カチカチと歯が音を鳴らしている。寒さのせいだけじゃない。こめかみ辺りで火花が散るような感覚が全身を震わせていた。私は氷雨の降る鳥居の下、立ち尽くすのがやっとだった。
「ねぇ……何の、冗談?」
まったく、本当にやめてほしい。普段は億劫に思えるほど気を遣ってくるくせに、なんで、こんな、よりもよってこのタイミングで……
私は髪にまとわりつく雨水混じりの氷を払いながら、首を振る。
「こんな時になんなの? 時間がないことくらいわかるでしょう? 私は忙しいの。とても……とてもね」
もう博麗大結界の崩壊は始まっている。空を見れば一目瞭然だ。今空に見えているのはあくまで幻で本物の龍神ではないけれど、いずれは本物がこの幻想郷の上でとぐろを巻くだろう。そうなったらもう手遅れだ。
龍神を再度封印するためにはそれなりの時間と準備が必要なのよ。それに取り掛かったら、もう思い出話もできやしない。
「冗談じゃない。俺は幻想郷を滅ぼす」
なのに、北斗はまだ私をからかおうとしていた。しつこい。私にはもう、意味のない話をする時間は残ってないの。私はもっと貴方に話したいことがある。伝えないといけない大事なことがあった。
「……なら何の嘘? 誰に頼まれたのかはわからないけど、やめなさいよね。アンタは馬鹿正直なんだから、嘘付いてもすぐバレるに決って」
「だったらわかるはずだ! 霊夢なら、これが嘘じゃないって!」
僅かに強められた語気。それだけで私は身体を強張らせてしまう。
……言われなくてもわかっている。私の勘は最初から嘘ではないと告げていた。それでも微かに感じる違和感に縋りたくて、自分を信用したくなくて、私はたたかれた手の甲を握りしめ顔を逸らす。
「なんで、北斗……なんでよ」
「………………」
「外の世界から追い出されたアンタにとって、ここは最後の居場所のはずじゃない」
北斗にとっては不本意な幻想入りだったのかもしれない。もしかしたら私が知らなかっただけで、ずっと外の世界に帰りたかったのかもしれない。
けれど、それでも! 貴方の居場所は確かにここだったはずだ。貴方は自分の居場所を作ろうとしていたはずだ。彼が来てもう一年になろうとしている。ようやく北斗が居るべき場所が出来始めたのに、それを自分でなくしてほしくなかった。
「前に白玉楼で、アンタは私に言ったわよね。私だけは幻想郷がなくなってしまえ、だなんて言っちゃダメだって。そのアンタが幻想郷を滅ぼすだなんて口にしていいの!?」
「……矛盾してるのは、重々承知している」
「ッ!」
私は本気の平手を北斗の横っ面に叩きつける。以前の北斗が私にそうしたように。ううん、それより何倍も痛くなる様に振るったつもりだ。
北斗は避けなかった。ただ、痛がる様子もなく僅かに傾いた首を戻すだけ。そんな北斗の様子が気に入らなくて……冷静でいられなくなる。
「理由を聞いてるの私はッ! 何で唐突にそんな……貴方はこれまで幻想郷を守るために変わってきたんでしょう!? 自分で異変を解決したのは何のためだったの!?」
「………………」
「何か言いなさいよ……!」
胸倉を掴み、引っ張る。けれど、体格差のせいで爪先立ちになってしまう。掴んだ右の指がかじかんで痛い。きっと私の顔は……みっともないものになっているだろう。こんな顔を晒せるのは北斗の前だけだ。
けれど、北斗の表情は仮面を被っているかのように一切変わらない。そんな顔で掴んだ手を取られたせいで、私は小さく悲鳴を上げてしまう。
「ッ……」
「……霊夢。俺はただ、選んだだけだ。知って、考えて、そして選んだ。それだけなんだよ」
「選んだって、何を……」
私はつい聞き返してしまう。分かりきっていたことなのに。
これから私は博麗大結界の人柱になることで龍神を封印するし、幻想郷を維持させなければならない。自分では決して言い出したくないけれど……その状況で北斗が幻想郷を滅ぼしたいと言う理由があるとしたら、一つしかない。
答えは北斗の瞳の中にあった。
「霊夢。俺は霊夢が好きだ。他の何よりも……幻想郷なんかよりも大切だ」
全身に火がついたような火照りと、凍りつくような恐怖が同時に走る。愛おしい、怖い、嬉しい、虚しい。どれにも似て、どれにも属さない表現しようもない不純物の塊に身体を支配され、身動きが取れなくなっていた。
「だから霊夢を人柱になんか絶対させない。大事な人が生贄にならないといけない不完全な世界なら……俺が滅ぼしてやる」
「わ、たしは……」
一際強い風が私と北斗の間を吹き抜ける。気付けば北斗は私の手を放していた。右の手首には微かに赤い痕が残っていて、ついそれを隠すように手首を握りしめる。
……朴念仁だと思っていたのに、何でこんな時にそれを言っちゃうのよ。気持ちが揺らぐ。けど私を理由にして幻想郷を滅ぼすなんて受け入れられる訳がなくて、でも甘い誘惑に身を任せてしまいたくなる。
世界と天秤に掛けられた私は、どうすればいいのかわからなくなる。返す言葉すら一つも出てこない。そんな私を知ってか知らずか、北斗は私に背を向け鳥居下の階段へ向かっていく。
「算段はもう付いている。あとは実行するだけ。霊夢は……何もしなくていい。ただ待ってくれていれば、俺が全部終わらせるから」
全部、終わらせる? 何を? 妖怪の理想郷を? 博麗の巫女が繋いできた時間を? それとも……全部?
嫌な予感がする。北斗を止めないと幻想郷が滅びてしまう。それを最優先に考えないといけないのはわかってる。けれど、やはり引っかかる。何か大事なことを間違ってしまうような予感が、ずっと頭にチラついていた。
だから、一歩。鉛のように重い足で、石畳を踏みしめる。
「……め、よ」
「霊夢」
「駄目よ。させない。幻想郷は、私が守る。それが私の、博麗の使命だから」
「……だから、終わらせると言ったんだ。博麗の巫女の使命を。いや、使命なんて美化された呪われた運命を」
北斗が足を止め、肩越しに言う。 吐き捨てるような口調には苛立ちが込められていた。
呪い。北斗は私達の使命を、博麗の巫女の犠牲を、呪いと呼ぶのか。そうね、否定はできないわ。私だって私達を尊い犠牲だなんて美化するつもりはない。博麗大結界、そして幻想郷は人の血に染まっている。それは誤魔化しようがない事実だ。
けれど、だからこそ途切れさせては駄目なのよ。途切れてしまえば、今まで流れてきたものが、人柱全ての意志が無駄になってしまう。それに……
「北斗は、それでいいの?」
「……何が?」
「何がじゃない。幻想郷がなくなってしまうのよ……? レミリアも、こいしも……火依も! 今まで出会ってきた妖怪、神様、みんないなくなってしまうのよ!? それでも貴方はッ!」
「………………」
「北斗ッ!」
迷ってるなら、やめてよ。私を大事だと言ってくれたのは嬉しかった。けれど、私は北斗に、私一人のために全てを投棄ててほしくない。たとえ私がいなくても、私が繋いだ世界で貴方が幸せならそれでいいのに……
北斗は私に再び背を向けると、大きく息を吐いた。あれは癖だ。覚悟をするとき、あるいは自分を見つめ直すための習慣のようなもの、だと聞いたことがある。今、北斗がそれをするということは……
「それでも俺は……俺はッ! 霊夢を選んだ。もう……決めたことだ」
「この……大馬鹿野郎がッ!」
私は罵倒と共にお札を叩きつける。全力の早撃ちだ。わかっていなければ、人間しかしじゃまず反応出来ない。つまり障壁で防がれたということは、北斗は攻撃が来ることを予期していたということだ。
「なんでそんなに分からず屋なのよアンタはッ! 人間一人と世界が同じ価値なわけないじゃないッ!」
私は作ったような無表情で左手を突き出す北斗に叫びながら、お札を投げ続ける。しかし、障壁は硬く一枚も通りはしない。私は苛立ちのあまり感情的になってしまう。
「幻想郷を滅ぼすなんて本気で考えないでよ! 私の知ってる輝星北斗は……幻想郷と私、どっちも救う方法を探すはずよ!」
「それは霊夢が俺を知らないだけだ。俺は……元々エゴイストなんだよ」
「黙りなさいッ! 自分が悪いって言い訳すれば免罪符になるとッ!?」
私は間合いを詰め、お祓い棒で障壁を切り裂く。結界破りは私の十八番、北斗もよく知っていることだ。北斗も即座に反撃の左回し蹴りを放ってくる。
私は身を屈めてそれを躱し、顎に掌底を叩き込む。けれど感触は浅い。咄嗟に首をいなしてダメージを減らされた。相変わらずこの手の判断は的確だ。腹立たしい。どうしてそれが別のことに出来ないのよ……!
「後ろめたくても進むつもりなら、せめて自分が正しいって言い切りなさいよ! そうやって全部背負った風にして捨てて卑怯だわ!」
「ッ……なんと言われても!」
北斗は後ろにたじろぎながら、腰のホルスターからお札を束で抜き投げつけてくる。狙いは雑だけれど速い。回避も防御も間に合わないと見た私は、両腕でそれを受け止めながら突き進む。
手から脳天にかけて痺れが走る。けれど、気絶するほどじゃない。無視して逆にお札を投げ返す。すると北斗も同様の方法で投げ返してくる。互いに傷付け合うだけの、至近距離でのお札の応酬。
距離が詰まった瞬間、動いたのは北斗だった。腰の柳刃の剣を抜き、私の首元に突きつけてくる。けれど、私はあえてその切っ先に喉が当たるギリギリのところまで踏み出す。
視線が交錯し、互いに動けなくなる。どれぐらいそうしていたか。パシ、と大きなみぞれの粒が顔に当たり、ようやく私は我に帰った。
「……それで脅しのつもり? 世界を壊してまで私を救おうとする貴方が、私を殺せるわけないじゃない。それとももう一歩前に出てあげましょうか?」
「………………」
苛立ち任せに煽ってみると、北斗が無言のまま剣を下ろす。まるで鉄仮面を貼り付けいるかのように表情を抑え込もうとする姿に、私はつい溜息を吐いてしまう。
非情に徹しているつもりなのかもしれない。けれど、そうしていることこそが、北斗の中でまだ迷いがある証拠に思えた。
だから、私はあえて表情を崩す。自然に笑えていただろうか。とても不細工な作り笑いになっていたら恥ずかしい。でも、それで北斗がわかってくれるなら、それでよかった。
「ねえ北斗。私との約束、守ろうとしてくれてるのは嬉しいわ。とても、嬉しかった。だから……もうやめましょう?」
「……何度も言ってるだろう。俺はもう選んだと」
「そうね。貴方は約束を破らないし、自分の言ったことを曲げない。だからこそ……私のために、私との約束を破ってよ」
「ッ……!」
北斗が、音が聞こえそうなほどに歯を食いしばる。わかるわ。私が約束させたことを、破らせようとするなんてひどい女だって思う。私だって北斗に救けられることを夢に見なかったわけじゃない。
けど、仕方がない。こんなに時間がないなんて、私も魔理沙も……きっと紫ですら分からなかったはずだ。仕方がないの、仕方が、ない。
「お願い。もう時間がないの……! 私に、貴方の生きる場所を守らせてよ!」
「……違う、違うんだ霊夢。本当は、俺が守りたいのは!」
懺悔するような私の懇願に、ようやく北斗が表情を崩し、何か言いかける。が、その言葉は眩い光に搔き消える。真横から放たれた激しいエネルギーの奔流が私と北斗の間を駆け抜けていた。
魔理沙のマスタースパークか。大方私を心配して見に来たんでしょうけどここで……!? 思わず尻餅をついてしまう。北斗もちょうど後ろに飛び下がったところだ。
その時、白んでゆく視界の中で北斗の表情を見る。私は大切なものが手からこぼれてしまったような気がして、気付けば北斗に手を伸ばしていた。
「待って北斗! 貴方は!」
本当はどうしたいの!? 暴風と光の中叫ぶ。けれど、問いは北斗に届かない。過ぎ去った光の先には、もう北斗の姿はなかった。残されていたのは風に巻かれ消えかけの霧の残滓だけ。
私は目を瞑り、拳を握り締める。そして、袖で目尻を拭ってから駆け寄ってくる魔理沙に向き直った。
「大丈夫か霊夢ッ!? 北斗のやつ一体何をして……」
「……大丈夫よ。平気、だわ」
「れい、む……」
心配する魔理沙への返事はあまりにも弱々しいものだった。魔理沙も包帯の巻かれた手を降ろして一気にトーンダウンする。
別に魔理沙を責めはしない。けれど、ほんの少しだけ待っていてくれたらと恨めしく思ってしまう。それほどまでに、私は最後に言いかけた言葉を求めていた。
「なあ霊夢、アイツ何をしようとしていたんだ? お前に刀を向けるなんてよっぽどのことだぜ」
「……よっぽどのことよ。北斗は、幻想郷を滅ぼすつもりらしいわ」
「なっ……なんでそうなるんだよあのバカは!? 確かにそうすれば霊夢は人柱にならなくて済むけど、そんなこと……そんなこと!」
「えぇ、許されるわけないわ」
魔理沙の台詞を継ぎ足したのは、背後からの……紫の声だ。振り向くとちょうど隙間から式神二人を引き連れて出てきたところだった。
私は思わず後ずさりしてしまう。紫がここに来ることはわかっていた。そして何をしに来たのかも。
「幻想郷は希望よ。幻想の存在にとっても、忘れられた人間にとっても。それを終わらせはしない」
「ゆ、紫……待って、お願い……」
「霊夢、残念だけれど……時間切れよ。もう数秒も惜しい」
凍りついていく世界の中、彼女はあくまで機械的に呟く。その無機質な宣告に、私は絶望する。私はまだ北斗の最後の言葉を知らないのに。まだ北斗に伝えたいことがあるのに。
「これより龍神を、博麗の人柱を以って封印します」
これでもう終わり?