冬の雨がとめどなく背中を叩く。膝と袖に湿った感覚が染み渡っていく。気分が悪い。土と枯れ草、そしてカビの匂いが近くて吐き気が込み上げてくる。
「やめて……そんな姿、見せないでください!」
俺と同じく濡れ鼠になった鈴仙が金切り声で叫ぶが、それでも頭を上げるつもりはない。ジッと額を地面に付け続ける。こんなことをしても許される訳がないとわかっていても、だ。
「何をやっているの、貴方は」
和傘を持った永琳さんが冬の冷気より冷たい言葉を浴びせてくる。わかっている。側から見たら情けない姿だろう。
俺だってそれなりのプライドはあるし、簡単に捨てる気もないつもりだ。いや、プライドがあるからこそ、土下座していた。自分のした事に、もたらした結果に、責任を取りたかった。
そして……その上で、永琳さん達に頼まないといけない。
「お願いします。俺に……蓬莱の薬を下さい」
なんて俗物な頼みをしているんだ、俺は。
永琳さんが、鈴仙さんがどんな顔で俺を見ているか、怖くて顔を上げられない。沈黙に震えながら、うずくまる様に土下座を続けていると、前から土を踏みしめる音が聞こえてくる。
姫様、と呼んだのは永琳さんか。足音は俺の目の前で止まった。
「二人が騒いでいるから何かと思って来てみれば……泥だらけになって土下座なんて、みっともないことしているじゃない北斗君」
「………………」
「話は聞いたわ。貴方がそこまでするからには、よっぽどの理由があると思っていいのよね?」
「……はい」
優しい問いかけに喉の奥が詰まってしまい、掠れた返事しか出てこなかった。
それからややして恐る恐る顔を上げると、輝夜さんと永琳さんは既に踵を返して永遠亭に戻ろうとしていた。そして、唯一残る鈴仙さんが悲しそうな瞳で俺に手を伸ばしていた。
俺は、その手を取ることができなくて、顔を伏せながら自力で立ち上がった。
借りた手拭いで泥だらけになった衣服を拭い、客間に上がると、そこには正座した輝夜さんと……妹紅さんが待っていた。俺はつい敷居の前で立ち止まってしまう。
「……輝夜さんが、呼んだんですか?」
「いいえ、偶然暇を潰しに来ただけよ。けれど、貴方にとっては好都合だったんじゃない?」
輝夜さんの言う通りだ。遅かれ早かれ妹紅さんにも謝らなければならなかったのだから。ただ、まだそこまで心の準備ができていなかった。
俺は跳ね上がる心臓の鼓動を押さえつけながら俯く。妹紅さんも、何も言わず暗い顔で俺を見ているだけだ。
視線の納めどころがわからず彷徨っていると……傍らには毒々しい色をした瓢箪が置かれているを見つける。すぐにそれが蓬莱の薬だと気付いた。
俺は思わず握りこんでしまった拳を深呼吸と共に緩め、二人の前に座る。
「あまり時間もないので手短に言います。俺は不老不死になって……」
「理由は別になんだっていいわ。どうせ霊夢を救けるとか、そんなことでしょう? それより私は貴方の覚悟を見たいの」
「覚悟はしています」
「どうだがねぇ……言葉だけなら何度でも言えるもの。せめてその姿で100年は生きて貰わないと信用出来ないわ」
耳の痛くなる言葉だ。偉そうに講釈垂れておきながら、不老不死になろうとしている俺は浅ましく見えていることだろう。
だが今は100年どころか一日待っている時間もない。何か別の、認められる方法があればいいんだが……
出来れば手荒なことはしたくない。俺は三つ指揃えて、もう一度頭を下げようとする。が、それより先に正座した膝に小さな小箱が二つ投げられる。
見覚えがあった。これは永琳さんが作った、不老不死を解くための薬……!
「優曇華と永琳から預かってきたの。二人とも、納得してね」
「一体何を……」
「大したことではないわ。それを、私の目の前で処分しなさい」
俺は訳がわからず、しばし言葉を失ってしまう。
元々不老不死を打ち消す薬を大切な人に渡してほしいと言った自分だ。死にたいと望む彼女達の思いを、人質に取る様なやり方で。
なのに、俺は厚かましくも蓬莱の薬を求めている。輝夜さん達の思いを踏みにじっている、のも理解している。だが……
「こんなことで覚悟が示せるんですか……?」
「うーん、どうかしら? 必要になればまた永琳に言って作り直させるからねぇ。別に二度と死ねなくなるわけじゃないわ」
「……じゃあ、何も意味もないことをさせるんですか?」
「私達にとってはね。けれど、貴方には必要でしょう?」
気のせいか絶世の美女の、見下ろしながらの微笑が苛虐的に見える。なるほど、流石お姫様と言ったところか。随分サディスティックなことを考える。
だが、誤解されてしまいそうだが、まるで何処かに無くしていた最後のパズルピースが見つかった様な清々しさがあった。
……そうだ、きっと俺は謝りたかったんじゃなくて、罰して欲しかっただけだ。
これは俺にふさわしい罰だ。他人の事情にズカズカと入り込んで、自分勝手で踏みにじろうとしている俺にはぴったりだろう。
だからこそ、俺は二つの小さな箱を握る事すら出来ない。脂汗が吹き出る。手の震えを抑えるのでやっとだ。
「……もう、いいだろう輝夜」
どれぐらいそうしていただろうか、不意に妹紅さんが立ち上がる。そして、俺の前にしゃがみ込むと、蓬莱の薬を畳の上に置く。
「北斗、これ以上こいつの悪ふざけに付き合う必要はない。元はと言えばお前にこれを作らせたのは私達のエゴだ。お前が気に病むことは何もない。だから……もういいんだ」
「……それでも、条件を出したのは俺です。自分の言ったことくらい自分で責任を取らないと」
「全部自分のせいみたいに思うんじゃない! 条件を呑んだのは私達……いや、罪も罰も私達のものなんだ! 勝手に全部奪い取ろうとするんじゃない!」
妹紅さんが銀の髪を乱しながら声を荒げる。もしかしたら叱ってくれているのかもしれない。
だが、違う。違うんだよ妹紅さん。輝夜さんはチャンスをくれているんだ。この罰を乗り越えなければ俺は本当の覚悟ができない。
心残りがなくならないと、きっといつか揺らぐ。俺が揺らげば幻想郷は終わる。なら、やるしかない。やる、やれ、やれ……やれッ!
「ッ……!」
「お、おい!?」
放たれた弾丸のごとく二つの箱に右手を伸ばす。そして祈る様に額に近付け、加減も忘れ全力で握り込む。バキバキと小さく音が鳴り、いくつもの破片が手のひらに刺さる。
「ほ、くと……」
「………………」
拳を開くと残骸と血の玉が畳に落ちていく。薬は、残骸が確認できないほどぐちゃぐちゃになっていた。
……やってしまえば大したことはない。ただ、胸の奥に詰まっていた何かが、ぽっかりと抜け落ちた様な感触が残っているだけ。無気力感が鬱陶しいくらいだ。
畳が汚れたことに少し後悔を覚えながら、流れ落ちる血を眺めていると……カサ、と衣摺れの音が聞こえる。目を向けると、輝夜さんがゆっくりとこちらに近付いて来ていた。
「どう、罰の味は? 甘くて、苦い、チョコレートの様でしょう?」
「……味なんてわかりませんよ。けれど、やってよかったと思います」
「そう、それはよかったわ……妹紅、貸しなさい」
輝夜さんは妹紅さんから蓬莱の薬を奪い取ると、栓を抜く。そして酒を飲むかの様にあおると……小さな手で口元を隠す。
一体何をするのか。怪訝に思っていると、輝夜さんが微かに笑いかけてくる。少しらしくない、優しい笑みについ見惚れてしまっていると、一瞬で距離を詰められてしまう。
「ん……」
「ッ……!?」
「なっ……!?」
柔らかい感触を感じた瞬間には、もう口の中に苦味が広がっていた。いや、少し甘い。チョコというより、子供の時にほんの少しだけ飲んだ甘茶に似ている。
いや、薬の味の感想なんてどうでもいい。眼前の、あまりにも唐突な状況に俺は固まってしまう。
「ちょ、おま……何をやってるんだこの毒婦!」
「あら失礼ね、私は由緒正しい高嶺の花よ? 今回だって特別なんだから。それとも先に奪われて悔しかった?」
「なっ……今すぐ表に出ろ! そのどうしようもない頭を入れ替えてやる!」
なにやら二人がかしましく言い合っているが、まったく頭に入ってこない。触れ合っていたのはほんの僅かな時間。なのに、まだ唇に熱が残っていた。
確かめる様に口元をなぞっていると、輝夜さんが口を尖らせる。
「……酷い男ね。私がここまでしたのに、無反応なのはどういうことかしら?」
「いや、驚きましたよ。驚きましたけど……」
我ながら不思議だ。キスされたというのにそこまで心臓が暴れていない。右手が治っていく光景も冷静に受け止められていた。
「まあ、いいわ。これで当分、私も貴方も忘れない。貴方は私達と同じ時の囚人。忘れることが一番恐ろしいもの」
「……忘れる、こと」
「約束しなさい。貴方は二度も永遠の時を破った。何を成すために永遠を求めたかは聞かないけれど、必ず自分の時間を進めなさい。それまでは私達も待っててあげるから。ねえ、妹紅」
輝夜さんが悪戯っぽい口調で妹紅さんに振る。しかし、妹紅さんは腕を組んで顔を背けてしまっていた。
「ふん、私はそんなに待てる自信がない。だから、私がお前を忘れないうちに、なるべく早く終わらせるんだな」
「妹紅さん……」
……俺は後ろめたい気持ちになる。
輝夜さんは理由も聞かずに蓬莱の薬を渡してくれたが、二人が期待する時が来るのかは怪しい。特に妹紅さんは本当に待ってくれそうにない。それくらいの時間は覚悟していた。
いっそ、もう二度と会えないと言い切った方が良いのかもしれない。俺に付き合って、これ以上罰を受ける必要はないのだから。
わかっている。だが……
「出来るだけ、努力します」
俺の口は平然と嘘を吐いた。期待を裏切りたくないだとか、そんな理由じゃない。
少し、怖くなった。俺が、忘れられることが。俺が二人とした約束を忘れてしまうことが。
だから、噓を付いてまた心残りを作ることにした。傷を付けて、跡を残すために。そして……この人達を忘れないために、いつかまた彼女達に謝るために。
「……ンパイ……センパイッ!」
背中にぶつかる早苗の声で我に帰る。回想にふけっていたせいで速度が出過ぎていたようだ。飛行速度を落としながら振り向くと、しばらくして早苗が追いついてくる。
息が切れて、顔も赤い。雨と風で髪も乱れてしまっていて、申し訳ない気持ちになる。
「はぁ、はぁ……もっと、加減して飛んでくださいよ。今のセンパイの全速力に着いて行くの大変なんですから」
「悪い、ちょっとぼーっとしてた。少し休むか?」
「平気、です。それより……霊夢さんのこと考えていたんですか?」
「いや、そういう訳じゃなくて……」
俺は早苗に問いかけようとした言葉を、留めて呑み込む。早苗は俺を忘れないでいてくれるか、なんて女々しい事を俺が早苗に聞いていい訳がない。
俺は一度、自分を忘れてほしいと願い、実行した。その時早苗に酷く怒られたじゃないか。それにまだ早苗との思い出を断片的にしか思い出せていない。一方的に覚えていろなんて、都合が良過ぎるじゃないか。
「……センパイ? どうしたんですか?」
「何でもない、気にしないで……ん?」
不安そうな早苗を前に、慌てて取り繕おうとしたその時、急にポケットの中のスマホが震え出す。幻想郷で通話出来るとしたら、にとり特製のスマホを持つ文と神子さんだけだ。
一体どちらが……少し緊張しながらスマホを取り出す。画面には神子さんの名前が出ていた。俺は少し躊躇しながらも、電話を繋げる。
「……はい、もしもし」
「私、メリーさん。今、貴方の後ろにいるの」
「えっ……?」
聞いたことのある声が耳元と背後から同時に聞こえる。俺は迂闊にも反射的に振り向いてしまう。そこには、包丁と受話器を持った烏羽色の帽子があった。
「こい……グッ……」
「センパイッ!?」
反応する間も無く、小さな体がぶつかってくる。衝撃と痛み。薔薇の香りが鼻をくすぐる。早苗が苦痛な声を上げる。
「……北斗が、悪いんだから」
こいしは、俺の腹部に埋まった包丁から手を離しながら寂しそうに、呟いた。