすらままならない。

 

 本能的に身を縮め、わたしは目を閉じた。

 

 

 

「────っ!」

 

 

 

 刃物で刺されると痛いより熱いというカンジがするらしい。

 

 そんな話をどこかで聞いたことがあるんだけど、これはその表現に一致するんだろうか。どうにも聞いていたのとは違う気がするけれど、驚きすぎて麻痺しているのだろうか。だとしても、ちっとも痛くないというのは、いくらなんでもおかしいような…。

 

 地面に手を突いたまま、恐る恐る目を開けてみると、目の前には見慣れた背中があった。

 

「……せ…ん…ぱい……?」

 

「…マジで…見誤った…な。ここまで…する、か…」

 

 例の男子は先輩の前でぴたりと動きを止めていた。

 

 彼の背中がわたしの視界をすっかり遮っていて、何がどうなっているのかちっとも分からない。けれど、直前に見たはずの光景がわたしの心臓をざわつかせる。こいつは、ナイフをこちらに向けて飛び掛ってきたのではなかったか。

 

「…ち、違う…っ! 俺は、一色を脅かそうと思って…! と、止めるつもりだった! …あ、あんたが勝手に飛び込んでっ…!」

 

 言い訳らしき言葉をわめき散らす声だけが聞こえる。

 

「は…やっぱ、ワンコを助けるようには、いかねえか…」

 

「は、離せよっ! 離せっ、この!」

 

「いぎっ!?」

 

 身を裂かれるような先輩の声。

 

 拘束を力ずくで振り解いたのか、そいつは腕を引き抜いた勢いで二歩三歩と後じさる。

 

 その時、ひたひたと、どこからか飛んできた水滴がわたしの頬を暖かく濡らした。

 

 反射的に頬を手でなぞり、降り注いだ水滴の正体を改める。

 

 

 指先にはべっとりと、暗い赤色が広がっていた。

 

 

 どさりという音と共に、先輩が床に崩れ落ちる。

 突然開けたわたしの視界に飛び込んで来たのは、両手を震わせる男子と、その手に握られたナイフ。

 黒かったはずの刃と共に、彼の手は真っ赤に染まっていた。

 

 

「           」

 

 

 わたしの世界から音が消えた。

 

 視界の片隅には、今もあいつが騒いでいるのが映っている。

 けれど、その声も一切聞こえない。

 耳が痛くなるくらいの静けさの中、赤色にぬめる自分の指先を眺める。

 そして再び、地に伏した先輩を見つめた。

 

 お腹の辺りからじわりと、コンクリートの床に赤黒い染みが広がっていく。

 

 

「──────────っ」

 

 

 何が起こったかなんて、とっくに分かっている。

 頭が理解するのを拒んでいるのだ。

 

 だって、こんなに×が出たら、せんぱいが××でしまう。

 

 わたしの大好きなひとが、いなくなってしまう。

 

 そんなのぜったいにいやだ。

 

 

 いやだ、いやだいやだ──。

 

 

 

 

 

「いやああああああぁぁぁっっっ!!」

 

 

 

 

 


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