π先輩ではありません。
<<--- Side Iroha --->>
せっかく取り付けた30分という猶予はあっという間に過ぎ去り、わたしは慌てて待ち合わせ場所へと向かった。
夕焼けに染まる校門の前には結衣先輩が一人ぽつんと佇んでいる。
寒さを紛らわすためか、彼女はその場で小さくピョンピョン跳ねていてた。合わせて揺れる膨らみに通り過ぎる男子の視線が注がれているんだけど…気がついてないんだろうなー、あれは。
先輩が見ていない時の彼女は、いつもこんな風に隙だらけなのかもしれない。
駆け寄るわたしに気がついた結衣先輩は、ぱっと笑顔を浮かべてこちらに手を振ってみせた。
「お待たせしました、結衣先輩。急にワガママ言ってごめんなさい」
「んーん、それは平気だけど…なんかあったの?顔色悪くない?」
結衣先輩が鋭いのか、それともわたしがよっぽど酷い顔をしているのか。
そういえばさっき先輩にも会ったんだった。情けないとこ見られちゃったかなぁ。
「…歩きながらでいいですか?」
二人連れ立って校門を後にする。
相変わらずむき出しのままの手が冷たくて、彼のポケットに突っ込んだ時の事を思い出した。
本当なら心だけでも温まるような記憶だけど、今日のわたしにとっては別の出来事を思い起こすきっかけでしかない。
「ヒッキーの話…とは別っぽいね」
こちらの顔色を慎重にうかがっていた結衣先輩は、すぐにわたしの気持ちが恋愛事に向いていないことを看破した。これだけテンションが低ければ、当然かもしれない。
「はい…。本当はそっちの話をするつもりだったんですが…またちょっとトラブってまして」
「また?!」
「ごめんなさい、ご迷惑ばかり…」
「あっ、違う違う!相手に怒ってるの!例の男子?ホントしつこいねー」
「まあ、犯人が誰かは分からないんですけどね…」
とくに証拠はないけど、きっとそうなんだとは思う。それに、別の人が犯人だったなら、むしろそっちの方が怖い気がする。
「…で、今度は何してきたの?」
「えと…さっき教室で──」
徐々に暗くなっていく地面を見つめながら、わたしはさっきの出来事を結衣先輩に打ち明けた。
* * *
「さてさて、何が出てくるやら…」
紙袋に手を突っ込むと、ふわっとした暖かな手触りが返ってきた。
その柔らかい感触にとりあえず安心し、思い切って中のものを掴み、取り出してみる。
「……………………ひっ!!」
ガタンッ!
中身を見た瞬間は、それの意味するところが理解できなかった。
そして理解した瞬間、わたしは紙袋から反射的に手を離していた。
勢い余って机にぶつけてしまったけれど、痛みの感覚が追いついてこない。
「ふえっ!?」
突然の物音に、教室でひとり居眠りをしていた女の子がビクリと顔を上げた。
わたしの思考はショックのあまりほぼ停止していたけれど、鍛え上げた外面スキルが無意識のうちにその場のフォローを続ける。
「ご、ごめーん!虫かと思ったら毛玉だったぁ…」
「…あははー、この時期って超毛玉るよね」
「そ、そだねー。起こしちゃってごめんねー?」
「ううん、そろそろ帰るし」
彼女はカバンを取ると、ふらふらと危なっかしい足取りで教室から出て行き、わたしはひとりきりになった。
訪れた静けさに反比例して、心臓の音がどんどん大きくなる。
遅れてやってきた手の痛みが、ズキズキと同じリズムを刻んでいる。
どうして…?
やだ、怖い…。
気持ちわるいっ…!
紙袋には、無くしたはずの手袋が入っていた。
* * *
「ひいぃぃっ!ヤバっ!怖っ!いやマジ怖いから!」
話を聞いた結衣先輩はなんだか面白いくらい怖がっていた。
彼女の反応を見て、話しているうちにまた荒れてきた気持ちをなんとか落ち着かせる。
そうだよね、取り乱すのが普通だよね。
「その…手袋だけどさ、触っても平気だった?…ヌチャッてしなかった…?」
「う…イヤな擬音つけないでくださいよー。幸いというか、それはなかったです。逆にクリーニングされたみたいなカンジになってて…」
「それはそれでイヤだー!」
「はい…何されたか分かったものじゃないです。分かりたくもないですけど」
どっちにしても、一度見知らぬ他人の手に渡ったものを身に着けられるほど図太くはない。
どんなに見た目が綺麗になっていても、恐ろしくてまともに触れなかった。
「それで、その手袋はどうしたの?」
「ゴミ置き場に捨ててきましたけど…まずかったですかね?」
「んー、どうだろ。あたしでもそうしたとは思うけど、ヒッキーならどうしたかなって思って。言ってないんだよね?」
「はい…。さすがにちょっと…。心理的にダメージ大きいっていうか…」
最初は男子が相手だから言いたくないのだと考えた。
けれどさっき偶然葉山先輩に会って、すぐ相談してみようという発想が浮かんだ時点で、言いたくない理由はそれではない事に気が付いた。
知られたくない。
先輩にだけは、こんなの知られたくない。
上手く理由が見つけられないけれど、とにかくそう思った。
それに──
「ていうか、昨日の今日でまたこんなの、さすがの先輩でも付き合いきれないですよー。あはは…」
毎日毎日、わたしはどれだけ迷惑をかけたら気が済むのだろう。これ以上頼って呆れられるのが、何よりも怖かった。
「そんなことないよ!」
語気も荒く、結衣先輩は大きく見開いた目でこちらを見据えていた。
「ヒッキーは投げ出したりしないよ!ぜったい!」
「…結衣先輩は、信じてるんですね」
わたしも先輩の事を特別に思っているし、生徒会でさんざんお世話になっている手前、とても信用できるひとだとは思っている。けれど、今の自分は全く笑えないレベルの面倒を彼にふっかけている。わたしが逆の立場だったら、ただの後輩にそこまで付き合ってやれる自信が無い。
彼女はどうしてそこまで強く言い切れるのか、純粋に不思議だった。その口ぶりから、何か明確な根拠があるようにすら感じた。
「──うちね、犬飼ってるんだ。サブレっていうんだけど、これが超かわいいの」
わたしの表情から疑問を察したらしい結衣先輩は、遠い目を空に向けて、白い息を吐き出した。
「え?」
「毎朝お散歩に連れてくの。あたし運動苦手だから、いいダイエットにもなるし。あ、ミニチュアダックスなんだけどね。脚とか超短いくせに、走るとすっごい速いの」
急に話が変わって戸惑うわたしを置いて、彼女は続ける。
聞いているうちに、それがとても大事な話なのだという気配を感じ、わたしは口を噤んだ。
「春頃にね、散歩中にサブレが急に道路に飛び出しちゃったんだ。リードちゃんと持ってなかったあたしが悪いんだけど。そこに運悪く車も来ちゃって…」
「……」
結衣先輩の口ぶりから痛ましい展開を想像してしまい、居た堪れない気持ちになる。
けれど彼女は晴れやかな表情で、想像とは全く別の、そして今に繋がる結論を語った。
「でもヒッキーが助けてくれたの。全然知らない人の、しかも犬を庇って。自分は骨折までしちゃって」
懐かしそうに笑う彼女の言葉。
そこには分かりすぎるくらいの感情が乗っかっていた。
ああ、そうか。
馴れ初めを語っているのだ、彼女は。
本人にそのつもりは無かったのかもしれないけれど、顔を見ればそんなのすぐに分かる。
「その後もまあ、色々あったんだけど…えと、何が言いたいかっていうとー」
少しだけ心に刺さるものがあったけれど、それでも聞かずにはいられなかった。
「──それで好きになっちゃったんですね」
「うえっ!?いや、そのっ、そういう話はしてないしっ!なんでそうなるの!?」
「違うんですか?」
「違うよ?その頃はそこまで好きじゃなかったし!」
「じゃあ今は大好きってことですね」
「やっ、その…違くて!ず、ずるいよ!今のナシ、もっかい!」
「いやーわたし、もうお腹一杯ですし、もっかいはちょっと…」
「ふぎーーっ!…じゃ、じゃあ次いろはちゃんの番っ!はいどうぞ!」
「わかりました。では葉山先輩と会った時の話を──」
「むきーーっ!ずるいずるいーっ!」
赤くなって大騒ぎする結衣先輩を見ていたら、未だに葉山先輩を隠れ蓑にしている自分が情けなくなってきた。
どうして昨日聞かれたとき、言ってしまわなかったんだろう。ヤキモチを焼いて欲しいのは先輩、あなたです、と。
彼女はこの話を他人にするのは初めてのことだと言う。
確かに、もし話して聞かされたとして、このエピソードはきっと殆どの人間が信じないだろう。
もしくはこの可愛らしい結衣先輩に対しての下心があっての行動と言われるかもしれない。
「あたしが飼い主だってこと、ヒッキー知らなかったんだけどね」
結果的にはこうしてお近づきにこそなったものの、一時はその事故が原因で険悪になりかけたのだとか。
どうしてそうなったのかは分からないけれど、あの先輩のすることなら何があってもおかしくはないかな、とだけ思った。
この話をなぜわたしに、なんてヤボなことは聞かない。
彼の本質に少しでも触れられたわたしなら、その話を信じられると思ってくれたからだろう。
「…ごめんなさい」
自然と言葉が漏れていた。
「わたしの為にしてくれたお話なのに、ちょっと妬いちゃいました」
こうして謝っても、抱いてしまった感情は消えてなくならない。
せめて罪悪感を減らしたくて、わたしは正直に気持ちを伝えた。
「…あたしこそゴメン。凹んでる時にする話じゃなかったかも。なんか脱線しちゃったね」
えへへ、と髪を弄りながら苦笑い。
それに、と彼女は続けた。
「あたしもいろはちゃんに嫉妬したこと、何度かあるし。おあいこかな」
「え…?そんなことあったんですか?」
わたしが羨ましがられるようなことが、今まであっただろうか。
強いて言うならスキンシップくらいだろうけど、折角のアドバンテージも昨日の一件ですっかり消えてしまったような…。
「ま、まーそれはいいじゃん。それよりヒッキーに相談するって話!」
「…はい、そうでしたね」
話すつもりがないことを無理に掘り返すのも悪いので、彼女の強引な話題転換に合わせる事にした。
「先輩が途中でわたしを見放すかも、というのは失言でした。もう言いません。ただ、先輩にだけは知られたくないんです」
「……」
「すみません、うまく説明できなくて…。でも、どうしてもイヤなんです!」
先輩を信用していないわけじゃない。そんな失礼な事を今更思ったりはしない。
信用していて、信用されたくて、なのに言いたくない。
よくわからない。矛盾している。頭がもやもやする。
「そっか…。そだよね。気持ち、分かるよ」
「でも、わたしには、わかりません…」
縋るような目で彼女を見つめた。
自分自身も上手く言葉にできない事を、彼女は分かると言う。
「ヒッキーに
口ごもりつつ説明してみせた結衣先輩は、はにかみながらこう言った。
「そんなの、友達には言えても、好きな人には言えないよ」
「あ…」
彼女の言葉は、すとんとわたしの胸に落ちた。
例え相手の身勝手な妄想でも、一方的に汚されたような気持ちになった。
先輩との距離がまだ近いとは言えないから、余計にそう思うのかもしれない。
ぎゅっと抱きしめて頭を撫でてもらえたら。
そうしたらすぐに安心できるのに。
ひどくしっくりくる説明。
わたし以上にわたしをきちんと説明して見せた彼女に、けれど素直に頷くのも悔しかった。
「…そうかもしれません」
「うん、そうだ」
彼女は優しげな声で一言、わたしの気弱な返事を肯定してみせたのだった。
* * *
「話、蒸し返すようでゴメンなんだけど…」
二人の間のぎこちない雰囲気が抜けたあたりで、結衣先輩が口を開いた。
「手袋の件ね。やっぱなんかの形では教えといた方が良いと思う。いろはちゃんだけで抱えてるの、良くないっていうか。それにわりと大事な手がかりのような気もするし…」
「あ、そうですよね…。すみません、その、せっかくの手掛かりを捨てちゃって」
「あー…そ、それはしょうがないんじゃん?キモイし」
うげーっと舌を出す結衣先輩の変顔に笑っていると、彼女はスマホを取り出して言った。
「ねえ、ゆきのんに相談しない?ヒッキーに教えるべきかどうか。なんならいいカンジにぼかしてくれるかもだし」
「そうですね、雪ノ下先輩なら…」
こんな話から程よく必要な部分だけを上手く切り出すのは、この恋愛脳な二人では難しいかもしれない。
同意を示すと、結衣先輩はすぐにスマホを耳に当てた。
「じゃ、ちょっと待っててね──あ、ゆきのん?あたしー!」
「え!今すぐですか?!」
止める間もなく、既に会話は始まっていた。
結衣先輩、わたしより即断即決ですね…。
「…え!ちがうよ、詐欺じゃないし!結衣だってば!……え?やだー、あはは。ビックリした!」
オレオレ詐欺扱いされたみたい。
雪ノ下先輩、わたしにはまだ冗談とかあんまり言ってくれないんだよね…。
「そこにヒッキーいる?……うん……え、隼人くん?なんで……うん……そうなんだー」
葉山先輩…そう言えばさっき一緒にいたっけ。
もしかしてあのまま部室には戻っていないのかな。
さっきは余裕がなくて気が付かなかったけど、そもそもあの二人はあんなところで何をしていたんだろう。
「──じゃ、公園過ぎたトコのTully'sで。…うん、ありがとゆきのん。待ってるね!」
今さらだけど、こんな雑な呼び出しであの雪ノ下先輩を引っ張り出せるんだから、結衣先輩も実は相当すごい人なんだよね。そしてその二人や生徒会長のわたしをこうも振り回す先輩は、もっとすごいのかも。
そんなことを考えていると、電話を終えた結衣先輩が公園の方を指差した。
「来てくれるって。とりあえず移動しよっか」
「わざわざありがとうございます。でも、部活はいいんですか?」
「なんかヒッキーもどっか行っちゃったし、あたし達もこんなだし、今日はお開きにするみたい」
「…どっか?」
さっき葉山先輩って言っていたし、事情を聞いていたように見えたけど…どうして隠すんだろう。
もしかして変な誤解をしてるんじゃ…。自分を巡って男子二人が争っているだとか思いませんから。わたしの脳内お花畑はそこまで満開じゃないですから。
「うん、どこだろー、サボリかな?いろはちゃんと一緒に帰れなくてスネてるのかも!」
「そ、そーかもですねー!」
互いの会話の端々に微妙な違和感を残しつつ、わたし達は雪ノ下先輩との待ち合わせ場所へと向ったのだった。
* * *
「それは災難だったわね」
すっかり日が落ちて暗くなってしまったけれど、時間的にはそれほど遅くもない。
社会人が出入りするより少し前。わたし達学生が入り浸る喫茶店の中は、どこか学園祭のような空気に満ちていた。
ミルクティーのカップをコースターに置くと、雪ノ下先輩は俯いて長い睫毛をふるわせた。
「当然、比企谷くんにも伝えておくべきだと思うけれど…それが難しいから私は今ここに居る──そういう理解でいいのかしら」
「えっと…どうしてもってことでしたら我慢しますけど、出来るだけ内緒にしたいです」
「その理由を聞いても?」
「だってフツーに恥ずいじゃん。いろはちゃんの使ってこすったりしてたら大変でしょ!」
「結衣先輩、さっきまでの配慮はどこへ?!あと声おっきいですから…!」
あとその言い方もひどいですから!既に大変なカンジになっちゃってますから!
わたし達が三人揃ってたら、ただでさえ目立つっていうのに。ほら、向こうの席の男子とかこっちガン見してますよ!てか見んな!しっしっ。
「ゆきのんも女の子なんだからわかるでしょ?」
「そうね…。私物紛失に関して言えば、かなりの回数は。当時は同性のやっかみだとばかり思っていたのだけど。今考えると、そういう用途で男子に盗まれた物もあったのかも知れないわ」
「普通に経験者だった…。そして超平気そう…」
「雪ノ下先輩、マジ揺るぎないですね…」
「だって、たかがモノでしょう?しかも一色さんはその手袋を使わずにそのまま廃棄した。なら、何をそんなに気にしているのか分からないわ。別に貴女の手が直接汚されたという訳でもないのだし」
「そ、それはそうなんですけど…」
「誰の頭の中でどんな事になっていようと、現実の貴女はその相手の自由にはならない。貴女の全ては貴女だけのものよ。だから、貴女が自らの意志で捧げたものにしか価値は無い。少なくとも、私はそういう風に考えているの。写真だろうが私物だろうが、好きにすればいいのよ」
言い切って、彼女はまたカップを口に運んだ。
「ゆきのん、こないだの写真、超イヤがってたじゃん」
「…けほっ!あ、あれは事情が違うわ。水着だったし、身体の線も全部見えてしまっていたし…」
「あ、やっぱりおっぱいはNGなんですねー」
「おかしいわね。さっきから慰めの言葉を選んでいるのに、お返しに喧嘩を売られているような気がするのだけど」
「じょ、冗談ですよー」
「でもさ、自らの意志で捧げるとか、なんかロマンチックじゃない?」
「雪ノ下先輩って、けっこう乙女なトコありますよね」
「想い人に知られたくないと泣きついてきた人にだけは言われたくないわ」
「なっ、泣いてないですし!……あっ」
そこまでノリで喋っていて、ふと誘導尋問に掛かった事に気が付いた。
雪ノ下先輩はくすりと笑いを零している。
やっぱり彼女も気が付いていたらしい。
もう隠しているのが馬鹿らしくなるくらい、わたしの秘め事は各方面にバレバレだった。
「…雪ノ下先輩は、いいんですか?」
この期に及んで言葉を濁しながら、わたしは尋ねた。
よくない、と言われたら、どうするつもりだろう。
問われた彼女はカップに視線を落したまま、小さな声で答えた。
「…確かに、私は彼に特別な感情を抱いているのかもしれない。でも、それがどんな感情かが分からないの。綺麗なものではなくて、酷く淀んだ何かかもしれない。だから貴女達に対して抱くこの感情も、単純な嫉妬かどうか自信がないのよ」
他人から見れば一目瞭然でも、本人にとっては難しい問題だ。
ついさっき結衣先輩と似たような問答をしたわたしの立場からすれば、あまり偉そうなことも言えないのかも。
それでも他人の恋路に口を挟みたくなるのが女の子という生き物なのだった。
「ゆきのん、難しく考えすぎ」
「そうですよ。このひといいなーってフィーリングに正直に生きるべきです」
「…貴女達はもう少し慎重になった方が良いような気もするわね。それに万が一私がそうなったとして、貴女達には不利益しかないんじゃない?」
「その時はその時ですねー」
「なってから考える!」
「…全く」
異口同音に言葉を返すわたし達を見て、濃い苦笑いを浮かべる雪ノ下先輩。
「少し、羨ましいわ…」
小さく漏らした言葉は、紅茶に落した一滴のミルクのように、店の喧騒の中に消えたのだった。
* * *
家に帰ると消し忘れていたエアコンが健気に仕事を続けていて、暖かい空気に迎えられた。
リビングには一枚の書置き。
いつもの事だし、寂しいとも恨めしいとも思わない。ただ、働きすぎを心配するだけだった。
冷蔵庫を漁ってみると、野菜と鶏肉がまずまず。
お雑炊か、もしくは煮込みラーメンにするか。
ラーメンはまた先輩と食べたいな。お雑炊にしよう。
食材を取り出しながら、考える。
先輩に迷惑ばかり掛けて、何も恩を返せずにいるこの現状はどうしたものだろうか。今のわたしは間違いなくメガトン級に重い女だ。昼間はああいったものの、限度というものもある。出来る事なら少しでも軽くしておきたい。
「お礼にデート…は、わたしがしたいことだしなぁ…」
やはりここは切り札を投入すべきかも。スマホを片手にブラウザを立ち上げる。
『彼氏 お弁当』と入れてから、ちょっと首をひねる。折角なので『ラブラブ』を足してみよう。
「うひー、はずかし…死ねる…」
自分で入れた検索ワードを見返して、三回くらい悶死しそうになりつつ──
表示された内容とにらめっこして、わたしでも実現できそうなレシピを探していく。
いわゆる肉じゃがみたいな王道で攻めたいんだけど、あれは味付けにセンスが問われる。
食べられる程度には作れても、それじゃあわたしが納得できない。まあまあ、ではダメなのだ。
今回は洋食にしておいたほうが無難だろうか。
先輩、ブロッコリーとか嫌いそう…食べられるかなぁ。
実際のところ、わたしはあまり料理が得意というワケでもない。もちろん人並み以上には出来るつもりだけど、わたしにとってそれは「得意」とは言えないのだ。他人に自信を持って食べさせ、「美味しいですよね?」と聞けるレベル。今のところ、それを満たしているのはお菓子作りくらい。
手先は器用な方だし、本気を出せばそこそこいいセンまで行けるとは思う。そこまでしていないのは単にこれまであまり興味がわかなかったからだ。既に自分が食べられる程度の料理は作れるし、これまでに誰かに食べさせたいと言う気持ちになったことがなかった。
「そんなことして、どうして嬉しいんだろ…わかんないなー」
わかんないけど、想像するとだらしなく口元が緩む。
考えただけでこんなに楽しいのだから、味を褒められたら感極まって泣いてしまうかもしれない。
「いやいや、それはちょっとキモいでしょ…」
調べ物の片手間で用意していた一人用のミニ土鍋には、いつしか湯気の立つ晩御飯が出来上がっていた。
仕上げに溶き卵。隠し味にほんだしを少々。
「…うん、おっけー、90点。いただきまーす」
レンゲですくったアツアツのお雑炊に、ひたすらふうふうと息を吹きかける。
味は問題ない。
でも少し、心が冷たい。
この前風邪の時に食べた雪ノ下先輩の作ったのは、もっと美味しかったかな。
考え事をしつつ、冷蔵庫の有り合せで自炊できる程度には、わたしの料理技術はこなれている。家庭環境がこんな状況なので、仕方無しに身についたものだ。
そのおかげであの結衣先輩から確実に勝ち点をもぎ取れるのだから、人生というのは何が吉と転ぶか分からない。
勝負をするならここで出来るだけ稼いでおかなくては。好みさえ間違えなければ、おいしく完食してもらえる物が作れるはず。
単純なわたしの脳内は、
* * *
Piririri──Piririri──
食事を終えて料理本を開いていると、耳慣れない電子音がわたしの部屋に響き渡った。
妄想を止めて音源に目をやる。ベッドの上に放ってあったスマホからだ…けど、この音はなんだろう…?
アドレス帳にあるほとんどの相手は細かくカテゴリ分けしてあって、それぞれに着信音を設定してある。大抵は楽曲だから、味気ない電子音というのはまず滅多に聞くことがない。
画面を見てみると、やっぱり知らない電話番号が表示されていた。
「おっ!これもしかして、先輩の?」
メールアドレスは教えてもらったけれど、なぜか頑なに電話番号は教えてくれなかった。あまり電話が好きじゃないし、用件はメールでも伝えられると彼は言っていたけれど、わたしとしてはメールなんて基本的に口実でしかないから、何とか手にいれる方法は無いものかと頭をひねっていたのだった。
何の用事かは分からないけど、もしや棚ぼた?
堂々と番号をゲットするチャンス到来?
「も、もしもしー?」
少し上擦った声で電話を受ける。
『……………』
「…もしもーし」
だんだんと興奮が冷め、頭に冷ややかな血が巡る。
女の子との電話で緊張しているのかとも思ったけれど、どうやらそういう雰囲気ではなかった。
イタズラ電話だ。
これも初めての経験じゃない。
『……………』
「~~~ッ!」
苛立ちを隠さず、わたしは通話終了アイコンを指で何度も突っついた。
受けた番号に対して手早く着信拒否の設定をする。前に散々悩まされた時にやったことがあったので、手順はきっちり覚えていた。こんな幼稚な手にいちいち付き合っていられない。
「喜んで出ちゃったじゃんか!もぉ~っ!」
スマホをクッションに向かって投げつけ、そのままわたしも顔を埋めた。
Piririri──Piririri──
「…えっ?!」
さっき確かに設定したはずだ。
久しぶりだったけど、手順は間違っていないはず。
表示されているのは、さっきとは違う番号だった。
もしかして、今度こそ先輩から?
淡い期待を込めて、通話アイコンに触れる。
「………」
わたしの方からは口を開かない。
『……………』
「………っ!」
すぐさま電話を切る。
着信拒否の設定をする。
手が震えてうまく操作できない。
Piririri──Piririri──
「ひっ!」
もたもたしている間に再びの着信。
慌てた拍子に思わず取り落としてしまった。
「あ…」
カバー、本体、バッテリー。
床に落ちた勢いで、スマホは見事に三つに分離した。
しばらく呆然としていたけれど、そのうち笑いがこみ上げてきた。
「…は、あはははっ、あはははっ!」
そういえば、前に先輩が言ってたっけ。
わたしのスマホはユルユルだとか。ものすごく失礼な表現だったから気になってたけど…。
そっか、コレのことだったのかー。
「……はぁー」
よくわからないけど、とりあえずはもう大丈夫。
さすがにこの状態じゃあ イタズラ電話だって掛かりようが──
RURURURU... RURURURU...
「………ウソでしょ」
一階から電話機の音。
ママは今夜も仕事だ。誰も出てはくれない。
どうしよう。誰かに相談しようにも、スマホが使えるようになったらまたきっと…。
ううん、今は家の電話が鳴っているんだから平気のはず。
むしろ今しかない!
手早く分離したパーツをはめ直して電源を入れる。
起動のロゴマークがもどかしい。
家の電話はずっと鳴り続けている。
はやく、はやくっ!
「結衣先輩…ううん、こういう時は雪ノ下先輩の方が──ってそっちは番号知らないんだった!」
ようやく立ち上がったスマホを叩くように操作して、アドレス帳から連絡先を探す。
Piririri──Piririri──
「きゃあっ!」
すかさずスマホに着信が入る。
RURURURU... RURURURU...
家の電話の方も、未だ飽きもせずに鳴り続けている。
なにがなんだかわかんない。
相手は一人じゃないってことなの?
「も、もうやだ……」
またスマホを投げ出したくなったけれど、昼間の雪ノ下先輩の毅然とした態度を思い出した。
泣いてばかりじゃ何も解決しない。
貴重な高校生活を、いつまでもこんな相手に浪費させられるなんて真っ平だ。
大きく息を吸う。
ぱん、と頬を両手で張る。
画面を睨んで、それから通話アイコンにゆっくりと手を伸ばした。
例によって一話が長くなりすぎたので、分割しました。
つまり次話も短いながらほぼ完成してるわけです。やったね!
活動報告に書いた件は、次の次の次くらいになるかと思います。