最悪。いや、想定していた中で二番目に悪い状況だ。まさかこんなにも早く霊夢に見つかるとは思っても見なかった。計算が狂ったせいで、つい舌足らずの情けない声が出る。
「なんで、ここが……」
「魔理沙が運んでくれたの。まあ、魔力がなくなるまで当てずっぽうに飛び回って、偶々見つけただけだけれどね。おかげで魔理沙は満身創痍よ」
「………………」
魔理沙か。大人しくしていればいいのに、余計なことを。
だが、霊夢が人柱になる最悪のシナリオは避けられた。それはいい。いや、そうでなくてはわざわざあんな嘘を吐いた甲斐がなくなる。幻想郷を滅ぼすと宣えば、霊夢、あるいは紫さんが放っておく訳がないと踏んでの嘘だ。これがなければ最悪の結果に直行していただろう。
だが、霊夢が俺の元に辿り着いたのは拙い。それも俺と同じ顔の元フードの男にトドメをさせていないし、不死の回復も間に合っていない。
……これから霊夢と戦うには、最悪の状況だった。
「……で、そこで寝てるのは誰? まさかお友達、って訳はないわよね」
「………………」
霊夢の挨拶代わりの軽口にすら、返す言葉なく俯いてしまう。先まで気にならなかった氷雨が、今は鬱陶しくて仕方ない。自分の甘さと思い通りにいかないもどかしさに、イライラしていた。
どうする? 霊夢にこの男が異変の元凶だと伝えたとしても、幻想郷を滅亡させると言ってしまった矛盾が邪魔をする。こうなったら嘘がバレるのは仕方がないが、信じてもらえなかった時は、霊夢にまで危険が及んでしまう。
「何か言ったら? まさか、舌を切り取られたのかしら?」
……ダメだ。霊夢は頼れない。俺がここで、あの男をやるしかない。そしてそのまま霊夢と戦い、倒す。不可能に近い道のりだが、もうこのか細い道しか残されていないなら、踏み出すしかない。
迷いが生じない内に、動く。自分に喝を入れ、飛行能力で男に飛びかかろうとする。が、俺の意思に反して、身体は動かない。外側から押し付けられているかの様に全身が重かった。
たまらず地面にへたり込んでしまう。その動作の中の、ほんの刹那。同じように横たわっていたフードの男と、目が合う。
笑っていた。まるで勝ち誇ったかのような愉悦的な嘲笑。それを見た瞬間、得体の知れない怖気が全身に広がっていく。まさか、動けないのはこの男の影響か!?
とんでもない隠し球だ。こんな力があったのなら、なぜ最初から使わなかった? 切り札だとしても、なぜこんな、土壇場で……!
「霊、夢……逃げ、ろ……!」
「は……?」
「そいつは、俺じゃない」
「何を言って……」
霊夢の顔に明らかな動揺の色が浮かぶ。無理もない。探し求めていた相手が目の前に二人もいれば混乱もするだろう。……なにせ俺も心境としては同じだった。いや、恐らく霊夢以上に恐怖を感じていた。
今の言葉を言ったのは、俺じゃない。俺と同じ顔をした男の方だ。ムカつくほどよく似た声音と口調に、俺は焦燥を覚える。そこでようやく先の怖気の正体に気付いた。
「そいつは、偽物だ……! 今までずっと、俺のフリして、霊夢を惑わせようとしていたんだ」
「………………」
「そいつが、影響を操っていた黒幕。今までの異変の、首謀者だ……!」
……やられた! この男は俺に成り変わって、霊夢にトドメを刺させようとしている。しかも、俺の嘘まで利用して。
考え至らなかった。あれだけ俺を毛嫌いしていたものだから、まさかここに来て俺の真似をするとは夢にも思わなかった。
まずい、まずいマズイ拙いッ!! このままだとあの男が宣言した通りになってしまう!
霊夢のことだから、あまり治りの遅いトドメの刺し方はしないはずだ。問題は、霊夢が騙されるままに不意打ちされた場合だ。筋肉や骨を溶かすように抉るあの攻撃を、人間である霊夢が受けたらまず致命傷になる。
気付かせないといけない。たとえ霊夢に吐いた嘘がバレたとしても、彼女に気付かせないといけないッ!
違う、偽物はそいつだッ!
這いつくばった姿のまま声を絞り出す。だが、それは誰にも……自分にすら届かなかった。
気付けで噛み切った舌はもう既に治っている。喉も問題ない。
いや、状況を俯瞰してみればすぐ気付くことだった。いつの間にか全ての音が奪われている。それに呼吸も出来ていない。身体が寒くなってきた。この死に覆われたかのような感覚は……まさか、先程から何度も苦しめられた真空状態か!?
焦燥感がさらに増す。上から押さえつけられる圧力に無理やり逆らい、なんとか顔を上げるとボロボロの男と霊夢が喋っているのが見える。が、何を話しているのかはまったく聞こえない。それが更に焦りを助長させていた。
……どうやら二人は普通に会話出来ているようだ。なら、今聞くことも喋る事もできないのは、俺だけということか。満身創痍だというのに、この土壇場で、この男は俺の周りだけに真空を作り出したのだ。
狙っていたのだとしたら、大したシナリオだ。まさに俺は手の上で踊らされていたってことか。この最期の逆転劇を演じるために。
ふざけるなッ!
叫びたかったがもう口すら動かせなかった。どうやら蓬莱人の力でも貧血と酸欠で死んでいく細胞を回復するので手一杯のようだ。意識が遠ざかっていく。もう舌を噛む力も残っていない。ただ意識が飛ぶのを待つことしかなかった。そして、目が覚めた時には何もかも失っているだろう。霊夢も、幻想郷も。
俺は二人が話している姿が見ていられなくなり、脱力して地面に身を任す。
……霊夢お得意の勘で気付いてくれないだろうか? 駄目だろうな。きっと俺の嘘が邪魔をする。いや、それでも気絶した俺を放って霊夢が人柱になれば、同じ結果。もう手詰まりだ。
結局、影響の力も蓬莱の薬も、俺にとっては宝の持ち腐れでしかなかった。たった一人の女の子も助けられないのだから。
白濁する視界に小さなブーツが入り込む。神社の土間でよく見る靴だ。トドメを刺しに来たか。
あぁ、クソ。こんなことになるなら、あんな……チンケな嘘、吐くんじゃ、なかっ……
消え逝く意識の中、開きっぱなしの瞳が微かな光を捉えた。それを皮切りに段々と意識がはっきりとしてくる。蓬莱の薬の力かと思ったが、違う。いつの間にか、ちゃんと呼吸ができていた。
混乱しながらも浅く細かい呼吸を繰り返していると、急に左肩を誰かに掴まれる。
「起きなさい、寝ている場合じゃないでしょう?」
声が聞こえたと思った瞬間、やや乱暴に身体を仰向けにされる。頭の下に暖かくて柔らかい感触がある。前にされた覚えがある。これは……膝枕?
確認するため、まだ鉛のように重たい目を無理やり開けると、霞む視界の中に赤いリボンが映る。
「れい、む……?」
「……男は頭だけでも重いわね。その割には中身はすっからかんみたいだけど」
霊夢は俺の顔を覗き込みながら、クスリと笑ってみせる。まったく、相変わらずの皮肉屋だ。けれど、それすらもとても心地よく思えて、たまらない。
俺は目の前の濡れた白い頬に、まだ力が入りきらない腕を伸ばす。横の髪が少し張り付いている。この冷たい雨の中、飛んできたのだろう。それを取ってあげながら頰を撫でていると、身体に熱が戻ってきた。
霊夢に肩を借りながら立ち上がると、少し離れた場所にフードの男が横たわっていた。左の頰に靴の跡がくっきり残っている。おそらく霊夢に思いっきり蹴り飛ばされたのだろう。ざまあみろ。
だが油断は出来ない。念のため意識があるか確認しようと男に近寄ろうとする。が、数歩進んだところで霊夢が俺の前に回り込んできた。
「アンタの偽物なんて、もうどうでもいいでしょ。それより、貴方に聞きたいことが沢山あるの」
「……その前に俺から一つ聞きたい。どうしてアイツが偽物ってわかったんだ?」
「馬鹿ね、簡単なことよ。好きな男くらい一目で見分けられるわ。たとえ声姿がまったく同じでもね。アンタだって、私の偽物がいたらすぐわかるはずよ」
さも当たり前の様に出た恥ずかしい台詞に、俺は寒さも忘れて赤面してしまう。霊夢らしくない、ストレートな表現だ。こんなの面と言われ慣れてないものだから状況も相まって舞い上がってしまいそうになる。
「……そういう、ものか?」
「そういうものよ。そうじゃないと承知しないから」
照れ隠しに素っ気なく言うと、霊夢にクスクスと笑われてしまう。ますますわからなくなる。無理をして強がっているようにも見えないが……あまりにも普段通りで、逆にこちらが困惑してしまう。
何かのきっかけで吹っ切れたのか。それともあの男が余計な事を言ったか何かで嘘がバレてしまったか。わからないが……いずれにしても、心が痛い。
苦い感情を噛み締めながら顔を逸らすと、しばらくして霊夢が覗き込んでくる。
「で、どうなの?」
「……?」
「まだ幻想郷滅ぼす気?」
「さあ、どうだろうな」
俺は適当にはぐらかして、霊夢の視線から逃れようとそっぽを向く。
たわいもない二言三言。だが、すぐに察した。霊夢はもう気付いている。幻想郷を滅ぼすなんて、嘘っぱちだと。
元々この嘘は霊夢に俺を追わせることで、人柱になるのを遅らせる意味合いが強い。そういう意味ではもう騙し続ける必要はない。ないの、だが……
「別に言わなくてもわかるだろ? お得意の勘でさ」
「言葉にしなくちゃわからないわよ。人の勘なんておみくじより当てにならない。私は貴方の口から本当の気持ちを聞きたいの」
「そんなもの……何の意味もないよ」
それでも、嘘を隠し続ける。この嘘を吐いた理由の内、もっとも取るに足らないそれのために、頑なに冷たい態度を演じる。
「俺が答えようと答えまいと、俺と霊夢が戦うことには変わらない。だって霊夢は、俺を止めに来たんだろう?」
「私は、アンタの気持ちが知りたくてここに来たのよ! どうしてあんな嘘を言ったの!? 今になっても隠そうとするのはなんで!? アンタがあの男を倒そうとしている時点で、幻想郷を滅ぼすなんて嘘っぱちだってわかるのに!」
ああ、全くもって霊夢の言っていることは正しい。確かにこの『嘘』に大した意味はもう残されていない。だが俺が『嘘を吐く』ことに意味はある。
……時間が惜しい。俺は腰のホルスターから博麗の巫女特製のお札を抜く。菫子から貰ったリボルバーも、霧雨の剣も、封魂刀もない。残った武器はこれだけだ。本家にどれだけ効くか怪しいところだが……他の物騒なものよりよっぽどいいと思うしかない。
「知りたかったら、俺を負かすことだ。幻想郷のルールに則り、弾幕ごっこで相手をしてやる。さっきは勝ったが……あの時は本気じゃなかっただろう?」
「北斗、アンタは……」
「来いよ、博麗の巫女。お前が何を望もうとも、俺に勝たなければ叶うことはない」
「ッ……あぁそう! アンタがその気なら受けて立ってやろうじゃない! 元よりアンタを殴るつもりでここに来たのだもの。完膚なきまでボコボコにしてやる!」
……これでいい。やや強引になってしまったが、霊夢を焚きつけることが出来た。嘘の上塗りをしているような気持ち悪さに反吐が出そうだが、大丈夫。まだ耐えられる。
全ての真実を打ち明けても、どの道霊夢との戦いは避けられなかった。なら、訳がわからない奴だと思われた方がいい。嫌いになってくれるなら、なおいい。忘れられないのなら、消えない傷になるなら、せめて……鈍色の様な思い出の方がいい。
どうせ、俺はここからいなくなるのだから。