桜の舞う境内の中、その少女は俺を庇うように仁王立ちしていた。
俺は尻餅をついた状態で彼女の背を見つめる。思考が追い付いていない。状況が理解できなかった。
「れ、霊夢!」
魔理沙の声が耳朶を叩いたところで俺はようやく目の前の少女が誰か気付く。赤いリボンと巫女服の彼女こそが件の、博麗霊夢その人なのだろう。
霊夢さんは横目で俺を一瞥すると、赤いリボンで纏めた黒く長い髪を払ってから紫さんに向き直る。
「随分焦っているようだけど……アンタらしくないわね、紫」
「霊夢……貴女、結界の修復はどうしたの?」
「終わらせたわよ。これ以上状況が悪化しないかぎりしばらくは大丈夫だと思うわ」
「そう……なら彼を始末すればこの異変は終わりね」
見下すような目で呟く紫さんの台詞に、俺は危機感を覚えて反射的に起き上がる。
しかし、逃げ場なんてない。あの瞬間移動に近い能力から逃げることなんて、少なくとも普通の人間である俺には無理だろう。どうにか説得するしかないが……一体なんて言えばいいのだろうか?
酸素の不足の頭では何も浮かばない。そんな無意味な思考を遮る様に霊夢さんが呟く。
「なんでそうなるのよ……何も殺すことないじゃない。要はこれが幻想郷にいるからいけないんでしょ? 外の世界に還せばいいだけじゃない」
「あ、あー! そうか! なるほど……!」
芝居掛った口調で魔理沙が声を上げる。確かに俺が原因というならばこの幻想郷から俺が去れば問題は解決するだろう。もしくは解決しなくても俺の無実は証明できるかもしれない。
そんな希望を見出して魔理沙と一緒になって盛り上がっているところに、鋭く固い音が割って入る。紫さんが傘の石突で石畳を叩いたのだ。
「それはできないわ。彼を外の世界に戻しても……いずれはまた幻想郷へ戻ってきます」
「はぁ!? どうしてだぜ!?」
今にも噛み付きそう勢いで魔理沙が突っかかるが、紫さんはそれにまったく反応しようとしなかった。ただ先程から俺を明らかな敵意の籠った視線で睨み続けている。
俺はそれから逃げることすらできない。ただ俯き立ち尽くしていると……紫さんがおもむろに俺の名前を呼んだ。
「輝星北斗、貴方は、どうして自分が幻想入りしたと思っていますか?」
「それは……? 俺が外の世界で忘れ去られたから、じゃないですか?」
「正解。例外はあるけれど、幻想入りの大半がその理由です。けれど貴方は特別だった」
「特別?」
俺は意味が判らず困惑してしまう。
自分で言うのもなんだが……俺はごく普通の人間だ。彼女が考えているような特別な事なんて何一つない。そんなこと見ればわかるだろうに。
だが紫さんは俺に警戒の視線を向け続けていた。
「普通の外来人は多少なれども生きていた痕跡は残っているもの。ただ誰にも認識されていなかっただけなら、ね」
「………………」
「けれど外の世界で貴方の事を調べたのですが、誰も貴方を知らなかった。『まるで、元よりそこに誰もいなかったように』ね」
「それは……どういう意味ですか?」
俺は震える唇で尋ねる? 背筋から悪寒が登っていく。確証の無い言いがかりなのに足が竦んでいた。
そんな俺の様子を知ってか知らずか、紫さんは厳しい表情のまま傘を軽く振るう。瞬間、また目の前に空間の亀裂が走る。咄嗟に身を伏せるが、そこから何も出る様子はない。
「今は何もしないわ……そのスキマの中なら電波が入ります。いろんな人に電話してみなさい。嫌でも分かるから」
その言葉に俺は息を呑む。信じていいものか……だがしかし、連絡を入れられるのは好都合ではあった。とりあえず俺は働いていた会社に電話を掛けることにした。
一応電池温存のために電源を切っていたスマホを立ち上げると、おっかなびっくりスキマの中に頭を突っ込んで、三人の少女に見守られながら電話を掛ける。
これを閉じられたら首落ちるんじゃ……?と、嫌な考えが過るがこればっかりは紫さんが約束を守ると信じるしかない。
コールは一回。聞いたことのある受付の声が聞こえてくる。
『はい、こちら株式会社××です』
「もしもし、営業の輝星です。○○部長に取り次いでもらえませんか?」
電話越しにそう言うと何故か受付が不自然に黙り込む。そして、ややあって受付が困惑した口調で喋りはじめる。
『申し訳ございません。弊社のお名前をお伺いしたいのですが……』
「え……」
予期せぬ反応に俺は固まってしまう。一瞬、頭の中が真っ白になってしまった。嫌な汗を手に掻きながらもなんとか言葉を捻りだし、通話を続ける。
「あ……いや、営業部に勤めている輝星ですよ! しばらく音信不通で、もう籍は残っていないかもしれませんけど、せめて事情を説明させてください!」
『……あの、お電話間違えていませんか? うちの会社には輝星という社員は1度も入社したことはありませんよ?』
「は……」
絶句してしまう。いったいどういうことだ……? 会社は間違いなくここで合っている。名前を覚えきれないほど大きな会社でもない。まさか本当に……
その後親戚や高校の同級生やらなけなしの知り合いに電話してみたが、誰も俺のことを知らなかった。
スマホを握りしめ立ち尽くしていると、電話の間ずっと黙って待っていた紫さんが近付いてくる。
「分かったでしょう? 貴方は外の世界での存在していた記憶が消去されている。例え、元の世界に帰っても、いずれは幻想入りしてしまうわ」
「そんな……そんなのやってみないと分からないぜ!」
庇ってくれているのか魔理沙が悲痛な面持で声を荒げるが、紫さんはチラリと一瞥して鼻で笑うだけだ。
「わからない? 万が一にも貴方が再度幻想入りしてしまえば、また結界が崩壊しかねないのよ? そんなリスクを負わなくても、簡単に異変を終わらせる方法があるじゃない」
酷く耳に残る言葉が頭の中を駆け巡る。紫さんは魔理沙の意見を一蹴すると、靴音を鳴らしながらこちらに向かってくる。
距離が近付いてくるほどに、心拍数が上がっていく。今にも吐きそうな気分だった。
「分かりましたか? 状況証拠は犯人を断定する要素には成り得ないと言いましたが、どう見ても貴方はイレギュラーよ。この異変は貴方が原因と考えるしかないわ」
「…………」
何も言い返せなかった。いやたとえどんな言い訳をしようとも紫さんには届かないだろう。
今から俺は紫さんに殺される。逃げる事なんてできない。いや、そもそも……
もう、生きている意味がなかった。
元の世界に帰ることも、幻想郷で生きることもできない。まさに八方塞がり……いや、もう行く場所もいられる場所もない。むしろ邪魔になるというのなら……これでいいかもしれない。
紫さんの傘が首にあてがわれる。あの力なら例え傘でも首元に突き立てることぐらい出来るだろう。
もう抵抗する気も起きない。俺は最後の時を覚悟し、目を閉じる。そして……
「ちょっと待ちなさい」
痛みが飛んでくる前に少女の声が割って入る。薄目を開けてみると霊夢さんが俺の首元に当てられた傘を掴んでいた。
ふと彼女と目が合う。すると面倒臭そうに溜息を吐かれてしまった。
「さっきも言おうとしたんだけど、せっかく結界のバランスを調整したのに、この人が死んだらまた元に戻さないといけないじゃない。そんなことしたら本当に幻想郷が滅びるわよ?」
「だからといってこのまま放置する訳にはいかないわ。彼を野放しにしていれば、いずれは必ず結界に綻びができる……私の邪魔をするくらいなら、結界修復の準備でもしていなさい」
紫さんは露骨に苛立ちながら傘を持つ手に力を入れる。が、霊夢さんも力を込めてそれに対抗していた。二人の鋭い視線が交錯する。まさに一触即発の状況だ。
しばらく静寂が境内を支配するが……先に口を開いたのは霊夢さんだった。
「ま、あんたのいうことも分かるわ。現実世界で完全に忘れられた事、そして結界に影響を与えた事、どちらも彼が何かしらの能力を持っているからでしょう」
「ええ、でしょうね」
「これは勘だけれど、結界に影響が出たのは彼が外来人であること……要は外の世界の常識を持っているせいだと思うわ。なら彼が幻想郷の常識を理解すれば……結界への影響を抑えられるかもしれない、と思わない?」
「おお! 流石霊夢、紫の強硬策よりよっぽど建設的だぜ」
霊夢さんの提案に紫さんは押し黙り、魔理沙はうんうんと頷く。そんな二人と違って俺は理解が追い付かず、困惑していた。
頭の上にハテナを出しながら首を傾げていると、紫さんが納得できなそうに睨みつけてくる。
「……それでも解決するかわからないじゃない。ならいっそ……」
「殺しちまおうかって? はっ、笑わせるぜ!」
紫さんの言葉に割り込んだのは魔理沙だ。まるで鬼の首を取ったように箒の先を紫に向け、せせら笑う。
「紫の方法だって解決するか分からないじゃねぇか! さっき私を止めるときなんて言ったっけなぁ……? 異変解決しようとしているのはお前だけだと思ったら大間違いだぜ!」
「………………」
霊夢さんと魔理沙、二人と睨み合いをしていた紫さんだが、ついに傘を持つ手を引いた。そして博麗さんを押しのけ、俺と対峙する形になる。
紫さんの背は俺よりやや低いくらいだが、それでも漂う雰囲気に威圧されてしまっていた。
「幻想郷の常識に慣れるにはただ生活しているだけではいけません。様々な存在に出会い、様々な体験をする必要があります。幻想郷は貴方が思っているほど安全じゃない。私に殺されていた方がマシな体験をするかもしれない。それでも貴方は死にたくないかしら?」
紫さんは正面から真っ直ぐ瞳を見つめながら問いかけてくる。その瞳はどこまでも光を吸い込んでしまいそうなほど深い色を、名の通りの紫色を湛えていた。
この返答次第で俺は殺されるかもしれない。けれど、あくまで素直に、今思っていることを伝えることにする。俺はゆっくりと息を吐いてから、アメジストのような瞳をしっかりと見返えした。
「俺は、この状況が俺のせいというのなら、なんとかしたいと思っています。それに……」
俺は魔理沙と、霊夢さんを一瞥してから笑みを浮かべてみせる。自分でわかるほど固く、ぎこちない笑みを。
「今のところ幻想郷に来ていい人にしか出会ってないし、大丈夫ですよきっと」
我ながらあまりに能天気な発想に気の抜けた笑みが浮かんでしまう。それを見て、霊夢さんは呆れたように首を振り、魔理沙は堪えきれず吹き出した。
呑気な言葉のせいか、表情のせいか、あれほど敵対心をむき出しにしていた紫さんですら、あっけにとられたような顔になる。そして疲れたように大きな溜息を吐いた。
「私は貴方を殺そうとしたのだけれど……わかりました。どうせそんな甘い考えなら私が手を出さなくても、貴方はいずれ死ぬでしょう。ただし霊夢、魔理沙、二人に条件があるわ」
「条件? なんだぜ」
「貴方達二人で輝星北斗に幻想郷の常識を身に付ける手助けをしなさい」
「はあ!? なんでそうなるのよ!?」
唐突な話に霊夢さんが抗議の声を荒げるが、対して紫さんは腕を組みながら意地悪そうな笑みを返す。
「当然じゃない。言い出しっぺなんだし、自分達の発言に責任くらい持ちなさい」
「責任……嫌な言葉だぜ」
二人揃っていっそ清々しいほど面倒臭そうな顔をしている。正直博麗神社まで送ってくれた魔理沙と、二度も命の危険から助けてもらったりしている霊夢さんに頼めた義理はないのだが……
「厚かましいようだけど俺からもお願いします。頼り切りにならないようにしますから」
情けない話だが、右も左もわからないこの世界の事を知るには協力者は不可欠だと思う。今だって明日の食事もままならないのだから。
俺が頭を下げると、二人はお互いに顔を見合わせた。
「ま、本人がそう言ってるし私は構わないぜ。最近暇だったし」
「……そうね、これも異変に変わりはないのだし、手伝うわ」
「ありがとうございます!魔理沙!霊夢さん!」
承諾してくれた二人に、もう一度大きく頭を下げる。すると霊夢さんが手を振りながらに柔和な笑みを返してくれる。
「そんな畏まらなくていいですよ。あと貴方の方が年上みたいですし、敬語はいいですし、魔理沙と同じく呼び捨てで構いませんよ。……えーっと」
「あぁ、えっと……自己紹介がしてないっけか。輝星北斗だ。これからよろしく」
「北斗さんですね。博麗霊夢です、よろしくお願いします」
なんて奥ゆかしい人なんだ! 流石は巫女さんだ……紫さんや魔理沙との態度からして、人見知りなだけかもしれないが。まともそうで何よりだ。
そんな好印象を霊夢に抱いていると、紫さんが間に入ってくる。
「あ、輝星さんは博麗神社で暮らすといいわ」
「ちょ、紫!? 何言い出すのよ!?」
声を荒げながら霊夢が紫さんの胸倉を掴んだ。俺も驚いた。寝食の問題は頭にあったが、まさかここに住めというとは思ってもみなかった。
迷惑なら別になんとかする、と言おうとするが、二人はそっちのけで言い争っている。
「手助けするとは言ったけどそこまでする義理はないわよ!?」
「かといって野宿させたら死ぬじゃない……それに結界の状態がわかる者が監視するのが一番効率いいし」
「ならあんたがしなさいよ」
「嫌ねぇ、そこまでする義理はないわ」
「あんたねぇ……!」
霊夢は笑顔の紫さんをグワングワンと揺すっていたが、ふとこっちへと視線を向けてくる。俺としては普通にしていたのだが……彼女から見れば捨てられた子犬のようにでも見えたのか、先程の紫さんに負けないほど深い溜息を吐いた。
「はぁぁぁ……いいわ、引き受けてあげる。ただし、一発殴られなさい……私の全力の一発をね……」
「ちょっと、霊夢、か、顔は、顔だけはやめふべらっ!?」
一発と言っていたのに背負い投げからマウントポジションを取って顔面へ何度も拳を下ろしていた。
先程の好印象なんて一瞬で吹き飛んだ。何この巫女さん怖い。
「よし、一件落着だな! せっかくだし歓迎会でも開こうぜ! 酒は何処だー!?」
鈍い打撃音が響く中、魔理沙は勝手に神社へ上がり込んでいく。
……えっ、止めないの!? てか魔理沙は酒飲んでいいの!? 早速幻想郷の常識?に翻弄されて、俺はこれからの生活に不安を感じざるを得なかった。