午後のひととき、お嬢様は図書館で過ごしていた。
普段ならパチュリー様を外に出す口実としてお茶に誘うことが多いのだけれど……レミリアお嬢様が頼み事もなしにこのカビ臭い図書館へ出向くなんて本当に珍しい。雨が降る運命でも見られたのかもしれないわね。
「……お嬢様、聞いてもいいでしょうか?」
私は紅茶を注ぎながら尋ねる。するとお嬢様はそれに口を付けるだけで、返事はしなかった。
ふと本を片手に紅茶を飲んでいたパチュリー様が一瞬だけ視線を向ける。けれど、興味が無さそうに本に目を落とす。私は気にせず言葉を続けることにした。
「お嬢様は、北斗を大変気に掛けておりますが何故でしょうか?」
「あら、嫉妬かしら?」
お嬢様は悪戯っぽく微笑むけれど、私は微妙な表情を返すことしかできない。
嫉妬……ねぇ。彼の魅力は私もある程度は理解しているつもりだけれど、はっきり言って北斗に憧れた覚えはなかった。優劣の差云々じゃない、私の境遇も彼の境遇も他人と測れるようなものじゃないとわかっているから。そうね、そういう意味では……対等、くらいには思っているのかもしれない。だから……
「単なる興味ですよ。本人もここじゃとても働けないと言ってましたし」
「当然ね。紅魔館のメイド長は貴方にしか務まらないわ。北斗は男だしね」
「あのガタイで女装は無理そうですからねぇ。それで、何処が気に入ってるのですか?」
茶化しながら再度問いかけると、今度は肩を震わせ笑われてしまった。
私は仕えている主が目の前にいることも忘れて顔をしかめてしまう。が、それがさらにお嬢様の笑いのツボを刺激したようで、さらに腹を抱えて笑われた。
「咲夜だって気に掛けてるじゃない!」
「そんなのじゃありませんってば。答えて戴けないならもういいですが……」
「ふふ……からかい過ぎたわ、許しなさい」
お嬢様はそう言いながらティーカップを差し出してくる。どうやら今日はかなりご機嫌がよろしいようだ。
数日前、北斗との出来事があってからナーバスになっているようだったが、何はともあれ元のお嬢様に戻ったみたいだ。私がカップに紅茶を注いでいると、お嬢様が思い出したように口を開いた。
「咲夜、私はね……運命に抗おうとする奴が好きなんだよ」
「運命に抗う……?」
「そう、運命の流れに抗い、自らの足で歩こうとする者……例えば咲夜、貴女とかね」
「………………」
その言葉に私は思わず目を閉じて、過去を思い出す。
煌々と紅く輝く月の下、幼き吸血鬼の前に膝を突く私の姿。あの時私が抗ったのは使命という名の他者に課せられた作為的な運命か、それとも……目の前の吸血鬼に殺されるという血に定められた運命か。
「……北斗は、その人間だと?」
私が問うと、お嬢様は赤々としたイチジクのジャムを舐めてから小さく首を振った。どこか遠くに眺めながら……悲しげに目を細める。
「あれはね、他人が運命に流されているのを看過できないのよ。抗う力を持っているのに他者のためにしか使えない、不器用な子」
「だから気に入っていると?」
「だから放っておけないのよ……歯がゆくて仕方なくなる。つい手を差し伸べたくなってしまう。自分の運命を変えることは他人の運命を変えることより遥かに簡単なはずなのにね」
それはどうかしらね?
運命を変えられたか否か、それは『運命を操る程度の能力』を持つお嬢様しか知り得ない。精々私達は片方の道の険しさを時の流れの中で、身を以て知ることしか出来ないわ。
しかし、妹様の運命を変えてきた北斗の異常さは分かる。いや、彼の能力を鑑みればそれが当然なのかもしれない。時を止めることしか出来ない私の力とは違う……人を、妖怪を変化させる力。
「パチュリー様、おかわりを」
「ん」
私はパチュリー様のティーカップに紅茶を注ぎながら、内心で自嘲する。
お嬢様の仰る通り私は彼に嫉妬しているかもしれない。ただ、不思議と劣等感や不快感はない。むしろ私は自分自身にそんな感情があったのだと驚いていた。
「……咲夜、どうかしたのかしら?」
ふと気付くと、お嬢様が不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。
しまった、メイド長としてあろうことか気が抜けてしまっていたようだ。何でもございませんと見繕おうとするが、その前に博麗神社に繋がる魔法陣が光を放ち、紅白の巫女が現れる。
「邪魔するわよ……って、いいタイミングで来たみたいね。探す手間が省けたわ」
「あら、霊夢じゃない。どうかしたのかしら?」
お嬢様が目をパチクリさせながら尋ねると、霊夢は妙に重いため息の後、真剣な表情を向けてくる。
「北斗の行方が分からないの。何か知らないかしら?」
「行方不明? 北斗が? いや、二日前から姿も見てないな」
お嬢様はそう言いながらとチラリと私に目配せする。けれど、私も覚えがなかった。すぐに首を振ると、お嬢様は両手を組みながら机に身体を預ける。
「なるほどね……ついに恐れていたことが起きたわね」
「恐れていたこと、って何よ?」
「北斗の能力を狙うものが現れた。そうに違いないわ」
お嬢様が自信満々な顔で断言される。対して霊夢は口をへの字にして、呆れたような顔していた。
まあ、気持ちはわかるわ。流石に従者の私でも荒唐無稽だと笑いそうなってしまった。
「あー、うん……とにかく、何も知らないならいいわ。それじゃあね」
めんどくさそうにそう言うと、霊夢は片手を振りながらさっさと帰ろうする。が、それをお嬢様が呼び止めた。
「待ちなさい霊夢。一人で探すのなんて出来ないでしょう? 私達も手伝うわ。パチェ、居場所を見つける魔法か何かない?」
「手伝うって言いだしっぺがさっそく人頼みって……ま、出来なくはないけど、彼の身体の一部がいるわね。髪の毛とか」
パチュリー様がため息交じりに読みかけの本を閉じると傍らに置かれた別の本を手に取る。そして緩慢な動きで椅子から立ち上がると、本を片手に持ちながら床に魔法陣を描き始めた。描くとは言っても、宙に指を振るだけで魔法陣が形成されている。流石パチュリー様だ。
さて、体の一部が必要なのよね……それなら心当たりがある。私は時を止めて、紅魔館のとある場所を探す。目星の物はすぐ見つかった。すぐに図書館へ戻り、時を動かす。
「パチュリー様、ご用意できました」
「流石ね、咲夜。魔方陣を書くまで持っておいて」
パチュリー様は振り向かずにそう言うと、手を動かし続ける。ふとお嬢様と霊夢が近付いてくる。どうやら北斗の体の一部が気になったようで私の手の中の物を覗き込んでくる。
「なにこれ……血液パック?」
「ええ、お嬢様秘蔵の北斗の血ですわ。マズイと仰る割にはわざわざ献血させてまでストックされてるのですよ」
「……北斗も断ればいいのに」
霊夢がなんとも言えない渋い顔をしながら肩を竦める。彼のお人好し加減に呆れているのだろう。対してお嬢様は威厳の欠片もない引き攣った顔で私を見上げてきた。
「……咲夜、どうして毎回隠し場所が分かるの?」
「私は紅魔館のメイド長ですよ? どこに何があるか掌握していますよ。ご希望であれば、お嬢様が夜な夜な書かれているポエ」
「わーっ!! わーっ!! ほら! 魔法陣書けたみたいよ! ほら、さっさと渡して! そしてしばらく黙ってなさい!」
お嬢様は慌てて大声を上げて捲し立てる。やはり反応が可愛いですね。この赤面顔で後三年はここに勤められますわ。
澄まし顔でパチュリー様に血液パックを渡すと、パチュリー様はそれを開けて魔法陣に注ぎ始める。
「あ、あぁ……勿体無い」
「北斗が無事ならすぐ血を作ってくれるわよ」
落ち込むお嬢様に、霊夢が的外れな慰めを掛ける。魔法陣に落ちた血液は血だまりを作るのではなく、魔方陣を描く線に吸い込まれていく。
全ての血が魔法陣に吸い込まれたその時、陣の中央から真っ赤な球体が現れる。しばらくするとそれは占いの水晶玉のように、暗いベッドで眠る北斗の映像を映し出した。
パチュリー様は本を閉じて、小さな咳をしてから口を開く。
「けほ……成功のようね」
「無事なのは確認できたけど、ここってどこよ?」
全員で注視してみるが、よく分からない。どこかで見たような気もするのだけれど……
しばらく観察していると、北斗が目覚めて身体を起こそうとする。が、まるで糸の切れた操り人形のようにベッドから転げ落ちてしまう。するとその物音に気付いたのか、部屋の外から永遠亭の耳が長い方の兎が駆け寄った。いや、どちらにしろ兎がいるってことは……
「こいつは……永遠亭の月兎じゃない! ということは……」
声を上げる霊夢に、お嬢様が目を鋭く細めながら頷く。
「ええ、間違いないわ。北斗は永遠亭にいるわね。それにしても、これは怪我をして動けないから安静にしているのかしら?いや、それだったら霊夢のとこに連絡の一つは寄越すと思うんだが……」
「行けばわかることよ」
推理しようとするお嬢様を他所に霊夢は踵を返し、急ぎ足で魔法陣へと歩いていく。なんだか随分焦っている。先程のお嬢様の言葉に変な顔をしていたけれど、内心では気にしているのかもね。そんな急ぎ足の背中をまたお嬢様が呼び止める。
「待ちなさい」
「また? いったい何なの?」
「手助けしてやると言っているのに、堪え性がないわねぇ。咲夜、霊夢に付いて行きなさい。あそこの奴らはそこそこ手強いからな。いくら霊夢でも一人は無謀よ」
「人手は足りてるんだけどねぇ……付いて来るなら勝手にしなさい」
霊夢はそっけなく呟くと、さっさと自分だけ魔法陣へと入っていってしまった。お嬢様の意図を計りかね困惑していると、お嬢様が先程とは打って変わって真剣な顔を向けた。
「霊夢の運命を垣間見たわ。面倒事になりそうだから、気を引き締めていきなさい」
面倒事、ですか。彼の周りで起きる出来事は大抵そうだから覚悟をしていたけれど……お嬢様がわざわざ念を押すほどだ。いつも以上に用心した方がいいみたいね。
「畏まりました。行ってまいります」
私はお嬢様とパチュリー様に一礼して、霊夢の後を追って魔法陣へ入った。