きゃっきゃっとはしゃぐ幼児の声が広場に木霊する、
俺は噴水の前で、突然声を掛けてきた見知らぬ男と対峙していた。
この状況では絶対に手を出してこないはずだと踏んでいたのに、また読みを外してしまったのだろうか。
一色の世間体を"ストーカーの被害者"から"巻き込まれただけ"に置き換えるというのが基本的な方針である。その為に俺が恨みを買うこと自体はこちらの思惑に沿っている。
しかしこれは既に目立ってしまった集団の中だからこそ意味を成す作戦だ。
まだこちらに注意を向けている人間こそいないが、こんな場所で騒ぎを起こせばどうなることか。最悪、野次馬にネット配信でもされかねない。最も配慮すべきは一色の立場だというのに、それでは本末転倒というものだ。
「お前、もしかして──」
ずい、と一歩詰め寄られ、俺は手に汗を握った。
「ひきがや…やっぱ比企谷じゃん!」
「…え?」
睨み付けるようだった彼の目が、急に友人を見るようなそれに変わる。
突然の変貌に戸惑う俺の肩を、そいつは馴れ馴れしくバンバンと叩いてきた。痛い痛い。そこにも打ち身あるんで出来れば止めてください。
「懐かしいな!卒業以来か?」
「あ、ああ……えと、おう…」
「なに、まーた独りで何かしてんの?」
「ま、まぁ、独りっちゃ独りだけど…」
………誰?
新手のキャッチセールスだろうか。いくら俺に友達いなさそうだからって、このやり口はあんまりだろうに。マジで友達かと思っちゃうだろ。
とまあ、冗談はさておき──。
この、かつての俺の暮らし向きを知っているような口振り。常識的に考えて、中学かそれより前の同級生ということだろう。そう思って見てみれば、記憶にあるような気がしないでもない顔だ。
けれども名前の方は記憶の奥底にすっかり埋没してしまったらしく、いくら頭を捻っても一向に出てくる気配は無かった。
「なあに、知ってるヒトぉ~?」
どこかで聞いたような口調を伴って、そいつの影からもう一人、ひょっこりと顔を出したヤツがいた。
高くも低くもない身長に、太くも細くもない体格。良くも悪くも、あまり記憶に残らないタイプの女子だった。セミロングの茶髪は毛先に緩くパーマでも掛けているのか、顔の輪郭を覆うような広がりを見せている。コートにミニスカという若々しいファッションは真冬なのによくもまあと思うばかり。
この女も、何だか見たことがあるような…。いや、やっぱり無いような…。
「はじめましてぇ~」
敬礼っぽく手をかざしてこちらに挨拶したその女子は、唇を尖らせて笑って(?)みせた。やけに酸っぱそうな顔だが、そんなに俺の顔が気に入らないのだろうか。あるいはシゲキックスでもドカ喰いしているところだとか。
いや待て、これはいわゆるアヒル口ってやつじゃないのか。やってる女子が周りに一人もいないから、流行っているってのも釣りなんじゃないかと疑っていた。
確かにアヒルに似てるけど、これを可愛いと思うかどうかはアヒルが好きかどうかによるんじゃないの?
俺はそんな彼女を前に「アーフラック!」とアヒル語で応じるべきかしばし悩んだが、
「ど、ども…」
結局、面白くもない上にどもった返礼をしてしまった。
「緊張してるんですかぁ?あはー」
口元に手を当てて、彼女はにへっと笑う。
「あーこれ、俺のカノジョな」
この男、明らかにそのセリフが言いたくて俺に声を掛けたと思われる。ロクに話したことも無いような同級生にまで声をかけてくるくらいだし、自慢したくて仕方が無いのだろう。自然を装いつつもどこかぎこちない様子から、彼らは付き合い始めてまだ日が浅いのではないかと推測した。
その気持ちも分からないではない。俺だって小町と出歩く時はいつも、この可愛い子が妹であると喧伝して回りたい衝動を抑えているのだ。
「めっちゃ可愛いだろ?」
「え?あ、あぁ…」
やけに自信ありげな彼氏の言葉にまじまじとアヒルの顔を見て、ようやく気が付いた。さっきの既視感は昔の記憶なんかじゃない。こいつは一色と同じタイプの生き物なのだ。
可愛いか可愛くないかの大枠で言えば、おそらくは前者に該当する方なのだと思う。ただ、彼女の印象を一言で表そうとすると、俺が一色いろはに対して抱いている印象──つまりは"ゆるふわ女子"にカテゴライズされてしまうのがまずかった。
雑誌に載っているモデルと、それを模倣した一般人と言えば伝わるだろうか。もしくはワンオフの試作機と量産機でもいい。まあ俺は量産機が頑張る話も嫌いじゃないよ?コレだって
ゆるふわガチャを10連回して目の前のコレしか出なかったら、俺はきっと課金したことを後悔するだろう。
そんな訳で、別にチビでもないこの女子を、俺は便宜的に
「ヒロキく~ん、紹介してよぉ~」
「わり、ちょい待って」
くっ、やはり名前呼びか。彼氏相手なら当然だろうが…こいつは困ったな。
同級生を名前で呼んでいたなんて過去、俺に限ってあるはずもない。したがって「それそれ!そんな名前のヤツ居たわ!」という感触にすらたどり着けず、手掛かりは依然としてゼロのままだった。
しかも略したらヒッキーじゃん。被るからなんかヤだな、よしコイツはピロキでいいや、等と益体も無い事を考える。
「俺も中学じゃ全然だったけどさ、高校入ってから勉強とか部活とかわりと頑張ってみたわけ。そしたら今や彼女持ちですよ。結局、大事なのは自分磨きってことだな」
高校デビューに失敗したら人生終わりと言い出しかねない勢いで、ピロキは唐突に自らのサクセスストーリーを語った。彼は一体どこのチャ○ンジの回し者だろうか。
ちらりと彼女の方を盗み見ると、彼氏の示威行為に付き合っていられなかったようで、既にスマホ弄りにシフトしていた。
「珍獣遭遇なう」とでも呟いているのかしら。いや、呟き程度ならまだいい。聞くところによると、最近の女子はデート中でも平気で他の男とLINEしてるらしいからな。こいつはどうなんだろう。
「比企谷も彼女作ったほうがいいぜ?世界が変わって見える」
持つ者の余裕を最大限に見せ付けるように、自分の彼女の方を肩で示しながら、彼はそう締めくくった。
ふう。せめてマンガ仕立てにしてくれたなら、もう少しくらいは興味を持てたかも知れないな。マジで心の底から無駄な時間を過ごした。
「あー、そうな。出来たらな」
「ははっ!そうだな、出来るといいな!」
「お前に出来るはず無いけどな」という類の悪意は、意外なことに殆ど感じなかった。どうやら人というのは自分が幸福を感じると他人のそれにも寛容になるらしい。
とは言えそれは条件付きのことだ。自分より幸せな者を見つければ、羨望や渇望といった獣が再び牙を剥くのだろう。
世界が変わったのではない。こいつが変わったのだ。それがいい変化かどうかは俺には分からないが、他人に誇示することで満たされる欲求に従っての行動だというなら、競争社会から隠居するのが将来の目標であるところの俺にはあまり縁のない感覚なのなのかもしれない。
「え~、カノジョ居ないんですかぁ?イケメンなのにぃ」
「はぁ、いや──」
「いや全然そんな事ねーから!こいつキモいし、友達居ねーし」
うーん、確かに全然そんな事ねーしキモいし友達居ねーけどピロキのセリフじゃねえだろ。
ちなみに単純な顔のつくりで言ったら俺のほうがイケてるとこっそり確信。帰ったらアルバム探して妹裁判に掛けてやろう。絶対勝つる。
「まだ一ヶ月くらいなんだけどさ、そろそろキメようと思ってんだわ」
顔の話でプライドを刺激されたのか、ピロキはこそっと耳元で下世話な予定を暴露してきた。恐らく自分の女であることを強調したいのだろう。心配しなくても要らないっつーの。
でも…ちょっとだけ複雑な気分だ。
ほら、「あんたなんて全然好みじゃないけど、羨ましいんだからね!」って感じ。あれ、ツンデレ風にしてみたら余計に訳わかんなくなったわ。
いやさ、結局のところ、男子高校生がカノジョを欲しがる理由なんてたかだか知れてるわけよ。そりゃあ中には真っ当にイチャコラしつつ青春を謳歌したいという真人間もいるでしょうよ?
でもそんなのはあくまでごく一部。基本的には脱DTありきなのだ。君と紡ぐ物語も、全てはそこから始まるのである。嘘だと思う女子諸君は彼氏に「卒業まで待って」とお願いしてみるといい。なおその先の展開について、当方は一切の責任を負いかねます。
そういう訳で、そこのアヒルとどうこう出来ることが羨ましいのではなく、単純に男としてピロキに先を越されるのかという思いに、俺は内心
ま、俺だって
「ちょっとぉ、なに男の子だけでお話ししてるんですかぁ~?あ~そうだぁ、良かったらぁ、お友達さんも一緒にお茶ぁしませんかぁ~?これから行くとこだったんでぇ~」
スマホを引っ込めたのーまる子は、広場の向こうに見える喫茶店を指差して言った。
彼女の言動を見て、俺は今感じている感情を表すに適当な日本語を検索する。あざとい?違うな。それは一色にこそふさわしい。
あれは元来、小賢しいみたいな意味合いの単語である。しかし現代の用法に則った場合、"あいらしい" + "わざとらしい"の造語だと説明された方がしっくりくるだろう。
その理屈で言うと、"うざったい" + "わざとらしい"の場合は"うざとい"という事になるよな。
オーケー。ピロキの彼女、超うざとい。
「えー、比企谷とか超つまんねーからサガるよ?」
彼女の提案に反対の姿勢を見せるピロキ。おーおーその通りだよ、サカるなら二人でやってくれませんかね。
しかし何を思ったのか、のーまる子は俺の袖に手を伸ばし、逃がさないとばかりに握り込んできた。何でみんなそこ掴みたがるんだよ。マジでちょっと伸びてきたんじゃない?
「い~じゃないですかぁ、行きましょうよ~」
「いや、連れを待ってるんで」
もう勘弁して欲しい。今日はウソではなく本当に連れもいるのだ。つか遅いな一色。今来られるとそれはそれで面倒だけども。
「いいですよぉ、そのお友達もぉ一緒しましょうよぉ」
良くねえっつってんだろ。これだからリア充は…!
何が悲しくて余所のカップルとお茶しなきゃならんのよ。どうせなら百合ップルがいいな、それならお茶請けくらいにはなるだろうし。
それともこの女、男を周りに集めて自分だけ姫扱いでもしてもらおうという魂胆なのだろうか。
「マジかよー?せっかく二人で出かけてるのに…」
「それはさぁ、ほらぁ、次でもいいじゃ~ん。ね~え、行きましょうよぉ」
もしかすると──。
この子はピロキの下心に気付いているのではないだろうか。女子のそっち方面のセンサーってば驚くほど優秀だからな。ここで第三者を引き込んで有耶無耶にすれば、あからさまに相手を袖にせず、かつ自身の安売りも避けられる。まったく、色んな意味で食えない輩である。
ブルゾンの袖を掴んでいた彼女が、もう一方の手を伸ばしてくる。さっきから振り解こうと腕を引いてるんだけど、地味にがっちり握り込んでて離そうとしないんだよコイツ。
ゆっくりと寄ってくるその動きは食虫植物を思わせ、あわやそのまま捕食されるのでは、と思った瞬間。
「やめとけって!」
わりと大きな声で、彼氏ピロキは言った。
むしろ怒鳴ったと言ってもいい。
苛立ちを含んだその声は行き交う通行人を警戒させるのに十分で、何事かと足を止める者も居た。
「そいつマジ中学でも友達一人いないぼっちで超キモがられてたんだから。こういうヤツに変に優しくするから、勘違いしてストーカーになるんだよ」
早口でそうまくし立て、俺に近づくまる子の腕を引っ張った。
彼氏の突然の剣幕と穏やかではない単語のコンボに怯んだのか、彼女の方も浮かべていたアヒル
「え、ちょっとやだ、ス、ストーカー?そういうのしてる系?」
いや、してない系。
そんな風に軽く笑って返せるコミュ力があれば、俺も今頃は葉山のグループの一員だったかもしれない。ぞっとしねえな、無くてよかった。
「冗談でしょ?」と苦笑いするまる子の腕を掴んだまま「まじヤバいから!」と連呼する彼氏。そこは冗談だって言えよ。
唐突にディスられたことには腹が立ったが、ここはぐっと堪えてやることにする。
だって、もしも自分の彼女──ちょっと想像できないから妹にしよう──が、偶然会ったぼっち野郎の袖を引いていたら、一体どう思うだろうか。
俺ならきっと実力行使に出てしまうだろう。みっともなく泣き喚いて、手を放すように駄々をこねる。
男の威厳?比企谷の男にそんなもの必要無いですし。つか最初から無いですし。
そんな俺と比べたら──ご覧下さい、ピロキのなんと雄々しいことでしょう。
そうやって理不尽に対する怒りを散らしていると、いつの間にか周りに不穏な空気が立ちこめていることに気がついた。
「ねえ、ストーカーだって…」
「マジかよ。通報した方がいいんじゃね?」
「やだぁ…。ねぇシュウちゃん、きもいよー」
「大丈夫、アッキーには手を出させないよ」
あんまりにもピロキがデカい声で騒ぐもんだから、すっかり耳目を集めてしまっていた。
悪事を働いた現場を彼氏に取り押さえられた変質者、みたいな解釈をしたのだろうか。オーディエンスからの視線に敵意や害意のような物が混じっているのを肌で感じる。
(参ったな…)
悔しいとか恥ずかしいとか、そういう感覚が無いわけではない。しかしそれよりも、もうすぐここに一色が戻ってくることが問題だった。
いま合流してしまうと悪目立ちは避けられない。周囲の人間はいちいち覚えていないだろうが、一色自身が嫌がってららぽに近寄れなくなる可能性は十分にあった。しかも彼女はただでさえ歪んだ感情に辟易しているところなのだ。こんな拷問に付き合わせてしまっては、弱っているメンタルに悪影響があるかもしれない。
あとドサマギでイチャついてるシュウちゃんとアッキーはセアカゴケグモにでも刺されろ。
「ほらぁ、ヒロキくんの声がおっきいからぁ」
「ちげーよ、お前の声だろ」
この空気を作ったバカップルは相変わらず二人で楽しくやっているようだ。下手に言い訳するよりこのままお
「じゃ、俺もう行くんで…」
タイミングを逃したのか、何故か未だに袖を掴んだままのまる子。
その袖を離すように言いかけて、しかし背後から聞こえてきた声に、俺の口は硬直した。
《--- Side Iroha ---》
「うわ、気持ちわるっ」
鏡に映った自分の姿にわたしは思わず毒づいた。
未だかつて見たことのないほどに緩んだマヌケ顔。
パンッと両手で挟んでも、すぐさまにへらーっと溶けていく。
うーん、これはもう処置なしですねー。
「ま、いいんじゃない?こういうのも」
こうして覚悟が決まるまでは、なかなか大変な事もあった。
葉山先輩のせいでたくさん泣いたりもしたけど、今では心底感謝してる。
だって彼と出会わなければ、きっと先輩と出会うこともなかったのだから。
手の届く距離の想い。
手を伸ばす意志のある恋愛。
それが、こんなに楽しい物だったなんて。
「ふふっ。ぜったい、逃がしませんよー♪」
向こうから来ないなら、こっちからいく。
線があれば踏み越える。
わたしが覚悟を決めたというのは、そういうことだ。
先輩、覚悟はいいですか?
まだまだこんなものじゃありませんよ?
何しろ今日の最終目標は…『先輩と手を繋ぐ』ことなんですから!
「……この、こんじょうなし」
男の子と手を繋いだことはある。いくらでもある。数を覚えていないくらいありますとも。
…けど、いま思えば、あれって相手のことを何とも思ってないから出来てたんだと思う。
好きな人の肌に直接触れるのが、こんなに緊張するものだなんて…。さっきのお店ではたまたまチャンスがあったけど、理由もなしにいきなりというのは、思った以上にハードルが高かった。
「腕まではいけるんだけどなぁ…」
念入りに手を洗い、ほんのちょっとだけハンドクリームも。カサカサだと思われたら、日頃の努力が台無しだから。そういえばあの塩スクラブは本当に良かった。ちょっと高いけど、今度こっそり買っておこうかな。
「やば、ちょっと時間掛けすぎたかも…」
化粧室から出たわたしは、早足で待ち合わせた場所へと向った。
噴水の広場に佇むその背中を見つけて安心した途端、むくむくと悪戯心がわいてくる。
(いやぁ、我ながら性悪ですにゃー)
こそっと物影に身を潜めて時計を確認。よしよし、まだ10分経ってないね。
ではではー、10分まではここから先輩を観賞させて頂きまーす。
だって、自分の事待ってくれてる姿って、見てるとすっごくゾクゾクするんだもん。
ていうか、よく見たら知らない男の子が居るんだけど、誰だろう?
先輩の知り合いかなー。友達少ないとか言ってるわりにはけっこう顔も広い人だし。
むー、ここじゃさすがに話が聞こえない…もうちょっとだけ近くに──。
更なる接近を試みていたわたしは、ふと広場の空気に違和感があることに気が付いた。
なぜだか分からないけれど、先輩が注目を浴びているのだ。彼に向けられる視線が好意的なものでないことは、端から見ても明らかだ。
さっきは気が付かなかったけれど、知らないひとは男の子だけじゃない。女の子も居るようだ。庇い庇われるような彼らの立ち位置から見て、二人の関係はそれなりに近しいものだと考える。
けれどもそういう目線で彼らを観察した場合、一つおかしな点があった。その女の子は、なぜだか先輩の袖を掴んでいたのだ。
見れば見るほどちぐはぐな光景だったけれど、だからこそ状況がだいたい飲み込めた。これはたぶん、女の子の方から先輩に手を出したのだろう。それを嫉妬した彼氏が騒いで周囲に誤解を招いたといったところか。
先輩はなにげに顔も良い方だし、それほどあり得ない話でもないと思う。それにわたしも昔、これとよく似た状況を経験したことがあった。
あのときのわたしは逃げる事しか出来なかった。助けてくれる人も居なかったし、いくら言い訳しても、誰も聞いてくれなかったから。
けど、いまの先輩は独りじゃない。わたしは彼を助ける事ができるかもしれない。
けれど、このやり方は酷く独善的で、頭の悪い方法だ。
彼はそれを認めてくれるだろうか。
(あ…っ)
手出しすることを
投げかけられる言葉に彼が少し俯いた時、確かに見えたのだ。
ほんの一瞬だけ顔を出した、寂しそうな、悲しそうな目が。
認めてもらえなくてもいい。
バカな女だと思われても構わない。
あんな目をさせずに済むなら、喜んで笑われよう──。
わたしは彼の元へと駆け出していた。
《--- Side Hachiman ---》
その声を聞いたとき、俺の胸中は安心が2割、疑問が8割といった案配だった。
「せんぱぁーい、お待たせしましたぁー!」
最近すっかり耳馴染みとなった、しかしいつも以上に甘さマシマシな声が響く。結構なボリュームで放たれた彼女の声は広場を駆け抜け、そのラブリーなボイスに反応した人々の視線が発信源に集中した。
ピロキとまる子もその例に漏れず、そちらを見やる。
どうして来てしまったのか。
一緒に居るときに遭遇したのならともかく、運よく逃れた災難に自分から飛び込んでいく理由が彼女にあるとは思えなかった。損得勘定の得意な一色に限って、この状況の不利を察せられない訳がない。俺の関係者だと認知されてしまっては、この後どう立ち回っても赤字確定である。
俺の心中を知ってか知らずか、彼女は周囲の注目を切り裂いてトコトコと駆けてくる。無双ゲームキャラみたいでちょっと格好いいとさえ思ったが、彼女が引きずってくる視線の数に俺は震えあがった。
明らかにさっきより客が増えている。声がデカいんだよ声が。このままでは朝の二の舞、不可避イベント突入待ったなしだ。
これ以上面倒な事になる前に追い払おうと目で訴えたが、アリスを惑わすチェシャ猫の如く、彼女は悪戯めいた光をその目に宿していた。もの凄いイヤな予感がする。
不安を感じた俺が彼女の企みを看破する前に、状況は動きを見せた。
「いたっ」
綱引き状態にあった腕がぐいと引かれる。突然均衡を崩された俺は、一歩たたらを踏んだ。
しかし痛みを訴えたのは俺ではない。袖を捕らえていたまる子の方だ。一色は彼女の手を半ば払い落とすかのような勢いで俺の腕を強奪したのである。突然乱入してきた相手を睨みつけようとしたまる子は、しかし続く光景に目を丸くした。
一色が、奪った俺の腕をするりと自身の胸に抱き込んだからだ。
太ももとは別次元の柔らかさを押し付けられ、俺は息を飲んだ。
痛みを感じないギリギリの圧力。昨日のケガを気遣ってのことかもしれないが、なまじ丁寧に扱われたせいで、感触をはっきりと感じてしまう。
大きくはない。決して大きくはないが、そこには夢があった。お師匠様、ここが
「すみません、お手洗いちょお混んでてー。あれっ、こちらお知り合いですかー?」
いま気が付きました、とばかりにとぼけた顔をして敵性カップルに顔を向ける一色。
そう、彼女は何故かこの二人を"敵"と認識しているようなのだ。いや、雰囲気からそう感じただけなんだけど。なんつーか…そう、いつか折本達とバッタリ出くわした時の感じ。あれに似てるんだよな。
「…なぁんだ、連れって女の子だったんだぁ」
顔はそのままに、どこか冷たい声を出すのーまる子。
表情を維持したまま声色を変えるのはゆるふわファミリーの必修スキルなのだろうか。
それにしても、慣れというものは恐ろしい。一色とまる子を見比べた俺は改めて思った。俺はこんなのと二人きりでブラついてたのか…。
のーまる子と比べると、一色はまさに大当たりの
「どもですー。そちらもデートですかー?」
「あっ、えっとぉ、べつにデートってわけじゃないんですけどぉ…」
一色の視線が相手方の女子を撫でた時、その目が「勝った」と漏らしたのを、俺は見てしまった。
突然クラスURと対決するハメになったピロキの彼女は、まるで「私の戦闘力は53万です」と言われた誰かのように顔を引きつらせ──こそしていないものの、「くそったれ、ナメやがって…!」と覚醒できない自分に腹を立てる誰かのような気配を漂わせている。
改めて二人を見比べてみると、同族だからこそ、その違いが際立って見えた。
まる子が目鼻の造形をメイクで補正し、毛虫のようなつけまで目元を強調しているのに対し、一色は、元々くっきり整ったそれを軽いメイクで更に引き立てているのだ。睫毛も多少は盛っているだろうが、元から長いことはいつかの号泣の際に判明している。
あと個人的に、あちらさんはスカートから覗いている脚がやや太めなのが気になった。格別に酷いということもないのだが、いろはすの脚に関して今や一家言持ってしまっている身としては、比較するとどうしてもそういう答えになってしまう。
胸の方は…おっとドローですね。こちらの陣営唯一の泣き所かと思われたが、これで晴れて
「ひ、比企谷、そのコまさか──」
「いや違う」
脊椎動物が刺激を受けた場合に、脳を経由せずに起こる反応。
ぼっちが注目を浴びた場合に、とりあえず否定してみせる反応。
これらを総称して、脊髄反射という。
「もぉー」
ぷんぷんですよー、と言わんばかりの顔(実際には言わないのがプロの所業)で一色がむくれてみせる。
そういった細かい仕草ひとつとっても、二人の錬度は全く違っていた。具体的に違いを指摘するのは困難だが、ほんの少しの差の積み重ねが、大きな印象の差になっているのだろう。
素人にとって、有段者の実力差ともなれば、勝敗のみで語るしかないということだろうか。
「そのネタ飽きましたよぉ。何度も言われるとさすがに傷つきますしー」
恐る恐るピロキの方を見てみると、ポカーンと口を開けていた。多分、俺も同じ顔してると思うけどな。脳の処理能力を超えた事態に遭遇すると、だいたい誰でもこんな顔になる。
「えっとー、どういう関係に見えますかー?」
何か細くてスベスベとしたものが、俺の手の平を滑る感触が走った。艶めかしい刺激に驚いて見てみれば、一色の白い指が俺のそれと絡んでいる。いわゆる恋人繋ぎというヤツだ。
緊張に固まった指の間を彼女の少し冷たい指先がそっと撫でる。ゾクリとするのを通り越して、身体のどこかをピリリと電気が走った。
ななななんぞこれぇーー?!
手を繋ぐって、こんなにいやらしい行為でしたっけ?!
隣で寄り添う一色の顔は見えないが、繋いだ手をそのまま胸元に抱きこんだ彼女との距離は限りなくゼロに近い。
ほんのり感じていた甘い香りが俄然強くなり、先日刻まれたばかりの肌の感触が脳を食い尽くしていく。
そして急速に高まる俺の体温とは逆に、周囲の熱は一気に引いていった。
棘のように突き刺さっていた視線が散らばっていくのが分かる。彼女持ちがストーカーであるはずが無い、と判断されたのだろう。単純すぎると思うかもしれないが、「女連れ」というのは男にとってそれだけ強力な身分証明なのだ。実際、女性さえ連れていれば基本的に職質はされないのだと聞く。
一色はこれを見込んで、リスクを冒してまで飛び込んできたのだろうか。だとしたら、俺はまた彼女に大きな借りを作ってしまったのかもしれない。
「え…。ま、マジで比企谷なんかと付き合ってんの?君が?」
「あはっ。残念ですけど、恋人ではないですねー」
「だ、だよねっ!ありえないよな、比企谷じゃぜんぜん釣り合って──」
「いま三人くらい候補がいるんですよー。わたしはその中のひとりってカンジです」
「は…?」
再度固まったピロキと俺。
候補が三人…なんのことだろうか。一色が含まれるということは、後輩の候補とか?
なるほど、それなら二人目は小町だな。あと一人…そうか材木座か。既に留年扱いだなんて酷いですよ一色さん。
「こ、こいつが三股とか、冗談きついな、はは…」
「他の二人もちょお可愛いですよ?あ、これこれ。この前みんなで撮った写真です」
みんなで撮った写真。
そんなの本来ならば卒アル以外に有り得ないのだが、今の俺には思い当たるフシが一つある。
けど、だってあれは、全部シュレッダーで細切れにされて、マスターデータも雪ノ下が処分したはずで──。
しかし一色がスマホに表示して見せたのは、やはり例の偽装ハーレム写真だった。しかも目線修正を入れていない貴重なオリジナルバージョンである。このおっぱ…オーパーツがまだ現世に存在していたとは!
「…みんな超可愛いのも意味わかんないんだけど…、それよりもこれ、な、何やってるとこなの?」
「うーん、なんでしょうね。愛人ごっこ?」
呆然とするピロキにクスクスと意味深な笑いを返す一色。
何を馬鹿なことを、と突っ込みはしなかった。
あまりの過激発言に妄想が全力で先走りしかけたからというのもあるが、こちらを見つめる悪戯めいた彼女の目が「ウソは言っていませんよ?」と笑っていたからだ。
確かに彼女はさっきからそのスタンスを徹底している。
しかしこの言葉選びの巧みさ…いろはすって実は意外と賢い子だった?そういや発揮される機会が少ないだけで、やる時はやる子なんだっけか。
彼女は紙袋をぶら下げた俺の手をさわさわと撫で回しながらこちらの肩に
「それより先輩、そろそろ帰りませんか?新しく買ったゴムも試してみたいですし」
「ゴ…っ!?」
なるほど確かに、彼女はこのあと
「明日は日曜ですから、今夜はたっぷり夜更かし出来ますね♪」
繰り返すが、さっきから一色は何もおかしな事は言っていない。
明日は日曜だ、俺もきっと夜更かしをする。読書とかして。
しかし、さっきまでの会話の流れとこれらの単語を思春期回路に突っ込むと、壮絶な化学反応を起こすのは火を見るよりも明らかで──。
「な、なあ!君、さっき…」
「はい?なんですか?」
「さっき、彼女じゃないって言った、よね…?」
「そうですけど、シてないとも言ってませんよ?相性の良さもアピールのうちですし」
シてないとも言ってないが、シているとも言ってない。ついでに言うと、何の相性とも言ってない。
なんとも女子らしい言い草だが、論理的に矛盾していないのがこれまた腹立たしい。
しかしそんな些細な事に気がつくような理性など、彼にはもう残っていないのだろう。なにせネタが割れている俺ですら興奮させられているのだから。
ところで一色さん、いい加減、指の股をスリスリするのやめてくれませんか。ホントに立てなくなりそうです…。
「ひ、比企谷、そんな可愛い子と…彼女でもないのに!」
「わー、ありがとうございます♪でも、ちゃんと見ててあげないとダメですよ?彼女さんこそ、とーっても可愛いじゃないですかー」
一色の言葉にぴくりと反応したのは、ピロキではなくまる子の方だった。
それはそうだろう。これほどまでに上から目線の"可愛い"は、未だかつて聞いた事がない。
引きつった笑いを見せるまる子。アヒルの真似事なんて、とうの昔に崩壊している。
こういう場合、「そんなことないよ、あなたの方が可愛いよ」と返すのが女子の決闘における礼儀だと認識していたのだが、彼女の口からそのテンプレはついぞ返ってはこなかった。本当に自分より可愛い相手にはお世辞でも言いたくないのだろうか。ガチのハゲ理論はここでも通用するらしい。
思うに、この
「じゃあ、わたし達は失礼しますねー。行きましょ、先輩」
「も、もげちまえこのヤロー!」
ピロキの恨み言が、なぜだか後ろから聞こえた。 気が付くと、俺はいつの間にかその場に背を向けて歩き出していたのだ。一見するとこちらに身体を預けている一色が、その実プロのダンサーのように歩みをリードしているのであった。
一色さん、マジかっけーわ。
* * *
そのまま言葉もなく真っ直ぐに歩き続けた俺達は、ららぽのエントランスへと辿り着いた。
絡まっていた指を解き、一歩距離をとった彼女は「ふう」と吐息を漏らす。
やっべ、手汗すごい。ごめんないろはす。なんならもっかい死海の塩で洗浄しに行ってもいいんですよ?
「な、なんか疲れちゃいましたねー。今日はそろそろ帰りませんか?」
「だな」
確かに、今さらショッピングを続けるような空気でもない。俺達はつかず離れずの距離を保って駅へと向かった。元々そんなに長居するつもりもなかったし、丁度いいと言えば丁度いい。
帰り道の電車の中、ようやく熱暴走の収まった脳味噌を回して、俺はあれこれと思案していた。
さっきの状況は、前に葉山が折本相手にやらかした時の状況に少し似ていた。あの時呼び出された二人は葉山に騙されて来ただけで、おまけに同盟破棄寸前の険悪状態だったのだから、正直、生きた心地がしなかった。
戦国時代に例えるならば、浅井朝倉の相手をするうち武田信玄と上杉謙信に背後をつかれた織田信長とでも言おうか。それほどにありえない死地だった。
対して、今回自ら当て馬として飛び込んできた一色は、終始頼りになる相方だった。戦場全てを華麗に欺き、すぐさま転進。手段はともかく、俺好みの名差配と言える。
ただ、ひとつだけ気掛かりがあった。少しやり過ぎたのではないかという点だ。
これはもちろん、ピロキ達に対する心配などではない。恐らくどこからか監視していたであろうストーカーに見せるシナリオとしては、あまり望ましいものではなかったのだ。助けられておいて言うことでもないのだが…。
すっぱ抜かれたアイドルが愛想を尽かされるように、ファンが離れていくのならいい。偽装彼氏だって、元はそれを狙った作戦だったわけだし。
しかし相手は俺を憎み、一色にはその矛先を向けなかった。その心理を単純に推し量れば「今は騙されているだけだ」とか「目を覚まさせてやる」だとか、そんな考えが透けて見える。
一色に危害が加えられることはないと俺が確信しているのは、ヤツにとっての彼女が侵されざる聖域として認識されているからだ。
しかし、さっきの彼女の言動を見た相手が、もし「手遅れ」だと判断したら──。
「や、やっぱり先輩が変わってるんですね!」
あれこれ考えていると、ずっと黙っていた一色は、急に取り繕うような顔で笑ってみせた。
「最近先輩にスルーされてばっかだったんで、わたしの魅力が落ちたのかと思ってちょっと凹んだりもしたんですよ?ま、ご覧の通り、ぜんぜんそんなことなかったみたいですけど」
降りるべき駅が近づき、彼女は扉の前に立つ。
張り付けた笑顔の裏の表情は、ガラス越しにも量れない。
「……先輩」
電車は駅へと滑り込み、開いた扉から彼女はホームへと降り立った。
「余計なことして、ごめんなさいでした」
振り返った彼女は不安そうにこちらを見上げる。
その目は、悪戯を咎められた子供のようだった。
「や、やっぱああいうの、イヤでしたよね…」
…こいつ、ずっとそんな事考えてたのか。
マズったな。延々考え事をしていたせいで、どうやら誤解させてしまったらしい。
どうしよ、慰めるのとか超苦手なんですけど。助けて小町先生!
あ、小町と言えば──これまだ渡してなかったっけ。
「一色、これ。今日の土産な」
買っておいた"参加賞"を、彼女に押しつける。
「…えっ?あ、ありがとうございます…。でも、なんで…?」
だから別に怒ってないんだっての。
けどまあ、あれからずっとむっつりしてた俺に今さら言われても、そうは思えないよな…。
渡された袋と俺の顔を交互に見比べている一色。豪胆なようで気の小さいこの後輩に、何と声を掛けるべきか。
発車のジングルが鳴り響き、扉が互いを隔てるその間際。
迷った挙げ句、俺は端的に正直な気持ちを告げた。
「すげえスカッとした。かっこ良かったぞ」
* * *
人気の少なくなった電車に揺られながら、彼女が別れ際に見せた表情を、俺は思い出していた。
(あいつ…あんな顔するんだな…)
安心したような、心底嬉しそうな、はにかみ顔。
初めて見たその表情は、俺にとっての一色いろはの認識を根底から揺るがすような、無垢な笑顔だった。
もしも初めて会った時にあれを見せられていたら、俺は一体どうなってしまっていただろうか。少なくとも俺の人生において"あざとい"という単語を発する機会は激減していたに違いない。
考えるべきことは他にもあるはずなのに、どうにも思考が定まらない。目を閉じると亜麻色の少女の姿が浮かんでは消える。
参ったな。
少し、近付き過ぎたのかも知れない。
後で痛い目を見るのは自分だというのに…。
街並みの流れる車窓に目をやると、見慣れた自分の顔が映っていた。
誰かさんの笑顔とは比べるべくもない、
胸に籠もった熱い吐息でもって、俺はその薄ら笑いを白く塗り潰したのだった。
いろはすに抱かれ隊、隊員募集中!