そうして、一色いろはは本物を知る   作:達吉

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自分も身体を壊して、派手にダウンしたりして。
呆れた読者様にお気に入りを外されたりもしつつ、めげずに投稿にこぎつけました。
一ヶ月も引っ張ってしまってごめんなさい!

正解者はこちら!よく出来ました!よく出来ました!(平成教育委員会)


■12話 妹の居るお兄ちゃん

 

<<--- Side Hachiman --->>

 

 

「…それにしても、遅いわね、一色さん」

 

葉山の来訪がなかったかのようにすまし顔に戻った雪ノ下は、手首を返して高そうな文字盤を眺め、呟いた。

大して長話をしていたつもりもなかったが、確かに世界は夕方から夜と呼ぶべき時間帯へと移りつつあり、事前申請抜きで居残る事の出来る限界が近づいている。

 

「すぐに終わるような口ぶりだったけれど」

 

「あたし電話してみる」

 

スマホを耳に当てた由比ヶ浜は、自分の尻尾を追いかける子犬のように、頭から垂らした短い房を揺らしながらうろうろと室内をしばらく徘徊し、あれー?と首をかしげた。

 

「電源入ってないって言われた…どゆこと?」

 

誰ともなく顔を見合わせ、据わりの悪い沈黙が場を支配した。

 

「校内ではそうそう電波も切れないでしょうし、普通に考えればバッテリー切れなのだけど…」

 

「なら俺が回収してくわ」

 

どうせ今日も送るんだし、と二人に先に帰るよう示唆したが、雪ノ下は

 

「いえ、もう閉めるわ。皆で行きましょう」

 

と帰り支度を始めた。

 

「比企谷くんだけだと心配だし」

 

冗談めかした口調だったが、雪ノ下の目は笑っていなかった。寝ているかもしれない一色に俺がするであろう犯罪行為を真剣に心配して、のことであれば、いつも通りジャポニカ復讐帳に一筆書いておくだけで済むのだが、おそらくそうではない。

「待って待って」と今日も残ったスナック菓子を詰め込む由比ヶ浜の頭からは早くも飛んでしまっているみたいだが、今の一色は、雪ノ下が言及を避けた"万が一"という状況に無縁ではないのだった。

ならばなぜ一緒に行ってやらなかったのかというと、直前の会話の流れだとか、どうせ他の役員もいるのだろうとか、そういう言い訳で自分を誤魔化したからなのだが、無駄にはやる気持ちのせいもあって、今は少しばかりそれを後悔し始めていた。

 

そんな俺の複雑なようで単純な心理などお見通しなのか。責任を追及するような素振りは見せず、ただ手早く身支度を整える雪ノ下に部室の施錠を任せ、一足先に生徒会室へと向う。

 

「…ったく」

 

握った手にかいた汗が冷えて気持ちが悪かった。

 

暗い廊下の向こうに目当ての部屋の明かりを見つけたとき、いつの間にか小走りになっていた自分に気が付いて、「普通に気持ち悪いですごめんなさい」とフラれては居たたまれないので、減速しながら大きく息を吸って整えた。

 

何でこんなに緊張してるんだ、別に皇帝陛下に面会するわけじゃなしと思ったが、よくよく考えるとあいつはウチの女帝といって差し支えない立場の人間だった。目の上…もとい雲の上のたんこぶである。どっちにしてもたんこぶなのかよ。

あいつなら「パンが無いならケーキを作りますよー、わたし得意ですから!」とか言い出しそう。なにそれ暴君なのか名君なのかさっぱり分からん。

 

オーケー、平常運転に戻った。

 

辿り着いた生徒会室の扉を、努めて冷静にノックしてみたが、中に動きがある気配が無い。扉を引こうとしたら、生意気にも中から施錠されているときた。

 

目の高さに填められたすりガラスから煌々と漏れる光は中に誰かが居る事を確信させるのだが、トイレにでも行っているのだろうか。当人が居たらデリカシーについて小一時間説教されかねない推理をしつつ、やけに立て付けが悪い扉の隙間からこっそり中を覗いてみる。

何だか物凄く悪い事をしているような気分になるが、誓って下心は無いのでセーフ。口に出さなければセーフ。

 

細くて縦長の視界をスキャナよろしく横にじりじりとずらしていくと、小さな機械部品が床の上にいくつも散らばっているのが見えた。

 

以前に一度こんな光景を見た事があった俺は、それがすぐバラバラになったスマートフォンの部品だと把握した。バラバラと言っても、悪意を持って砕かれたという意味ではない。最近のスマホはちょっと落としただけで、カバーとバッテリーと本体がオープンゲット!してしまうものがあるのだ。衝撃を逃がすための構造だと好意的に解釈しているが、ネットを見る限りそんな気の利いた理由ではないようだった。

 

ともかく、どうやら通信途絶の原因はこれだったらしい。居眠りでもしているのでは、と机の方に人影を探るが、角度が悪いせいか何も視界には入ってこない。もう一つの扉から覗こうかと姿勢を変えた時、スリット状の視界に見逃せないものが映った。

 

さらりとした亜麻色の髪が、床に広がっている。

 

「一色!おい、どうした!?」

 

生徒会室の床に倒れ伏しているのは、一色いろは。

 

慌てて扉を引くが、簡素な造りの扉はガツンと何かに阻まれる。爪を引っ掛けて無駄に痛い思いをしてからようやく、鍵が掛かっている事を思い出した。衝撃でほんの少し広くなった隙間から、さっきより多くの情報が視界に入ってきた。

 

「一色、おい、聞こえるか!」

 

地面にうつぶせに倒れた彼女に動く様子は無い。

乱れて広がるふわふわとした髪と床の隙間に、口元がほんの少しだけ見えた。

きちんと呼吸をしているかどうかなど、ここからでは分からない。

 

何だ?何か顔の辺りに点々と散って…鮮やかな赤──

 

 

俺は、目の前の扉を全力で蹴り飛ばしていた。

 

 

 

 

 

 

 

<<--- Side Iroha --->>

 

 

柔らかい毛布と、暖かな空気。

 

慣れ親しんだ香りに包まれて、しかしそこには居ないはずの、大好きなひと達の声が聞こえる。

 

「だからちゃんと付いていなさいと言ったでしょう」

 

「いやだって、平気って言ってたし…」

 

「平気でない人ほどそう言うものでしょうに!」

 

「けどだって、まさかこれ程酷いとは思わないだろ?」

 

「貴方程度の物差しで、一体彼女の何を計れるというのかしら」

 

「…そうだな。俺が全部悪い。お前が正しかった」

 

「ねえ、あたしの料理、そこまでダメなの!?」

 

…なんか、騒がしいな。

ここ、奉仕部…?

わたし、寝ちゃったんだっけ…?

 

「は、ハートマーク描いたら、可愛いかと思って…」

 

「だからと言って、よりにもよっておかゆにケチャップを入れることは無いでしょう」

 

「どうすんだよこれ、ねるねるねるねみたいになってんぞ」

 

「はぁ…。仕方がないから洋風に転向するわ。離乳食みたいになってしまうけれど…」

 

「ま、国籍不明…ってか、今は正体不明か?コレよりはいいんじゃねえの、なんでも」

 

「ごめんなさぁい…うぅ…」

 

…なんか、聞き捨てならない会話が聞こえる。

 

誰に食べさせるのか知らないけれど、わたしの目の届く範囲で、そんなゲテモノを許すわけにはいかない。

重いまぶたを持ち上げてみると、そこは見慣れた天井だった。

 

わたしの、部屋──。

 

やけにごろごろする目を手でくしくしやっていると、廊下に続く扉が開き、お団子髪のボイン…じゃない、結衣先輩が目を丸くして立っていた。

 

「いろはちゃん!よかったー、心配したよー!」

 

身体を起こしたわたしの背に手を回し、その豊かな胸に抱き締める。むにゅう、と顔が埋まった。

 

「ゆきのん!ヒッキー!来てー!」

 

またも呼吸が阻害されたわたしは、階下に向けて声を上げる彼女の腕をパンパンとタップしながら、今の状況の理解に努めた。

 

「由比ヶ浜さん、病人が居るのだから騒がない──あら、目が覚めたのね」

 

クールな顔立ちに優しげな笑みを浮かべ、雪ノ下先輩が部屋に入ってくる。その後ろには、廊下と部屋との境目で見えない壁にでもぶつかったかのように立ち尽くしている先輩の姿もあった。

 

「…何してるんですか、先輩は。そんなとこで」

 

「…自重してる」

 

自分の部屋に──実際にはまだ中には入っていないものの、見慣れた空間に先輩が居るという不思議な光景に未だ夢見心地だったけれど、その彼らしいよくわからない返しを聞いて、わたしの頭には徐々に冷静さが戻ってきていた。

 

「ゆきのん、いろはちゃん起きたんだし、もういいんじゃない?」

 

「そうね。比企谷くん、入室を許可します」

 

長い間待たされていたにも関わらず忠義を尽くす家臣のように、厳かな顔でそろりそろりと、先輩はわたしの部屋に入ってきた。

 

「入ってよかったか?」

 

「入ってから聞くんです…いっつ!?」

 

強い痛みが、鼻の辺りを走った。その出所を探って指を伸ばすと、鼻頭にテーピングのようなものが貼ってあるのが手触りで分かる。ついついそれを剥がそうとして、またズキリと痛みがあった。

 

「っ…!」

 

痛いと分かっていながら本能的に伸びてしまうわたしの手を、少し冷たい指先がそっと押さえる。

 

「もう鼻血は完全に止まったと思うけど、しばらく触らない方がいいわ。骨には異常がないそうだから、しばらくすれば治るでしょう」

 

「え、はなぢ…?」

 

そう言えば、わたしは何でここに居るんだろう。

記憶が随分とすっ飛んでる。

確かさっきまでは、生徒会室に居たはずだよね。

んで、扉が風でうるさくて、怖くて、気持ち悪くなって…。

 

「もしかしてわたし、倒れちゃいましたか…?」

 

「口語的にも物理的にも、倒れてたな」

 

何事も素直には肯定しない彼の言い草の意味するところに、重たい頭を巡らせてみる。

 

物理的──。

 

そっか、床に倒れた拍子に鼻ぶつけたのかぁ。

 

鼻を打ったといわれて低くならないかちょっと心配になったけど、腫れているせいなのか、触った感じはむしろ少し高くなっている気がした。こういうのも、不幸中の幸いって言うのかな。

 

「お喋りが過ぎて、舌でも噛んだのかと思ったけどな」

 

「ちょ、ヒドくないですかぁ…」

 

内容はともかく、先輩が珍しく口元に笑みを浮かべていたので、わたしは釣られてついつい笑ってしまった。

 

「知り合いの女医さんを呼んで見て頂いたけど、普通の風邪ということだったから、ひとまず安心したわ」

 

「ほんと、すみません…わざわざ」

 

「いいから、まだ横になっていなさい」

 

いつもより数段優しげな言葉と共にそっと肩を押され、わたしは再び枕に頭を落とした。

 

考えてみれば、思い当たることは沢山あった。

朝の寝冷えに始まり、延々悩み散らした挙句の果てに、最後は寒空の下で大立ち回り。そりゃあ風邪の一つもこじらせるだろう。

 

ところでさらっと言ったけど、お医者さんを家に呼びつけるって、どうやるの?やっぱり雪ノ下先輩の家に関する噂は、あながちウソでもなさそうだなぁ。

 

「で、いろはちゃん、具合どお?」

 

「まだ少し、ぼーっとしますですかねー…」

 

「どれ」

 

先輩がわたしのおデコに手を当ててきた。

余りに自然だったので、避けるとか恥ずかしがるとかしている余裕もなく、先輩の手のひらが密着する。

 

「ちょ、ヒッキー、セクハラ!それセクハラだから!」

 

「比企谷くん、痴漢行為は発見した第三者にも逮捕する権利があるのだけど?」

 

「お前ら病人の前でまで騒ぐなよ…38度ってとこか…」

 

自分よりずっと大きな、しかし少し冷たく感じるその手はわたしの熱と交じり合い、

汗をかいた肌にしっとり溶けるように額を覆う。

ママよりも大きな手の平に包まれる安心感に、思わずその上から自分の手を重ねていた。

先輩の手がぴくりと震えるのが分かったけれど、少し力を込めると、逃げるのを諦めたように力を抜いてくれた。

 

最後にこうされたのはいつの事だろう。

パパもママも忙しくしてるから、風邪をひいてもこんな事をしてもらう機会は滅多に無かったように思う。

 

「きもち…いいですね…ひとの…手って…」

 

わたしの漏らした吐息に、まだ文句を言い続けていた二人の先輩方は、バツが悪そうな様子で口を(つぐ)む。

薄目を開けて先輩の顔を見てみると、思ったより照れた様子も無く、「まだ結構あるな」とだけ呟いていた。

 

「もっといいモンがある」

 

すっかりリラックスしたわたしの力が緩んだ瞬間、するりと額からぬくもりが逃げていく。

不意に消え去った感触を求めて手が泳いだ。

物足りなくて先輩を目で追うと、彼は傍に置いた洗面器でお絞りを絞っている。

そしてやけに慣れた手つきで畳み、わたしの額にそっと乗せてくれた。

 

「あ…」

 

冷たくて、すごく気持ちいい。

 

「手馴れているのね」

 

ずっと黙って見ていた雪ノ下先輩の言葉に棘は無い。

純粋に不思議がっている様子だった。

 

「もしかして小町ちゃんにもよくやってるとか?」

 

「まあな。あいつ昔はちょくちょく熱出してたんだよ。親はその頃から熱心な社畜だったし」

 

だから必然的に自分がやるしかなかったと、先輩は洗面器に張られた水を指で掬いながら言った。

妹扱いされているんだとしたらちょっと微妙だけど、優しくしてもらえるなら今はそれもいいかな。

洗面器から響く涼やかな水の音が心地いい。

ただ、もう少しだけ、さっきのままでも…。

 

「お兄ちゃんに看病してもらえるとか、小町ちゃん、ちょっと羨ましいかも」

 

あたし一人っ子だし、と結衣先輩。

ただ、ちらりと雪ノ下先輩を見て、それ以上話を広げようとはしなかった。

 

「俺は看病って超嫌いだけどな。めんどくさいし、弱ってんのとか普通に心配になるし」

 

「せんぱい…」

 

ん?とこちらに向き直るその態度は、明らかに普段と違う。

いま自分で言っていたけど、確かに、いつもより優しい。

ぶっきらぼうでも、その…だっていうのに、これは反則だよ…。

 

「わたしのことも、心配してくれたんですか…?」

 

弱っているからこそ聞ける。

聞ける時に、これだけはどうしても聞いておきたい。

こんな聞き方をして素直に答える人だとは思っていないけれど、それでも尋ねてしまった。

 

「いや、まあ、人並みにな」

 

いつものように視線を逸らすその表情を、ギリギリまで探ってみる。

けれど残念ながら、言葉以上の感情が込められているようには見えなかった。

どんな答えを期待していたんだろう。

胸が張り裂けそうだったと言われたら、笑ってしまうくせに。

 

それでも、心がしん、と音を立てて冷えていく感覚。

 

「そう、ですか…」

 

たぶん今のわたしは感情を隠す余裕がない。

こんな些細な事でも、目が熱くなってくるのが分かる。

うつむいて前髪で表情を隠していると、雪ノ下先輩が鼻で笑った。

 

「人並み程度であの様だとしたら、これまでもさぞ沢山の扉を蹴破ってきたのでしょうね」

 

「おまっ!言うなってさっき…!」

 

「そうね。口止めは依頼されたわね。けれど私、承諾した覚えは無いわよ?」

 

「小学生かっつーの…」

 

「け、蹴破るって、なんですか?」

 

今の文脈を辿ると…わたしの勘違いでないとしたら…。

そういえば、生徒会室の扉には、鍵を掛けてたはずだから…。

期待を込めて先輩をおずおずと見上げると、結衣先輩がわたしの推論を肯定した。

 

「ヒッキーね、生徒会室の扉、蹴って壊したんだよ。ドカーッて!」

 

開き直ったように先輩がこちらを向いて顎を上げた。

 

「床に血が飛び散ってたんだ。誰だって焦るわ」

 

「せ、せんぱぁい…!」

 

なんか最近は先輩の株が上がる事件ばっかりで、これ以上はわたし的にちょっとヤバいカンジですよ?

 

「もし死んでたら、第一発見者の俺が疑われちゃうだろ」

 

「せ、せんぱぁい…」

 

上げてから落すのやめてくださいよー。くすん…。

 

「安心なさい、第一でなくとも充分疑わしいわ」

 

「もー、いろはちゃん無事だったのに、二人ともそういうこと言わないの!」

 

「比企谷くん、不謹慎だと言われているわよ」

 

「なんでお前はそこで自分を除外できるの?」

 

「私の発言には何も後ろめたいところは無かったもの」

 

「お前絶対俺より友達少ないだろ…」

 

「馬鹿ね、ゼロより少ないなんて事あるわけないでしょう」

 

止まる気配をみせない言い合いに、ニコニコしていた結衣先輩がむきーっと両手を上げた。

 

「コラー!よそんちで騒がないの!」

 

 

* * *

 

 

雪ノ下先輩が"修正"したというリゾット風のおかゆを頂いて薬を飲んでいると、そう言えば、と彼女が口を開いた。

 

「お宅の鍵のことだけれど。勝手に荷物を改めさせて貰ったの。事後報告になってしまってごめんなさい」

 

「いえいえそんなこと。何から何まですみません」

 

「安心して、決してそこの男に漁らせたりしては居ないから」

 

「ほんっっとーーーにっ、何から何まですみません!」

 

「そっちのほうが感謝のレベル高いんだ!?」

 

だって色々と、ほら、ねぇ?

ヘンな物は入ってなくても、見られて困るものはあるわけですよ。

 

「うん、ま…そんだけ元気がありゃ大丈夫だな…うん…」

 

「そんなことより先輩」

 

あんだよ、と先輩はいよいよ発酵しそうな目つき。

 

「扉なんか蹴って大丈夫なんですか?ぶっちゃけ先輩、あんまり頑丈そうに見えないんですけど…」

 

いくらオンボロとは言え、それなりに厚くて重たい扉だったように思う。

むしろ蹴り破るほどの脚力があったことに驚愕しているくらいだ。

 

「おう、もちろん捻挫した。徐々に腫れてきて今まさにフィーバータイム突入間近」

 

それが当然みたいに言い張る姿にお礼を言うか謝罪をするか迷ったけれど、結局は「らしいですね」と笑顔を返した。はたしてそれは正解だったみたいで、

 

「まあな」

 

と先輩はまんざらでも無い顔を見せ、

 

「ほんと締まらないわよね…」

 

口では冷たい事をいいつつも、胡坐をかいた先輩の足に、雪ノ下先輩は氷のうをあてがっていた。

 

「先輩って、たまに…ごくごくたまーに、カッコイイですよね」

 

「ん、まあ、気にすんな」

 

素直に賞賛を受け取りはしないだろうと思ったら、彼は意外にも誇らしげ…いっそわざとらしいまでに胸を張って見せた。

 

「それがさ、聞いてよー、プッ…」

 

瞬間的に猫背が解消された彼の肩を小突いて、結衣先輩が口元を押さえた。

 

「おい、由比ヶは…痛って!」

 

何かを言いかけた彼の足にぐりっと氷を押し付け、雪ノ下先輩が封殺。

 

「蹴っ飛ばした扉が勢い余って、倒れてるいろはちゃんにゴン!って。んでヒッキーが超焦ってどけようとして、そしたら手が滑って、またゴン!って。いやー、思い出すとかなり笑えるシチュだよね、あはははっ!」

 

「全く、とんだレスキュー隊も居たものね」

 

白馬の騎士よろしく颯爽と、だなんて思っていなかったけど、想像の斜め上のシチュエーションだったみたい。

 

「なーんか頭も物理的に痛いと思ったら…ふふっ」

 

それでも嬉しいと思うわたしはおかしいだろうか。

おかしいんだろうなぁ。

でも、それが心地いい。

 

「いや待て、俺は悪くない。この脚が悪い」

 

弁解する先輩の、捻挫しているという足首を捕まえた雪ノ下先輩が

 

「ならこの脚にだけ罰を与えましょう」

 

氷のうで更にぐりぐりっとした。

 

「痛い痛い痛いそれ俺と不可分なんで許してやってください!」

 

「あら、いつから脚が口を利くようになったのかしら」

 

ほんの小さな、しかし確かに笑みと呼べるものを、雪ノ下先輩も浮かべている事に気が付いた。

彼女がこういうスキンシップをとる男の子が、はたして他に居るだろうか。

一緒になって先輩の足首をつつく結衣先輩は、いつも以上に楽しそうだ。

 

わたし、この輪の中に入っていけるのかな…。

 

「雪ノ下先輩はあいかわらず容赦ないですねー」

 

少し沈みかけた気持ちを持ち上げるために、努めてあはっと明るい顔をしてみせた。

 

「さっきまですんごい怖い顔してたんだよ?いろはちゃんの顔見て気が緩んだんだと思う」

 

「勝手な上に失礼な事を言っているわね。由比ヶ浜さん、貴女だって私が止めなければ人口呼吸を始めそうな勢いだったでしょうに」

 

「ちょっと、それ言う?!」

 

なんですと…?

危なく大事なものを失うところだったみたい…。

別に止めなくてもよかったものを、と一人ごちている先輩に三人分の白目が向けられたことは

言うまでもない。

 

「ともあれ、本当に良かったわ」

 

「わたし、迷惑ばかりお掛けして…なんてお詫びをしたらいいか…」

 

今日に限った事ではない。

わたしはこのひと達に出会ってから、ひたすらに迷惑の掛け通しだった。

穴があったら入りたい、という状態だけれど、穴なんてないので毛布を口元まで引き上げる。

 

「ぜーんぜん!そんなことないから!」

 

「例えどれだけ迷惑を掛け倒したとしても、比企谷くんほど煙たがられる事は無いものね」

 

「なめるなよ、俺クラスのぼっちになると何もしなくても超煙たがられる。しかしそこを超えると居ても気付かれない。仙人の境地だな──っと、ホレ」

 

何かごそごそやっているなーと思っていたら、先輩がすっと小皿を差し出してきた。

乗っかっているのは、白い果肉にピンと赤い皮の立ったカットフルーツ。

いわゆるウサちゃんリンゴだ。

 

「わぁ、かわいいですねー。え?これまさか、先輩が?えっ?」

 

「そのまさかは、技術的な意味での驚愕ってことでいいんだよな」

 

「大丈夫よ一色さん。きちんと消毒したから」

 

「手を洗ったって言えよ」

 

いえいえ、別に衛生面での心配はしてません。

そんなことより、ぜんぜんキャラじゃなくないですか?

 

「本来なら煮沸消毒したいところだったのだけど」

 

「それ世間じゃ釜茹でっていう拷問ですけどね」

 

にしても、さっきから先輩の看病スキルの高さが異常なんだけど。

妹の居るお兄ちゃんってみんなこうなの?違うよね?

先輩の妹さん、ほんとに羨ましくなってきちゃった…。

 

「ここでリンゴ剥けちゃうアピールとか、やっぱちょおあざといですよね、先輩」

 

「いや、リンゴは剥けない」

 

「は?え、これ、先輩が剥いてくれたのでは?」

 

「リンゴは剥けない。…が、カットされたリンゴをウサギにすることは出来る」

 

ちなみにカットしたのは私、と雪ノ下先輩。

何をどうすればそんな偏った技術が身に付くんだろう。

同じことを思ったのか、結衣先輩も半目で冷やかしにかかる。

 

「なにその微妙な特技…」

 

「無論、小町のためだ。ただのリンゴじゃイヤだってギャン泣きされて、なんとかそれだけは会得した」

 

「しかも意外といい話だった!?」

 

そこまで出来たなら、リンゴも剥けるトコまで行けばいいのに。

相変わらずよく分からないひとだなぁ。

 

「ちゃっかり突っ込みに回ってるけど由比ヶ浜、お前こういうの出来ないだろ」

 

しらっとした目を向けられた結衣先輩は、雪ノ下先輩に縋ろうとして、しかし露骨に明後日の方を向いていることに気付くと、うぐっと苦しそうに呻いた。

 

「つ、作れるし!ウサギくらい超作れるし!皮剥いて耳を切り取って、刺すだけでしょ?」

 

「切り取らねえし、刺さねえからな?」

 

結衣先輩の、作ってるところを子供が見たら泣き出しそう…。

 

「えっと…由比ヶ浜さん。ウサギリンゴにそんな残酷な工程はないわよ?」

 

「ウソ?じゃ、あの耳ってどっから来たの?」

 

「結衣先輩、ほんとに苦手なんですねー、お料理…」

 

 

齧ったリンゴの切り口は、ほんの少し自分の切り方とは違って。

だから、とても暖かい気持ちになることができた。

 

「ところでみなさん、今日は泊まっていかれますよね?」

 

今日はママも戻らないし、やっぱり本調子じゃないと心細さは否めない。

それに、今がこんなに楽しいからこそ、一息に失われたらと思うと、その寒々しさを想像して今から身が竦んでしまう。

 

「でも…お邪魔になるだろうし…」

 

雪ノ下先輩は思案顔だったけれど、結衣先輩は期待通り、とくに抵抗も無いご様子。

 

「あたしは構わないけど?パジャマとか貸してもらえれば」

 

「もちろんです!あーでも…」

 

ちらっと結衣先輩と自分を見比べて、ため息一つ。

ちょっと、無理じゃないかなぁ。

 

「その、ママもわたしも、標準サイズなので…」

 

「あたしもMサイズだけど…?」

 

そうですね。

身長は、そうですよね。

 

「…はっ!べ、別にあたし、そこまでおっきくないし!」

 

わたしの視線を察した結衣先輩が、その部位を隠すように両手を組んで見せた。

圧迫されて強調された谷間の奥に広がる闇の深さに、わたし達の声色も自然と低くなる。

 

「いやいやおっきいですよ、すんごく」

 

「そうね、謙遜は日本人の美点だけれど、しすぎると嫌味になるわよ」

 

顔を赤くして胸を隠そうとし、それが上手く行かない結衣先輩は、味方を探してキョロキョロした挙句、

 

「ね、ねえヒッキーもなんとか言ってよー」

 

と、残った約一名に助けを求めていた。

 

「鬼か…俺に振るなっつの…」

 

ほんとにね。

 

 

* * *

 

 

「せんぱい」

 

「…」

 

「せんぱぁい。せんぱぁーーい」

 

「…なんだよ」

 

「ヒマなんですけど」

 

「なら部屋で寝ろよ…」

 

さっきから繰り返されるこのやりとりだけど、3度目から先はもう数えていなかった。

 

結衣先輩と、彼女に引きずられた雪ノ下先輩は、いま揃ってお風呂に入っている。

2枚の毛布を被って雪ん子のような有様となったわたしは、部屋から抜け出してリビングのソファに身体を預けていた。

いつもならテレビを見ている時間だけど、何となくリモコンに手を伸ばす気にはならなかった。

普段は意識した事も無かったけど、テレビもつけないでこうして静かにしていると、廊下に続く扉からかすかに、お風呂場からの声や水音が聞こえてくる。

 

「さっきから妙に静かですけど、耳澄ませてシャワーの音でも聞いてるんですか?」

 

「いやぜんぜん違うんだけど。どうしたら無実を証明できるんだろうな」

 

目と違って閉じられるモンでもなし、と頭をひねる先輩。

 

結局、ママのパジャマは結衣先輩には(一部)小さかったものの、短めの丈のデザインに見えないことも無かったので、そのまま使ってもらう事にした。

泊まっていくことを承諾してくれた二人にパジャマを見繕い、一連のやりとりをまるで他人事のように聞いていた彼にもパパのスウェットを差し出すと、「なにこれ」とイラつくとぼけ顔をしてきた。

「先輩、全裸派ですか?それはさすがにちょっと遠慮して下さいね」と笑顔で告げてやると、案の定、ぽかんと口を開けて固まったのは、なかなか面白かった。

 

当然というか、彼は我が家への宿泊に激しい抵抗の意を見せた。

 

けれど、「何かする気なの?」という、純真なんだか真っ黒なんだか分からない結衣先輩の言葉に押され、

「例え先輩でも男手があったほうが安心なので」という、一言余計なわたしの意見が配慮されて、

「緊急避難ということで、目をつむりましょう」という鶴の一声(ジャッジ)が下った事で、めでたく先輩はリビングに一夜の宿をとる事になったのだった。

 

その先輩のためにと引っ張り出してきた2枚の毛布は、たまたまくしゃみをしてしまったわたしに両方とも被せられていた。

女の子の匂いをつけてから自分が使おうという計画的な優しさだったのなら、その変態ぶりにいつも通りの毒舌を浴びせてあげるところだけど、「いや、コート着てれば平気だから」と固辞する姿を見せられては、こちらも調子が狂ってしまう。

プライベートな空間において、しかし目の前にはどこかの部室よろしく淡々と文庫本を読み耽る彼の姿。

そんな諸々に小さくない高揚を感じ、眠りに飽きていたのも相まって、わたしはいつも以上に積極的に先輩に絡んでいた。

 

「じゃあじゃあ、わたしとお話しましょうよー」

 

「いいから病人は部屋戻って寝てろ」

 

「さっきまで寝てたから、目、ちょお冴えてるんですよー」

 

「ったって、話って何すりゃいいんだよ」

 

ようやく本から顔を上げたその目は、言外に「仕方ない」と語る、最近のわたしのお気に入りだ。

腐った目だとか散々言っておいてアレだけど、チーズだってある意味腐ってるんだし、いいモノはいいってことで。

 

「えっとですねー、腹筋がつっちゃうくらいの爆笑ネタで」

 

「待て、ハードル高すぎだ。せめて面白い話くらいにしろ」

 

「先輩のお話はなんでも面白いですから」

 

「あーはいはい、んなヘタってる時まで頑張らなくていいから」

 

「…」

 

アピールとか考える余裕が無いのは本当。

だから、いまの完全に素なんですけどねー。

どう言ったら、先輩は信じてくれるんだろ。

 

「…そういやおま──」

「なんですか?わくわく」

 

食い気味のわたしに少し引きつつ、先輩は手を払った。

 

「わくわくとか言うな。ゴロリかお前は」

 

男の子に邪険にされるのって慣れてないんで、ホント言うと結構傷つくんですけどね、それ…。

ていうか、ごろりって誰?

 

「倒れてたとこに、カバンの中身ぶちまけてたのな、お前。そんとき見えちまったんだけど」

 

「…!」

 

うわっ、バッグは雪ノ下先輩が開けたっていうから油断してた…。

もしかして、見られた?

見られてないよね?

 

「何で空のマッカン持ち歩いてんの?」

 

見ーらーれーてーたーぁ!!

 

「お守りか?中々いいセンスしてんな」と何故か気持ち前のめりの先輩。

一方のわたしはさっきとは逆に、身体を反らして顔ごと視線を泳がせてしまう。

 

「えー、あー、んんー?そ、そんなの入ってましたっけ…?」

 

「いや、知らないうちに入れられてたなら、もっと問題なんだけどな」

 

むむ、確かに。それじゃ単なるイジメですね。

今のわたしだと笑い飛ばせない状況だし、その尻馬に乗っかるとヘンにこじれる気がする。

 

追求からのらりくらりと逃れつつ、壁に据え付けられたダッシュボードに目をやった。元は観葉植物が飾られていたそのスペース。いつの間にやら半分以上をわたしの小物が占拠している。

その中のひとつ、短い脚を伸ばしてぺたんと座ったテディベア。どこか手持ちぶさたで据わりもイマイチよろしくないあの子に抱っこさせるつもりだったんだけど、それを正直に答えるのは大変よろしくない。

 

貴方が飲んでいるから。

貴方が好きだと言っていたから。

だから飾りたいと思った?

 

これがお気に入りのミルクティーの缶だとか、もっとパッケージに洒落っ気のあるものだったらともかく、バランス栄養食もかくやというあのデザインセンスじゃあ、他の理由にこじつけるのも難しかった。

先輩の推論に乗っかってお守りだということにしても、それがなぜお守りになるのかと聞かれれば、やっぱり結論は似たようなものだろう。

 

あのときは単なる思い付きだったけど、こうしてその行動原理を細かく紐解いてみると、我が事ながらその女々しさ…もとい乙女々(おとめめ)しさに身悶えしたくなる。

 

こんなの、言えるわけがない。

 

うーん、ちょっとピンチかも。

 

「あれです、その…ちょっと言いにくい事情があるといいますか、ないといいますか…」

 

「なに、空っぽのお前にはこれがお似合いだ、とか言いたかったの?」

 

と、自分を指差して、彼は見慣れた苦い笑いをして見せた。

確かに言い訳としてはそのオチでもいいんだけど…。

なんか、先輩の中のわたし、かなーりイヤな女の子になってないですか?

 

「…先輩って、わたしの扱いだけちょっとヒドいんじゃないかと思うんですよ」

 

ちょっとだけ恨めしそうな声を出して、ぷいっと顔を背けてみせた。

 

「いや今の流れだと酷いのお前でしょ」

 

「そうなんですけど…そうじゃないんですぅ」

 

「別に何でもいいけどな」

 

話を逸らし続けるわたしから興味を失ったのか、自分でつけたオチに納得したのか。

ともかく彼は文庫本を開くと、読書を再開してしまった。

 

何でもよくないです。

もっと興味持ってください。

わたしは興味ありますよ、先輩の色んなこと。

 

視線がぶつからないのをいいことに、顔の向きは変えずに目だけを先輩の方へ向け、こっそり見つめてみる。

 

もう、フツーに言っちゃった方がラクかなぁ。

 

そりゃ、ね。

わたしは自分の気持ちに正直な性格だって自覚もあるし、べつに認めるのはイヤじゃないよ?

それはいいけど、昨日の今日──ううん、まだ日付すら跨いでない、そんな流れで言うのは、なんか、その、軽すぎるんじゃないかなって。

重いのもキャラじゃないけど、いくらなんでも、ちょっとね。

 

てか、今日はさすがにイベント盛りすぎでしょ。今まで生きてきて、こんなに頭を使った日、無かったんじゃないかな。だいたい、気持ちがハッキリしたその日にいきなり自宅お泊りとか、ペースおかしいよ絶対…。

 

怠惰な神様に延々とグチっていたら、完全に居なくなったはずの睡魔が、またこっそりと忍び寄ってくるのを感じた。

やっぱりまだ体力が足りていないみたい。

もっとお話したかったんだけど…。

 

「ごめんなさい、なんか、またねむくなってきました…」

 

瞼の重さも支えられず、視界を遮断したわたしは夢と現の境が曖昧になっていく。

誰かがはだけていた毛布を掛け直してくれる感触があった。

ううん、誰か、だなんて白々しいのはよそう。

 

「ありがと、ございます…せんぱい」

 

返事はないし、わたしも目を開けて確認したりはしない。

そういうやりとりを、もっと積み重ねていきたいから。

触れられるほどじゃないけど、それでも傍に居てくれるのを感じられる。

 

男子の前で本気で寝ちゃうとか、何があっても言い訳できないなぁ…。

 

 

自分の図太さに呆れながら、わたしは再び眠りに落ちていった。

 




これで一安心だと思った?
残念!次も事件でした!(まさ外

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