「封獣ぬえについて、ですか」
阿求さんが何やら書物をしたためながら首を傾げる。小さな机の周りには分厚い冊子や本が積み重なっている。何やら取り込み中の様だ。少し申し訳なく思う。
アポイントも何もなしで稗田邸を訪れたのだが、阿求さんは快く面会に応じてくれた。ゆっくりしてくれとは言われたが、時間をとらせるわけにはいかない。俺はまどろっこしい前置きを抜きに、すぐさま本題に入ることにした。
「ええ、以前に一度あってちょっかいを出されたんです。何事もなかったんですが少し気になることも言っていたので……」
「興味を持ったと?」
「というより、念のための用心として彼女の事を調べようかと。せめて能力を知っておきたいんです」
「なるほど……敵を知り、ということですね。妖怪の性質を知ることは、戦うにしろ対話するにしろ大切なことですから、良いと思います」
阿求さんは筆を置き、机に詰まれた書物の一つを抜き取って俺に差し出した。『幻想郷縁起』の最新版、阿求さんが書いたものだ。
俺はそれを受け取り、パラパラとページを捲る。お目当ての妖怪はすぐ見つかった。
「封獣ぬえ……正体不明の妖怪、鵺。これは名前通りか。古くは平家物語にも登場した妖怪だが、本当にそれが鵺だったか分からないと……正体不明だったり、よくわからなかったり、何とも曖昧な妖怪ですね」
「それがぬえの本質ですから」
阿求さんは墨を擦りながらお茶を一口すすってから解説を始める。
「彼女の『正体を判らなくする程度の能力』は姿形、音、匂いを奪い、行動だけを残します。例えば北斗さんが空を飛んでいたとしても、他の人にはその通りには見えず、『よく分からないが何か飛んでいる!』としか知覚できなくなります。ですから、他の人は『空を飛んでいるんだから鳥に違いない!』と勝手に頭の中で補完してしまう……」
「……要は幻術の類ですか。対処法はないんですか?」
「残念ながら一人では。そもそも掛けられた人も、他人からおかしいと指摘されない限り気付けないでしょうから」
ということは、俺もそれを受けている可能性があるってことか……
だが、現に阿求さんとは普通に話せているし、人里を歩いても特に変な眼で見られていない。何もされていないか……それとも何かされているがその影響がほとんどないかのどっちかだろう。
まあ、何もないっていうならどの道放っておいても悪影響はなさそうだ。
「しかし、流石北斗さんですね。ぬえは妖怪の中でもかなりの力を持っています。それを相手にして無事とは……」
「いえ、白蓮さんに助けてもらって何とかですよ。火依もいましたし」
「火依さんですか。そういえば彼女も取材したいんですが、いつも姿が見えませんね。ずっと刀の中にいるんですか?」
「ええ、人里にいるときは。そもそも人見知りな性格ですし……本人から話を聞くのは難しいかもしれませんね」
俺はそう言いながら右手側に置いた封魂刀に視線を向ける。
……そういえば、火依が人里で姿を現したのを見たことがない。慧音さんの家に居た時ぐらいだろうか。人混みが苦手なのか、それとも人里で何かあったのだろうか? いや、ただ単に人見知りなだけか。
「まあ、酒盛りの時にでも来てくれたら、よく話してくれるかもしれませんよ」
「でしたら仕方ありませんね……今度開く時は呼んでくださいよ」
「ええ、その時は必ず」
まるで社交辞令みたいな会話だが、どうせ霊夢か魔理沙が突然やりたいと言い出すだろうから、実現するまでそう長く待たせることはないだろう。
それにしても阿求さんの歳でお酒を飲めるのだろうか? まあ、幻想郷だから大丈夫なだろう。チルノとかも飲んでるし。
俺は阿求さんと約束を交わし、足早に屋敷を後にした。
せっかく人里まで来たので買い出しも済ませておくことにした。
毎週藍さんが外の世界の物を仲買いしてくれるので人里まで買いに行く必要はない、と霊夢や火依から言われるのだが……
台所を任されている身としては幻想郷で賄えるものは幻想郷で揃えたいという思いもあって、川魚や野菜などは極力幻想郷で仕入れていた。それにお値打ちモノや掘り出し物があったりするので逆に新鮮だった。
「さーて、今晩は何にしようか……?」
俺は稗田邸から大通りに向かって歩いていると、子供達の声が耳に届く。声のする方へ目を向けると生垣の合間に続く道、その奥に周りよりやや古めかしい建物が建っていた。
その建物の前で子供達と一人の女性がじゃれ合っているのが見える。
「妹紅お姉ちゃん! こっちでチャンバラごっこしようよ!」
「えー、こっちで一緒に手毬しようよー!」
「わ、ちょっと手を引っ張らないで……痛い痛い!」
どうやら子供達と戯れているのは妹紅さんのようだ。まるで綱引きの綱のように男の子と女の子に両手を引っ張られている。大人気だ。
それにしても、意外だ。言い方はよくないが、子供と遊んであげるような性格とは思えない。あれで子供好きなのだろうか?
「……驚いただろう?」
「うおっ!?」
突然後ろから声を掛けられて、俺は慌てて振り向いた。そこには慧音さんが口に手を当て笑う姿があった。
驚いた俺の反応にか、妹紅さんの戸惑った顔に笑っているのかは分からないが、本当に嬉しそうだ。俺は胸に手を当て息を吐く。
「背後取られた方にビックリしましたよ……お久しぶりです、慧音さん」
「ふふ、すまない。元々は妹紅の様子を見るため隠れていたんだ」
「はあ……確かに珍しい光景ですもんね」
俺は子供達を必死に宥めようとしている妹紅さんに向き直る。
以前の妹紅さんは他人との関わりを極力断とうとしているようだった。事実ただいま子供たちに翻弄されているところからして、こういう人との触れ合いは久しぶりなようにも見える。どういう心境の変化だろうか?
「私が誘ったんだ。寺子屋で子供に勉強を教えてみないかって」
「寺子屋……ですか」
そういえば慧音さんは寺子屋の教師だったか。ということは、もしかしてここが寺子屋なのだろうか? 買い出しで大通りしか行き来しないから全く知らなかった。
それはともかくとして、妹紅さんが教師か。こいしと会うため地底に行った時、フランちゃんに懐かれていたが……あれで思うところがあったのだろうか?
「なんにせよいい傾向ですね」
「ああ、そうだな……」
慧音さんはとても優しい表情で、妹紅さんを眺めていた。その姿に、俺は梅雨の季節の出来事を思い出す。
いずれ慧音さんと妹紅さんがどんな選択をするかは分からないが……このことはきっとこの体験は彼女にとってプラスになるはずだ。などと、上から目線なことを思いながら目を細めていると、慧音さんが隣で囁いた。
「……ありがとう。こんな姿の妹紅が見れたのも、君のお陰だ」
俺は慧音さんのお礼に対して頭を振って否定する。
「自分が引き起こした問題に、自分なりのケジメをつけただけです。礼を言われるようなことは何も……」
「自らの命まで賭しておいて、何を言っているんだ。きっと君がこの幻想郷に来なかったら……妹紅は変わらなかった。今の時間だってなかったかもしれない」
慧音さんは俺の前に回り込む。そして口調や態度とは裏腹に低い背丈を目一杯伸ばして、俺の顔に指を突きつけた。
「今、私が君に出来るのは礼を言うくらいしかないんだ。それすら拒まれてしまったら……私は悲しいぞ」
そう言いながら慧音さんは俺の鼻の頭をペしっと弾くと、子供達と妹紅さんの輪に混ざっていった。俺は鼻を押えつつ、その光景を見つめる。
慧音さんが仲裁に入った結果、みんなで鬼ごっこをすることになったようだ。変な男に見られていては怖がるだろうし、さっさと退散しますか。俺は踵を返し、大通りに向かって歩き出す。
「ありがとう、か」
フランちゃんを地下から連れ出し、火依を封魂刀に封印し、妹紅さんを死から思い止めさせ、こいしの願いを叶えた。今まで俺がしてきたことはいい結果に繋がってきた。
だがそれは……まるで歪なガラス細工で積み木をしているように、不安定なやり方だということを忘れてはいけない。
一つバランスを間違えれば、ガラスは砕け元には戻らない。そうならなかったのは周りの人たちが支えてくれから、そして……運がよかっただけだ。
「もしあの時……」
なんてたらればの過去を考えるつもりはないが、妹紅さんを見ていて、怖くなったんだ。
俺の方法でいつか取り返しのつかない事態を引き起こしそうで。目の前に砕けたガラスの山を見て立ち尽くす自分の姿を想像して。
そうなった時、俺は覚悟しないといけない。両の手が血だらけになっても、破片を拾い続ける覚悟を……